『フォンターネ 山小屋の生活』パオロ・コニェッティ 関口英子訳 新潮クレストブックス
書店でみかけて図書館で借りてみた本。200頁足らずでさくっと読めるのがいい。著者はイタリアの作家で、まったくなじみがないけれども、ベストセラー作家であると訳者あとがきに記されている。創作に行き詰まり、山にこもって自分をみつめなおそうとし、その間のことをつらつらと綴ったのがこの本だ。
この手の本でまずだれもが思い浮かべるのが、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活(WALDEN, OR LIFE IN THE WOODS)』(原著1854年)だが、御多分に漏れずこの著者コニェッティも読んでいる。これを読んでしまった人は、山暮らしに相当いいイメージをもつのではないか。それにジョン・クラカワーの『荒野へ』という、いかにもという本も読んでいる。『荒野へ』はある若者がたった一人で山に入り、自給自足を試みた挙句、餓死(?)したらしい事故を追ったルポだ。
そんな本を読んでいるのだから、自分を変えよう、生き方を変えようという意気込みが見えてくる。でも悲しいかな、ミラノ出身の都会人である著者は、山の生活になじむのにたいへんな苦労をする。山の夜は真の闇であるし、夜行性の多様な動物が徘徊する。なかには山小屋の周りをゴソゴソと歩き奇声を発するやからもいて、それが気になりだすともう、だめだ。一睡もできず朝までまどろんだエピソードが出てくる。
また著者はこんな本も愛読している。私はまったく知らなかったが、フランスの地理学者であり、無政府主義者のエリゼ・ルクリュの『ある山の歴史(The history of a mountain)』という本だ。著者コニェッティは、この無謀の権化のような地理学者の影響を相当受けているようで、山で遭難しかけたのもこの人の思想のせいではないかと勘繰ってしまう。山で道に迷ったら、来た道を戻るのが鉄則だが、コニェッティは違った。天の配剤とばかりに目の前に現れたアイベックスの後について獣道を進み尾根に出る。ラッキーと快哉を叫んだのだろうが、直後行き止まりの断崖絶壁に出くわす。なんと懲りずにこれを繰り返すのだ。最後は辛くも尾根から目的地の村を発見して事なきをえたと記しているが、なんともはや無謀な行動に驚く。
とはいえ月日を重ねれば、コニェッティも森の生活にも慣れ、仲間や愛犬ラッキーとの楽しい生活を送ることになる。そんな顛末を読めば、春夏秋冬と季節が一巡するくらいは山にこもってもいいかもしれないと思ったりする自分がいた。