囲碁で「眼が良い」と言えば細かなところにまで見えているとか、他の人が気がつきにくい所まで見えていると言う意味ですね。
こう言うことは囲碁に限らず、例えばスポーツ的な視力とか、もしかしたら学問的視力あるいは観察眼としての視力と言えるものもあるかも知れません。
サッカーに例えるといつも感心して見ているのですが・・・
例えばスタンドでの観戦にせよTV観戦にせよ、視点は選手のいるピッチレベルより高い所にあるわけで、視野は当然ある程度全体が見える場所にある。
ですから、ボールを持っている人に焦点が合っていたとしても周囲が見えている・・・当然俯瞰図・第三者的視点というわけです。
ところがプレイしている当人はピッチレベルに居て平面的視野で周囲を見ている。
不思議なのは「見えている」のかどうかです。
平面上の視野では見えるものに限界がある筈ですから、「見える」+「感じる」の部分での勝負なんだろうとは想像はつくものの、そこはその道のプロでは無いので想像するしかない。
しかもプレイは何分の1秒かの時間差が結果を分けるのですから、野次馬としては「何処見てるんだ」みたいな言いたい放題が許されるとしても当人たちは大変でしょうね。
囲碁の方でも「見える」=「分かっている」、「感じる」=「何か予感めいたもの」あるいは「相手の隠された意図」とに起きかえれば少しは似て来るような気はします。
これがカーリングなどでは相手の作戦の意までが見えるところで戦い、いかに作戦通り実行できるかが結果を分ける。
似ているところは1ゲームでの使用時間の制限がある事で、チェスとか囲碁などに似ているとも言えます。
さて視力、「見える」という動物としての能力と、「理解できている」というより人間的な力と「感じる」という本能的な要素が強い部分のトータルが見えると言う事なんでしょうね・・・想像で。
話は飛びますが、プロの囲碁棋士と将棋の棋士では細かな統計は分かりませんが、印象では将棋の先生の方が眼鏡を使用している人が多いと感じています。
羽生・中原・谷川先生・・・を初めNHK囲碁講座にコラムを書いている先崎さん・・・眼鏡を使用していない先生を数えた方が早いような。
勿論囲碁の先生だって眼鏡使用の棋士は多いけれど将棋の先生たちほどは多くは無いのではないかと見ています。
昔海外旅行で、「眼鏡でカメラを首にかけていたら日本人」という時代がありましたが、外国の人から見ればそれくらい眼鏡使用の人が多いのでしょう。
尤も最近はコンタクトという事もあるので、正確には見てくれでは分かりませんが・・・。
想像では囲碁にせよ将棋にせよプロになるには相当目を酷使している影響もあるだろうから単なる民族的・遺伝的なものより確率は高いかも知れませんね。
単に目という機能だけでなく目+脳神経という意味でもアマからは計り知れないものも・・・。
という事で私の眼はこれまでも楽をしてきている筈です。
中学の1年の時に仮性近視という事で一時教室の後ろの方では黒板の字が見えにくい事がありましたので、母が心配して早速弱い度ではありましたが眼鏡を作りました。
これが、当時部活で野球をやっていて練習のフリバッティングのピッチャーをしている時の事故で壊してしまい・・・これを両親に言えずに眼鏡無しに戻ってしまいました。
それで、仮性近視だった為というか、授業中窓の外の風景ばかり見ていたおかげというか視力を回復したのです。
眼鏡をかけていると多少は利口そうに見えるとか、まじめそうに見えそうな感じなので、本人としては未練がありましたが・・・。
続けて近視の眼鏡を使っていたら近視状態が固定化してしまったのかどうかは分かりませんが、それ以後近視にはならなかったのです。
それが数十年後のこと。
娘が高校受験の勉強をしていてオヤジは少しだけ手伝い。
(母親の方は職業柄「家に帰っても教えるのは嫌だ」と逃げていますが、本当は教える自信が無かったのではないかと思います)
ともあれ数学・英語は私が娘にあてにされて・・・教える立場だと父娘喧嘩になりそうなので模範解答作成で手伝い。
この時数学の高次式の問題を見て驚いた。
なんとX,Y,Zの次数が書いてあるような無いような感じで読めないのです。
これはショックでした・・・自分に何が起こったのか直ぐには分かりません。
それが虫眼鏡で見たら何の問題も無くはっきりと読めるのですから、所謂老眼である事が分かり2度目のショックでした。
直ぐに眼鏡を作りまして、以来、本を読む時は老眼鏡使用となりました。
遠くを見るのは問題が無いので運転には条件がつかないので、そこのところは楽かもしれません。
あれから、15年以上経ちまして、こちらの方は仮性老眼は無いようで少しづつ着実に進行している気配がします。
初めは細かな文字、本を読む時や新聞を読む時だけでしたが、やがて文字を書きつける時にも眼鏡をかけた方がスッキリするようになりました。
囲碁で言うと、リアルでは眼鏡不使用ですが・・・
ネット碁ではこれまで接続して相手を確認するところまでは眼鏡を使用し、対局が始まったら眼鏡をはずしていた。
つまり、パソコンの画面で碁盤の映像と、ハマの数、残り時間が分かれば良いので特に前が寝は必要とはしない。
それに対局中に眼鏡が無い方が考える時に自然状態だったと感じていたのでしょう。
これは仕事で眼鏡をかけていても所用で席を立ち、歩く時には反って眼鏡をかけていると不安定な感じと似ています。
眼鏡をしている時は細かな文字まで読めるので便利ですが、歩く時は眼鏡をしていると物の距離感が狂って来るのです。
ですから読む・書く・パソコンでの作業以外の時は眼鏡をはずしていたものです・・・ところが、最近では歩く時も眼鏡をしたままでも違和感が無くなって来ました。
ネット碁も変わってきて、眼鏡をしたまま対局するようになってきた。
むしろ眼鏡が必要になってきている。
画面・盤面が見えていると言う事と別に、眼鏡をしている方が考えごとがクリアーになっているのかどうかという問題でしょう。
ということは、かなり弱い度からだんだん日常性格で眼鏡を手放せない方向に進行しているのかも知れません。
従って眼鏡=理知的?とは違い、眼鏡=単にジイサマ的方向で変化中なのですが、がっかりはしても必需品なので我慢して慣れるしかないのが悲しいです。
こう言うことは囲碁に限らず、例えばスポーツ的な視力とか、もしかしたら学問的視力あるいは観察眼としての視力と言えるものもあるかも知れません。
サッカーに例えるといつも感心して見ているのですが・・・
例えばスタンドでの観戦にせよTV観戦にせよ、視点は選手のいるピッチレベルより高い所にあるわけで、視野は当然ある程度全体が見える場所にある。
ですから、ボールを持っている人に焦点が合っていたとしても周囲が見えている・・・当然俯瞰図・第三者的視点というわけです。
ところがプレイしている当人はピッチレベルに居て平面的視野で周囲を見ている。
不思議なのは「見えている」のかどうかです。
平面上の視野では見えるものに限界がある筈ですから、「見える」+「感じる」の部分での勝負なんだろうとは想像はつくものの、そこはその道のプロでは無いので想像するしかない。
しかもプレイは何分の1秒かの時間差が結果を分けるのですから、野次馬としては「何処見てるんだ」みたいな言いたい放題が許されるとしても当人たちは大変でしょうね。
囲碁の方でも「見える」=「分かっている」、「感じる」=「何か予感めいたもの」あるいは「相手の隠された意図」とに起きかえれば少しは似て来るような気はします。
これがカーリングなどでは相手の作戦の意までが見えるところで戦い、いかに作戦通り実行できるかが結果を分ける。
似ているところは1ゲームでの使用時間の制限がある事で、チェスとか囲碁などに似ているとも言えます。
さて視力、「見える」という動物としての能力と、「理解できている」というより人間的な力と「感じる」という本能的な要素が強い部分のトータルが見えると言う事なんでしょうね・・・想像で。
話は飛びますが、プロの囲碁棋士と将棋の棋士では細かな統計は分かりませんが、印象では将棋の先生の方が眼鏡を使用している人が多いと感じています。
羽生・中原・谷川先生・・・を初めNHK囲碁講座にコラムを書いている先崎さん・・・眼鏡を使用していない先生を数えた方が早いような。
勿論囲碁の先生だって眼鏡使用の棋士は多いけれど将棋の先生たちほどは多くは無いのではないかと見ています。
昔海外旅行で、「眼鏡でカメラを首にかけていたら日本人」という時代がありましたが、外国の人から見ればそれくらい眼鏡使用の人が多いのでしょう。
尤も最近はコンタクトという事もあるので、正確には見てくれでは分かりませんが・・・。
想像では囲碁にせよ将棋にせよプロになるには相当目を酷使している影響もあるだろうから単なる民族的・遺伝的なものより確率は高いかも知れませんね。
単に目という機能だけでなく目+脳神経という意味でもアマからは計り知れないものも・・・。
という事で私の眼はこれまでも楽をしてきている筈です。
中学の1年の時に仮性近視という事で一時教室の後ろの方では黒板の字が見えにくい事がありましたので、母が心配して早速弱い度ではありましたが眼鏡を作りました。
これが、当時部活で野球をやっていて練習のフリバッティングのピッチャーをしている時の事故で壊してしまい・・・これを両親に言えずに眼鏡無しに戻ってしまいました。
それで、仮性近視だった為というか、授業中窓の外の風景ばかり見ていたおかげというか視力を回復したのです。
眼鏡をかけていると多少は利口そうに見えるとか、まじめそうに見えそうな感じなので、本人としては未練がありましたが・・・。
続けて近視の眼鏡を使っていたら近視状態が固定化してしまったのかどうかは分かりませんが、それ以後近視にはならなかったのです。
それが数十年後のこと。
娘が高校受験の勉強をしていてオヤジは少しだけ手伝い。
(母親の方は職業柄「家に帰っても教えるのは嫌だ」と逃げていますが、本当は教える自信が無かったのではないかと思います)
ともあれ数学・英語は私が娘にあてにされて・・・教える立場だと父娘喧嘩になりそうなので模範解答作成で手伝い。
この時数学の高次式の問題を見て驚いた。
なんとX,Y,Zの次数が書いてあるような無いような感じで読めないのです。
これはショックでした・・・自分に何が起こったのか直ぐには分かりません。
それが虫眼鏡で見たら何の問題も無くはっきりと読めるのですから、所謂老眼である事が分かり2度目のショックでした。
直ぐに眼鏡を作りまして、以来、本を読む時は老眼鏡使用となりました。
遠くを見るのは問題が無いので運転には条件がつかないので、そこのところは楽かもしれません。
あれから、15年以上経ちまして、こちらの方は仮性老眼は無いようで少しづつ着実に進行している気配がします。
初めは細かな文字、本を読む時や新聞を読む時だけでしたが、やがて文字を書きつける時にも眼鏡をかけた方がスッキリするようになりました。
囲碁で言うと、リアルでは眼鏡不使用ですが・・・
ネット碁ではこれまで接続して相手を確認するところまでは眼鏡を使用し、対局が始まったら眼鏡をはずしていた。
つまり、パソコンの画面で碁盤の映像と、ハマの数、残り時間が分かれば良いので特に前が寝は必要とはしない。
それに対局中に眼鏡が無い方が考える時に自然状態だったと感じていたのでしょう。
これは仕事で眼鏡をかけていても所用で席を立ち、歩く時には反って眼鏡をかけていると不安定な感じと似ています。
眼鏡をしている時は細かな文字まで読めるので便利ですが、歩く時は眼鏡をしていると物の距離感が狂って来るのです。
ですから読む・書く・パソコンでの作業以外の時は眼鏡をはずしていたものです・・・ところが、最近では歩く時も眼鏡をしたままでも違和感が無くなって来ました。
ネット碁も変わってきて、眼鏡をしたまま対局するようになってきた。
むしろ眼鏡が必要になってきている。
画面・盤面が見えていると言う事と別に、眼鏡をしている方が考えごとがクリアーになっているのかどうかという問題でしょう。
ということは、かなり弱い度からだんだん日常性格で眼鏡を手放せない方向に進行しているのかも知れません。
従って眼鏡=理知的?とは違い、眼鏡=単にジイサマ的方向で変化中なのですが、がっかりはしても必需品なので我慢して慣れるしかないのが悲しいです。