今日は2週間に1度の図書館の日ですから、朝早くから張り切って行って着ました。
やや入れ込み?気味で9時の開館時間より少し早く着いてしまいまして、、、駐輪場から入り口のまでの僅かの距離をゆっくり歩いたり・・・
それでも、似たような人はいるもので、入り口に数人が開場待ち
バーゲンセールでは無いので殺気立つような緊張感はありませんが、流石に冬ですから失敗ですね。
今回返却の棋譜は数日前に完了していたので、新しい本を借りに来たかったのですが、哀しいかな宮仕えの身なので我慢していたのでフライングに繋がったようです。
サテ、今回は割合気楽に読めそうな読み物が中心なので4冊と囲碁関係で1冊
趙治勲名作選1は読み終わっていませんでしたが、一応一旦返却して次回に借りる予定で今回は見送りです
で、借りたのは
「日本囲碁大系 7 親仙徳・大仙知」 解説:大竹英雄 昭和52年
前回借りていた本は日本囲碁大系5ですから本来なら6を借りなくてはいけないのですが、私の気まぐれと言うか6はパスしました。
(まあ、後回しと言うことで)
それには理由にならない程度の理由が有ります。
図書館の書架には確かに第6巻はあったのですが、タイトルは「察元・烈元」
何処が悪いのか言いようが無いのですが、しいて言えばイメージとして「殺伐としていると言うか・・・」ただそういう感じがしてしまうだけなんですが
当然あったことは無いし絵でも見たことは無い、誰かに人となりを聞いたことも無いし評判も聞いたことも無い、勿論棋譜も始めて・・・
それでもなんとなく感じるのですから食べ物で言えば喰わず嫌いです。
私が子供の頃から30過ぎるまで鶏肉を食べられなかったようなものです。
もっともそれには多少の理由はあった
<昔のこととて、在方の知り合いから鶏を頂く事があります。こういうとき父が庭で大きな鍋を用意して鶏をひねり、羽根をむしる・・・これを見てしまったら食べるのはダメですね。以来30過ぎまで、自分の子供に「何でも食べなくてはいけない」という見本を見せるために目を瞑って食べるまでの間鶏は卵だけのお付き合いでした。>
いずれにせよ、根拠の無いことであっても、所詮お楽しみですから6巻はパスして7巻です。
家に帰って早速本を開いて驚きました。
(多分私の勝手な思い込み・感じ方なんでしょう)
始めは序章「大仙知の読みと感覚」大竹英雄で始まりますが、そこに触れて驚きました。
なんだか初めてここを開くような感じです。
この本はハードカバーでページもかなり上質な紙に印刷されていて重くてしっかり出来ていますが、なんだか私がこのページを初めて開いたような感触
発行が昭和52年で、この本は一番最近の刷りで第4版・平成4年ですし、置いてあるのが図書館ですから、まずはそんなことが起きそうも無いのですが・・・どうも今この本のシリーズを借りていくのは私以外には居ないようなので、もしかしたら
「道策」「秀策」の巻辺りはもう少し人気がありそうですがどうも棋譜で江戸時代ということで「新布石」「新定石」とは違うので人気が無いのかも
しかも、棋譜と言う本編の前に着いている序章ですから読まなくても中味が分からないわけではないのでここを素通りする人が多いのかも
しかし、やはりこれから始まる物語(この場合棋譜集ですが)の予告編であり、解説者の見方が出ているのですから、ここは読んで置きたいところ
仙徳が親で仙知が子供だそうです
仙徳は坂口仙徳で仙知は安井仙知・・・安井家を継いだのですね
私は囲碁4家は皆僧籍だと思い込んでいましたが、安井家は違っていたそうなので、建て前としても親子関係の相続は良い訳です
僧籍ならば少なくとも建て前上は親子関係はあり得ないわけですから・・・
少しだけ昔のことが分かったような気がします
それと大竹九段の師匠木谷師が仙知が好きで棋譜を調べて居たそうです
ですから木谷師の新布石とは深い関わりがあるとか・・・そういう意味では大竹さんとも浅からぬ因縁とでも言いましょうか
巻末の「人とその時代」(林裕)を読むと仙徳が親だから親仙徳
7世仙知が引退して仙角を号しているとか、仙角も何人もいるらしい
全く何世○○と言うのはややこしくて一度読んだだけでは頭が整理できません
マ、ともかくその実力から他と区別するためにも「大」と言う冠がついている
これは今の人がつけたのでは無く、江戸時代かららしい
ともかく仙知は(「一人よがりな欠点」も時にあるものの)読みの碁、仙徳は「コツコツついていく碁」でコミ碁的なところがあるのだとか・・・
これからの2週間が楽しみです
棋譜入力を続けていると、多少「棋譜酔い」みたいな症状があるかも知れません
現実の棋譜入力と言う作業に時間と労力は使いますが、対局数が減ったのはきっと何らかの影響を受けているのかも知れないと思っています。
入力と言う接し方ではありますが、少しでも影響を受けることがあるなら、江戸=古臭いではなくて、何だか嬉しいような心持です。
やや入れ込み?気味で9時の開館時間より少し早く着いてしまいまして、、、駐輪場から入り口のまでの僅かの距離をゆっくり歩いたり・・・
それでも、似たような人はいるもので、入り口に数人が開場待ち
バーゲンセールでは無いので殺気立つような緊張感はありませんが、流石に冬ですから失敗ですね。
今回返却の棋譜は数日前に完了していたので、新しい本を借りに来たかったのですが、哀しいかな宮仕えの身なので我慢していたのでフライングに繋がったようです。
サテ、今回は割合気楽に読めそうな読み物が中心なので4冊と囲碁関係で1冊
趙治勲名作選1は読み終わっていませんでしたが、一応一旦返却して次回に借りる予定で今回は見送りです
で、借りたのは
「日本囲碁大系 7 親仙徳・大仙知」 解説:大竹英雄 昭和52年
前回借りていた本は日本囲碁大系5ですから本来なら6を借りなくてはいけないのですが、私の気まぐれと言うか6はパスしました。
(まあ、後回しと言うことで)
それには理由にならない程度の理由が有ります。
図書館の書架には確かに第6巻はあったのですが、タイトルは「察元・烈元」
何処が悪いのか言いようが無いのですが、しいて言えばイメージとして「殺伐としていると言うか・・・」ただそういう感じがしてしまうだけなんですが
当然あったことは無いし絵でも見たことは無い、誰かに人となりを聞いたことも無いし評判も聞いたことも無い、勿論棋譜も始めて・・・
それでもなんとなく感じるのですから食べ物で言えば喰わず嫌いです。
私が子供の頃から30過ぎるまで鶏肉を食べられなかったようなものです。
もっともそれには多少の理由はあった
<昔のこととて、在方の知り合いから鶏を頂く事があります。こういうとき父が庭で大きな鍋を用意して鶏をひねり、羽根をむしる・・・これを見てしまったら食べるのはダメですね。以来30過ぎまで、自分の子供に「何でも食べなくてはいけない」という見本を見せるために目を瞑って食べるまでの間鶏は卵だけのお付き合いでした。>
いずれにせよ、根拠の無いことであっても、所詮お楽しみですから6巻はパスして7巻です。
家に帰って早速本を開いて驚きました。
(多分私の勝手な思い込み・感じ方なんでしょう)
始めは序章「大仙知の読みと感覚」大竹英雄で始まりますが、そこに触れて驚きました。
なんだか初めてここを開くような感じです。
この本はハードカバーでページもかなり上質な紙に印刷されていて重くてしっかり出来ていますが、なんだか私がこのページを初めて開いたような感触
発行が昭和52年で、この本は一番最近の刷りで第4版・平成4年ですし、置いてあるのが図書館ですから、まずはそんなことが起きそうも無いのですが・・・どうも今この本のシリーズを借りていくのは私以外には居ないようなので、もしかしたら
「道策」「秀策」の巻辺りはもう少し人気がありそうですがどうも棋譜で江戸時代ということで「新布石」「新定石」とは違うので人気が無いのかも
しかも、棋譜と言う本編の前に着いている序章ですから読まなくても中味が分からないわけではないのでここを素通りする人が多いのかも
しかし、やはりこれから始まる物語(この場合棋譜集ですが)の予告編であり、解説者の見方が出ているのですから、ここは読んで置きたいところ
仙徳が親で仙知が子供だそうです
仙徳は坂口仙徳で仙知は安井仙知・・・安井家を継いだのですね
私は囲碁4家は皆僧籍だと思い込んでいましたが、安井家は違っていたそうなので、建て前としても親子関係の相続は良い訳です
僧籍ならば少なくとも建て前上は親子関係はあり得ないわけですから・・・
少しだけ昔のことが分かったような気がします
それと大竹九段の師匠木谷師が仙知が好きで棋譜を調べて居たそうです
ですから木谷師の新布石とは深い関わりがあるとか・・・そういう意味では大竹さんとも浅からぬ因縁とでも言いましょうか
巻末の「人とその時代」(林裕)を読むと仙徳が親だから親仙徳
7世仙知が引退して仙角を号しているとか、仙角も何人もいるらしい
全く何世○○と言うのはややこしくて一度読んだだけでは頭が整理できません
マ、ともかくその実力から他と区別するためにも「大」と言う冠がついている
これは今の人がつけたのでは無く、江戸時代かららしい
ともかく仙知は(「一人よがりな欠点」も時にあるものの)読みの碁、仙徳は「コツコツついていく碁」でコミ碁的なところがあるのだとか・・・
これからの2週間が楽しみです
棋譜入力を続けていると、多少「棋譜酔い」みたいな症状があるかも知れません
現実の棋譜入力と言う作業に時間と労力は使いますが、対局数が減ったのはきっと何らかの影響を受けているのかも知れないと思っています。
入力と言う接し方ではありますが、少しでも影響を受けることがあるなら、江戸=古臭いではなくて、何だか嬉しいような心持です。