なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

知らない間に分かれ道?

2008-07-13 16:09:17 | Weblog
 私は若い頃はほぼ毎日碁会所に通っていました。
 最近は勤め先から真っ直ぐ家に帰ることが多くなった分、碁会所からは足が遠のきましたが、その頃は土日は言うに及ばず平日でも勤め先の帰り道に家に帰る前に必ず碁会所に顔を出したものです。
 アフター碁で酒の付き合いはなかったのですが、碁会所の隣が雀荘だったので誘われれば・・・そういうことで子供たちにとっては碁は親の仇に近かったかも知れませんね。
 ともあれ、そういう生活リズムを四半世紀続けまして、、、金儲けも出世も名誉も無縁な人生で、、、尚且つその大好きな碁で何かしら頭角を現したかといえば全くそういうことは無く、ただひたすら好きな碁に関することをやっていただけ。
 マア、大きな目で見れば家族・とりわけ女房殿にそうさせて戴いていたということなのでしょうから、もしかしたら孫悟空を手のひらで遊ばせていたお釈迦様みたいな感じ?、、、時々角を生やしますが。

 ところで、私の通っていた碁会所・・・条件として毎日寄れるためには車で寄れ無ければならないので、そこに通ってくる人の中に所謂”強豪”が居るかどうかということは考えませんでした。
 通い始めた時は入段前くらいですから、そんな視点から見れば初二段なら当面の目標で、三、四段なら充分強い人たち。
 それ以上なら”かなり強い人”ですから雲の上の人たちです。
  当時は今と違って囲碁関係の出版も少なく、指導碁やプロによる囲碁教室なども少なかったから専門棋士なども殆ど無かった。
 特に地方ではそうでしたから、東京の隣の県でも条件はほぼ同じ。
 もし希望するなら、市ヶ谷に行くか八重洲に行くかしなければ、プロ棋士と出会う可能性はまず無かった。
 初めてプロ棋士なる人を拝見したのは、、、東京寄りの隣の市にある大きな碁会所にプロ棋士が出稽古に来ているのを見かけた時です。
 初めてプロ棋士の置き碁を見た・・・少し離れたところから遠慮がちにですが。
 碁会所の人から「あなたもどうですか?」と誘われたけれど、人前で教えてもらう勇気は無かったですね。

 もしかしたら、ここが大きな分かれ道になっているかも知れませんね。
 当時の指導料がそれほど高かった記憶は無いので、ただ人前で打つ勇気が無かっただけですね。
 それも大きな勘違いをしている。
 もしかしたら、プロに7つ置いてボロボロにされたら恥ずかしいと考えていたに違いない、、、それも人前で。
 しかし、自分の碁の悪いところを指摘してもらえるというメリットは見えていないわけです。
 
 この指導碁のコーナーである若い人(当時の)の指導碁を見ていました。
 イエ、本当は終局辺りだけですが・・・
 どうやら多子局の指導碁で黒はかなり酷い結果で投了したらしい・・・多分教えて貰う側から見ると「よもや」の敗戦だったらしい。
 恐らく若者から見れば「これだけ置けばいくらプロでも・・・」あるいは「この碁は頂き」気分が覆された一局だったに違いない。
 先生が「では、初めから並べて見ましょう」という声に答えずに、若者は無言で席を立った。
 私はそれを見て流石に若い人の行為に「無礼な」とは思ったものの、自分が指導碁を受けた場合もしかしたら似たような状況になるのではないかと想像してしまった。
 
 要するに指導碁の意味が分かっていなかったのですが、ともあれ「指導碁を受ける勇気」が無かった。
 あるいはおなじ勘違い・間違いにしても、「負けても負けても先生にぶつかっていく」覇気が無かった。
 いずれにしても、どちらも無かったのが今でも悔やまれることです。
 その時から十数年後にはプロの先生にボロボロにされながらも懲りずに指導碁を受けたのですから、、、それも人前であろうがそういうことは感じなくなって。
 しかし、植物に肥料をやるのに時期が大切なように、丁度良い時期というものはあるでしょう・・・ですから「やらないよりは良いとしても、遅きに失した」感があります。
 初めに出会った時、それが大きな分かれ道だったかも知れません。
  そうすれば今とは2ランクくらいの差?・・・イヤ、もしかしたら50歩100歩?。
 「もしも」「たら・れば」ですが、いずれにしても悔いの多い人生です。