私は余り細かなことに拘らないところと、実は人には見えないところで非常に気にするところがある。(マア、みなさんそんなものでしょうが)
囲碁に関していうと、30年以上の記憶が蘇る事があります・・・耳の奥で囁く事がある・・・繰り返し・・・(この”繰り返し”部分が病的なのか、あるいは人間的な”学習能力”なのかは分かりませんが)
その記憶はこういう場面での出来事。
当時通っていた碁会所では通常の月例リーグは点数制度によるハンデ戦でしたが、それと別に希望者によるオール互い先リーグが企画されました。
ともかくこれに参加すると当時はK畑師匠に3子置いていたのが白番、黒番で2局打てるし、普段2子置いている先輩たちにも同様に平手で挑戦できる企画。
勿論多少は逆の立場からの挑戦も受けますが・・・
ともあれこういう企画では師範格の人たちに3子くらいの手合いくらいまでが「参加してみようかな」「教えて頂けるものなら是非」と言う範囲のようです。
その碁会所では通常の碁会所であるような上手が置かせ碁を嫌がるような事は置きませんが、でも下手が「練習で互い先で打って欲しい」とは言いにくいものです。
実際にはそういう番狂わせがあるのかどうかは打ってみてのお楽しみみたいな企画ですから、どちらかと言えば上手の方が心理的には負担があるかも・・・
そうですね2子のハンデで打っている人なら、何回かに1回は間違って先で善戦出来る筈ですから、上手としたら面子がかかっているかも知れません。
それで、こういう企画が2カ月で終了するようなペースで行われまして、その中の1局。
私が白番でK畑先生が先番(普段ならあり得ない手合いですが、企画上堂々対局できると言うわけです)。
それが、何のはずみか、私が変なものを食べてきたか、先生が体調が悪かったか中盤に差し掛かっても白番が絶好調。
当初この対局に野次馬が2,3人いましたが・・・それがだんだん増えて行きます。
通りがかりに人がチョット覗いて、対局している両者を見て、碁盤を見て「やはり白優勢、黒も善戦しているけれど・・・」と言う感想ですが、対局者の手元の碁笥を見てびっくり・・・「なんだ!K畑さんが黒番?」。
と言う事で野次馬に取り囲まれてしまいました。
当時くらいの棋力では、この野次馬の数と言うのもプレッシャーですし、それがどうやら先生相手に善戦を通り越して優勢なためとだと感じると急に何やら恐ろしい事が起きているような焦りを感じるもののようです。
局面は中盤の一つの曲がり角。
現在の優勢を保つ為に、相手の黒にどういう風にプレッシャーをかけるかが問題です。
大まかに言えば2つの選択。
一つは黒を安心させない・不安定な形を残しながら形勢を保ちながら打ち進める事で優勢を保持する。
これは、多分囲碁の王道に近いのだと思う・・・但し”保つ”を続けるところが本来下手としては難しいし、最も自身が無い部分なのです。
従って分かりやすい方向に考えがながれる・・・つまり「取ってしまえば負けない」=「勝利確定の最短距離」。
取ることが難しいのは分かっていても、取れた時の結果は魅力的。
確かに石を取らされて勝てない事もあるけれど、取れれば勝てる事も多いし・・・
目の前、盤上を見ると先生の黒石の一団が危うい形で横たわっている!・・・
この時に持ち時間45分の中でも一番の長考をした筈です。
結局考えた中身は「この取れそうな黒石を取りに行くかどうか?」、「この状態で優勢を保つ具体的な手段が見えてこない・・・」、「取りに行って取れなかった場合どうなるのか・・・分からない」。
要するに長考と言っても考えて何かを探っていると言うよりどの方策を取るのが良いか迷っていただけではある。
そして野次馬もこの番狂わせ的な白がどういう決断をするのか眺めていたわけで、それを下を向いたまま感じながらの考慮時間・・・。
そして時計にせかされる面もあり、本人としては決断の一着・・・その瞬間背中で、、、
「なんだ、取り碁か」の呟き。
今でも憶えていますが、小さな越えですが背中越しに心臓に突き刺さる思いでした。
打った瞬間に否定された。
おそらく客観的に見てその人が言うことが正しかったでしょう。
局面は確かに取りに行った白は、黒にクロスカウンターを浴びる形に・・・しかもそれが黒としての局面打開の道で、白の攻勢が黒に協力的な効果をもたらした。
ともあれ「取り碁」と言う言葉は心の中に氷の刃を刺したまま残っています。
マア恨んでいるとか怒りを感じたと言うことはありません・・・その時も今も。
ただ、マナー問題は別として鋭い指摘が突き刺さったと言う感想です。
でも、そういうことがあったせいか、今でも同様な岐路に立った時その時の事を思い出すのですから、これは私にとってはお守りみたいなものかも知れません。
「取り碁」=碁の品性が低いみたいな印象は哀しかったですが・・・出来たら局後に「あの局面と方針はみすマッチだったゾ!」だったら嬉しかったと思いますが、その程度では身に沁みる記憶にはならなかったかもしれませんね。
但し、取り碁を止めたわけではありません=これはもしかしたら私の隠れた本性かも。
人に言われたら「清水の生まれです」と言うことにしている・・・(生れ在所は遠州森と言った方が良いかも・・・)
「取れるものは取ってしまえ!」「それで勝ちならなんで躊躇する」・・・こうでなくてはザルキチは務まりませんよね。
ところで今日Mネット碁での観戦(ほぼ私と点数が同じくらいの人達)。
丁度中盤戦の戦いの場面から観戦しましたが、黒が白の大石を追い、もしこの白石が無事生還すると、追っていた黒石に心配な部分が出て来る・・・白を取りきってしまえば問題は発生しない。
この戦いの最中で白から打たれた手段を黒がどう受けるかの場面・・・要するにあくまで取りに行く(自分も危険はある)か、白の数目だけをちぎって本体は逃がすかの分かれ道。
黒は後者を選択・・・これで大碁の小碁でかなり細かな寄せ合いの碁に。
結局は終局し数えて黒4目半勝ち。
結果的には取りに行かなかった方針で正しかった!?。
でも私は終局後その碁盤を拝借して問題の場面から、取りに行ったとしてのシュミレーション。
多分黒さん取りに行く時に気がつかない手があったのだと思う(その手で再現)。
シュミレーションの結果は黒の攻め合い勝ち。
さて、結果はどちらも黒の勝ち。
最短距離と言うか最強手段を取るべきか、もっとも安全な方法を取るべきかの分かれ道だった事が分かりました。
結果4目半と言うのは中盤の局面では想定できるかどうか・・・難しい。
しかし囲碁の品性みたいなイメージで「取り碁」は品格で劣るようなイメージもある。
観戦しながら「なんだ取り碁か?」と言う言葉が蘇っていました。
いまでもこその頃の気分が時々眼を醒まします。
囲碁に関していうと、30年以上の記憶が蘇る事があります・・・耳の奥で囁く事がある・・・繰り返し・・・(この”繰り返し”部分が病的なのか、あるいは人間的な”学習能力”なのかは分かりませんが)
その記憶はこういう場面での出来事。
当時通っていた碁会所では通常の月例リーグは点数制度によるハンデ戦でしたが、それと別に希望者によるオール互い先リーグが企画されました。
ともかくこれに参加すると当時はK畑師匠に3子置いていたのが白番、黒番で2局打てるし、普段2子置いている先輩たちにも同様に平手で挑戦できる企画。
勿論多少は逆の立場からの挑戦も受けますが・・・
ともあれこういう企画では師範格の人たちに3子くらいの手合いくらいまでが「参加してみようかな」「教えて頂けるものなら是非」と言う範囲のようです。
その碁会所では通常の碁会所であるような上手が置かせ碁を嫌がるような事は置きませんが、でも下手が「練習で互い先で打って欲しい」とは言いにくいものです。
実際にはそういう番狂わせがあるのかどうかは打ってみてのお楽しみみたいな企画ですから、どちらかと言えば上手の方が心理的には負担があるかも・・・
そうですね2子のハンデで打っている人なら、何回かに1回は間違って先で善戦出来る筈ですから、上手としたら面子がかかっているかも知れません。
それで、こういう企画が2カ月で終了するようなペースで行われまして、その中の1局。
私が白番でK畑先生が先番(普段ならあり得ない手合いですが、企画上堂々対局できると言うわけです)。
それが、何のはずみか、私が変なものを食べてきたか、先生が体調が悪かったか中盤に差し掛かっても白番が絶好調。
当初この対局に野次馬が2,3人いましたが・・・それがだんだん増えて行きます。
通りがかりに人がチョット覗いて、対局している両者を見て、碁盤を見て「やはり白優勢、黒も善戦しているけれど・・・」と言う感想ですが、対局者の手元の碁笥を見てびっくり・・・「なんだ!K畑さんが黒番?」。
と言う事で野次馬に取り囲まれてしまいました。
当時くらいの棋力では、この野次馬の数と言うのもプレッシャーですし、それがどうやら先生相手に善戦を通り越して優勢なためとだと感じると急に何やら恐ろしい事が起きているような焦りを感じるもののようです。
局面は中盤の一つの曲がり角。
現在の優勢を保つ為に、相手の黒にどういう風にプレッシャーをかけるかが問題です。
大まかに言えば2つの選択。
一つは黒を安心させない・不安定な形を残しながら形勢を保ちながら打ち進める事で優勢を保持する。
これは、多分囲碁の王道に近いのだと思う・・・但し”保つ”を続けるところが本来下手としては難しいし、最も自身が無い部分なのです。
従って分かりやすい方向に考えがながれる・・・つまり「取ってしまえば負けない」=「勝利確定の最短距離」。
取ることが難しいのは分かっていても、取れた時の結果は魅力的。
確かに石を取らされて勝てない事もあるけれど、取れれば勝てる事も多いし・・・
目の前、盤上を見ると先生の黒石の一団が危うい形で横たわっている!・・・
この時に持ち時間45分の中でも一番の長考をした筈です。
結局考えた中身は「この取れそうな黒石を取りに行くかどうか?」、「この状態で優勢を保つ具体的な手段が見えてこない・・・」、「取りに行って取れなかった場合どうなるのか・・・分からない」。
要するに長考と言っても考えて何かを探っていると言うよりどの方策を取るのが良いか迷っていただけではある。
そして野次馬もこの番狂わせ的な白がどういう決断をするのか眺めていたわけで、それを下を向いたまま感じながらの考慮時間・・・。
そして時計にせかされる面もあり、本人としては決断の一着・・・その瞬間背中で、、、
「なんだ、取り碁か」の呟き。
今でも憶えていますが、小さな越えですが背中越しに心臓に突き刺さる思いでした。
打った瞬間に否定された。
おそらく客観的に見てその人が言うことが正しかったでしょう。
局面は確かに取りに行った白は、黒にクロスカウンターを浴びる形に・・・しかもそれが黒としての局面打開の道で、白の攻勢が黒に協力的な効果をもたらした。
ともあれ「取り碁」と言う言葉は心の中に氷の刃を刺したまま残っています。
マア恨んでいるとか怒りを感じたと言うことはありません・・・その時も今も。
ただ、マナー問題は別として鋭い指摘が突き刺さったと言う感想です。
でも、そういうことがあったせいか、今でも同様な岐路に立った時その時の事を思い出すのですから、これは私にとってはお守りみたいなものかも知れません。
「取り碁」=碁の品性が低いみたいな印象は哀しかったですが・・・出来たら局後に「あの局面と方針はみすマッチだったゾ!」だったら嬉しかったと思いますが、その程度では身に沁みる記憶にはならなかったかもしれませんね。
但し、取り碁を止めたわけではありません=これはもしかしたら私の隠れた本性かも。
人に言われたら「清水の生まれです」と言うことにしている・・・(生れ在所は遠州森と言った方が良いかも・・・)
「取れるものは取ってしまえ!」「それで勝ちならなんで躊躇する」・・・こうでなくてはザルキチは務まりませんよね。
ところで今日Mネット碁での観戦(ほぼ私と点数が同じくらいの人達)。
丁度中盤戦の戦いの場面から観戦しましたが、黒が白の大石を追い、もしこの白石が無事生還すると、追っていた黒石に心配な部分が出て来る・・・白を取りきってしまえば問題は発生しない。
この戦いの最中で白から打たれた手段を黒がどう受けるかの場面・・・要するにあくまで取りに行く(自分も危険はある)か、白の数目だけをちぎって本体は逃がすかの分かれ道。
黒は後者を選択・・・これで大碁の小碁でかなり細かな寄せ合いの碁に。
結局は終局し数えて黒4目半勝ち。
結果的には取りに行かなかった方針で正しかった!?。
でも私は終局後その碁盤を拝借して問題の場面から、取りに行ったとしてのシュミレーション。
多分黒さん取りに行く時に気がつかない手があったのだと思う(その手で再現)。
シュミレーションの結果は黒の攻め合い勝ち。
さて、結果はどちらも黒の勝ち。
最短距離と言うか最強手段を取るべきか、もっとも安全な方法を取るべきかの分かれ道だった事が分かりました。
結果4目半と言うのは中盤の局面では想定できるかどうか・・・難しい。
しかし囲碁の品性みたいなイメージで「取り碁」は品格で劣るようなイメージもある。
観戦しながら「なんだ取り碁か?」と言う言葉が蘇っていました。
いまでもこその頃の気分が時々眼を醒まします。