なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

自分が変わって行く?

2010-03-21 04:32:15 | Weblog
 昨日のNHK囲碁講座テキストで「先崎さんの桂馬の両アタリが無くなった」と書いたところ、早速間違いを教えて頂きありがとうございました。
 もし、教えて頂かなければ、かなりの確率で「無くなってしまった」という風に脳の中で「決定事項」的な扱いになってしまい、その後は「無いもの」に分類されていた事でしょう。
 大きな勘違いを起こした原因は、思うにこれまでは右上にあった縦書きのタイトルが上部に引っ越して、且つ横書きになっていた為だと思われます(言い訳めいていますが)。
 雑誌を買って来てまずこのコラムを探す時に、ページ右上部分で縦書きタイトルを探す・・・こういう行為が固定化されているのですね・・・ページ全体が見えていないというか、素直に・自然に見えるものを見ていない。
  固定観念を離れて自然状態で1ページずつ見て行けば良いのに、何か水道管の水垢というか、変な癖がついているようです。
 それに、探すのなら目次を確認すれば良いのに・・・実は目次を見たのに、そこに掲載されている事が示されているのに見えていない。
 気持ちがニュートラルで探していないのでしょうね、例えば「無いと言う事を確認するために探している」。
 こういう予断を持った探し方にも問題がありますね。
  更に今月号から小林光一先生の講座が始まり相手役が穂坂繭三段になっていて、両先生の写真が掲載されています→ここから穂坂さんは先崎さんの奥さんだから、先崎さんのコラムが無くなって奥さんが登場したのかもしれないと勝手な発想が出て来るのですから我ながら恐ろしい。
 自分で自分に根も葉も無い噂話を流しています(他人に言わないので罪にはなりませんが)。

 こういうのは「ヒネクレ性・認知症的・老化現象」みたいな気がして自分に警鐘を鳴らさなくてはいけない。
 身体的には循環器とか血糖とかの持病と別に、はっきりと老化を意識しているのですから不安になって来ます。
 膝の力が無くなった、肩・首筋が痛んで仕方が無い、体のバネが弱くなった感じで、まるで最近のTVCMのターゲットになりそうな感じ。
  フィジカル的に弱ってきているのに反比例して物理的・重力的負荷が加わっている。
 それに心理的な視力とは別にシンプルな意味で目が悪くなってきているらしい。
  イヤ、遠いものはメガネ無しでも何の問題も無いのですが、近くがダメ。
 だんだん虫眼鏡というかネーミングが悪いのですが老眼鏡のお世話になる時間が増えているのです。
 昔なら眼鏡は不要だったのが文書を読む時と地図を扱う時には必要になりました。
  でも歩く時などは眼鏡をかけていると遠近感が狂って反って危険でしたが、今では書く時も歩く時でさえ違和感が無くなって、一日の内で眼鏡使用時間が増えていますから見てくれも実年令もジイサマになっている。
 何と言っても囲碁の対局が変わりました。
  リアルではどうなるかは確認していませんが、とにかくネットでは変わりました。
 以前ではネット碁に接続して入場者・対局待ちリスト確認、ここまでは眼鏡使用で、いざ対局という時点ではメガネをはずしていたものです。
 例が不適切かも知れませんが、若い頃に競馬場でレースを見る時に遥か彼方の向こう正面での馬群の中でも注目の騎手の動きが見えている気がしたものです。
 メガネとか双眼鏡は不要だと思っていました・・・同じように?パソコン画面の碁盤を見るのに、場面を見て何かしら考えるのにこれまではメガネは不要であり邪魔な感じがしていた。
 ですから対局開始と同時にメガネをはずしていて、これが臨戦態勢だった。
  ところが今は逆に臨戦態勢ならメガネ着用になった。
 メガネが無くても見えない事は無いし、自分なりに考える時必需品ということでも無いのだけれど、メガネをしている方が見える世界も思考もクリアーに感じる=はっきりと考えられると言う感じでしょうか、ともかく対局開始と同時にメガネをかけるようになりました。

 要するに身体的にも、感覚的にも、思考習慣も老化進行中のようです。
  まだ若い?のに、いや十分年寄り?
 あと10年は囲碁を打ちたいのに・・・でも10年くらいあっという間だと言う不安もある。