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3月2日追記。大変不思議なことにキャッシュは復活しているようだ。私はこれを書いていた途中「国士舘大学」と「私学助成」で検索した結果が何件出たかはっきり記憶はしていないが、それほど多くはなかったのに、たぶん短い時間(一時間ほどか?)の間に私のタイトルを大きく書いたタイトル記事へ直接行ける検索結果がなくなってしまったことなどに失望してこれを書いた。記憶になるが、トップにあったものが一時間後に消えたというのは不思議。少しずつ下がってゆくのが普通でしょうから。今朝見ると「私学助成」でもまた結構前の方にでている。こうした短期間の間の変化というのが検索エンジンが自動的に行っている事なのか私はITの知識が非常に乏しいのでよく分からない。かえって人がやってるような気がする。自分がこの記事を書き、カテゴリを作ったこととも関係あるかもしれない。
いずれにせよ、いろいろなことから推測している部分はある。ただ、あとからちゃんとありますよといわれても、私が見たときは突然消えたのだから、こういう記事を書いたことも仕方がないと思う。それと更新は休みがちになります。体調が優れませんので。PCをあけるのも正直怖いです。
私は昨年の12月に国士館大学の一部の学生たちによるきわめて残念な事件が起きたとき、(補注←この部分の記述は修正しました。それ以外も直してます。すみません。とにかく冷静でいるのが大変なのです。お許し下さい。)言い知れぬ悲しみを覚えた。なぜこのような事件がおきたのか、むろん自分の想像を絶するところもあるが、これは自分も男としていついかなる時に性犯罪の加害者になるかわからないことなども考慮して決して他人事ではないと判断し、事件に関してやや過激なところはあったし考えがまとまらないところもあったけれども、自分なりの考えを述べたつもりであった。
このことはたぶん信じてもらえないだろうが、私はあの記事を書こうとしたとき、真っ先に思い出したのは、国士館大学を卒業された私にとってのある恩人の方のお顔であった。
私がこれから書く記事を見ればあの方は怒るだろうかと自分に問い、さらにそれでもあえてあの記事を書いた。たしかに国士館の関係者に言い知れぬ屈辱を与えたであろうことは想像できる。
また自分のブログは匿名だし、文章全体にわたって責任を持てる類のものではない。
しかし、私は自分があの記事を書いたのは、執筆当時大学側から発表された処分というものが、自分には納得いかないものであることや、今後の類似の性犯罪の防止という観点から見て十分でないと思い、今後の国士舘大学のため、日本の性道徳の再確立のため、そしてあまりにも忌まわしい記憶をも証言台に立って告白せねばならぬ被害者の心情を推し測りながら書いたつもりだ。
私は加害者以外のすべての学園関係者も当然のことながら被害者だと思っている。なぜ加害者でもないものが夢を託した部が廃止されねばならないのか、なぜ加害者でないものがマスコミの前で頭を垂れねばならなかったのか、私はこういう事件が起きるたびにそうしたいわば儀式的なもので事件が片付けられてゆくことに非常な違和感を覚えていた。
しかし、事例によりかなりの違いはあるものの、大学が取る責任というものは国士舘大学の事件の場合、きわめて大きなはずである。
私にとって大学などの教育機関は犯罪者を生み出す機関であっては絶対にならないと感じている。つまり、自分がこういうことをしたら、大学に迷惑が非常に大きな迷惑がかかるといういわば、「帰属意識」というようなものが人間の中にもたしかにそんする「動物的本能」を制限する要因として働くはずだと信じるからだ。自分の大学名を思い出せば犯行をすんでのところでとどまるということがあると思ったのだ。
たぶん信じてもらえないだろうが、そのような帰属意識をより強固なものにするためには、こんなことをしたら大学は大変なことになるという状況を大学自身が自らにかすことがむしろ大学のため、またこの国全体の性犯罪抑止のためになると思った。(←一部訂正)
しかも大学の処分、決定というのは大学全体の総意・決定とみなすものとしては、それしかないのであるから、甘い処分が出れば、国士舘におられる方々も逆に怒るべきだと大変僭越ながら考えてもいた。
たしかに私が書いたブログは多くの方に言い知れぬ不安や七転八倒の苦しみを特に学長をはじめとする大学関係者に与えたことは容易に想像できる。しかし、私はそれ以上に被害者のお気持ちに思いをいたしてあのブログを書いたのだし、非常に傲慢な書き方になるが、「国士舘かくあれかし」という思いで書いた。
ここで他の事件に言及することははばかられるが、異性関係に起因する性犯罪や凶悪事件に関しては被害者の責任を問う声がこの国の言論のなかで、ある時期から驚くべきほど増えてきたと記憶する。これについては詳述は避けるが、そうした言動というものはたしかに可能性としてある側面はついているであろう。しかし加害者にも人権があるように被害者にも人権はあるはずだ。
私のようなものが何を言うのか、と思われる向きもあるであろうし、一笑に付される方や正気を疑う方もいるであろう。
しかし私は男として自分が常に加害者に転じる可能性があることを考慮するからこそ加害者以上に被害者の人権を守るべきだと痛感している。
そして、この国における被害者の責任を問う声というものが、性犯罪の隠蔽や「泣き寝入り」につながる可能性も全く否定はできない。性犯罪がこの国で起こるたびに私はそう思う。(←ここも少し修正しました)
そしてこれもあくまでも推測になるが、当初国士舘大学が打ち出した、サッカー部の「無期限活動停止」という処分はそうしたここ数年の日本の言論風土を強く意識している私にとってあらゆる懸念を心中に巻き起こすものとなった。
つまりマスコミや世論の沈静化をまって活動を開始させようということである。私はサッカー部に所属する加害者以外の方々や保護者の方々の慟哭の声が聞えてきたが、このような事件の後、一定期間を経て活動を再開する、しかも活動停止期間を明確に定めずに、またあらためて活動を再開することは、その方々お一人お一人にとっても決してよくないことであると思ったのである。
また無期限活動停止では、この国によくあるあくまでも加害者の人権を保護する言論を大学が期待したことも否定できなくなると思った。これはあくまで私の解釈であるが、大学がこの事件に関する情報を自ら三ヶ月を経ずして自ら消してしまい、最近見るようなあい変わらず性犯罪があちこちでおこっていることも事実なのである。両者の因果関係は立証できないとはいえ否定もできないであろう。
だからこそ私は自分をはじめとする多くの国民の声にしたがって、国士舘大学が事件を真摯に受け止め自らを律することで、こうした性犯罪が少しでも減少することを心のそこで事件発生当時心の中で真剣に祈ったのである。今もそうだけれどもたしかに一時的な感情や思い付きだったかもしれない。
しかし、それはあとから修正できるのがブログというものだし、ご覧になる方もそのようなことをわきまえた上で見るべきものだと思う。もちろん修正はよほどのものでない限り自分の判断でなれるべきであり匿名の第三者から暗に修正を求めるというのはよほどのことでない限り不当な言論弾圧であろう。キャッシュの解除についても同じで、もちろん自分はよほどの場合とまでは思っていない。
コメント欄をご覧になれば分かるように私が書いたブログに関し、再三再四「再考」をうながすコメントをくださった「路傍の石」とおっしゃる方がある。
私はそういうコメントがくることをも予期して書いたので、非常な恐怖感に襲われながらもできるだけ誠実にその方と対話したいと考えそうしたつもりである。これは見る方に判断していただくことだが、その方は私の誠意を受け止めてくださったのか自分には疑問である。
まずこの方は公正中立な立場を標榜されながらも、私が国士舘の関係者のお気持ちを考えたことがあるかと訊いたのだが、逆にこちらからお尋ねさせていただければ、この方は被害者女性や親族の方のお気持ちを考えただろうか?
私は本当に事件の重大さや被害少女の心痛を考えればネットで事件に関する発言を探し、その方に言わせれば、最も「衝撃的」な発言に対し修正を短時間のうちに迫るというのは、自分のブログを見る全ての方に言い知れぬ恐怖を与えるものであると思う。加害者も見ているかもしれないが、被害者やその家族の方もご覧になっているかもしれない。
(補注)私は被害者が想像を超える屈辱に耐えて証言し加害者に対する有罪判決が出たことを思うと、このあまりにも過酷かつあまりにも重大な事実に対し瀑布のような?滝のごとき涙とともに号泣せざるをえない。したがって私はこの判決が不満であるとかそういう判断はできないが、とにもかくにも公判が?維持されたということに対して、特に被害者ならびにそのご家族に対し言葉では言い表せぬ敬意を払うものの一人である。
もちろん数少ないが大切な自分の知己も恐怖をもっているようだ。
私はその方の「再考下さい」という言葉を自分なりに何度もかみしめた。その方が公平なライターさんであることを信じていた。この方は週末はお忙しくなり、必要なコメントが遅れることもあるかもしれないとまでおっしゃるその言葉を信じていた。
自分でも自分のブログの誤解を招くところを率直にわびながら、あらためてあのブログを書いた理由を説明したいと思っていたのだが、私はその方のお忙しいことをご推察し、その方の一連のコメントが収束するまで控えようと思った。
そしてその間私は自分のブログを他のものも含めできるだけ冷静に見つめようと思ったのだ。私は短時間のうちに私の心を圧倒する量と頻度で「再考」をうながその方のコメントは内容や文体から見ても、読むものを威圧するだろうと考え、これを見た人は国士舘大学に対する印象がかえって悪くなるのではないかとおそれた。
また、その方が特定できない以上、私自身が自分で国士舘大学をわざとおとしめるためにやっている行為と受け取られる恐れすら抱いた。しかし、その方はコメントの削除は「義に反する」というこれまた自分とすれば「恐怖心」を引き起こす言葉で禁じた。
正直なところそうなると自分としても他の第三者がいつどんな書き込みをするか知れぬことも考え、自分のブログの管理人の責任をまっとうできるかといったことまで、真剣に考えた。このようなことまで自分のブログに思いをいたすのは私個人の力量をはるかに超えることだし、心理的安定をもおびやかすものであった。
非常にきれいごとばかりで申し訳ないが、私は自分のあのページの削除をも真剣に考えた。なぜか。私にとって国士舘は武道やスポーツの分野においては超名門である。(超を追加しました)その超名門の大学に対し、世界中にたった私一人の意見であるとはいえ、「私学助成」の打ち切りを要請する者があることは、私学助成を扱う役所(東京都か財務省か文科省か恥ずかしくて申し訳ないがそれすら分からない)の人の心にも重石になると思ったからだ。
むろん一人のブログに過剰に反応する必要はないであろう。それぞれ判断する人がその人の主体性でもっておのおの判断されればよいことであるから。その判断に対してまた私も反応することはあるだろうが、それはそれでそのときに考えるべきことであろうかと思う。
私は国士舘の私学助成は打ち切るべきだと今でも思っている。そして今その思いは以前より強くなり、自分のあのページをむしろ後世にまで残したいとまで思うようになった。
かつてかなり前にもここに繰り返すまでもないこの大学の一部の学生により起こされた数々の事件や不祥事を思い起こし、それが国会でも私学助成との関連で取り上げられたことを思えばむしろなぜ私学助成を打ち切る主張に対しこれだけの匿名の第三者から「圧力」が私に及んでくるのか、全く不思議で不思議で夜も眠れない。
しかも私学助成は私の受け止め方ではもともと「憲法違反」なのであるし、たしかサッカー部は廃部になったのであるからあの記事のタイトルは自分としてはきわめて合法的な常識的議論だったとしか思えないのである。人目をひくとはいえるかもしれないが。
これは言葉の暴力といわれるかもしれないが、私には昨年の事件も含め国士舘の一部の学生によってなされた実際の物理的暴力こそ真の暴力であると思っている。また私の意見に対して過剰なまでの反応を寄せられたことも「言葉に対する言葉の暴力」であると思うに至っている。
私は自分のブログに何度もコメントを寄せてくださった方とできるだけ同じ土俵でこの問題を真剣に論じたいと思ったのだが、私の真剣な思いはついに無駄だったのかときわめて残念でならない。
私は自分の発言が「衝撃的」だとは思っていない。この方は、「ニュアンスの差はあれ特定の団体に対する過剰な非難」だということを言っておられる。私はコメントを残してはいるが、今そこへ戻って確認する勇気はない。こんなことなら最初から削除するのだったと悔やまれてならない。
私はそのニュアンスを大事にして書いたつもりだったのに、ことごとく無視された。思ってもいないこと、かりに思ったとしても書いてはいけないと自分では思われることをいくつも、いくつも並べられた。
私は自分が常に性犯罪者になる可能性があると感じているが、それは自分が男であるからであって、女性が性犯罪者になる可能性は極めて低いと思う。誤解を招く言い方かもしれないが、その意味では男であれば、東大生であろうが、国士舘大学生であろうがそのような可能性はあると思う。ちなみに私は間接的に国士舘出身の女性の方を存じ上げている。
コメントを頂いたかたは要するに私が私学助成に触れたことが衝撃的だとおっしゃりたいのだろうが、私に言わせれば、そのようなことよりも大事なのは、被害者の心の傷の救済であり、今後の犯罪の抑止であった。そして何より国士舘大学の今度こそとも言うべき「自己改革の意思と実行」であった。
私はその方がお示しになった大学の対策というものは(関係者ではない方の記憶であるということだが)事件の性質をほとんど理解していないことであると思っている。
たとえば部室の点検などということは、「高校生がタバコを吸った」ようなときにとられる対策であり、公開シンポジウムで本当に抜本的な対策を口にできる勇気をもつものが果たしてこの世に存在するのだろうかと思う。
証拠を残していないので、推測ととられるだろうが、昨日の夕方の時点でYahooで「私学助成」で検索すると私のタイトルが大きく書かれた私のブログへじかにつながる検索結果が41件目、つまり3ページ目のトップにあった。しかし、これは今日未明には消されていた。
これはあくまで推測だが、あのコメントの長さと頻度、さらにはこの経緯、週末はお忙しいといいながらも、週末も何度もコメントをそれもこちらのコメントのご遠慮願いを無視する形で書かれたこと、さらに「路傍の石」さんの来られた日の自分のブログのアクセス数のありえない数字そういったものを考えると私が、独立した一人とみなしていた「路傍の石」さんの背後に極めて大がかりななんらかの組織なり集団が存在したことを私は想像せざるをえない。想定というべきであるかとさえ思う。しかし断定はできない。
この想像あるいは想定を破ってくださるには、もはや「路傍の石」さんが実名や所属、関係先を名乗っていただくことしかないだろう。もちろん自分は名乗らないが、いずれにせよ、もはや「路傍の石」さんにそうしていただくことでしか救済できないほど私の「路傍の石」さんに対する不信感は募っている。
私は「路傍の石」さんが自分を名乗るその今度こそ最後の一行のみのコメントを期待する。
しかし、それを含め自分はコメント欄にもこのブログにも責任をもてない。私はこのブログのプロバイダには感謝している。コメント也TBをくださった方にも感謝しているが、こういう事情につき一部消去した。また断腸の思いで、ネットから姿を消すかもしれない。
私は自分のブログをそれぞれ保存してくださったであろう、Yahooをはじめとする方々に感謝している。そして依頼(圧力)があってはずしたとしたならば、まことにご迷惑をおかけしたと思う。しかし、自分は自分の言葉の正当性を保障するものと考えていたキャッシュがはずされたとみなされることに、またしても悲鳴を禁じえない。
キャッシュが復活されることは無理であろう。
私は今回の問題を何箇所かに相談しようと思うが、以前にもまして私学助成の国士舘大学への交付に反対したい。これを見ておられる方でどなたでもかまわないのでこのことが実行されることに、尽力される方がおられたら、私はその方にひそかに心のそこから最大級の賛辞を送りたい。
私は私学助成は他の補助金とともに憲法違反だと思っているが、とりあえずこうした問題のある大学だけでもよいから、私学助成打ち切りを断行しないと、いくら憲法を改正しても、その前にそれを守る振りをするだけでもしなければ全く改憲も意味はないと思う。
私はあえて、国士舘大学の昔の不祥事に言及しなかった。そして昭和58年当時であったと思うが、国士舘大学の学生に無差別にマイクを向ける逸見政孝氏を心のそこで批判していた。私はその批判が極めて間違ったものであったことを自覚し、故人となられた逸見氏に心よりお詫び申し上げる。
私は逸見氏のような勇気はまるでない。宮武外骨のようなジャーナリスト魂もなければ森鴎外のような文筆家でもない。
一人のきわめてちっぽけな存在である。誰でもそうだと思う。被害者の心情を傷つけるような勢力にも全く抵抗することはできないし、私のブログやネット上での発言を消そうとする目に見えない方々の圧力に対抗するすべを残念ながら私は知らない。
私の被害者の心中を思う気持ちや、(もちろん被害者の方のお気持ちは到底想像するのも難しいが)あのブログを書くときに思い浮かべた恩人の方や国士舘に対する思いに自分は忠実であることはどうやら難しいようだ。
それもある意味大げさだが歴史の運命であろう。歴史の前に個人は圧倒的に無力である。個人を装った勢力を乗り越えることは土台無理なのだ。
いろいろなものが消されていって、「何を根拠におっしゃってるのでしょうか?」という言説ばかりがまかりとおるようになるかもしれない。
私は2チャンネルでも高度に専門的な書き込みや、心温まるスレッドがあったことを知っている。また便所の落書きにも人の琴線に触れるものがありうることも知っている。どこだからどう、というのではないはずだ。しかし、その期待は見事に裏切られた。インターネットの発言はできるだけ目立たないようにしようという努力が「実った」のだ。正直私はそういう力がこわくてたまらない。それ以上に被害者の心中を推察する気持ちがほとんど肉体的といってもよい恐怖の前に打ち負かされて行くのを感じざるをえない。
自分はこれほどまでにきわめて弱くみにくい人間であったことを今日の始まりほど感じたことはない。
そしてこの国の言論統制というものがインターネットの世界においてかくも過酷なものだとは私はつい先日まで全く予想だにしなかったことにも愕然としている。もちろん国士舘の関係者に対する思いは十分でなかったことも認める。特に「こんな大学」という言い方は、誤解を招くものであった。自分は恥を知るべきといったのは、決してそこにいる人自身が恥だというのではなく、犯罪や処分の甘さを恥と感じるべきというつもりで言った。
自分もそのようなことをあるところで言われただけにその一生消えない記憶と屈辱感は私とて分かるつもりだ。
「私学助成の打ち切り」を求める声はかき消された。石原都知事の声もかき消されるであろう。そして、性犯罪者およびその所属先を「過剰に」批判する声はものの見事に批判され抹殺されてゆくのかもしれない。
キャッシュを消すというのはその発言の正当性を失わせかねない重要なことだと自分は感じている。
私はこういう状況で自分を批判してくる方にはある意味尊敬もしていたのだが、今はその気持ちが裏切られてしまったことに言いようのない屈辱を味わっている。
どなたか勇気のある方の実社会での登場をむなしく待つばかりだ。「国士舘大学」と「私学助成」でてきた自分のページへの検索結果ももうないかもしれない。
自分はもうこのブログにも自分の行動にも責任がとれない。被害者の人権を守るためを思ってしたことが消されてゆくようで悲しくてたまらない。その気持ちや「国士舘を思う気持」に偽りがなかったことを証明できなかったことがまことに残念だ。
大変申し訳ありませんが、今後はコメント等は中味を見ずして即削除する場合もございます。 自分のブログを見てくださる方々、Gooはじめ大切にしてくださってるかたに心よりおわび申し上げます。こんなことを書く状況に追い込まれてしまい本当に申し訳ございません。本当に世間知らずな子供だったと思います。
繰り返しですが、私は「路傍の石」さんが自分を名乗るその今度こそ最後の一行のみのコメントを期待します。それとどうもあやまって路傍の石さんの最後のいくつものコメントを消してしまいました。わざとではないです。自分にとっても大事なデータでしたから。いろいろ直してますすみません。キャッシュはみなはずれたみたいですね。こんな時間にお仕事に当たられた方にも大変ご迷惑をおかけしました。
それと、よく「罪を憎んで人を憎まず」というが、これは「罪を憎くむこと」まで否定してはいないはずだ。大学関係者に対する新たな差別はたしかに存在するが、これは私が作っているのではなく、不祥事が起こるたびに加害者によって直接的にもたらされていることと、対応のまずさによって作り出されているのではないだろうか。不当な言論弾圧を誰がやっているのか知らないが、これも私にとって「罪」と感じられることをここに告白する。また大学関係者がこれをご覧になっていたら、私の真意をおくみいただき、
さらなる猛省を誠実に示されることをわずかな望みとともに期待しております。
あと関係ないですが、PCも頭ももうろうで文も漢字も間違いだらけですいません。
3月2日追記。大変不思議なことにキャッシュは復活しているようだ。私はこれを書いていた途中「国士舘大学」と「私学助成」で検索した結果が何件出たかはっきり記憶はしていないが、それほど多くはなかったのに、たぶん短い時間(一時間ほどか?)の間に私のタイトルを大きく書いたタイトル記事へ直接行ける検索結果がなくなってしまったことなどに失望してこれを書いた。記憶になるが、トップにあったものが一時間後に消えたというのは不思議。少しずつ下がってゆくのが普通でしょうから。今朝見ると「私学助成」でもまた結構前の方にでている。こうした短期間の間の変化というのが検索エンジンが自動的に行っている事なのか私はITの知識が非常に乏しいのでよく分からない。かえって人がやってるような気がする。自分がこの記事を書き、カテゴリを作ったこととも関係あるかもしれない。
いずれにせよ、いろいろなことから推測している部分はある。ただ、あとからちゃんとありますよといわれても、私が見たときは突然消えたのだから、こういう記事を書いたことも仕方がないと思う。それと更新は休みがちになります。体調が優れませんので。PCをあけるのも正直怖いです。
私は昨年の12月に国士館大学の一部の学生たちによるきわめて残念な事件が起きたとき、(補注←この部分の記述は修正しました。それ以外も直してます。すみません。とにかく冷静でいるのが大変なのです。お許し下さい。)言い知れぬ悲しみを覚えた。なぜこのような事件がおきたのか、むろん自分の想像を絶するところもあるが、これは自分も男としていついかなる時に性犯罪の加害者になるかわからないことなども考慮して決して他人事ではないと判断し、事件に関してやや過激なところはあったし考えがまとまらないところもあったけれども、自分なりの考えを述べたつもりであった。
このことはたぶん信じてもらえないだろうが、私はあの記事を書こうとしたとき、真っ先に思い出したのは、国士館大学を卒業された私にとってのある恩人の方のお顔であった。
私がこれから書く記事を見ればあの方は怒るだろうかと自分に問い、さらにそれでもあえてあの記事を書いた。たしかに国士館の関係者に言い知れぬ屈辱を与えたであろうことは想像できる。
また自分のブログは匿名だし、文章全体にわたって責任を持てる類のものではない。
しかし、私は自分があの記事を書いたのは、執筆当時大学側から発表された処分というものが、自分には納得いかないものであることや、今後の類似の性犯罪の防止という観点から見て十分でないと思い、今後の国士舘大学のため、日本の性道徳の再確立のため、そしてあまりにも忌まわしい記憶をも証言台に立って告白せねばならぬ被害者の心情を推し測りながら書いたつもりだ。
私は加害者以外のすべての学園関係者も当然のことながら被害者だと思っている。なぜ加害者でもないものが夢を託した部が廃止されねばならないのか、なぜ加害者でないものがマスコミの前で頭を垂れねばならなかったのか、私はこういう事件が起きるたびにそうしたいわば儀式的なもので事件が片付けられてゆくことに非常な違和感を覚えていた。
しかし、事例によりかなりの違いはあるものの、大学が取る責任というものは国士舘大学の事件の場合、きわめて大きなはずである。
私にとって大学などの教育機関は犯罪者を生み出す機関であっては絶対にならないと感じている。つまり、自分がこういうことをしたら、大学に迷惑が非常に大きな迷惑がかかるといういわば、「帰属意識」というようなものが人間の中にもたしかにそんする「動物的本能」を制限する要因として働くはずだと信じるからだ。自分の大学名を思い出せば犯行をすんでのところでとどまるということがあると思ったのだ。
たぶん信じてもらえないだろうが、そのような帰属意識をより強固なものにするためには、こんなことをしたら大学は大変なことになるという状況を大学自身が自らにかすことがむしろ大学のため、またこの国全体の性犯罪抑止のためになると思った。(←一部訂正)
しかも大学の処分、決定というのは大学全体の総意・決定とみなすものとしては、それしかないのであるから、甘い処分が出れば、国士舘におられる方々も逆に怒るべきだと大変僭越ながら考えてもいた。
たしかに私が書いたブログは多くの方に言い知れぬ不安や七転八倒の苦しみを特に学長をはじめとする大学関係者に与えたことは容易に想像できる。しかし、私はそれ以上に被害者のお気持ちに思いをいたしてあのブログを書いたのだし、非常に傲慢な書き方になるが、「国士舘かくあれかし」という思いで書いた。
ここで他の事件に言及することははばかられるが、異性関係に起因する性犯罪や凶悪事件に関しては被害者の責任を問う声がこの国の言論のなかで、ある時期から驚くべきほど増えてきたと記憶する。これについては詳述は避けるが、そうした言動というものはたしかに可能性としてある側面はついているであろう。しかし加害者にも人権があるように被害者にも人権はあるはずだ。
私のようなものが何を言うのか、と思われる向きもあるであろうし、一笑に付される方や正気を疑う方もいるであろう。
しかし私は男として自分が常に加害者に転じる可能性があることを考慮するからこそ加害者以上に被害者の人権を守るべきだと痛感している。
そして、この国における被害者の責任を問う声というものが、性犯罪の隠蔽や「泣き寝入り」につながる可能性も全く否定はできない。性犯罪がこの国で起こるたびに私はそう思う。(←ここも少し修正しました)
そしてこれもあくまでも推測になるが、当初国士舘大学が打ち出した、サッカー部の「無期限活動停止」という処分はそうしたここ数年の日本の言論風土を強く意識している私にとってあらゆる懸念を心中に巻き起こすものとなった。
つまりマスコミや世論の沈静化をまって活動を開始させようということである。私はサッカー部に所属する加害者以外の方々や保護者の方々の慟哭の声が聞えてきたが、このような事件の後、一定期間を経て活動を再開する、しかも活動停止期間を明確に定めずに、またあらためて活動を再開することは、その方々お一人お一人にとっても決してよくないことであると思ったのである。
また無期限活動停止では、この国によくあるあくまでも加害者の人権を保護する言論を大学が期待したことも否定できなくなると思った。これはあくまで私の解釈であるが、大学がこの事件に関する情報を自ら三ヶ月を経ずして自ら消してしまい、最近見るようなあい変わらず性犯罪があちこちでおこっていることも事実なのである。両者の因果関係は立証できないとはいえ否定もできないであろう。
だからこそ私は自分をはじめとする多くの国民の声にしたがって、国士舘大学が事件を真摯に受け止め自らを律することで、こうした性犯罪が少しでも減少することを心のそこで事件発生当時心の中で真剣に祈ったのである。今もそうだけれどもたしかに一時的な感情や思い付きだったかもしれない。
しかし、それはあとから修正できるのがブログというものだし、ご覧になる方もそのようなことをわきまえた上で見るべきものだと思う。もちろん修正はよほどのものでない限り自分の判断でなれるべきであり匿名の第三者から暗に修正を求めるというのはよほどのことでない限り不当な言論弾圧であろう。キャッシュの解除についても同じで、もちろん自分はよほどの場合とまでは思っていない。
コメント欄をご覧になれば分かるように私が書いたブログに関し、再三再四「再考」をうながすコメントをくださった「路傍の石」とおっしゃる方がある。
私はそういうコメントがくることをも予期して書いたので、非常な恐怖感に襲われながらもできるだけ誠実にその方と対話したいと考えそうしたつもりである。これは見る方に判断していただくことだが、その方は私の誠意を受け止めてくださったのか自分には疑問である。
まずこの方は公正中立な立場を標榜されながらも、私が国士舘の関係者のお気持ちを考えたことがあるかと訊いたのだが、逆にこちらからお尋ねさせていただければ、この方は被害者女性や親族の方のお気持ちを考えただろうか?
私は本当に事件の重大さや被害少女の心痛を考えればネットで事件に関する発言を探し、その方に言わせれば、最も「衝撃的」な発言に対し修正を短時間のうちに迫るというのは、自分のブログを見る全ての方に言い知れぬ恐怖を与えるものであると思う。加害者も見ているかもしれないが、被害者やその家族の方もご覧になっているかもしれない。
(補注)私は被害者が想像を超える屈辱に耐えて証言し加害者に対する有罪判決が出たことを思うと、このあまりにも過酷かつあまりにも重大な事実に対し瀑布のような?滝のごとき涙とともに号泣せざるをえない。したがって私はこの判決が不満であるとかそういう判断はできないが、とにもかくにも公判が?維持されたということに対して、特に被害者ならびにそのご家族に対し言葉では言い表せぬ敬意を払うものの一人である。
もちろん数少ないが大切な自分の知己も恐怖をもっているようだ。
私はその方の「再考下さい」という言葉を自分なりに何度もかみしめた。その方が公平なライターさんであることを信じていた。この方は週末はお忙しくなり、必要なコメントが遅れることもあるかもしれないとまでおっしゃるその言葉を信じていた。
自分でも自分のブログの誤解を招くところを率直にわびながら、あらためてあのブログを書いた理由を説明したいと思っていたのだが、私はその方のお忙しいことをご推察し、その方の一連のコメントが収束するまで控えようと思った。
そしてその間私は自分のブログを他のものも含めできるだけ冷静に見つめようと思ったのだ。私は短時間のうちに私の心を圧倒する量と頻度で「再考」をうながその方のコメントは内容や文体から見ても、読むものを威圧するだろうと考え、これを見た人は国士舘大学に対する印象がかえって悪くなるのではないかとおそれた。
また、その方が特定できない以上、私自身が自分で国士舘大学をわざとおとしめるためにやっている行為と受け取られる恐れすら抱いた。しかし、その方はコメントの削除は「義に反する」というこれまた自分とすれば「恐怖心」を引き起こす言葉で禁じた。
正直なところそうなると自分としても他の第三者がいつどんな書き込みをするか知れぬことも考え、自分のブログの管理人の責任をまっとうできるかといったことまで、真剣に考えた。このようなことまで自分のブログに思いをいたすのは私個人の力量をはるかに超えることだし、心理的安定をもおびやかすものであった。
非常にきれいごとばかりで申し訳ないが、私は自分のあのページの削除をも真剣に考えた。なぜか。私にとって国士舘は武道やスポーツの分野においては超名門である。(超を追加しました)その超名門の大学に対し、世界中にたった私一人の意見であるとはいえ、「私学助成」の打ち切りを要請する者があることは、私学助成を扱う役所(東京都か財務省か文科省か恥ずかしくて申し訳ないがそれすら分からない)の人の心にも重石になると思ったからだ。
むろん一人のブログに過剰に反応する必要はないであろう。それぞれ判断する人がその人の主体性でもっておのおの判断されればよいことであるから。その判断に対してまた私も反応することはあるだろうが、それはそれでそのときに考えるべきことであろうかと思う。
私は国士舘の私学助成は打ち切るべきだと今でも思っている。そして今その思いは以前より強くなり、自分のあのページをむしろ後世にまで残したいとまで思うようになった。
かつてかなり前にもここに繰り返すまでもないこの大学の一部の学生により起こされた数々の事件や不祥事を思い起こし、それが国会でも私学助成との関連で取り上げられたことを思えばむしろなぜ私学助成を打ち切る主張に対しこれだけの匿名の第三者から「圧力」が私に及んでくるのか、全く不思議で不思議で夜も眠れない。
しかも私学助成は私の受け止め方ではもともと「憲法違反」なのであるし、たしかサッカー部は廃部になったのであるからあの記事のタイトルは自分としてはきわめて合法的な常識的議論だったとしか思えないのである。人目をひくとはいえるかもしれないが。
これは言葉の暴力といわれるかもしれないが、私には昨年の事件も含め国士舘の一部の学生によってなされた実際の物理的暴力こそ真の暴力であると思っている。また私の意見に対して過剰なまでの反応を寄せられたことも「言葉に対する言葉の暴力」であると思うに至っている。
私は自分のブログに何度もコメントを寄せてくださった方とできるだけ同じ土俵でこの問題を真剣に論じたいと思ったのだが、私の真剣な思いはついに無駄だったのかときわめて残念でならない。
私は自分の発言が「衝撃的」だとは思っていない。この方は、「ニュアンスの差はあれ特定の団体に対する過剰な非難」だということを言っておられる。私はコメントを残してはいるが、今そこへ戻って確認する勇気はない。こんなことなら最初から削除するのだったと悔やまれてならない。
私はそのニュアンスを大事にして書いたつもりだったのに、ことごとく無視された。思ってもいないこと、かりに思ったとしても書いてはいけないと自分では思われることをいくつも、いくつも並べられた。
私は自分が常に性犯罪者になる可能性があると感じているが、それは自分が男であるからであって、女性が性犯罪者になる可能性は極めて低いと思う。誤解を招く言い方かもしれないが、その意味では男であれば、東大生であろうが、国士舘大学生であろうがそのような可能性はあると思う。ちなみに私は間接的に国士舘出身の女性の方を存じ上げている。
コメントを頂いたかたは要するに私が私学助成に触れたことが衝撃的だとおっしゃりたいのだろうが、私に言わせれば、そのようなことよりも大事なのは、被害者の心の傷の救済であり、今後の犯罪の抑止であった。そして何より国士舘大学の今度こそとも言うべき「自己改革の意思と実行」であった。
私はその方がお示しになった大学の対策というものは(関係者ではない方の記憶であるということだが)事件の性質をほとんど理解していないことであると思っている。
たとえば部室の点検などということは、「高校生がタバコを吸った」ようなときにとられる対策であり、公開シンポジウムで本当に抜本的な対策を口にできる勇気をもつものが果たしてこの世に存在するのだろうかと思う。
証拠を残していないので、推測ととられるだろうが、昨日の夕方の時点でYahooで「私学助成」で検索すると私のタイトルが大きく書かれた私のブログへじかにつながる検索結果が41件目、つまり3ページ目のトップにあった。しかし、これは今日未明には消されていた。
これはあくまで推測だが、あのコメントの長さと頻度、さらにはこの経緯、週末はお忙しいといいながらも、週末も何度もコメントをそれもこちらのコメントのご遠慮願いを無視する形で書かれたこと、さらに「路傍の石」さんの来られた日の自分のブログのアクセス数のありえない数字そういったものを考えると私が、独立した一人とみなしていた「路傍の石」さんの背後に極めて大がかりななんらかの組織なり集団が存在したことを私は想像せざるをえない。想定というべきであるかとさえ思う。しかし断定はできない。
この想像あるいは想定を破ってくださるには、もはや「路傍の石」さんが実名や所属、関係先を名乗っていただくことしかないだろう。もちろん自分は名乗らないが、いずれにせよ、もはや「路傍の石」さんにそうしていただくことでしか救済できないほど私の「路傍の石」さんに対する不信感は募っている。
私は「路傍の石」さんが自分を名乗るその今度こそ最後の一行のみのコメントを期待する。
しかし、それを含め自分はコメント欄にもこのブログにも責任をもてない。私はこのブログのプロバイダには感謝している。コメント也TBをくださった方にも感謝しているが、こういう事情につき一部消去した。また断腸の思いで、ネットから姿を消すかもしれない。
私は自分のブログをそれぞれ保存してくださったであろう、Yahooをはじめとする方々に感謝している。そして依頼(圧力)があってはずしたとしたならば、まことにご迷惑をおかけしたと思う。しかし、自分は自分の言葉の正当性を保障するものと考えていたキャッシュがはずされたとみなされることに、またしても悲鳴を禁じえない。
キャッシュが復活されることは無理であろう。
私は今回の問題を何箇所かに相談しようと思うが、以前にもまして私学助成の国士舘大学への交付に反対したい。これを見ておられる方でどなたでもかまわないのでこのことが実行されることに、尽力される方がおられたら、私はその方にひそかに心のそこから最大級の賛辞を送りたい。
私は私学助成は他の補助金とともに憲法違反だと思っているが、とりあえずこうした問題のある大学だけでもよいから、私学助成打ち切りを断行しないと、いくら憲法を改正しても、その前にそれを守る振りをするだけでもしなければ全く改憲も意味はないと思う。
私はあえて、国士舘大学の昔の不祥事に言及しなかった。そして昭和58年当時であったと思うが、国士舘大学の学生に無差別にマイクを向ける逸見政孝氏を心のそこで批判していた。私はその批判が極めて間違ったものであったことを自覚し、故人となられた逸見氏に心よりお詫び申し上げる。
私は逸見氏のような勇気はまるでない。宮武外骨のようなジャーナリスト魂もなければ森鴎外のような文筆家でもない。
一人のきわめてちっぽけな存在である。誰でもそうだと思う。被害者の心情を傷つけるような勢力にも全く抵抗することはできないし、私のブログやネット上での発言を消そうとする目に見えない方々の圧力に対抗するすべを残念ながら私は知らない。
私の被害者の心中を思う気持ちや、(もちろん被害者の方のお気持ちは到底想像するのも難しいが)あのブログを書くときに思い浮かべた恩人の方や国士舘に対する思いに自分は忠実であることはどうやら難しいようだ。
それもある意味大げさだが歴史の運命であろう。歴史の前に個人は圧倒的に無力である。個人を装った勢力を乗り越えることは土台無理なのだ。
いろいろなものが消されていって、「何を根拠におっしゃってるのでしょうか?」という言説ばかりがまかりとおるようになるかもしれない。
私は2チャンネルでも高度に専門的な書き込みや、心温まるスレッドがあったことを知っている。また便所の落書きにも人の琴線に触れるものがありうることも知っている。どこだからどう、というのではないはずだ。しかし、その期待は見事に裏切られた。インターネットの発言はできるだけ目立たないようにしようという努力が「実った」のだ。正直私はそういう力がこわくてたまらない。それ以上に被害者の心中を推察する気持ちがほとんど肉体的といってもよい恐怖の前に打ち負かされて行くのを感じざるをえない。
自分はこれほどまでにきわめて弱くみにくい人間であったことを今日の始まりほど感じたことはない。
そしてこの国の言論統制というものがインターネットの世界においてかくも過酷なものだとは私はつい先日まで全く予想だにしなかったことにも愕然としている。もちろん国士舘の関係者に対する思いは十分でなかったことも認める。特に「こんな大学」という言い方は、誤解を招くものであった。自分は恥を知るべきといったのは、決してそこにいる人自身が恥だというのではなく、犯罪や処分の甘さを恥と感じるべきというつもりで言った。
自分もそのようなことをあるところで言われただけにその一生消えない記憶と屈辱感は私とて分かるつもりだ。
「私学助成の打ち切り」を求める声はかき消された。石原都知事の声もかき消されるであろう。そして、性犯罪者およびその所属先を「過剰に」批判する声はものの見事に批判され抹殺されてゆくのかもしれない。
キャッシュを消すというのはその発言の正当性を失わせかねない重要なことだと自分は感じている。
私はこういう状況で自分を批判してくる方にはある意味尊敬もしていたのだが、今はその気持ちが裏切られてしまったことに言いようのない屈辱を味わっている。
どなたか勇気のある方の実社会での登場をむなしく待つばかりだ。「国士舘大学」と「私学助成」でてきた自分のページへの検索結果ももうないかもしれない。
自分はもうこのブログにも自分の行動にも責任がとれない。被害者の人権を守るためを思ってしたことが消されてゆくようで悲しくてたまらない。その気持ちや「国士舘を思う気持」に偽りがなかったことを証明できなかったことがまことに残念だ。
大変申し訳ありませんが、今後はコメント等は中味を見ずして即削除する場合もございます。 自分のブログを見てくださる方々、Gooはじめ大切にしてくださってるかたに心よりおわび申し上げます。こんなことを書く状況に追い込まれてしまい本当に申し訳ございません。本当に世間知らずな子供だったと思います。
繰り返しですが、私は「路傍の石」さんが自分を名乗るその今度こそ最後の一行のみのコメントを期待します。それとどうもあやまって路傍の石さんの最後のいくつものコメントを消してしまいました。わざとではないです。自分にとっても大事なデータでしたから。いろいろ直してますすみません。キャッシュはみなはずれたみたいですね。こんな時間にお仕事に当たられた方にも大変ご迷惑をおかけしました。
それと、よく「罪を憎んで人を憎まず」というが、これは「罪を憎くむこと」まで否定してはいないはずだ。大学関係者に対する新たな差別はたしかに存在するが、これは私が作っているのではなく、不祥事が起こるたびに加害者によって直接的にもたらされていることと、対応のまずさによって作り出されているのではないだろうか。不当な言論弾圧を誰がやっているのか知らないが、これも私にとって「罪」と感じられることをここに告白する。また大学関係者がこれをご覧になっていたら、私の真意をおくみいただき、
さらなる猛省を誠実に示されることをわずかな望みとともに期待しております。
あと関係ないですが、PCも頭ももうろうで文も漢字も間違いだらけですいません。