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若手官僚の留学費用の返還は基準を厳しくすべき。原田武夫は経歴をより具体的に公開すべきでは

2005-10-18 19:03:51 | 外務省と原田武夫批判
こちらのニュースでは若手官僚で早期退職した者に対する費用返還の動きが加速しつつあることを伝えている。人事院の意見書の内容を紹介しているページでは「返還義務の対象は帰国後5年以内の退職者」となっているが、これで充分だといえるだろうか。

「5年以内」ではなく、少なくとも「10年以内」とすべきではないだろうか。「2年間海外の大学院などに留学させる『行政官長期在外研究員』制度が問題となっている」とあるが、この制度は「2年間」と決まっているのだろうか。

かりに2年間留学して、その後5年以内に退職した者のみに返還を求めるというのではあまりに甘すぎるのではないか。

ちなみに原田武夫の場合1998年に「在外研修」から帰朝し、2005年に退職しているのでこの意見書の内容では返還の義務は生じないことになる。

こちらのプロフィールを見るとその「在外研修」期間は94年から98年までの長きに渉っている。

これは一体どういうことなのかよく分からないが、いくらなんでも「研修期間」が長すぎるのではないか。

「行政官長期在外研究員制度」自体は2年間だとすればそれを繰り返したのか、それとも他の制度を併用したのか分からないが、ようするにこうしたことは明らかにされていない。

原田のシンクタンクにある略歴はこちらの左のフレームの「ごあいさつ」にあるが、以下のようにやや異なった書き方になっているようだ。

1994年 在ドイツ日本国大使館に転勤
 ベルリン自由大学、テュービンゲン大学、ドイツ外務省研修所にて
      在外研修
 在ドイツ日本国大使館にて、大使秘書官および政務担当を歴任
1998年 帰朝

つまり非常に大雑把な書き方になっていて、それは個人の自由だといわれるかもしれないが、この期間は「転勤」なのか、「在外研修」なのかここではぼやかされてしまっている印象はいなめない。

また二つの大学に在籍していたようだが、学部なのか、院なのかも分からないし、どういう学位を得たのか得ていないのかもかかれてはいない。


何も書いていないところを見ると学位は得ていないのかもしれないが、それならそれでどういう資格でどういうコースにいたかなど、税金で留学しているなら明らかにすべきではないだろうか。

ようするに働きながら学んでいたということなのかもしれないが、外務省は学びながら働けるところなのか、あるいはそこに名前がある大学は働きながら学べる大学、というよりコースなのか、といったことが私としては非常に気になるところである。

もちろん原田に限らず留学して早めに退職した人間は官僚であれ、学者であれ、氏名やそれに費やした税金や奨学金の費用を全て公開すべきだと思う。

返還を求める制度ができるなら、できるだけ厳しい基準で返還をきちんと求めてゆく制度を作ってほしいものだ。

                        (文中敬称略)

ホワイトバンドの続き。OECD理事長に竹内佐和子東大教授が立候補したはずだが。。。

2005-10-18 00:41:18 | 外務省と原田武夫批判
大変すみませんが、今日はいつもにもましてまとまらないブログですが、そのうちまた書き直すかもしれません。

ホワイトバンドのページには世界銀行が最貧国に対する債務を帳消しにしたというようなことが書いてある。

こういうことを大きくサイトで書いてある場合、この世界銀行の決定がホワイトバンドの運動の高まりでなされた決定であるかのような印象を与えようとしている印象さえかもし出しているようにも見えかねない。

そんなことはありえない、そうした決定はこの運動とは全く関係ないところでなされたはずだと思われる人も多いだろう。自分もその一人だ。

しかし、だとしたらそもそもそういう運動や主張自体今ことさらに広げる必要があるのかということがむしろあらためて問われねばならないと思うのは私だけであろうか。

つまりいわゆる最貧国の対外債務というのが事実上帳消しになっている状態はかなり以前から続いているのではないかとも思われる。

これがはじめての帳消しかどうかはしらないが、もともと払われる見込みがないものを帳消しにしたところであまり意味はないのではないかと思われる。

それでもなぜ、こうしたことが行われるかといえば、さらにまた貧しい国々に借金をさせたり多額のODAを融資するためにこうしたいわば「身ぎれいにする」とでも言うような儀礼的なことが行われているのとしたら、これ自体一種のモラルハザードの悪循環の一部だといっても過言ではないだろう。

またいわゆる最貧国の中に中国やロシアが含まれるか分からないが、世界銀行の貧困の分析にはこの二つの国の貧困はかなり克服されつつあるものの、一応ロシアに関しては2004年の分析
こちらがあります。

中国に関しては都市部と地方で大きな開きがあるものの2001年の分析がこちらにある。こちらです。

ロシアも中国も大国であるが、こうした国も債務が免除されるのだろうか。

今はなんと呼ぶのが正式なのかは分からないがG8というのはもともと「先進国首脳会議」でSummitと呼ばれていてこれは冷戦時代に西側の諸国が集まって南北問題などについて話し合われるものであったのだが、いつのまにかロシアが入り込んでしまったようだ。

しかし考えてみるとアメリカにしても昔の話しだが、1920年代に関して「債務国から債権国へ」という言葉が使われるように昔は債務国であったのである。アメリカが債権国に転じたことには軍需産業の発達などがあったわけだが、考えてみると日本にしても戦後の経済復興というものは軍需特需が果たした役割は非常に大きい。

話が大きくずれてしまったが、ようするにここで確認しなければならないことは、債務帳消しを含めた対外援助のあり方として援助する国が民主国家であり治安が保たれているということが補償されているべきではないかということだ。

むろん軍事政権に支援することはまずいだろうし、かりに表向き民主化が達成されているかに見える国でも援助の恩恵が一般市民、国全体に行き渡っているかどうか常にチェックする必要があることは言うまでもないであろう。

日本はある意味敗戦後は民主化が達成され、自国のことのみに専念してこれたからこそ今日の繁栄が達成されたともいえるのだろうが、たとえば民主化された政府ということが世界銀行が分析している貧困の国の全てに達成されているかどうかは分からないし、ホワイトバンドのページでは「最貧国」が一体どこの国であるのか、自分は少しさがしただけでは分からない。

したがってどこの国の債務を帳消しにすべきといっているのか分からず、自分はこうしたことには詳しくないが、「世界の貧困をなくそう」といったようなきわめて曖昧な言葉で対外援助のあり方や南北問題の抱える難しい点が一切無視されてしまうということがあるのではないかということは言えるように思う。

「最」という言葉があるからといって、ある特定の国を指しているというわけではないようだ。

ホワイトバンドは先進国とか途上国といった言葉をたびたびもちいているが、先ほどかいてきたことは、つまりこうした線引きというのは「南」と「北」といった言い方でもできるのかどうかは分からないが国名を挙げなければ曖昧になる恐れがあるし、その考え方も必ずしも固定的にとらえられるものではないのではないかということである。

もちろん豊かな国と貧しい国は存在するが、日本が豊かだという人は、貧しい地方や私のような人を無視しているのだろう。

極端な話し国連ですら今は財政逼迫から老朽化した建物で雨漏りがして会議の場所を移動しなければならなくなったという報道があったばかりである。

これに関しては日本の国連大学もあることだし、日本のどこかに移すことはできないかとも思うが、いずれにせよ子どもが何秒に一人死んでいるということはどうにかしなければならないのはもちろんだが、いずれにせよ日本だって決して財政状況は芳しくはないので、それほど人助けばかりを言っていられるのかという問題はあるはずだ。

そしてまたはなしは戻るがホワイトバンドは「何で貧しいの?」と題されたページでこういうことを言っている。

こちらです

「借金を前の独裁政権の人が武器を買うためにしたのに、その借金を同じ国だからという理由で、民主化された後の政府が未だに背負っている国もあります」というのだが、これがどこの国のことだかまったく示されていないようだ。
たしかに、ウィキペディアのエチオピアに関する

こちらのページ

を見るとそういうことは言えそうだがこの国の80年代の状況というのはこのページで見ると惨憺たる物があったようだ。そしてその時代西側ではどうした文化現象があったといえば「バンド・エイド」などの大チャリティであってその創始者とも言うべきボブ・ゲルドフはホワイトバンドのページにも出ている。

このページ

には「20年前、アフリカ救済イベントで280億円の寄付を集め、喜んだのもつかの間、それがアフリカでは先進国への債務返済に一週間で消える額でした。寄付だけでは、貧困のスピードに追いつけないのです。みんなの意向を集めて、政策を引き寄せなければ」とあるのはようするにこうした運動に関して否定的なとらえかたをしている言葉のようにも聞えるが、80年代当時私がテレビで見た今はなきある高名な評論家の方は「ライブ・エイド」のエチオピアの貧困救済キャンペーンに関してだったと思うが、民衆の暴動が起きていることを引き合いに出して、そうしたチャリティ・イベントが当時の政権の延命につながりかねないことに言及していたと思う。

こうしたことで問題になるのは当たり前のことだが、国に対する援助はODAであれなんであれ、本当にその国の国民一人一人のためになるのか常に検証が必要であるということのように思われる。

国を通じた援助だとその国へまた日本の企業などがインフラ整備に乗り出すことで、これも公共事業になる可能性はあるし実際それはそうしてきたことではあるのかもしれないが、非常に曖昧ないい方になるが、金の使い方など気をつけるべき点は多いはずだ。

場合によっては自衛隊が直接その国に行って直接物資を配給したほうがいい場合もあるだろうし、できるだけそうしたほうがいいとさえ自分は思っている。

さてまた話は変わるが実はOECD理事長に東京大学の竹内佐和子教授が立候補しているはずだが、その結果が出たかどうかなどはまだ私はしらない。

たしかパリでも記者会見をしているはずだが、(こちらに書いてあります)そうしたことに関して外務省はまたどれぐらいの予算を計上したのか全くしなかったのかも私は知らないが、OECDの理事長にもし日本人が就任することにでもなったらますます日本はODAをふやすことになりそうで、非常に不安である。
                    
                     
                       文中敬称略

世論を勝手に決める町村外相へ。常任理事国入りしたら分担金に関する議論は消えますか。

2005-07-28 18:05:14 | 外務省と原田武夫批判


町村外相は日本が国連の常任理事国入りに失敗した場合、「世論」が国連の分担金を払うことに異を唱えるようになると言うことを述べたそうですが、もうすでに

国連分担金やODAのあり方をめぐっては国民で怒ってる人はたくさんいます。

これはわたしの意見ですが、常任理事国入りなどできなくていいから減らせるものなら国連分担金も、ODAも大幅削減すべきでしょう。


さらにこれはわたしの感覚ですが、政治家の皆さんは国連に対する国民の失望、むしろその威厳やその能力にたいする「見極め」をにぶらせるために「国連常任理事国入り」を目指しているのと違いますか?


国連の常任理事国入りを目指して日本は国連が決める分担金やODAをきちんきちんと払ってきたのでしょか?

自分にはそうは思えません。

むしろ「国連常任理事国入り」は最近になっていろいろな人たちが言い出したことではないでしょうか。


本当は日本が莫大なODAや国連分担金を払っていることはおかしい、中国やロシアがいくら分担金を払っているのか考えてみよといった主張があるのを日本の政府は国連分担金やODAに関する議論を封印するために「国連常任理事国入り」を主張しだしたということではないでしょうか。


そして運良く国連常任理事国入りできたあかつきにはこれだけの地位を国連で占めているのだから、応分の負担は当然であるということで、国連分担金やODAに関する議論はますますできなくなるでしょう。

そもそもなんで、常任理事国入りできなかった場合に関して「世論」ということを持ち出すのか、わたしには分かりません。

自分では言いにくいことを言うとき世論を自分の都合のいいように持ち出すのは政治家として最低です。

自分の意見があるなら、自分の意見として言うべきでしょう。


政治家や外務省の職員や国連で働く日本人のみえだけでなく(ODAに関してはもうすでにどういう性格のものかここではあえて書きませんが)日本人全体のことを考えて外交をしてもらいたいものです。

田中均氏の外交姿勢に疑問。拉致と書かねばもう追及しないと宣言したととられるのでは?

2005-06-12 22:16:36 | 外務省と原田武夫批判

今日は「サンプロ」で田中均外務審議官がしゃべるのを見た。

すでにこの人に関してはいろいろなことが言われつくしているのにもかかわらずあらためて驚いた。

録画したわけでないので正確さは書けるかもしれないが、この人の田原氏に対するやり取りでもっとも納得がいかないのは日朝平壌宣言に拉致に関する記述がないことを問われて、小泉首相が訪朝した経緯などといったかと思うと、ブッシュの「悪の枢軸」発言などを持ち出して次々に話題をそらしていった点で、本当にびっくりした。

安全に関する記述があったようなことを言っていたが、そんな曖昧な記述も今までにおきた拉致事件と関係あるとはみなされないはずで、拉致と関係があるならそう書けばいいだけのはずである。

つまり日朝平壌宣言に「拉致」ということに関してはっきり書かなければ、「拉致問題は解決済み」と北朝鮮に言われるに決まってるわけで、実際そうなって、にっちもさっちもいかなくなってしまっているわけだろう。

つまりはっきりいえば、これ以上拉致の問題は追及しないということを約束したと北朝鮮にとられる文書に合意したのだから、外務省は北朝鮮に拉致の問題を自ら追及できなくしたのと同じではないか。田原氏が密約がどうこう言っていたが、密約もなにも、きちんとした文書の形で合意したわけだから、それで判断すればあまりそれ以上せんさくする必要もないだろう。

つまり外務省(日本国)は北朝鮮に拉致問題をこれ以上追及しないという言質をあたえ、妥協することで合意文書を作成し国交回復を目指したわけで、国民世論がこの点を指摘したから仕方なく拉致問題を追及している様子ではあるが、本気で拉致された方々のお気持ちを考えて外務省が仕事をしてきたかどうかは極めて疑わしい。

非常に曖昧で北朝鮮には都合のよい文書に合意することで自分が業績をあげることができたと外務省の人たちが思っているとしたら、拉致された方々のご家族にとってはとてもではないがたまったものではない。

そういえば田原氏は田中審議官を小村寿太郎と同じぐらい歴史に名を残す人などといっていたようだが、小村寿太郎もきっと草葉の陰で号泣しているのではないか。

北朝鮮外交を担当したからといって原田武夫のように本を書いたり、テレビに出てしゃべったりするのはいいが、本当に自分たちがこの国の国民のためになるようなことをしたかどうかもう少しはまじめに考えてほしいものだと私は思う。


国益に反する外務大臣中国訪問。反日デモを後押しするさらなる歴史共同研究提案

2005-04-18 19:45:23 | 外務省と原田武夫批判

町村外務大臣が北京を「訪問」しているが、なぜ今の時期に訪問したのだろうか。もともと決まっていたのかも知れないが、だったらキャンセルすべきであったろう。それのみが今中国各地で起きていることにたいしての有効な日本側からの抗議であったのではないか。

日本でもすでに在日大使と「会談」したそうだが、「激論」になったそうである。その時点ですでに、中国側と今の段階で話し合いをすることがいかに向こうのペースに巻き込まれるかわかってもいいはずである。

中国のマスメディアは町村外務大臣が謝罪したかのごとき報道をしたらしいが、実際にそのようなことはしていなくても、今の時期にわざわざ訪中すれば、向こうは「謝罪」に来た格好にさせられてしまう可能性はあるのであって、そういうことに考えが及ばなかったとしたら、そういう人たちに外交を任せることは日本にとって不利益しかもたらさないであろう。

しかも日中の間で歴史の共同研究を進めようなどともちかけたらしいから、これでは日本側は謝罪していなくても、そうした提案自体、日本側が自らの非を認めたことになるのではないか。

だいたい日中の共同の歴史研究というのは今までもやってきたのではないだろうか。もちろん自分は歴史の研究が「共同」で行われる必要など感じてはいないが、こういうことを提案するのは要するに予算をつけて自分たちがいかにもよいことをしているかのごとき印象を内外に与えようとしているという印象しか自分にはもたらさない。

私はもちろん日本は過去に中国などにひどいことをしたとは思うが、子供に歴史の全てを教えることはないと思う。

中国にしたって、天安門事件や、チベットのことや、文化大革命をどのように教えているのか、いないのか知らないが、いずれせよ、国内でどのような教育をするかということに関してデモをしたり、それを正当化して、日本側に原因があるといってくるのは内政干渉である。

さらにまずいのは今の外務省が、莫大な税金をつかってわざわわざ今の時期に中国に行って、そうした内政干渉に手を貸していることであって、自分にはのように国益に反することばかりやっている役人はほんとうに困ったものだと思う。



元外務官僚原田武夫氏の分かりにくい論文と「留学」した公務員が退職する場合について

2005-04-02 00:57:40 | 外務省と原田武夫批判

人が書いた本や論文の類に関して否定的な感想を述べると、その人の仕事を全部

読んだのか訊いてくる人がいる。


たしかにある人の書いたものを全部読んでから批評するのは理想であろうが、そんな

ことをして結局全部自分には否定的な意見しかもてなかったりしたらものすごい時間

と労力の無駄である。


したがって、自分にたまたま目に触れた論文や著作物などでその著者について自分

なりの判断をする事もやむをえないと思う。


実はこんなことを書いているのも無駄なことなのかもしれないし、逆にこの人の宣伝

になってしまうのであろうが、以前から感じていたこのことを先日たまたま手にした

中央公論の2003年11月号に掲載された原田武夫の「『勝ち組』政治教育論―――

明日を託せる『精神的貴族』を創る方法」を目にしてあらためて強く感じた。


正直なところ中央公論にのっている文章を自分が理解できる知性があるかどうかは

自分でも自信がないが、いずれにせよ、それほど長い文章でもなければ、学術的な

論文でもないようなのでとりあえず読んでみたが、正直分からないことが多かった。


その一方で当たり前のことがさもたいしたことであるかのように書いてあるという

印象も受けた。


この論考ではいわゆる「勝ち組」に関する論考を俯瞰した上で、「こういった議論

にはすべて落とし穴がある」として、「現実に存在する『勝ち組』たちがどう生きる

べきか、何をなすべきかという論点がそこでは完全に欠落している」と主張している。


そして、わざわざ「この論文は筆者の個人的見解を述べたものである」と断っている

ものの、その「筆者の個人的見解」というべきものが具体的にどういうものであるの

か、自分には非常に分かりにくい。「精神的貴族」というものが一体どういうものを

指すのかすら定かではない。


「勝ち組」に対する政治教育に必要なこととして三つ条件をあげているのだが、第一

に精神的貴族になるべきだとし、「勝ち組」に「政治教育」が必要な理由は、「再分配

以外の、レスププリカ(=皆に共通する事柄)を落ち着いて議論できるのは、まずは自

らは『余裕のある』彼らだから」だとしている。


「勝ち組」という言葉の定義も大雑把にしかされていないが、これではまるで、貧乏

人は「皆に共通する事柄」はまともに議論できないと言っているかのように思える。


精神的貴族としての「勝ち組」は専門性という蛸壺から抜け出すことを主張すること

はよいとしても、精神的貴族の連携に関して、「もちろんこのようなことが可能とな

るのは、余裕のある精神的貴族たちだからこそではある」としているのもそのような

ことが言いたいのだろうか。


その理由として「議論の参加者の余裕に明らかな差異があるとき、そこでは再び『再

分配』が首をもたげ、議論は求めるべき精神性を失ってしまう」としているが、これ

は要するに金持ちと貧乏人とが対話しても見るべき成果はないだろうということなのだ

ろうか。


引用は部分的にしかしていないので分かりにくいのかもしれないが、ひどく勝ち組に

こだわっているようでもあるが、いずれにせよもしかしたらしごく当たり前のことを

縷々述べているだけなのかもしれない。


この論文の最後には「抽象論を超え、日々の出来事の中で「公なるもの」を考えてみ

たい方」は自分のメルマガを参照してほしいということが書いてある。


抽象論が不必要だとは思わないが、もしかしたら書いた本人が自分でもこの論文は自

分でもあまりに「抽象的過ぎる」と感じているのではないだろうか。


自分の著作物に触れて「何々を参照してください」という学者先生は多いけれど、こ

れではまるで論文というより自分のメルマガの宣伝のような感じがする。


新聞でも雑誌でも宣伝は多いが、宣伝でないふりをした宣伝というのは、自分には非

常に困る。


この人はすでに何冊か著作もあるようだが、一方で最近まで外務官僚で北朝鮮との

外交を担当していたそうだ。官僚でありながら、執筆活動をする人は多いのだから、

そのことは責められないとしてもメルマガの発行というのはどうだろう。


以前元外務官僚の人が外務省の役人はものすごく忙しくて大変だということをある本

で書いていたが、どうも全ての官僚がそうではないようだ。


またこの人は「在外研修」もしていて、それはいわゆる「留学」のようだが、その費

用は税金であろうか。また留学の期間は給料も出たのだろうか。もし留学の学費も税

金で支払われ、給料も出ていたのに、比較的若くでやめたとしたら、その費用などは

返さなくてよいのだろうか。


早期退職とでも言うべき官僚の人たちはもし国費で留学などをしていた場合、学費や

その間の給料などは全額返すべきではないだろうか。もちろん原田武夫に関しては分

からないが、政府はこういうことに関して基準を作ってその実態とともに公表すべき

であろう。


                   (文中敬称略)


あくまでも個人的な疑問や感想です。何度か修正しています。