また、榊山潤さんの「囲碁名言集」をめくっています。
この本は社会思想社から発行されていますが、昔、若い頃に本郷近辺に毎週1度は通うような用事があって、この会社が入っているビルのすぐ近くで仕事をしていました。
この辺りは他にも出版社が多かったのですが、何故か社会思想社が印象に残っていて、本屋さんで本を選ぶ時など、もし出版社での優先順位をつけるとかなり上位に来そうです・・・確たる理由はありませんが。
さて著者は戦後、毎日新聞の本因坊戦の観戦記を書いていたのだそうです。
囲碁関連で「囲碁談義」「武将と囲碁」「日中囲碁盛衰史」などを書いているのだそうですが、まだ読んだことも見たこともありませんから探してみることにします。
さて名言集、「ノゾキにつがぬ馬鹿はなし」は余りにも”有名”・・・ですが、状況によってはかなりのバリエーションがありそうです。
どこかの本で読んだ・・・記憶ですが・・・明治時代の棋士が弟子を相手に打っていて”覗き”を打った時に、弟子が考え込んでしまってなかなか打とうとしない・・・彼の先生イライラして「師匠が覗いたのだぞ!、黙ってすぐに継げ!」と怒鳴ったとか・・・何かの本に書いてあったような記憶がある。
”恐れ多くも師匠の覗きである”という感じです。
でも、これがアマクラスになると、例えば置き碁の白の立場で言うと、覗きに無条件でついでくれる人とは(善悪を別に)打ちやすい感じがします。
”ご無理ごもっとも”のイエスマンのイメージです。
こういう人には「たくさん置けば、変に抵抗しなくても受けていて地では負けない」と考えるような傾向がありそう。
マア現実に黒の目論見どおりになる事もありますが、そうはならないこともかなりあって、「筋の悪い上手にはかなわない」とぼやくことになりそう。
まあ勝ち負けで言うと黒が勝つこともあるかもしれませんが、、、
でも、たくさん置いた碁で勝ち負けを問題にするのもおかしな話ではありそうで
さて「つがなければならない所も、つがなくても良いところも何でもつなぐ」か逆に「つがなくても良いところはともかく、本来つがなければいけないノゾキに手を抜き破綻する」・・・さて失敗に上下はあるか?
私は”ある”ような気がします。
前者の消極策での失敗は、失敗が失敗と認識されないことが多そうですから、繰り返しそう。
後者の場合は失敗ははっきり結果に出るでしょう、それに失敗ではあるけれど1手の差もありそう・・・
ともあれ、失敗から学習するとしたら、後者の方な気がします。
私は若い頃K畑師匠に鍛えられ(イジメラレ)ていて、例えば1間に飛んだ瞬間にノゾキ(利かし)が来た場合、まず「接がないとどうなるか」から考えることにしていました。
少なくともノータイムでは接ぎません。
マア、変にへそ曲がり的意地っ張りではありましたが。
利かしに手を抜くことで、部分的には損をするでしょうが、それで得た1手の効果を考える・・・まさに秤にかけていく。
そんな時によく師匠から「のぞきにつがぬ馬鹿はなし」とからかわれたものですが、「のぞきにツグ馬鹿、つがぬ馬鹿」などと口答えしたものです。
すると隣の席から時代劇調で「ナニッ!のぞきにつがぬ馬鹿が居る?」と声がかかります。
見れば病院の院長先生・外科医で柔道が得意な先生で迫力充分。
すかさず、その向かいの席から「のぞきにつがない人もいると来たもんだ」と可茶々が入る。
こうなるとあっちこっちから
「のぞきにツグのも時による」などと合いの手が入ります。
Mのオッちゃんからは江戸弁で「のぞけばババでも下隠す」のど・・・
今度は夫人グループからクレーム
「セクハラでイエローカード」となる。
全く落語か漫才の世界ですが・・・これが碁会所の存在理由の半分は占めそうです。
古きよき時代なのかも
さてさて、今でも覗かれた時にまず”接がない”事から考えるクセはあります。
勿論ノゾキ・ツギと替わることで味悪が解消されるような場合はありがたくツギますが・・・そうでない場合・・・接ぐも一局,つがぬも一局のような場合はまず”つぎたくは無い”。
素直につぐのは、相手の意図の中を行くようで好きではない・・・だから潰されることが多いのかも知れません。
勝手な解釈かも知れませんが「のぞきにつがぬ馬鹿はなし」は、少々上手に都合よく出来ているような気がします。
上手ののぞきには利かされ、下手ののぞきは手を抜かれ・・・。
この本は社会思想社から発行されていますが、昔、若い頃に本郷近辺に毎週1度は通うような用事があって、この会社が入っているビルのすぐ近くで仕事をしていました。
この辺りは他にも出版社が多かったのですが、何故か社会思想社が印象に残っていて、本屋さんで本を選ぶ時など、もし出版社での優先順位をつけるとかなり上位に来そうです・・・確たる理由はありませんが。
さて著者は戦後、毎日新聞の本因坊戦の観戦記を書いていたのだそうです。
囲碁関連で「囲碁談義」「武将と囲碁」「日中囲碁盛衰史」などを書いているのだそうですが、まだ読んだことも見たこともありませんから探してみることにします。
さて名言集、「ノゾキにつがぬ馬鹿はなし」は余りにも”有名”・・・ですが、状況によってはかなりのバリエーションがありそうです。
どこかの本で読んだ・・・記憶ですが・・・明治時代の棋士が弟子を相手に打っていて”覗き”を打った時に、弟子が考え込んでしまってなかなか打とうとしない・・・彼の先生イライラして「師匠が覗いたのだぞ!、黙ってすぐに継げ!」と怒鳴ったとか・・・何かの本に書いてあったような記憶がある。
”恐れ多くも師匠の覗きである”という感じです。
でも、これがアマクラスになると、例えば置き碁の白の立場で言うと、覗きに無条件でついでくれる人とは(善悪を別に)打ちやすい感じがします。
”ご無理ごもっとも”のイエスマンのイメージです。
こういう人には「たくさん置けば、変に抵抗しなくても受けていて地では負けない」と考えるような傾向がありそう。
マア現実に黒の目論見どおりになる事もありますが、そうはならないこともかなりあって、「筋の悪い上手にはかなわない」とぼやくことになりそう。
まあ勝ち負けで言うと黒が勝つこともあるかもしれませんが、、、
でも、たくさん置いた碁で勝ち負けを問題にするのもおかしな話ではありそうで
さて「つがなければならない所も、つがなくても良いところも何でもつなぐ」か逆に「つがなくても良いところはともかく、本来つがなければいけないノゾキに手を抜き破綻する」・・・さて失敗に上下はあるか?
私は”ある”ような気がします。
前者の消極策での失敗は、失敗が失敗と認識されないことが多そうですから、繰り返しそう。
後者の場合は失敗ははっきり結果に出るでしょう、それに失敗ではあるけれど1手の差もありそう・・・
ともあれ、失敗から学習するとしたら、後者の方な気がします。
私は若い頃K畑師匠に鍛えられ(イジメラレ)ていて、例えば1間に飛んだ瞬間にノゾキ(利かし)が来た場合、まず「接がないとどうなるか」から考えることにしていました。
少なくともノータイムでは接ぎません。
マア、変にへそ曲がり的意地っ張りではありましたが。
利かしに手を抜くことで、部分的には損をするでしょうが、それで得た1手の効果を考える・・・まさに秤にかけていく。
そんな時によく師匠から「のぞきにつがぬ馬鹿はなし」とからかわれたものですが、「のぞきにツグ馬鹿、つがぬ馬鹿」などと口答えしたものです。
すると隣の席から時代劇調で「ナニッ!のぞきにつがぬ馬鹿が居る?」と声がかかります。
見れば病院の院長先生・外科医で柔道が得意な先生で迫力充分。
すかさず、その向かいの席から「のぞきにつがない人もいると来たもんだ」と可茶々が入る。
こうなるとあっちこっちから
「のぞきにツグのも時による」などと合いの手が入ります。
Mのオッちゃんからは江戸弁で「のぞけばババでも下隠す」のど・・・
今度は夫人グループからクレーム
「セクハラでイエローカード」となる。
全く落語か漫才の世界ですが・・・これが碁会所の存在理由の半分は占めそうです。
古きよき時代なのかも
さてさて、今でも覗かれた時にまず”接がない”事から考えるクセはあります。
勿論ノゾキ・ツギと替わることで味悪が解消されるような場合はありがたくツギますが・・・そうでない場合・・・接ぐも一局,つがぬも一局のような場合はまず”つぎたくは無い”。
素直につぐのは、相手の意図の中を行くようで好きではない・・・だから潰されることが多いのかも知れません。
勝手な解釈かも知れませんが「のぞきにつがぬ馬鹿はなし」は、少々上手に都合よく出来ているような気がします。
上手ののぞきには利かされ、下手ののぞきは手を抜かれ・・・。