ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

神の側にいる者の幸い

2020-09-26 | 喜び
 「掘り出された穴を見よ」と言われた言葉が心に残り、聖書を調べたら、イザヤ書51章に書かれていて、アブラハムとサラを指していました。アブラハムは神の選びによる祝福の約束のことばに従って故郷を出てカナンの地に向かった。後を振り返ることなく信仰によってひたすら前に、神に聞き従って歩んだ。

 私達が過去の「切り出された岩、掘り出された穴」どんなところから救い出されたのかを見ると、どんなに空しいところにいたことかと思わされます。社会的に文化的に善いとされることを努力してやっても虚しさを覚えるものでした。人の言葉や、自分自身の心に振り回されて平安がありませんでした。

 救われてから振り返ると、神を知らず、神に敵対していた者であって、滅びの人生であった。神にしか埋めることのできない空洞を心の中に抱えたまま生きていたのでした。そしてそのようなことを全く自覚していませんでした。そんな惨めな生活に戻ろうとは思いません。

 今、神のあわれみにより、神を知り、自分の罪を知り、イエス・キリストの十字架による贖いによって罪が赦されたことを信じ、罪の裁きから救われました。
神の側に立っています。
聖霊が私達の上に臨んで力を与えてくださいます。
どんな問題があっても御子イエス・キリストのみことばにより頼むならば乗り越えることができます。
遺伝的性質をも神は変えることができ、罪の力から解放されます。
神にとって不可能なことは一つもありません。

こうして、すでに赦された者ですが、まだ罪の性質が残っています。罪を自覚する時、悔い改めて主に委ねて祈ります。キリストのからだである教会では、みことばを学び、ともに喜び、讃美し、感謝して礼拝します。

今日9月26日の祈祷会の讃美の歌詞から、神の側にいる者、ぶどうの木にとどまっている枝の、神との豊かな交わりがある祝福を思い巡らせています。

一度死にし我をも イエスは生かしたまえり
咎と罪の代わりに 新たなるいのちあり
時の間をも惜しみて 君は我と語ろう
君は我を放たず 我はまた主にぞつく

流れ落つる涙も 肩に担う荷物も
君は知りてあわれみ 愛の御手伸べたもう
時の間をも惜しみて 君は我と語ろう
君は我を放たず 我はまた主にぞつく

うめき叫ぶ夜はなし 罪とえにし断ちし身
御座に近く安らい 天つ歌常に聴く
時の間をも惜しみて 君は我と語ろう
君は我を放たず 我はまた主にぞつく

病める我に手を置き 弱きところ強くし
まがに幸に励ます 主イエスこそ神にます
時の間をも惜しみて 君は我と語ろう
君は我を放たず 我はまた主にぞつく

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