なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

大スランプ!?

2007-10-16 17:24:17 | Weblog
 フォッサマグナというか氷河のクレバスに落ち込んだか・・・今大スランプの真っ只中にいると思われます。
 たいした棋力も無いからスランプを言うのはおこがましいかも知れませんが
  あられちゃんのパパのドクタースランプみたいに年中スランプなんだけれど、とりわけ今は酷い感じ。
 さて脳の収縮が加速度的に早まっているのか心配はあります
  不調と言う自覚は「何処と無く、すっきりした碁を打てない」気づく(感付く)所から始まったかも
 なんとなく相手のペースで打っている様な、それでいて強引に自分の主張をするとかなりの痛手を負う・・・
 肝心なところでミスが出ます。
  生きている石を攻めている結果になって、周辺に弱石を作ってしまったり。
 簡単な鎬が見えなかったり、不要な利かし・手順前後で自ら手を潰したり・・・
  マア、スランプを脱して急に強くなる方法は無いのでしょうから、せめて負けても悔いが無いというか、悔いが少ない対局を目指そうとは思うのです。
  
 大好きなサッカーでも似たような(そう思っているだけかも知れませんが)ことがあります。
少々強引につなげてしまいます
 サッカーの現場を預かる監督の采配ですね
  監督の個性はいろいろあるでしょうが、大きく分けて「相手に合わせてゲームプランを立てたり作戦を立てる」監督と、「余り拘らない」監督がいるように思えます。
 前者は、次の試合の相手の特徴・長所・短所を分析し、相手の長所を殺し短所を突く作戦を立て、事前に味方の配置を考え、その作戦に沿って練習する、一言で言うと知将タイプ
 基本的なテクニックや、体調維持などは言うまでも無く基本的なところで
 さて、後者の監督は、ズボラではないけれど相手の長所短所より味方の長所を最大限に発揮させることがベースとなる、まあ闘将タイプでしょうか。
 勿論どちらかが100%と言うことは無いにしても、どちらかに重心がかかっていることが多い。
 そして前者のチームの方が、ある程度にチーム力に自信があることも多く、後者はその逆が多いのですが・・・
 勿論サッカーの特性で「負けてもなるべく小さく負ける」なんて言う作戦もあるかも知れないし、「どうやったって負けっこない」と言うのもあるかも知れませんが。

 ところで碁の戦いでは「勝つか負けるか」しかない、半目負けるも大差で投了するのも1敗は1敗です。
 従って「粘って粘って細かい碁に持ち込んで、あわよくばチャンスを狙う」と言うのはあるかも知れないけれど、息の長い碁では結局は最後に実力を発揮されてしまうか、或いは肝心のところでせっかくの碁をふいにするようなことも起きかねない・・・
 さりとて短期決戦でファイト満々で行くのは、自分からコケルのがミエミエ
  結局は「余計な事を考えずに自分らしい碁を打つしか無い」に落ち着くのだが
  では「自分らしい碁」とは何だ???
 結局は混迷のスパイラルに落ち込んでしまう。
  どうやらスランプは当分続きそう
  いやこれからも、人生スランプと二人連れかもしれない 

試されたのかも知れない

2007-10-15 17:27:36 | Weblog
 先日打っていて見たことがある配石に行き会いました。
 本に出ていた通りの形に相手が打って来ました・・・表現がおかしいかもしれませんが。
 たまたまそうなったのか、その方も同じ本で勉強していてそうなったのか分からないということです。
 それと少し変わったと言うか、工夫を感じる打ち方ですから、何かの意図的なものを考えてしまいます・・・
 少しでも効率が良い手を考えた工夫とも言えるし、場合によっては相手が(この場合私が)勝手に躓いてくれるかもしれないという期待感?
 その変わった形が持つ特有の効果を期待して・・・まあ相手に半歩でも先んじようとする工夫でしょうか
 呉清源の「この手ご用心・小目編」に出てくる手ですから、嵌め手の要素も無いわけでは無いでしょう。
 尤もこの本に出てくる手は、相手が受け損なったら嵌め手的目覚ましい効果があると言うだけで、嵌らなくても不利になるわけでも無さそうだから、所謂嵌め手とは違うかも?。
 そういう意味ではこちらが勝手に嵌るかどうかだけが問題ではある。
 但し、相手に少しぐらいは「嵌ってくれると嬉しいな」という気分はあるかもしれないけれど、これは聞いて見なければ分からないし、聞いても本当の答えが返ってくるかどうかは怪しい。

 ともかく序盤のある隅で
 黒小目、白小ケイマかかり、黒2間高ハサミ、白2間トビ。
  ここまでどうと言うことの無い進行
  白は挟まれて3三に変わるか、上に飛ぶかどちらかでしょう
   それで上に飛ぶなら1間は1見固そうだけれど足が遅くて良くないし、黒から圧迫を受けると先輩に教えられたことがありまして、今でもこれを思い出しながら打ちます。
 ともかくこの時黒は白に2間の石のどちらかにつけてくるか、黒も3線に2間とびなら普通です・・・が4線に大ケイマで打って来ました。
  この手が「ご用心」の一つです。
 この手を打たれた瞬間に呉清源先生の本を思い出しました。
  そこのところはジイサマの頭はまだ完全にボケてはいないようで安心ですが後がいけない「何て書いてあったっけ?」的な思考回路です。
 これはこの形を本当の所は理解できていないと言うことの暴露みたいなものです
  全く情けない話です
 「素人なりにですが、理解した知識でその場で最善の応手を考える」なら良いのですが、どう書いてあったかを思い出そうともがくのですからね。
 まあしかし、対局中に本を探したい衝動は抑えましたが、当然ですね。
  局後まあ何とかテキストから外れてなかったことは確認できましたが・・・
  ところで今読んでいる「アマの知らない最先端定石」にも似たような形が出発点になっている折衝が出ています。
  多分2間とか大ケイマとか石が多少離れた感じの配石では、変化の手段が多いのですね。
 だからまだまだ何が飛び出してくるか分からない分野なのかも知れません。
  不安定と変化の余地の多い形は裏腹でしょう。
  それは失敗すれば痛手を負うけれど、もしかしたら多少は多めに利益を戴けるかも知れない・・・そんな形でしょうか。
 先日話しました「冒険趣味」ではないけれどその辺に興味を感じます。
  もっとも余りに仕掛けられると多少はムッとしますが・・・
 同時に「来た来た!」とわくわくしたり
  ネットの向こうの人の手に自分勝手に一喜一憂です 

懐かしい地名

2007-10-14 16:06:56 | Weblog
 今日日曜日の午後TVで「絶対ふるさと主義」とか言う番組をやっていました。
 徳川家康にまつわるエピソードとクイズで番組が進行します。
  それであの興津鯛という魚を釣りに出かける船が出た漁港の直ぐ近くに子供時代は住んでいました(番組を見なかった人には申し訳ない)
 一部の超グルメには有名らしい・・・ブックマークにある「こぼれ話」の方が詳しい・珍しい食材とか料理、歴史に興味のある方は是非。
 番組の中でも言っていましたが、今年はまだ10枚しかあがっていないから値段も相当ですね。
 でもこれは昔なら当たり前に口に入ったかどうか怪しい。
  少なくとも家の親戚に漁師さんがいたけれど見たことも食べたことも無い
 だからきっと昔から献上品か高級料亭の食材だったのでしょうね
  折戸茄子というのも出てきましたが、これは80年ぶりに復活したとか
 京都の賀茂茄子の元になったらしい・・・地名は懐かしい・茄子はお初
  そんなことで2時間近くもTVを見てしまいました・久しぶりです
 
 今週はいつもより多めに本を借りたので、少しピッチを上げて読まなくてはいけません。
 と言うのも体育の日絡みの3連休で、ネットですが囲碁三昧はよかったのですが4つ負け越しです・・・しかも最後は3連敗
 そういうこともあって自粛と言うか、謹慎?処分で対局は控えて、専ら対局専門か、囲碁関係の本雑誌。
 更に図書館の本に集中すると言う罰です
 (この辺りは6つ負け越す前の原稿です、つまり自己謹慎処分を破って対局した結果、傷口は深く広がったということです。)
  
 さてその中に、思わぬところに懐かしい名前が出てきて驚くやら、何だか嬉しいみたいな気持ちです。
 時は江戸時代、松平定信の厳しい改革の時代
  黄表紙で恋川春町と言う作家が書いた本が発禁となりまして・・・
 マア幕政批判にあたるから、この時代ではかなりの罪を問われる可能性がある
 政治向きの話ではなくて、びっくりしたのはその恋川春町は駿河、小島(オジマ)藩江戸留守居役添え役なんだそうです。
 仕事内容も石高もたいしたことはなさそうですがお侍だったとか
  イエ面白いのは小島藩の方です。
 先程のTVに出てきた興津鯛にちなんだ興津の町を流れるのが興津川で、この川沿いに甲州道が通っています、その途中に小島藩がある。
  普通駿河小島藩と言っても知らない人が多いでしょう。
   藤沢さんの時代小説の舞台の海坂藩の方が有名だと思われます。
 この小島藩は日本で一番小さな大名なんだそうで・・・1万石から大名ですが、ここはきっちり1万石しかない。
 1万石丁度は全国でいくつかあったかもしれないけれど、どっちにしてもラストタイ
  一つだけ5千石だけれど江戸城内では大名並み扱いと言う家も有ったそうですがこれは実質大名ではないから、やはり小島藩はビリタイ

 ここは私の出身地の市内にある大名
  季節が来ると鮎の疑似餌釣りもOKという川を遡って、甲州に抜ける道筋にある集落が小島です。
 (関東周辺より解禁が一月早いので有名な川です:私は渓流釣りは好きですが鮎は門外漢なので竿を出したことはありませんが)
  高校の頃は何であんな山の中に大名なんかがいたのだろうと不思議に思っていましたが、駿河と甲州の道の要衝ではあったのですね
  それはともかく、おそらく人も少なかっただろうに、歴史に名を残す人もいたのですね。
 マア立派なことをやったとかではないけれども

 ”立派では無い”と”小島”の取り合わせでは時代が下って幕末
 清水の次郎長が新興勢力として売り出す前にはオジマには小島の桃太郎と言う親分がいたのだそうです。
 マアその業界の話は講談や浪曲では面白いかも知れませんが、この話は郷土史には違いないけれど余り役に立つ話ではない。
 役に立たない話ついでに
  町の北側に二つの峰を持つ竜爪(リュウソウ)山と言う山があります
   この山の中腹に穂積神社と言う神社がありますが、明治時代以降の戦争が多い時代「武運の神様」・・・と言うより「玉が当たらない」事で全国から信者が集まったそうです。
 その神社に関連してたのは、元々は小島藩だったとか・・・

 ともかく小島よりもう一寸山奥と言うか甲州よりには親戚が住んでいたり、友達の家も有りました。
  そういえばその家はミカン農家で、遊びに行くと帰りに「ミカン1枚持って行け」と言ってくれる。
 1枚という単位は貯蔵用の引き出しみたいな小ぶりの戸板1枚分(重ねないように平らに貯蔵します)サブザックに一杯になります。

 さてさて「小島」という地名だけで少し元気になったかも知れません。
  これで碁の方も1冊読んだら再びチャレンジシリーズ開始と言う気分です。
 もっとも、今回読んでいる本は逆効果の危険性も十分に含んでいる、素人にとっては危ない本。
  副作用が大きいと言うか、「生兵法」になるか・・・
 「アマの知らない最先端定石」・・・読んだら試してみたくなるのが素人の悪い癖です。
 落語に出てくる、人まね・早とちりになる・・・とはしてもきっとやってみたくなるでしょうね。
 これを我慢するのは生理的によくないに違いない。 
追伸
 そして更に傷口を広げています。
 「楽しみは苦しみに通じる道」だと変なところで悟ったり・・・
 つまりは「勝敗は二の次」みたいなイソップ的開き直りですナ

愚息と愚親

2007-10-13 18:22:13 | Weblog
 昨日に続いて愚息ネタから
 いつもと同じように金曜日はチャングムの韓国語完全を見て、その後は入浴し、ネットで囲碁を楽しんでいる。
  今日は囲碁ネタは休業
 息子は・・・成田を定刻20数分遅れで飛び立ってから乗り換えのウィーンまで相当時間がかかるようです。
 当地とソコの標準時間のずれ+経過時間で実際のフライト所要時間が計算できるはずですが、これが女房殿には俄かには理解できない様子で何度も何度も説明したのですが
 「ヘエー、そんなに時間がかかるんだ?」でお終い(これは理解できていない)
  つまり1時間、2時間・・・たくさんと言う感じ
 あの愚息の数学音痴は確実に女房殿から受け継いでいることが証明された
  さて実際の所要時間は13時間以上になるらしい、更に乗り換えてから3時間
 昔サッカーの高原が罹った症状に注意です。
  まさにエコノミーシートのはずですから
 「機内では靴を脱いで足の指とか手の指を動かして置けよ」
   私・父親としての出掛けの餞の言葉がこれ・・・もう少し気の利いたことを言っても良さそうなんですが、まあドラマではないので・・・朝起きて顔を洗って・行ってらっしゃいみたいな感じ・・・私らしいといえば私らしい?
 
 夜中の2時半にメールで「今、無事に乗り換えた」
 そしてその3時間後、現地は深夜・こちらは早朝「無事到着暖かく迎えてもらった」
  全く便利になったものです。
 多分爆睡しただろう・・・今頃は現地で初日
  連休後は直ぐ学校が始まります。
 さて愚息は飛行機旅行は北海道には行ったことがあるがこれは国内で(私以外の家族旅行)
 外国はカナダには行ったことがあるとは行っても、4才の時だから初海外と同じです。
  ドジなところは相当私のDNAが入っているので心配してはいたのですが、何とかなったようです・・・まあ語学学生には違いないのですからどうにかならなければ困るわけです。

 さて息子と言うものは女親が甘いようです・・・(娘の場合は逆だと言えるかも知れませんが)
 だから女房殿がフライト中の時間に時々メールを入れているが、返事が無い
  「あのネボ助は寝ているに決まっているでしょ」と私はいたって冷淡を装っているのですが・・・
 母親の方は「来年行って見なければ・・・」とその気になっている
  「何だ、便乗か?」
  「当然でしょ、こういう時しか行けない」
 この母親は、嘗て息子の進学先を奈良・京都方面を強く勧めていた・・・あの感覚・・・必ず大義名分を見つけて自分が行くに違いない!

 さてさて明治時代なら半年とか1年かかった旅行が16時間です
  手紙は数週間かかるかも知れませんがメールなら国内と変わりません
   料金が多少高くてもいいのなら携帯で話も出来る・・・国内銀行の口座で支払いも出来るし現地で引き出せる・・・
 こんなに便利になってしまうとテレパシーとまでは言いませんが、人を・家族を思い遣るという気持ちの面で昔の人と差が出るような気がするのです・・・
 そう、想像する必要がなくなっています。
  確かめたければ携帯で電話をすればいいのだし、このパソコンにメールを入れるのだってある。
  画像だってやり取りできる
 さあそうなると「気持ちが伝わる」という辺りはどうなるのだろうか?
  
 余りに便利だと、全てが情報という文字・音声でしか伝わらないかもしれない?
  心が伝わるというところが問題
  でもそれが出来ないと・・・この先半年或いは延長半年が大変。
 その辺りが成長するように向こうにテレパシーを送り続けることにします
  
 

りっぱな碁キチ?

2007-10-12 18:13:36 | Weblog
 今週はなにやら波乱の一週間でした。
 と書いてしまうと多分誤解されるでしょうね。
  原因が公私共にではなくて、完璧に「私」に近いのだから
 今日は週末ですから、最後の力を振り絞ってご奉公・・・と言うほどでもないけれど、久しぶりに忙しい日が続いています。
 マア、これが普通と言うわけではないだけが救いでしょうか
  この忙しさが押し寄せてくる予感はあった
   津波が来る前に一旦潮が引くように、暇な日が続いたのですから・・・
 しかも「こんなに暇で良いの?」ではなくて目の前の席では処理が遅れた書類が山と積まれている・・・やがてこれが動き出すと一気に押し寄せる。
 しかも、他の人のところは通過点みたいなものだからまだ良いのですが、私のところで全部パソコンに入力することになるのだから、これは入力+最終チェックですから考えただけでも憂鬱でしたが、それが現実になった。
 堰き止められていた書類が一気に山を下り谷を流れ、鉄砲水になって押し寄せてきた・・・予想通りなんですが
  変な言い分ですが、暇だと言って楽なわけではないのです。
 変なところで気を使うから案外気疲れをする。
  そして一転今度は本当の目の回るような忙しさ、こういう時に限って来客は多いし電話はかかってきます・・・全く平均にはならない
 そんなことで主として珍しく仕事で疲れた。
  更に「細かい碁って何目ですか」の一件も有った。
   こういうのも案外気づかれはするものです
 更に息子の旅立ちがありました。
   もう成人式を過ぎているのだから、親がどうこうすることも無いのですが、ずいぶん気を揉ませる息子でして・・・
  首都圏に住むと勉強も勤めも親元から通える確率が高いから、何だか巣立ちの時期が遅れるのだろうか?
 家だけかも知れませんが
  自分が高校を出たときは、その時点で親の家からは出て行くものだと思っていたし、実際そうなった。
 地方出身者が大学に行くのなら、ほぼそのコースですね。
  
 息子はやっと家を出て外の世界で生活をする気になった
  もっとも、ホームステイと言っても学生なわけで、日本より就労規定がやかましいからほぼバイトは見込めません・・・すると親の負担は今までとたいして変わらない・・・これは自立とは言い難い・・・が
  知らない文化圏へ1人で行ったことだけは褒めてやりたい
   もっともまだ「行った」だけで、そこで何かをしたわけではないから余り喜んでもいられませんが。
  そんなこんなで、ドタバタな1週間が終わってやっと週末を迎えました。

 で、どんなに疲れていても・・・心ここに在らず見たいなところがあっても、碁を打つのです。
 そういう時ほど打ちたいから厄介なものです。
   癒しの碁という意味では意味があるかも知れませんが、癒しになっているかどうか非常に・・・
 こういう精神状況、疲労状況では成績が上がるわけがありません。
  勝敗もそうですが内容はもっと酷いでしょう。
 短期間に6つも負け越したのですから、予想通りというか当然の成り行きです
多分1勝2敗ペースだと思われる
 平均すればの話で、実際は何連敗かを繰り返したはず
 「そんなだったら打たなければいいでしょ!!」は全く正しい、私だってそうは思わないことも無い
   しかしそれを本心で言って、しかも実行できる人は「碁キチ」にはなれない人ですゾ。
 いや逆に「よかったね」かも知れませんが
  碁キチのトッチャンはダメな時ほど打ちたいものなんです。
 疲れているし集中力が低下しているなど、いつものコンディションレベルより低いのに止められない。
 「毒皿」とか「何処まで落ちるか開き直った気分」です
  疲れを癒す趣味の筈の碁が新たなストレスとなって負のスパイラル
   悪い時には悪いことが重なるもので、仕事のパソコンがどうやら不具合寸前
 どうも動きが怪しい
  他の出先に同じような症状が無かったり、ここのパソコン特有な不具合だったりすると、電子回覧で情報が流れた時あたかも個人的なオペレートミスみたいに思われるから・・・気が重い。
 遊びのプレッシャーに仕事のプレッシャー
  やっと週末に辿り着いた。

 さて息子は後数時間でウィーンに着いて乗り換えです
  さてさて、日本にいてもドジな息子が無事乗り換えできるか想像するだけでもおかしい。
 多分夜中に目的地に着くはず、後はホームステイ先の人と相性が良いことを祈るのみです。
 諺では「可愛い子には旅をさせろ」ですが、まさに外国の方にも協力していただいています。
 本当は将来自立できるようなものを身に着けてくれないと困るのですが、まあ我が家の伝統「なるようにしかならない」・・・後は本人にお任せと言うことでしょう。
  
 さて、夕食までに1時間はありそうだから一局行ってみようか。 

首を洗って対局場

2007-10-11 18:43:47 | Weblog
 「二日かかりの碁を打ちました」・・・と言ってみたかっただけで、中身はいつも通りの素人です。
 しかも二日かかりには違いないけれど、昨日の昼から碁盤と石を片付けづに、部屋の隅にそのまま放置していただけのことである。
 足掛け2日の対局では有るが、所要時間は昨日の昼休での消費時間40分余り+数分だから、まるで迫力が無いです。
 さて昨日の昼休み職場碁は
  向こう4子で立ち上がり黒の大石を取ったところから雲行きがやや怪しくなる
 この辺りは毎回難しいと感じながら打っているのです。
  4つですから、ある程度は黒石を取って実質的に儲けなければ、なかなか追いつくのは難しい。
 それに相手に「石を取られた」と言う意識を持たせることが後の展開に影響してくるはず。
  マア、そんなことから品があろうが無かろうが「石は取れたほうが良い」と思っています
 現実に昨日の碁では序盤から戦いが始まって黒の大石を取る形になりました。
  「取った」と胸を張れるかどうか微妙な感じで外も黒が厚いし白の後手取り
  それでも、「捨てたと」黒が威張れるほど小さくも無い・・・
 マア好い加減な別れ・・・いや黒が損なはずです。
 と言うのも、地合いで白が追いつく目がチラチラ見えてきているのだから、黒としてはここまでは失敗なはず。
 でも今後の頑張りでは辛うじて逃げ切れるかも知れない局面。
  
 白のヤヤ大きな石が黒から手がありそうな形
  白は後手でも黒の大石の息の根を止めた尚ですから黒の手番です
 やはり「代償を遣せ」とばかり黒が攻めてきます。
  さて、生きに行けば生きられそうではあるが、黒の言いなりになるしかないから黒にも超大地が確定しそう。
 昼休の時間の無い碁ではこういうのは計算が難しい
  本来なら大雑把にでも計算するところなのですが・・・
 しかし一見20個の石が取られても、本来白の大地になるところで、白がある程度の地を持っていきられれば損は無いはず。
 そういうことで、後は細かな寄せを残すのみと言うところでタイムアップ

 ここからきちんと寄せを打って計算までしたら大幅に昼休みの枠を突き抜ける
  マア、「崩すしか無いか」と手を伸ばしたところで黒さんから待ったがかかった。
 「これは地はどうですか?」
 「細かいんではないですか」
これがいけなかった・・・私の「細かい」は信用が無いらしい
 先日も「細かいのでは」と言った碁を数えて実際は5目差だったのを咎めららています。
 「細かいって言うのは何目から言うのですか、2目程度なら分かるけれど5目は細かいとは言わないのでは?」
 要するに自分が不利なのを誤魔化すために「細かい」などとカッコをつけているだけではないかと言う追及です。
 だから今日も「細かいってどのくらいの差なんですか?」
『素人の昼休碁でそれが分かれば苦労は無い』と言いたいのはヤマヤマ
 「実際に計算できるほど精密には数えてはいませんが、感じとして細かいと思って打ってきました・・・」そういうしかないでしょう
 黒さん少し勢いが出たみたいに「それでは碁盤をこのままにしてこの部屋に置いてきましょう」と言う提案です。
 好い加減な白の鼻を折ろうと言うのが見え見えですね。
  マア私としても断る理由も無いから成り行きでそうなった。

 考えてみると、『黒さんがこんなに言うのだから形勢に自信が有るのだろう』
 ということは『明日は打ち継いで結論が出たところで、いい加減なところをなじられそう』
 『まあ、それでもいいか』『勝敗とかソコまで細かなところに拘るような碁ではないはずだから』
  とは言うものの、やや気が重いですね
 やはり負けているより勝っているほうが好い
一晩気が重くて、そのあくる日が今日というわけです
  昼食を食べ終わって並んで対局室に下りていきます
 『首を洗って着ましたよ』そういう感じ(相手があそこまで言うのだからきっと地に自信があるのでしょう・・・だから打ち継ぐといっても黒の勝ちを確認するだけかも知れない)
 オーバーに言うとプロの挑戦手合い7番勝負で3連敗して4戦目の朝の気分はこんなかも知れない・・・大胆にも素人が勝手に想像しました。
  マアダメならダメで「恐れ入りました」と最敬礼するしかない覚悟
 さて、打ち継いで見ると・・・目算では白がはっきり良いと言える
  『おかしい、そんなはずはないでしょう?、これなら黒さんの提案が・・・』
 実際は白の9目勝ちだった
 流石に黒さん「9目は細かいと言うのですか?」とは言わなかった
  『なーんだ』と言う感じでは有ったけれど、昨日からのもやもやはいっぺんに晴れたような気がします。
  すると、黒氏の自信はどういう根拠によるものだったのだろうか?
 今にして思うと、私が「細かいでしょう」と言ったのが根拠だったかも知れない
  あのいい加減な白が見栄を張ったのだから結果は逆に黒の勝ち・・・
 白の見栄を突いたのは良い読みだったけれど、「白(私)のいい加減さ]を見落としたようです。 

 

人に聞いた話と・・・

2007-10-10 17:49:48 | Weblog
 これは人に聞いた話と自分の経験と言うかこれまでの知識で想像を働かせた?話です。
 イエ、私の知識など当然たいしたことは無いのですが、話としては案外大切なことかも知れません。
 「隅の基本的な生き死にに関する形」についてです。
 一隅の影響力ですから盤全体の361分の何がしかの影響力に加えて周辺に及ぼすものがあるので、場合によっては勝負に直結するかも知れません
 それはともかく[死活][手筋][定石]などなど実戦に役に立たなければ意味が無いわけで、”基本的な”と言う冠がついていると言うことは、実戦によく出る形ですと言う意味でもあるでしょう
 さて、聞いた話では
  その問題の形は実戦によく出来そうな形ですから作り物とは違います。
 黒から打つと隅の白石の一団をセキにすることが出来ると言うのが答えらしい。
 ところがセキ形を完成するには黒が最後に打たなければならない・・・
  と言うことは[黒先で白地はセキ]なんだけれどこれは黒後手→従って黒は最後のセキを完成させる手を保留して、それを打つタイミングを考える・・・これが答えになるのが正しいみたいです。
 白から見ても、最後に黒が手を抜いた場合セキ=白地0か白地を持って生きる=白地数目の差を考慮し尚且つ1線の両方向に何がしかの寄せが残る・・・
  こうなると単なる死活の問題では無くなって来ているようです。
 
 整理して考えると
この隅の白の形は白から1手手を入れれば当然地を持った生きだが、手抜きでも死ぬことは無い・・・しかも白が他に打った時に、この墨に黒が先着しても黒が後手ででセキにしないならば白は地を持って生きる可能性が残る=この場合数目の価値があるのだから打つタイミングに自ずと順序があるでしょう。
 また黒がセキを完成させるまで打つのなら、白は元々手抜きして他方面に打ったわけですから、再び先手を得て他に打てると言うことでしょう。
  さてこれは確かに隅ではよくありそうな形ですから[基本]に違いない
 しかし「黒先の詰碁」と言うにはどこか違和感を感じる・・・しかし、死活と寄せと言う面では基本的な問題とも思えます。
  強いて言うならば「白は手抜きで死んでいない」と言う問題ですね。
 もし後手でいいのなら5目ほどの大きさの生き+外に数目の寄せ

 「詰むや詰まざるや」と言う本を思い出します。
 全てノーヒントで、黒から打って白が死ぬものやら、生きているものやら・・・はたまたコウで、どういうコウか?
  生きているのならどう打つのが最善なのか?
 まさに実戦みたいだと思うのです。
  実戦には盤上にヒントなど出ていませんから。
 その聞いた話の問題は「詰め碁」と言うにはどこか「?」がつく気がするのですが、総合的に考えるには良い問題だとは思うのです。
 これを「黒先白セキ」と言うと何だか違和感が漂うと言うことでしょう。

 ところで私の実戦では、「私の先番でも相手には生きのある所」を必至になって殺しに行ったり(つまり多少の損など省みずに)、自分の死ぬはずの無い石が一手ばったりで死んでしまったり、そんなことを「戦っている」と思い込んでいるのは自分だけで周りの人から見れば「馬鹿なオッサン」をやっていると映るのにに違いない。
 そういうことは日常茶飯事だから、この年になっても基本が身についているとは言いがたいのです。
 先日も2つも大チョンボをしました。
① 例によって地を稼ぐのが好きで薄い石が出来て攻められるのですが、これを大過なく凌げなければ最初に遡って「稼いだ意味」が無くなる。
 ところでもう一歩突っ込んで考えれば、さして難しくも無い手筋で生きが有ったのにのに俗手の連発で死んでしまった。 
 まるで自殺行為ですね
② 同様に相手の大石を2手差で取っている筈なのに、受け損なって1手負けにしていたり・・・
  全く情け無い話です。
 この場合基本の形の理解度以上に、盤を前にした「基本の思考態度」です

 但し余りにアホな負け方ですので、「それ程アホでも無くて、そこそこなアホ」と言う自己弁護と、若干自慢話をしたいと言う気持ちで・・・
 勿論素人の勝った負けたですから、勝負が決まるところが高段者とは違う
その碁は私の先番で好きな形で立ち上がった・・・
 白さんのかかりに大きく挟んで、白は両がかりで黒は3三を打ちつつ包囲した白を分断して戦う形。
 これでえ隅は白から攻められても最低の2眼は有るのが眼目で、黒の隅には死にがないのですから外は思い切って戦えるはず・・・
  さてこういうのが好みなんですが、その時ふと思ったのです
 『白が隅の黒に利かしを打ったとき正しく受ければ死には無い。しかしもし手抜きをして黒を攻めている白を外から攻める手を打てばどうなるか? 白も目が無いから当然攻めあいになり、戦いは白勝ちでせっかく3三に先着した黒は死ぬ・・・が攻め取りだし外に完璧と思える壁が完成するはず・・・』
 これはプロなら当然考えるでしょう、しかしこちらはザルのジイサマですから、実行するには相当勇気が要ります。
 勿論読みの裏付けみたいなものがないと打てないわけで・・・持ち時間を相当つぎ込んだ。
 ネット碁での持ち時間はヤヤ変則で5分ルールがある(余りの長考と言う意味不明な行為を防ぐため持ち時間内であっても1手5分を越えてはいけない)から45分を一気に使うことは出来ませんが、それでも・・・
 おかげさまでこれが大ヒット
  いや、相手の気分としては嵌った感じだろうな?
   「カイセン和尚の大塗り」と言うか、あれの2倍はあるでしょう。
 ともかくボケジイサマと油断は出来ないぞということは示せたかも
   もっとも私が上手くやったと言うより、相手が失敗したと言うことなんだろうから余りに自慢するは恥ずかしい限り・・・いやもう言ってしまった 

冒険趣味との戦い

2007-10-09 19:04:59 | Weblog
 今朝は全くタイミングが悪かった、最近では一番ダメな日
 いやタイミングのせいではなく心がけと言うか、普段どおりの準備を怠った
 朝、出勤しようと家を出たところ、どうも外は怪しげな天気・・・実際雨が降っている。
 それも弱い雨とは言えない程度の雨
  雨そのものは細い感じですが雨の量は結構ありそうな感じです
 季節は違うけれど「春雨じゃ・・・」などと気取って油断するとびっしょり濡れそうな感じがする。
 ところで私は自転車通勤で傘はさしません。
  サドルを高めにセットしているし、傘だと風を受けたら不安定なので使いません。
 昔は傘を使っていましたが、少しの風で直ぐに傘が壊れてしまうのです。
 風圧に耐えられる傘はきっと安い傘の10本分ぐらいの値段でしょう
  と言うことで安全性と経済性の両面から傘は使いません
 ですから、一歩外にでて雨に気がついたのなら、直ぐに引き返して雨合羽にすればいいだけの話なのに・・・どういうわけか物臭の性格が出まして
  家を出たところで近所のおじさんとバッタリ会って「雨ですね」「さっきから降り始めましたよ」なんて会話を交わすうちに「マ、多少は濡れてもいいか」と言う気になってしまいました。
  「この程度の雨なんか平気!」みたいな見栄でしょうか、若くないのにね。
 真冬なら間違いなく引き返して上下カッパの完全武装に変えたとは思うけれど・・・
 それに昨晩見た天気予報では今日は曇りのはずだから、降ってもたいしたことは無いだろう
 更に撥水効果のあるジャケットと帽子があればマア良いか気分
  ズボンがGパンなのは少し気がかりでは有ったが
 どうせ5分もしないうちに止むだろうとたかをくくったのが大外れ
  昨日の天気予報より現実に降っている雨の差
 しかもいずれ止むという読みは当たっていたが、事務所に着くまで降っていたと言う運の悪さ
 日頃から「雨が降ったら濡れればいいさ」と開き直って暮らしていますが、実際に降られると「チョットチョット」ですね。
 マア確信犯的なチョンボですから誰にも文句は言えません。
  マアとにもかくにも今朝はかなり濡れた・・・けれど撥水効果の確認は出来たというのが収穫? それと幸いに風邪には取り付かれなかったようです。

 さて碁でもこれに近いことが往々にして起きます
  人にこういう話をしたことが無いから、「それはお前だけだ!」と言われるかも知れませんが・・・
 対局していて「こう打ったら反撃が来そう」とか「こう打って、相手がおとなしく受けてくれればまことに都合が良いのだけれど、そうはいかないだろうな?」
 そういう局面はありますよね
  これは当方からの利かしみたいな手が一発で自分を優勢にするみたいな、横車ではないにしろ、一つ譲歩を得れば少しずつ有利になりそうな・・・そういう手
 こういう手が勝負の分かれ目に成ることが多いはずです。
  こちらが何もしない場合・・・それで見通しがつけば良いのですが
   逆に相手から来られたりするはず。
 さて、当然顛末を考えるのですが・・・
① 初めに利かそうとした手は自分には非常に都合が良い手
② だから相手が素直に受けてくれれば効果が大きい
③ と言うことは、相手はうっかり受けることも無いではないが、みすみす不利になることはしないはずだから当然反撃を考える
④ その時、思わぬ戦いが発生する可能性があるが、どういう結果になるか?
⑤ 相手が反発してきても、当方に少なくとも不利は無いのか
⑥ 或いはここでバトルになって、結末は?
  さてさて、少なくとも自分に不利は無いのならやっていく価値はあるでしょう
 ところが、どうなるのか全く予測がつかない時・・・
  何かをやって打開しようとするのは冒険主義とでも言いましょうか
 いや、何もしないで淡々と終局まで打って「数目足りない」などということはよくあることで、「あの時がラストチャンスだったか」と後悔するわけです。
  結論の見えない手を打つというのは正しい態度ではないのでしょうね
 しかし、イメージトレーニングではないけれど、もし上手く行った時の効果は魅力的
 さてイチかバチかでは無いけれど、こういうときは(読みきれないのですから)行くか行かないか迷うのです。
 冒険趣味!
  これがあるから何時まで経ってもザルなんでしょうね
   それでも止められない
  まあ、「無茶な人だ」と哂われることになる確率が高い
  私の最大の戦いは「冒険趣味との戦い」かもしれません。 

それが分かれば・・・

2007-10-08 16:46:21 | Weblog
 話としては単純なこと・・・ですが、頭の中に浮かんでくるいろんなことが混ざっています。
 10月から始まったNHKの朝ドラの「ちりとてちん」とか、囲碁講座のテキスト10月号の結城九段の「これが世界の新感覚」、それに私と息子の思い出話などなど・・・ミックスされてしまった感じです。
 朝ドラの方はドラマの展開の伏線もかねて、いつも流れるカセットの落語
  いつも同じ話ばかり繰り返されるのはどうしてかなとは思っていた
 それと落語の声が桂米朝師匠の息子さんの小米朝さんの声に似ているなと感じながら聞いていた・・・これらは本筋外ですので置いておいて
  小さな子供・小学3年生が落語を繰り返し聴いて面白さを感じる・そちらの方の感覚です。
 「どうも最近の若い者は」ではないけれど、落語よりも漫才と言うかコント、いやもっとインスタントな一発芸みたいなものにしか反応しないように見える。
 完全に私の偏見が入っているとは思うけれど、特に古典落語の方には反応が寂しい気がする・・・我が家だけかも知れませんが。
 というのも、我が家の子供たちが小さな頃、寝る前にお話の本を読むか、お話をするのが私の日課でして・・・当時単行本のシリーズとかテレビドラマになっていた「大草原の小さな家」シリーズなどの本を読むとか、古典落語のネタ本本を読んでいた・・・のに。
  多少は下地があるはずなんですが、それでも面白いと感じる場所と言うか感じかたが違うらしいのです
  現代の生活とその落語が作られた時代背景がかけ離れすぎているという所は無理も無い気もするが、しかし私の子供の頃だってその点は大分違っていたはずだからそれが決定的な差だとは思えません。
 ただ、その頃は娯楽が少なくラジオから流れる落語などの話芸を繰り返し聞いていたと言うのが決定的な違いだと思うのです。

 さて話が変わりますが、家の愚息(なんだかんだともたもた生きているのですが)、どうやらホームステイで遠くに行くことになって来週出発と言うところまで迫って来ました。
 観光と違って面倒な手続きもあったようですが、私は例によって見てみぬ振り・母親(女房殿)みたいに余計な世話は焼きません・面倒だし。
 さてそんな息子の子供時代のエピソードを朝ドラの「ちりとてちん」と重ねて思い出すことがありました。
 「面白い」と言うこと、「本当の面白さ」と言うことについて彼に話したことがあります。
 彼も小さな頃から人を笑わせることが好きなひょうきんなところがある子供でしたが、そのことで釘を刺したことがあります。
 マア、余計なことだったとは思いますが、人を傷つける笑いはいけないし、底の浅いものなど小さな頃から区別して欲しかった・・・
 彼に話したのは
① シモネタで笑いを取るのは笑いを取るのは誰でもできそう・簡単みたいだが、直ぐに飽きられるし、笑いにも品みたいなものがある。
② 叩くとかのアクションも簡単だがこれも長くは続くはずが無い。これもどたばたするだけで飽きられる
③ 単なる駄洒落や言葉遊びとかだけだと底が浅い
  ではどんなものが良いのかと言うと、それは示せなかったけれど・・・
 独断と偏見で、「何処と無く可笑しみがあって、後で可笑しさがこみ上げてくるようなもの」
 可笑しさと同時に怖かったり哀しかったり考えさせられるようなもの
  最高のものは、その時はそれなりに面白いのだが、2,3日経ってから
ハタと「ああそうか」と言うような二重三重に底のあるような面白さ。
 自分でもよく分かっていないのに子供の話していたものです
  ともかく表面だけの面白さを追ってはいけないみたいに

 さて、やっと結城九段の「世界の新感覚」に辿り着きました
  これは万波佳奈四段が聞き手でご本人の嵌った話が題材だったり、あの韓国の強豪李世ドルさんの碁が題材だだったり・・・
 話のストーリーとしては面白い
  変化の棋譜がたくさん示されていて、丁寧に説明されている・・・しかし!
 ネットで私のような素人レベルで、しかもクリックミスをした手を相手がとがめ損なったのとは分けが違います・・・
 内容は大差ですが、解説の図を見てその時はそれなりに分かるような気がするのです・・・そこが解説の腕の見せ所なんでしょうね、ところが実は自分でも全然分かっていない気がします
 単純に考えると、自分の実戦では絶対に無理
 それに、私の相手がこれを仕掛けて来たとして、多分「クリックミス」としか感じないかもしれないのです・・・おそらくそうでしょう。
  だから結城九段の解説は親切だし、プロプロで嵌る話など展開としては面白い
 のですが、本当の面白さとか仕掛けの怖さなどが分かっていないレベルでの面白さでしょうね。
 だからそういう内実ですから、簡単に面白いと言って良いのかためらってしまいます
  勝負の流れと言う意味での、外からでも分かる展開としては面白いと言えるかもしれませんが、芸の深さと言う意味では・・・
 さてさて「それが分かれば苦労は無い」「分かるくらいならザルをやっていない」まあそういうことです。
  いろんなことが頭の中でミキサーにかけられたような話でした 
 

壁の中

2007-10-07 17:25:04 | Weblog
  私は先番ではほぼ2連星なんですが、さてその時相手は[2連星][方向を変えた小目][星+小目]が多いが、マアその他にもいろいろある。
 少数派?としては[星+目はずし][両高目][向きの違う高目]などもいる。
  勝ったり負けたりでトータルとして同じ点数の辺りを漂っているのですが、その1局ごとの結果と相手のこの立ち上がりとどのくらい関係が有るのだろうか?
 無いはずは無いと言えそうですが、何処がどうなのかは分からないし、どういう組み合わせが結果に影響があるらしいと言う記録もとっていないので何とも言えない状態ではある。
 そうではあるけれど、感じとしてはどれも同じような気がしてはいる。
 と言うことは私クラスのいい加減な碁では、ここではまだ優劣の差は出ていないと言うことなのかも・・・
 本当にそうなのか検証するには、僅か200局ではあるけれど棋譜倉庫に籠もって、パターンごとの結果を整理するところから始めるしかない。
  少なくとも自分の棋譜では何か特徴的な結果があるかどうか?
 何かあるはずなんですが、絶対有るとも言えないし心もとない話です
  例えば私が白番で中国流を苦手意識を感じているのが、単に意識だけなのか、私の打ち方の稚拙さがでているのか、或いは思っているほどは結果は偏っていないのか?・・・
 どっちにしても素人のやっていることを、素人が調べるのだから全く宛にはならない話です・・・そういう遊び方とでも言いましょうか。
 
 「パターン化して統計的に見る」・・・雲を掴むような話かもしれませんし、素人の・自分の碁で、データサンプルも限られています。
 碁も素人なら統計も素人だしトンデモナイ挑戦です
  本来なら1局毎に勝因はともかく敗因はあるでしょう。
 途中の敗因となる悪手が主犯なのか、悪事を働こうと考えるほど苦しくしていく過程に問題があるのか、或いは遡ってその生い立ちみたいな序盤の布石なのか?
 内容を考えるとしたら個別に見ていくのが正しい・・・筈、でもパターン化できれば素人とすればお得で便利!?
 プロ棋士の局後の検討は1局ごとの内容の検討が主たる目的でしょう
  でもそこは素人の悲しさで、1局ごとに自分の棋譜を見直してもよく分からないものや、ハッキリ何処が勝負の分かれ目だったのか自信のが無いものが多い。

  正しい態度かどうかはともかくもがいているわけです
   勿論苦しんでいるのではありません。
  もがくのを楽しんでいると言うのがまあまあ正しいでしょうか
 ただし、もがくには理由はあります。
  これを言うと哂われそうですが、「最近壁を感じる」ということでしょうね
 今更と言うか今頃と言うか
  ともかく、打ち続けてさえいれば例え僅かでも棋力は伸びるものだと考えたい。
 (明治時代の先生が「君たちの碁は川原で杭を打っているようなものだ」とからかったそうです=その心は「打てば打つほど下がる」:旨い!座布団1枚)
 だから、表現はあっているかどうか「閉塞感」「停滞感」は由々しき事態
  実際はどうなのかはともかく、少なくとも自分では感じている・・・これはまずい。
 それを感じさせる最大の原因は序盤の2連星かナとも思うのです
  2連星自体が悪いと言うことではなく、勝負は相手があることだし、臨機応変と言うか工夫が無さ過ぎるのだろう
 少なくとも何処かに自分の欠点とか、打ちにくくするパターンがあるのでしょう
  私らのレベルで研究されていると言うことは無いでしょうから、他人には分かりやすい欠点を晒しているとも考えられます。
 
 最近は先番で中国流モドキに構え黒5で小林流を試しています(中国流は1度もやっていない)
 これはNHK囲碁講座で河野臨さんが解説していて、小林光一九段がこれで好成績をあげていたということ・・・そういえばそうだったと思い出した次第。
 さて付け焼刃ではありますが、取り敢えずはいろいろ試してみて「2連星居士」は返上と言うところ。
 
 更に調子に乗ってジイサマは暴走します
 土曜日には図書館で借りた本は
「アマの知らない最先端定石」大矢浩一 2006年9月
  これは布石ではないのですが、隅の定石に関して「何でも有り」的な最近の研究結果・・・
 これは知らない相手を悩ませてやろうと言うあざとい考えは少ししかありません
 主として「何でも有り」が重要だと思うのです
  今までなら定石ハズレとか筋違いとかで悪手のレッテルを貼られていたものが、よくよく研究すれば定石にもなるという・・・
  ダメな手と切り捨てられていたその向こうをよく見ればと言うことでしょう
 ともかく壁の中でもがいている最中です
  それもまた楽しいのですが 
 

「細かい」はなし

2007-10-06 17:03:46 | Weblog
 先日の昼休み碁
 1階の畳のある休憩室に降りていく途中でFさんが
 「4子が一つの山場なんですよね」と話しかけてきました。
 私の考えているのも全くその通りなので
 「私はそう思います。4子を越えて3子になるともう殆ど先が見えてきます」
 「4子と3子ではそんなに違いますか?」
 「私は全く違うような気がして打っています。もしよかったら置石はいつでも変更してみてもいいですよ。どうですか?」
 とマア、そういう風に水を向けたのですが、流石にFさんは乗ってこなかった。
  今4子で正確な記録は無いけれど、ダブルスコアーではないとしても白の方がトータルで勝っていると記憶している。
  マアトータルは余り意味が無くて、直近の10局程度が問題ではあるとは思うけれど・・・
 ともかくF氏は自分なりに自信をつけたらある日突然「今日は3つで・・・」と言い出すに違いない。
 Xデイは案外近いような気がしている。
  いやもしかしたら彼の属するグループで昇段したのかも?
  先日上がった話を聞いたばかりだから少し早すぎるかも知れない。
 ともかく楽しみなことではある
  置石は二人の手合いの問題であるから、当事者間の相対的な棋力差またはその時の好不調の波具合ですから、もし彼が置き石を減らすと言い出した時、相対的な差が縮まっているとして主たる原因が彼の伸びであることを願うばかりです。
 私の落ち込みが主たる原因にならないことを祈っているのです。

 さてさっきの4子が山場と言う話は以前このブログで書いたことがあるような気がします・・・
 たまたまFさんも同じことを考えたのか?
  もしかしてこれを読んだのか?、まさか、もしそうなら少しヤバイ
  私自分で言うのも変ですが、時々思ったことを言い過ぎるところがあるから、そこは心配です。
 さて置石の細かな話ですが、これも以前に書いたことがあります。
  他の方のブログを読んで整理が出来たような知識もありまして・・・
  例えば点数制の4子というのはサンサンではやや変則でして34点差からで、34手なら黒3目半コミ貰いとなる。
 これは先から2子に変わるのが14点差からでその後は10点刻みと言う手合い割りなのでその辺が正比例ではないから分かりにくいかもしれません。
 でもマアハンデを置石とコミの両面で調整していると言うことです。
 それは概ねやり方は普通の碁会所と同じ
  碁会所の場合例えばコミが6目半だとすると置石1個の価値は12目となって12点刻みで置石が変わる。
 コミ6目半だから2倍して13目だと思うのはこれは錯覚
  半目がついているのは必ず勝負がつくためであって必ずしも0.5と言う意味ではないのです。
 さて置石4つで黒からコミ半目と言う場合を考えてみる
  これは盤面持碁で、持碁白勝と言うところ
 それで普通の点数製碁会所の場合はこれは42点差だと思います。
 サンサンの場合は手合い割り表で見ると37点差がこれに当たるから幾分差がある・・・もしかしたら下手ヤヤ有利なのか?
 ところで単に段級制で置石を置いた場合
  4つの置石の価値は4×12として48目に当たるが、白から打ち始めると言うことで白に半手の価値があるとして48-6で=42
 成るほど点数制の碁会所と同じです

 互い先、先、2子を比較してみると食い違いが見えてきます
① 互い先は両者同点で先番6目コミ出し(半目は省略)で両者の差は0
② 先の場合先ですがコミ免除ですからコミ分黒6目の有利
③ 2子は置き石2子の状態で打ち始めるから黒24目有利ですが、白先手ですから24-6=18
 すると1段差置石1つと言っても1段差の場合は互い先との比較で半石分しかハンデを貰っていないことになる。
 マア細かの話かも知れませんが・・・
  コミの6目というのも将来7目になるかも知れないし、私の子供の頃は4目・5目が並存していた。
 これもプロ棋士の経験で調整されていくのでしょうが、科学的かどうかよく分かりませんがおそらく経験と打ち方の両面から見てほぼ正しいのでしょう。
 尤も素人の場合はどの程度かは分かりません。
  コミによって打ち方を変えるという人がいたら相当な棋力でしょう。

 ところでこの日の昼休碁
終局が1時を僅かに回ってしまったので、大急ぎで地合いの計算でしたが
 終わったところでFさん「この碁はどうですか?」と来た
 こういうときはFさんは自信があるときなんです・・・今までの経験では全てそうなんです
  自分が有利でなくては聞いてこない・・・聞いてくるときは相当自信がある
 ただし私のほうも変に意地っ張りですから「細かいのではないでしょうか」ととぼけている
  実は少し悪いとは思っているのですが、昼休の終わりの時間が迫ってきているのに最後まで打って「悪いでしょう」はいえません。 
 それに正確な計算はしていない。
 計算の結果黒4目勝ち・・・そこで
 F氏「4目と言うのは細かいと言うのでしょうか?、細かいと言うのは1目とか2目のことでしょう?」
  酒の席ならカラミですよそれは
 こういうことを言わなければいい人なのに
  本来何目から細かいと言うなんて規定は無いに決まっているのに、質問してくるわけです。
 普段そんなに恨みを買うほどいじめているわけでは無いのに・・・
  まともに答えるとしたら
 「細かいかどうかの線引きみたいなものは無いでしょう。」としか言いようが無いのですが、そういったところで何だか言い訳っぽく思われるのが嫌なので結局は返事はしませんでした。
 さてFさんの真意を計りかねるのですが”4目も違っていたのだから、白たるものとっくに投了しなさい”なんだろうか?
  そういうことなら厳しいところを突いて来ていると言えるけど
 その日の打ち方は、白からあれやこれや仕掛けずに黒の打ちたいように一局打ってみたという感じなんだけれど、、、それは分かるかな?
 その辺りに拘りがあるようなら、白からは・・・置石を並べ終わったところで「参りました」と言うしかないかも・・・まあ喧嘩を売っている?
 ところで彼は4目は大差と言うような緻密な碁なんだろうか? 
 そうは思えないのだけれど(意地っ張りジイサンだ!!) 
  

日は暮れて道は遠い

2007-10-05 20:57:40 | Weblog
 昨日は暇な話・・・油断だったのか一転して今日は猛烈な忙しさです。
 余りに暇だと「偶には忙しいのもイイナ」と思うのだけれど、やっぱりそれは一時の気の迷いだと言うことがよく分かりました。
 居眠りする暇などあればこそ、昼休になって部屋の灯りが消されてもパソコンの前から動け無い状態。
 急ぎの入力事項と依頼されたデータ検索
 ムム、お昼のお弁当に大幅に遅れてしまった。
 向こうの席ではF氏はいつものペースで食べているのが見えるが、こちらは掻き込んで食べても追いつかないでしょう。
 それに当方はカロリー制限のために質量とも「粗食」に耐えているわけですから、ゆっくりかんで食べるしか対抗手段が無いのだし・・・
 ここはぐっと堪えるしかない
 F氏が誘いに来た時はまだ半分残っている状態だから涙を呑んでパス宣言・陳謝
 尤もKさんが居るはずだからFさんの組み合わせが変わるだけですが
    それにしても忙しい
 向かい側の席机は主の無い空席ですが、机に書類が積み上げられています。
 それはその席の隣の人が流れをせき止めているに他ならない
  やがてはそれらが堰を切って流れ出すはずで、鉄砲水なって押し寄せる
 それは結局データの入力を受け持っている私のところに来る・・・恐ろしい
  と言うことは今でもめったやたらと忙しいのだからどうなることやら
   マア、そうは言っても向かい側の人みたいに書類を山にしても平然としていられれば良い訳で、それをプレッシャーと感じなければいいのでしょう。
 手は二本しかないし、1人でやれる仕事は限りがあるし焦ってみてもしょうがない・・・私にも居直りジイサマの術があるのだ。
 パソコンの前から動かなければいいだけの話・・・この辺り化け猫もどきのジイサマは肝が据わっていると言うか、ふてぶてしいと言うか我ながらいい根性

 さてこの化け猫もどきジイサマも上手に掛かっては優しいおじさんになってしまう、いや「優しい」と言うより「易しい」だろうな
 多分分かりやすい反応をするのだろう、本人としてはそのように想像している
  きっとそうです
対局相手をABCの三つに分けてみると(ほぼ同じ点数のゾーンです)
A,どうも苦手で勝率が極端に悪い相手
  これは相手が強くてこちらが弱いのだと言われれば、その通り
  だが相手もいつも同じような点と言うことは私がやられるように、その人も同じ人にやられているに違いない
 そういうことで敵さんは平均を保っている
B、まあ概ね勝ったり負けたりの相手で、その日の調子で結果が決まるような
  でもこのような相手は意外と少ないのではないかと思う
C,Aの裏返しで、私には有りがたいお得意さん。
 さて見栄かも知れないがAで棋力差とは言い切れるかどうか?
  同様に反面のCでも棋力の差とは言えないと思うのです
 点数制度でやっているわけで、個別の勝率はともかくトータルがその時のレベルを示していなくてはならない。
 ではAの結果は何故起こるのか?
  棋力差で無いとしたら、一言で言うと「相性」と言えるのかも
 Bのようにヤジロベエではないがバランスのいい相手は少ないわけで、結局はAとCのバランスで点数を維持していることになるらしい。
  ということは、「相性」の中身を見据えてそれを克服することが点数アップの道ですね 
 そして点数のアップは点数制度ですから、棋力アップのスケールと言うことでしょうか。
 では「相性の克服」とは?・・・それが簡単に分かれば苦労は無いのですね
  方向と言うかアウトライン的なイメージはある
 私の打筋に何処かに弱点があってそれを的確に咎められている
  気がつかないうちにマンネリになっている癖があるかも知れない・・・それは言い悪いと言うより癖みたいな打ち方で
 逆に相手にもそういうところがあるはずなのに(私らクラスでは完璧な人はいないですから)、それが見えていないか、対処方を誤っている。
 そういうことはミスの領域とは少し違うかも知れない・・・そういうことで勝敗が分かれるのはBでしょう
  ミスと言えばミスと言えるけれど、無自覚で繰り返すと言う罪が重そうな感じ
 自分で5分の別れだと思っているのが違っていたり・・・
  必ず病気の元が潜んでいるのに発見できないもどかしさですね

 よく教育とかスポーツの分野で、「欠点に余り拘らず、長所を伸ばす!」なんて良いことを言います・・・確かに一理あるには違いない
 さて自分の碁でも当てはまるかどうか・・・どうもそう思えない
  第一長所が分かるくらいなら、欠点にも気がつきそうな気がする。
   性格的な短所は分かりやすい人間ですが
 さて帰り道
  残暑だの季節外れの夏日だのと言っていますが、日の短さは季節通りです。
 帰り道では既に日は傾き力が弱くなっている
  「日暮れて道遠し」にぴったりの帰り道(自転車で25分は遠くないかもしれませんが)
 アマでも高段者・県の代表を争うようなそういうレベルは夢のまた夢ですから「日暮れて・・・」は少しオーバーに聞こえるでしょう。
  「多少は自己満足を感じる程度に」という意味です
   人間満足したらお終い!?
  その通りだけれど、少しは満足してみたいものです。
 ・・・まもなく日が暮れそうです。 

猫じゃ猫じゃ・・・

2007-10-04 17:54:31 | Weblog
 どう考えたってこのジイサマが猫のわけが無い。
 しかも猫に例えるのならバアサマのほうが猫らしいかもしれません。
 身のこなしとか、時としてのふてぶてしさとか・・・まもなく化け猫の領域
時々丸まった体を思い切り伸ばすと心地よさを感じるようになりました。
  これも年のせいなのか知りませんが、足の先までの関節が伸び伸びするような気持ちよさで、他の人が見たらアノ猫のノビみたいに見えるだろうなと思っています。
  「退屈は猫をも殺す」という昔何かの本で読んだ諺から、逆読みすると「死にそうなくらい退屈をしている私は猫なのか?」・・・そんなことは無いのだけれど。
 (元々退屈には強いはずの・・・人さまが退屈と感じることも何とも思わないところがあるのですが・・・)
 その諺の本には「嫌よ嫌よも好いのうち」みたいな意味で「娘の嫌は良いの意味」みたいな英訳だったような気がします(尤も最近の若い人は直接的だから、そんなまだるっこいことは言わないかも知れませんね・・・昔の若い娘さん限定の話?・・・今でも結構そういう傾向はあるのかな?)。
 学者先生が目いっぱいくだけた内容の本を書いたというムードが売りだったような本ですが、マア角度を変えて物事を見るとどうなるかというテーマでもあったでしょう。
 猫と言うのは、犬との比較ですがかなり誇り高い生き物と言うか・・・犬の方は飼い主の人間に擦り寄って生きているような所がありますが、猫の場合は例えそのようにふるまったとしてもそれは実際は猫自身の都合によるみたいな所があります。
私も欲しいものがあっても、無関心を装って通り過ぎて見せるところがあるから、その辺は猫系かも・・・
 猫には「偶々人間と一緒に住んでやっている」みたいな気分が窺える
 だから子供の頃家で飼っていた猫は、鼠を取ってくれて随分役に立ったけれど
 鼠を捕まえた時は自慢層に咥えて見せびらかしに(あるいは褒めてもらいに)来るのだけれど、気が向けば何処かに行っているし、いつの間にか帰っている・・・全くマイペースだった・・・そこの所もなにやら似ていなくもないな。

 さてヒマな猫の話
 余りヒマのであのマイペースの猫でさえ死にたくなる・・・
  猫は”暇”とは無縁なのに、いや何かやらなくはいけないことがあるわけではない・・・暇にどっぷり漬かって生きているように見える。
 「猫はコタツで丸くなる」は冬限定では無い。
  真夏だって何処かの日陰で丸くなっているのですから、ただ場所がコタツでないだけ(コタツは夏は出ていないし)
 多分「余りヒマなので、いつもヒマだろうとなんだろうと平然としている猫だから、自分が生きているのか死んでいるものやら判然としなくなる」くらいの意味だろうか・・・これだと穏やかですし・・・やはり私のことを指しているみたいです。
  落語ではないけれど、多分私は自分が死んだことにも気がつかない間抜けだろうな:”その時”にならないと判りませんが。
やはり私は猫系の生き物だとしても
 獲物を狙って音も無くしのび寄る、あのしなやかな猫族とは性格も体型も似てない

 今の仕事は窓口に来る申請者とか相談に来る人の対応、電話での対応とその隙に申請の書類の内容をコンピューターにインプットしたり確認・許可事項のアウトプットと言った所ですが、忙しいかどうかお客さん次第でもある
 なるべく仕事を溜めないようにしている・・・だからその甲斐あって時として当面のやることがなくなってしまうこともある・・・この辺が不器用な性格でこれが困る。
  仕事を手際よく処理しているはずですが、人は平均しては見てくれないだろう・ヒマなところだけで評価されそう(忙しい時にかなり手際よく仕事を捌いているのは当然の事と)
 書類の整理、資料の準備、法令・事例の勉強・・・やることが全く無いというのも間違いではあるが、これは時として睡魔との戦いでもある。
 法令の本とかその解説書とか「公然と読む本」には困りませんが、しかし読み物として向いているとは言いがたい。
 今年の4月から、全く専門外の人間にとって今の仕事は新しいことばかりではあるからかなり興味はあるのだが
日本語で書かれているけれど、異次元の物語みたいな所もあるし・・・トホホ
 仕事は与えられるものではなく、自分で探せ・・・確かにそうだが、柄のデカイ爺さんが事務所をウロウロしてても目障りなだけでしょうし。

 事務所のエアコンの調子が悪くて、修理が出来ていない時は酷かった
  業者には毎日のように催促しているのですが、なかなか来ない所を見ると相当に忙しかったのでしょうね。
 「景気の悪そうな事務所は後回し」なんて事は無いでしょうが、一応は公的機関ですからね支払いは大丈夫でしょう・多分。
 そんなことで昼休みの囲碁とTVの部屋のエアコンは健在のため、ココは一時昼休み人口が増えました。
 いつもは4人しか居ないのに時には8人ですから倍増です。
  もっとも囲碁を打っているのは一組ですから囲碁人口に変わりがない。
 対局を覗きに来てくれれば、なんだか大学祭のキャンペーンみたいに張り切るのだけれど・・・覗きに来ないというのはマナーが良いのか、全く興味が無い?
 増加した人たちの嗜好だろう、その日はNHKの昼プレ・どんど晴れではなくて民放の昼番組が流れている。
 こういう変化は私としては好まないけれど、多数決みたいな・役職の上の人の嗜好でしょうか?
 事務室のエアコンの修理とともに昼休み人口が半減しました

 ところでこのことであることに気がつきました・・・たいしたことではない(当然)
 この事務所ではエアコンが故障しているので窓を開けている。
  それは当たり前の景色なんだけれど、この春まで勤務していた事務所では、これは恐ろしい行為だったのですよ。
 窓を不注意に開けると・・・
 天井に取り付けてある扇風機を不注意に作動させたりすると・・・恐ろしいことが起きるかも知れないのです。
 机の上の書類の山が・・・
  だから天井に取り付けた幾つもの扇風機は試運転以来作動させていなかった
 更に窓を開けるときは、その日風が無いことを確認して、尚且つ皆に窓を開けることを周知しなくてはいけない。
 ココではそういう事が無いから、不思議、いや当たり前か 

渓流釣りから

2007-10-03 16:50:38 | Weblog
 先日TVで渓流釣りの番組を見ました。
 秋田県と青森県の県境辺りの川らしいのですが、普通の町中を流れる川でアマゴなどがつれると言うから羨ましいですね。
 少し山に入ってルアーでイワナやヤマメをヒット。
  掛からない時でも近くまでイワナがルアーを追ってくる魚影が見えている。
 私も若い頃は川に行ったものです。
  住んでいるところでは鮒か鯉だけですので川釣りでも渓流の方は車で出かけます。
  その頃勤めていた会社の先輩が川釣りファンで、私もその方の弟子みたいにして貰ってついて歩いていた時代です。
 山梨の奥か静岡県の伊豆狩野川の修善寺辺りがいつもの場所
  狩野川の場合は週末の夜に出発して東名を走り、夜中の3時には釣り始め、日が昇ったらお終いで、その後は仮眠を取ったり町営浴場に入ったりして帰ります。
 関東から修善寺は通うには都合が良いからシーズンには月に2回は行ったものです。
  尤も大きな声では言えませんが、当時父がその修善寺の温泉病院に入院してリハビリ療養中だったから「お見舞い」と言う絶好の口実がありました。
 お見舞いに釣り道具持参と言うことです
  実際には夜が明けて同行の釣り仲間が車で仮眠を取っている間、私は病院で食べるものを貰って、父のベッドでぬくぬく寝ていたのですからトンデモナイ息子でしたね、当時も。
 寝ている間に川で濡れた服を乾かしてもらったり、時には父のリハビリ用のジャージで帰って来たり・・・
  ともかく川釣りは懐かしい

 その時の先輩の名前と同姓同名の人がネットで打っています。
  先輩は碁を打たなかったし、住んでいる所も違うから別人だとは思うけれど
 ともかくネット碁と川釣りと先輩と・・・いろんなことが混ざり合って思い出されました。
  さて川釣りですがTVはルアーでやっていましたが、私はもっぱら餌釣り、時たま毛鉤でした。
 餌釣りの場合、餌の重さだけでやっていましたが、これが川の流れに従って流れていく・・・いかに自然に流してポイントの近くを流すかが問題
 で、魚は岩陰とか川底から流れていく餌を見ているわけで、本能的に餌を追うのです。
 そして餌をとるポイントで川下に回りこみ急反転して上流に向き、流れて来る餌を取る・・・(だから竿は川下側に振って当たりを取る)
 この自然な流れと、魚の本能をくすぐるのが腕の見せ所
  何だか碁にも通じませんか?
 勿論素人レベルの話です。
  
 たいてい安易に餌に食いつくとひどい目に遭うことになっています
  嵌め手という毒饅頭みたいな手はその代表です
   いかにも美味しそうな手ほど危ないことが多い
  嵌め手でなくても、勝手に欲張って勝手に転ぶと言うのもある・・・これに少し転びやすいお手伝いをすれば良い訳で。
 そんなことで、餌らしきものが投げられた時
  それが本当のチャンスなのか、疑似餌なのかを見極めなければなりませんね
   1も2も無く食いつく人と餌を針ごと強奪する自信のある人には関係ない話ですが
  マア美味しそうなお菓子が出たらまず、お茶を一服でしょうか
  以前通っていた碁会所には、カウンターのポットにウーロン茶が入っていたから、つと席を立って湯飲みにウーロン茶を注いで一服と言うのが定石でした
 人によっては、「一寸失礼」と言って席を立つ
  行き先はトイレで用足しですが、これは老人性の「近い」症状ではなくて気を鎮め冷静になる為の「間」でもあるのでしょう。
 ですから「Yさんがトイレに立ったからこの碁は終わり」みたいな笑い話もありました。

 尤も私には笑えない思いでもあります。
 対局で、中盤に相手の手が打たれて、どう考えても失着のように思える。
  どうやら、悪手に違いないのだけれど、間違いの無いように気持ちを落ち着けて冷静に見直すために定石どおり「トイレ」に立ちました。
 しばしの後碁盤の前に戻ると・・・
  先程の手が消えていた。
   そして相手が堂々と着手!! 何ということだ!。
  ルール違反だとかのレベルの話ではないですね。
   私はその後その人とは1年は打たなかった・・・打つ気になれなかった
 ところで知り合いのSさんはそういうことを絶対に相手にさせないために
  (当然ルール的にはそういうことは許されないのは当然なのですが)
 相手が明らかに失着と思しき手を打った時・・・
  彼はまるでコウ立てみたいな手を打つのです。
 当然「待った」とかさせませんし、現実に「待ったと言っても2手遡った待った」は無いでしょう
  それで相手は失着の補修は出来るけれど、「代償としてコウ立てみたいなところは戴きますよ」となる
 これはSさん得意の相手の失着へのお灸法です
  尤もマナー・ルールが守られていればそういう手立ては不要なのに・・・
 「待った」「はがし」「肉付き」などは低段辺りでは偶に見受けられる(勿論”そんなことをするくらいなら投了する”人もいますが)。
 当然段が上のクラスではそういうことは有り得ない・・・すると低段の人から高段者を見て「高段者は厳しい」とか「強いけれど冷たい」となるみたい・・・当たり前のことをやっているだけなのに。 
  今日もTVの渓流釣りから話はアチコチ飛びました 

フェイクな噺

2007-10-02 18:28:03 | Weblog
 囲碁観戦の醍醐味・・・と言っても私は純粋の素人ですから実際のプロ同士の対局は見たことはありません。
 TV観戦と言うことです
  挑戦手合いなどでの中継で
 中盤の息詰まるような戦い、、、プロ同士ですから必ずしも切った貼ったではなくて読みの応酬ということですね。
 やや前かがみに一点を見つめるとか、腕組みして姿勢はぴんとしていて・瞑目する姿とか・・・
 必ずしも静寂とでは無くて、扇子をパチッとか、ボヤキが入ったり
  長考一番おもむろに石をつまんで打つかと思いきや、石を碁笥に戻してお茶を一杯・・・
 1日目の午後とか2日目の朝など1手打つのに時間がかかったりする
  中継で1時間見ていたのに着手が無かったり
   それでもそういう対局の観戦が好きです
 着手が進まなければそれはそれで「何を考えているのだろう?」と想像する楽しみがあります。
 勿論プロの立場で一緒になって考えることなど出来ません・・・が想像する楽しみがあります。

 さてプロの世界ですから、盤上でどの辺りが焦点になっているかは当然両者とも分かっているでしょう。 
 勿論考え方とか受け止め方対処の方法には個人差があるとして、何処のことを考えているかはお互いに分かっているはず(マア違うことも無いではないかも知れませんが)
 ですからプロは読み合いになるわけで・・・どちらがどれだけ深く読んでいるか?とか、全体の展望とか・・・
 ところがこの辺りは私らクラスの素人となるとヤヤどころかだいぶ違ってきます。
 大体が不注意とかミスで勝敗が傾くことが多いわけですから、相手が急所を見落とすなどと言う幸運が決め手となることが多い。
 ですから、こちらが今何処のことを考えているかなど出来たら知られたくないのが本心でしょうね
 だからダークサングラスで顔は固定したまま碁盤を見ていたい感じでしょうか
  特に自分がミスした直後にヒヤヒヤしながら相手の手を待つ時とか
  相手がこちらの利かしに普通に聞いてくれれば、一気に勝負手を繰り出そうとする時とか・・・
  敢えて問題の焦点を見ない様に打つと言う心理
 
 これがその程度の心理作戦ならまだ許容範囲でしょうか?
  凄い人になると、相手の興味がありそうな世間話を始めたり
  対局相手に何か話をさせるようにしむける・・・さてどの辺りからイエローカードだろうか?
  勝負のためならマナーなどと澄ましていられないか?
   但しこの作戦には乗りやすい人とそうでない人がいるから誰にでも有効と言うわけではないでしょう。

 フェイクと言えば、先程話したように盤上の焦点とは違うところをジッと見たりして、相手に気を使わせるのもそうですし、目線ではなくて話かけて注意をそらすのもありますが、ボヤキというのもフェイクのうちに入るのだろうか?
 プロの世界ではリズムの一種とか癖みたいなもので故意のものは無いでしょうが、アマの世界ではかなりグレーなものも有りそうですね

  ところでこれらはリアル対局での話
 ネットにはそういう作為的なものはあるだろうか?
  プロプロの早碁を見ている限りでは感じません
 ではアマ対局ではどうだろうか?
  フェイクとはいえないけれど若干は作為的なものを感じることはありますね
 問題の焦点に直接関係の無いあちこちを打ったり・・・豆まき碁ではなくなんとなく手裏剣攻撃みたいな・・・
 一番感じるのは時間の使い方でしょうね?
  第一手目とか数手目での長考!
   まさにプロレベルなのか?或いは単にトイレに行っただけなのか?これは見えないだけに何を考えているのかと言うより何をしているだろうということですね
  でもそういうことを考えさせるのが手なのか?