31章でモーセは死の直前のミデヤン人との戦いで勝利した後、分捕った家畜や金、戦利品、そして人に至るまで、どのように分けてどれだけみつぎものとするか等、細かく主はモーセに命じた。モーセに命じられたと5回も書かれています。
ところが、
32章では、ルベン族とガド族は、ヨルダン川の手前の地区に住むことを申し出た。非常に多くの家畜を持っているし、その土地が放牧に適しているからという理由だった。
もともと、主は民をカナンの地に導き入れるようにとモーセを用いて導いて来たはずなのに、モーにも、セルベン族、ガド族にも主は語っておらず、彼らも主にお伺いを立てる場面があません。
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この世の商談のような手順で、土地の分割という大きな問題の解決を進めていることが気になります。
黙って見ていて、「なすがままにさせる」という種類の裁きもあります。すでにカナンの地に入れずに召されることになっているモーセには、最後の大仕事をこれが主のみこころであるという確信をもっていて欲しかった気がします。
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現在、教会の中で、コロナ感染対策のことで、教会を二分するような問題があります。小さいことなのですが、主のみこころに聞き従って、それを計画し進めているのか。それとも個人的人間的な思いからのものであるのか、微妙だと思われます。
どちらも宣教の思いへの熱心からの発想であることは事実です。牧師も役員たちも黙って見ています。
私自身も、教会は主のものであり、主が臨在して導いておられるので、主にお任せして、はっきりしないまま発言をして無用な波風を立てないように、このことに関しては沈黙していようと思いました。
すでに一度は彼に疑問を投げかけましたが、彼は反対意見があるのも承知の上で、暖かく見守って欲しいと言って、姿勢は変わりません。神が暖かく見守り導いてくださっているのか、私が心配なのはそこなのですが・・・彼には通じていません。
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