なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

ある日飛躍出来るか!?

2008-07-15 18:03:12 | Weblog
 この間の土曜日は図書館に行って来ました。
 その日は月に一度の内科検診日・・・このお医者さんは4週間分の処方箋を出すので、薬が無くならないようにするので結局は月1です。
 この他に生活習慣病が4,5週間間隔で、更に総合病院の循環器が3ヶ月毎。
 よく、「生かされている事に感謝しなさい」と言う言葉を聴くたびに、『ハーイまさに、私はその見本です』と手を挙げたくなるくらいです。
 もっともお釈迦様にではなくて、もう少し世俗的なお医者のおかげではありますが、、、
 この日の病院は予約制ではないので、まずは順番取り、、、早く出かけたおかげでこの日は2番、、、囲碁の本を持っていって、座るところがあれば少々の待ち時間は文句を言いません。
 その次に調剤薬局、そして図書館の手順です。
 更にディスカウント薬局に、雑貨を扱う店と忙しく回りました。

 さて今週の図書館で借りた碁の本
『趙 治勲の 次の一手』 趙治勳 平成9年 棋苑図書です。
 図書館に置いてある囲碁の本はハードカバーの日本囲碁大系のシリーズ以外の半分は読んでしまった・・・実は図書館のこの方面の蔵書が少ないだけですが・・・ ともかく選択肢は非常に少ないわけで、”どれを選ぶか”と言うより”借りようかやめようか”と言う感じですね。
 したがって新しく本が入ってくればすぐ借りるのですが。
 ともかく、この本はまだ読んだことが無かったので借りました、、、例によって「裏表紙」・「前書き」が気に入って借りたのです。
 そこの一文に「・・・自分より強い人に『何でそんなことがわからないの』と叱られながらアドバイスされ・・・」というところがあります。
 強い人には当然のことが分かってなくて、何度も叱られる・・・
 何で趣味の世界で叱られなければいけないのだと思いつつ、一方で叱ってくれる人が居ることはありがたいことに違いないと思いながら・・・修行時代は複雑?
 そういう事を思い出しました。
 そして「ある日突然二階級特進している」のが碁だ・・・そうなれば嬉しい。
 イヤ一般論としては、昔からそういう風には思ってきました。
 努力の量に応じて比例的に伸びるのではなく、階段を跳ね上がるように”伸びる時は伸びる”・・・伸びない時は伸びないのですが。
 問題は私には既にそういう時期は過ぎてしまっているか否か。
 気がつかない間に既にありがたいお札見たいな効果は使ってしまっていて、もう今後は二度と起こらないのに、中国の「切り株の故事」みたいに待っているだけなのか?。
 そういう可能性は100%に近いような気がしますが、もしかしたら奇跡的に・・・果報は寝て待てと書かれている。
 マア、寝転がって読めるようにしたということです。
 大先生に寝転がって読んで好いよと言われると、それだけで嬉しくなってしまいます・・・そこがアマちゃんの所以でしょうね。

 私の苦手の序盤については三つのポイントが挙げられています
① 大場の価値を判定。
② 右か左か、大筋の石の方向を判断する。
③ 拠点(根拠)に関する要点は見逃さない。
 成る程、分かっているつもりの事柄なのに、序盤が苦手と感じるのは、言葉として聞けば分かっているつもりになっているのに、実際には分かって居ない証拠ですね。
 まづはこの本の問題に取り組んで、後は意識しながら実戦を打つことなんでしょう。

 中盤の心得として挙げられている二点
① 戦う前に彼我の強弱を判断。強い方面では強く戦い、弱い方面では戦いを回避する。
② 拠点(根拠)に不安があると強く戦えないので、拠点の要点は見逃さない。
 ごく当たり前のことだと思えるのですが、もしかしたらこういう事が心と囲碁の技術の隙になっているかも知れません。
 つまり、ごく基本として分かっているつもりになっていること・・・実はそれが単に言葉の知識に過ぎなかったら、きっとどこかで破綻する局面があるでしょう・・・イヤ実際ある。
 ですから基本であることは、それを意識しながら繰り返すことでしょうね。
 非才なザルにはそれしか道は無さそうです。

 最後に終盤に関して「ヨセは実力の証明」とか 
 これは尊敬する趙先生にですが、やや疑問を呈するものです。
 私が考えるに、定量化が難しい序盤より、数値化しやすいヨセの方が取っ付き易い気がする。
 もっともそれはアマの、しかも低レベルでの話で、ハイレベルの世界を知らないから言えるのでしょうね。
 いずれにせよもう「或る日突然」は無いでしょう・・・ね。