民数記20章での主の命令は、
杖を取れ。会衆の目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。
モーセは岩を二度たたく必要はなかったのに、腹立たしい思いで打ったのだろうか。
目の前で岩に命じれば良かったのに、聞けと、まるで自分達の力で水を出すかのように言った。
それに対して、【主】は言われた。
あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。
モーセとアロンが主のことばをそのまま信じたら、民が荒野で40年、水のことでつぶやいているのを主が忍耐して助けてくださっていたことに、きっと感謝したことでしょう。主は聖なるお方であると、民とともに主を讃美して水を飲んだことでしょう。
このことが起こったのはカデシュ。当時、ヨシュアとカレブ以外の人はみな主に従って前進することを拒んだ。当時の人々は滅んで、ここに生きている会衆とはその人たちの二世。子供達です。
彼らが、これからカナンに向かって進んで行くためには、「神は聖なる方である」という絶対的な信頼・確信が必要だったことだろう。
ところが、モーセとアロンは、ここまで来て、もう一歩の信頼と忍耐が不足していた。
出エジプト記には、主の命令によって岩を打って水が出たことがあった。だから、モーセは、重ねて打つ必要はなくて、ただ信仰の杖をあげることで水が出るのに、それを信頼しなかったと言える
17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
新約聖書コリント人への手紙第一10章では、
10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
とパウロが説明してくれています。
一度、聖霊を受け入れると、聖霊は内在していつもともにいて、求める時にはみこころを示して、一番必要なもの・聖霊を与え満たし続けてくださいます。主に感謝します。
♪♪救い主イエスとともに行く身は♪♪
坂道に強き 御手を差し伸べ 試みの時は 恵みをたもう
弱き我が魂の 渇く折しも 目の前の岩は裂けて水沸く 目の前の岩は裂けて水沸く
私達は讃美しながら、主が与えた地、御国に導き入れられます。ハレルヤ。
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