なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

足踏み状態だと感じる時

2010-03-18 00:03:08 | Weblog
 囲碁は勝負を争うのですから、勝ったり負けたりが普通の状態です。
  それで対局の結果で勝ったからと言って、相手との相対的な関係もある事だし巡り合わせもあるので、強くなったから勝ったのか、運が良くて勝ったのかは囲碁の内容を、プロや相当強い人に見て貰わないと判断出来ない。
 と、いうのは原則論的な話で、私ぐらいの年のアマが目に見えて強くなると言うことはまづ考えられないのですから、勝敗の原因はお互いの調子・御天気・巡り合わせ・ものの弾みだと思って間違いはありません。
 マアそう断定してしまうのはヤヤ寂しいものはありますが。
  全くの初心者クラスの棋力から現在までの間で、確かに棋力はアップはしている・・・
 専門家の棋力から見て何ほどの事は無くても。
 開き直って言えば進歩は進歩、何年かかったにせよ、僅かにせよ進歩はしていたのですから・・・。

 先日ある方のブログで「最近足踏み状態だ」という記述がありました。
  確かにその人のこの3年ほど段級のランクが変わっていない・・・でも「自分の棋力が足踏み状態」だと感じることが意味のある事だと思うのです。(多分この人は私に比べはっきり若い!)
 例えば私などはここ数年あるいは10年かも知れませんが、棋力がアップしたとは思えませんし、もしかしたらダウンしているのか心配しているくらいですが、「停滞状態」だとは思わないのです。
 イヤ、停滞していると言う焦りに近い感覚は無いのです。
  つまり「アップする事を放棄している」感覚です。
 私も若い頃・・・そうですね30代、40代では棋力のアップを気にしていました。
  例えばある時期勝率5割なら少し焦りを感じる、、、負けが込むと棋力が原因だと考える、、、勝っても内容に問題を感じると素直には喜べない、、、。
 要するに、理由は無いにしろある程度は棋力が上がるものだと思っていた・・・そう信じていた。

 話は違いますが、例えば野球の王貞治氏がインタビューで大記録を残したことについて「親から健康な丈夫な体を貰った」「努力を続けてきた」というような事を話します。
 マアその通りでしょうが、半分はそうかな?でもあります。
  要するに「努力すれば夢は叶う」みたいなところと「努力では乗り越えられない」部分がある事は明白なわけですから。
 だからと言って王さんが間違っているとは言いませんが。
  ともかく「努力すればきっとある程度の棋力には達する」と信じている方が良いに決まっている。
 
 だからというわけでもありませんが、私も若い時期、打っていれば初段(碁会所クラスですが)にはなれると思っていた(全く疑うことも無く・・・こういう点は私は楽天家です)。
 20代の後半、再び囲碁を打つようになり、街の囲碁道場に通うようになった頃、当時は多分3級くらいでしたが、初段にはやがてなれると疑い無く信じていた。
 そして、初段に成れた頃には『自分も3段にはなりたい』し『きっとなれる』と感じていた。
  そして3段に認定された頃には、『憧れの5段クラスに成れる日が来るだろうか?』と思っていました。
 今思うとこういう風に考えることが大事な気がします。
  「成れる」と感じている、あるいは目標があるからこそ停滞を感じるのだと思う。
 「停滞」であるからきっと流れ出す日が来るに違いないのですから、必ずアップする日が来ると自分を信じているから、多少の焦りの部分も生じるのです。
 私はこの年で「停滞感」は無い・・・つまりこれ以上のアップは自分に期待できない事がしみ込んでいるのです。
 そう、確かに伸びシロは残っていない・・・哀しいけれど。