『山人として生きる 8歳で山に入り、100歳で天命を全うした伝説の猟師の知恵』志田忠儀(角川文庫)
筆者の志田忠儀氏は、ノンフィクション作家、角幡唯介氏が「ラスト・マタギ」と敬意を表して呼んだように、マタギとして驚くべき生涯を送った人だ。山のことを知り尽くし、さらに晩年は自然保護にも力を尽くした人格者でもあった。
志田さんは、山形県西村山(にしむらやま)郡西川町生まれ。彼の地は、朝日連峰の麓、寒河江川沿いの開けた地域だ。豊かな生態系が維持されており、土地の人たちは、山からの恵みをいただくことで生活を送っていた。
志田さんの生活は、2月から3月はウサギを撃ち、4月後半から5月はクマを撃つ。5月後半から6月はゼンマイを採り、夏は登山道の整備や渓流釣りをし、秋はキノコや山菜採り、イタチ狩り、そして再びクマを撃つ。合間に田畑を耕し、民宿も経営していた。山に寄り添ったまさにスーパーマンの暮らしぶりだった。
若い頃には、戦地に2度も赴き、命からがら2度とも生還している。そんな体験があったからこそ、命を大切にする。山岳救助隊員を買って出たのも、そんな体験に裏打ちされている。加えて朝日連峰を隅々まで知るマタギだからこそ、遭難者の居場所に察しがつくし、危険な場所を避ける術、天候の移り変わりにも的確な判断ができた。
ラスト・マタギと呼ばれるだけあって、マタギの経験談は、筆が冴えわたる。まず朝日連峰のクマ撃ちは、「巻き狩り」であると説明を始める。勢子役である「鳴込(呼込)」がクマを追い出し、「通切(とりきり)」がクマを仕留めやすい場所におびき出す。最後は「立前(たつまえ)」が銃で仕留める。全体の指揮を執るのが、「前方(まえかた)」だ。銃の扱いが巧みで、至近距離から急所を撃つ度胸がすわっていた志田さんは、「立前」を任され、何度も大物を手中に収めた。
昭和の時代には、岩魚が豊漁だったことも描かれている。両手で持ちきれないほどの釣果を誇る写真が掲載されている。清流のコケを豊富に食べていた天然の岩魚はとてもうまいらしく、皆で腹いっぱい食べたとか。
晩年は、朝日連峰のブナ原生林伐採の計画に反対し、政治家と対峙したことも書かれている。山が荒らされる事態に黙ってはいられない硬骨漢でもあったのだ。結果、反対運動が実り、一帯は磐梯朝日国立公園として登録され、ブナの原生林を守ることに成功した。志田さんは功労者であり、その土地を熟知する者として管理人となった。
このように知力、体力、行動力に長けた、すごい人、それが志田忠儀さんだ。晩年の尊顔を拝すると、おだやかな微笑を湛えた仏さんのような人。こんな生き方を真似できたら、どんなに充実した一生になるだろうか。
山人として生きる 8歳で山に入り、100歳で天命を全うした伝説の猟師の知恵 (角川文庫) | |
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