妄人妄語 衆議院議員野田聖子さんの選挙公約消去 有権者・国民を愚弄するサイト一時閉鎖に抗議します!「非道」はどっち?

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歳暮や電話のよしあし

2005-12-31 00:09:29 | クダ

今日は自分のところへ歳暮が一つきた。

小学校一年の頃からの友人で夏と冬には何か贈ってきてくれるのだが、こちらは世話になりっぱなしで申し訳ないなといつも罪悪感に駆られている。

夏の時期に素晴らしいジュースを贈ってくれたので、非常にうれしかったことを述べたところ今日もまた送ってきてくれた。


自分は特にこうしたものを贈られる義理はないと思うのだが、「もういいです」とも言えないような感じだ。

もしかしたらそういうことは言ったのかも知れないが、いずれにせよ贈ってきてくれているのでありがたく頂戴している。


しかし歳暮のたぐいというのも贈るほうも贈られるほうも実はかなりめんどくさいもので、特に自分の親は自分が学生時代、勝手に自分の担任などにいろいろものを贈って、この先生はもらったとか送り返したなどとわざわざ自分に言ってくるので本当にわずらわしかった。

もちろん物を贈ってそれなりに「効果」があった場合と、全くそんなことはなかったことはなかったかのようにひどいことをされたこともあって、自分はそういうことは決して忘れられないので、いずれ仕返ししてやるつもりだ。

と言うわけでこういう贈り物のたぐいと言ういのはなんらかの「期待」がこめられているので非常に厄介なものだと言うことはたしかであるがそれだけでなく受け取りがめんどくさいということも大きい。


自分の家は「留守」のことが多い。

それもそのはずドアホンがこわれているからだ。

もちろん直すべきだが、ここには書けない理由でわざとほったらかしてある。

しかしこっちの苦労を知らない配達の人は「これ直しといてください」と言ってきたりする人もあった。

そのときはたしかドアを叩いたので気づいたのだと思う。

そのときは「はいすみません」などといっておいたのだが、もちろんほったらかしである。

今日もドアを開けたらその人だった。今日は携帯から電話をかけてきたのですぐにドアを開けたこともあるせいか、何も言われなかった。


こっちの勝手な言い分だが、ようするにドアホンはいらないのかもしれない。

配達する人は携帯をもっているのであて先に電話番号が書いてあれば電話して呼び出すことができるし、それがない場合でもドアを叩けばいいのである。


もちろんうちに来る客がある場合もつく寸前に携帯から電話してもらえばいいだけの話である。


もちろん留守のこともけっこうあって、そういうときに何度断わってもいらないものを田舎から送ってくる人があって一度受け取り拒否にしたことがある。

そうしてもまたいらないものを送ってきて、そのときは手紙が添えてあったが、その手紙は中味の水が漏れてぬれていたが前の受け取り拒否のことがうらめがましく書かれていた。


今日は電話のことについても書こうと思っていたが、いったんここでやめにしてまた機会があれば書きたいが、とにかくいらないものを送ってくるのは非常に困る。

さすがにもう送ってこないが、他の歳暮がとどくとまたあそこから送って来たらやだなと思う。

と言うわけで自分はすごく性格がひねくれているとそういう人からは思われるような人間なのである。


テレビのコメントについて林真理子のエッセイに考えさせられた

2005-12-30 00:14:37 | つぶやき

林真理子の『愛すればこそ・・・・』という本をここ数日かけて読んだ。

この人にかんしてはデビュー当時にたしか「有名になりたい」ということを明確に打ち出して脱いだ写真を週刊紙かなにかで見て以来、あまりよいイメージがなく、例のアグネス・チャンとの論争に関してもあまり興味がわかなかった。

あの論争の頃ぐらいから急に文化人的なイメージが強くなってあまりテレビにも出なくなった気がする。

以前表参道のある楽譜売り場でこの人が母親らしき人と一緒にいて領収書をもらうときに「林でお願いします」とわりと大きい声で言ったのを見た。

『愛すればこそ・・・・』を読んでいるとこの人は自分が有名人でいることをすごく意識している人だと感じるが、それでも経済的な面で若い頃に苦労したことなどがつづられていてそれなりに興味深かった。

ちなみにこの本自体もわりと若いころに書かれた本のようだ。

そこに収められた文章の一つにロサンゼルス・オリンピックだったかの開会式の感想をテレ朝で話すように言われたエピソードがのっている。

「面白いかつまらないか正直に言えばよい」ということであったが、最後には「私も行きたいわぁ」と言わされたそうだ。

こういう話を読むと実際にはたとえばテレ朝の人があのエッセイは困ります、などとこの作家に言った場合、「いえあれはあくまで読者を喜ばすためですから」などというのではないか、と自分などは思ってしまう。


つまりテレビというのは虚飾に満ちた世界ではあるが、そうした虚飾を明らかにするような場合でも実際にその人は虚飾を作り上げるのに協力してる人であるから、物書きとしてもまた虚飾を作り上げる可能性もあるし、それをまたどこかで明らかにすることで出演料や原稿料をもらってる可能性もあるとも思えるわけである。

結局その人の意見がどこにあるかなどということは分からずじまいのようなことになるとも思える。

こういう人は人によって話すことを変えるいわゆる八方美人的な人だといっては言いすぎだが、自分にはどうもここで書くことが本当のことです、などという言い方が妙に引っかかって仕方がない。

しかしその一方で、自分はテレビと言うのはあまり好きではないけれど、そういういわば表に出ない葛藤みたいなものを感じることのできないやからでは自分はないつもりである。

できれば言いたいことを言っている人と、必ずしもそうではないとも思える人が一緒にテレビに出て時間をかけて話してるのを見られればそれが理想だなとも思う。

ここ二年ほどだと思うが、年末になるとよく「朝まで生テレビ」のような形でサッカーの討論番組をテレ朝でやっていて、その番組にでてくる植田朝日とか言うサッカーフアンが非常に好きだ。

どこにひきつけられるかと言うと、釜本やラモスなどがいても全く物怖じすることなく自分のいいたいことをきちんと主張しているようであるのが見ていて非常に気持ちがいいのである。

残念ながら自分には議論の詳細についてはあまりついてゆけないのであるが、サッカーというものが非常に奥深いものであることを感じさせてくれるのは非常にうれしいことで、こういう企画が他のスポーツなどについても行われれば非常にいいと思う。

あの番組は今年はいつ放送になるのだろう、ととりとめもなく思っている年末の夜でした。

今調べてみたら今年はなかったのかも知れない。

生のテレビで充分な時間を割いて専門家が言いたいことを言えるような番組がもっといろんあ分野に関して増えれば自分もテレビというのをもう少し好きになれるような気もする。

あの番組にしても釜本はあまり言いたいことは言えなかっただろうなと漠然と思う。

それとは対照的にセルジオ越後はかなり言いたいことを言っていてあからさまな協会批判がすごくて特にストライカーの養成講座のようなものに関して「協会の金余り事業」とか「一体誰が教えるの?」などと批判していた。

こういう場面を見ている時に発言している人たちの表情があまりに対照的であったりするのを見るのが楽しかった。

今年はないようだが、ぜひまたそういう番組を見たい。

今日もまた暗くてごめんなさい

2005-12-28 23:18:07 | つぶやき

数日前から町の中を木の音がこだまするようになった。

今日あたりから注連縄も売り出されるようになったようだ。

そして今日は夕方びっくりするほど空がきれいだった。


そしてまた若い頃に世話になった人の訃報に接した。


人の訃報について書いていると毎日そういうことで終わりそうな気もする。

自分が死なない限りそういうことはおこり続けるのだろう。

こればっかりは仕方がない。

せめて自分は人が死んだときに表面的にでなく心から悲しむことのできる人間でいたいと思う。

そしてその人の死を悲しむことのできるような人とこれからも出会ってゆきたい。

それはすごく難しいけれどそれには自分もいろいろ気をつけなばならないのだろう。


あまりの寒さでまとまりませんが

2005-12-24 00:04:07 | クダ

自慢ではないが暑さには本当に弱いが寒さにも弱い。

とにかく手があかぎれになったり、深爪になりかかった部分から切り傷のようにさけてきたりする。

自分は口が小さく唇が厚いのであるが口の端がややさけるし、しかもしたの唇の一部がやはり割けたりはれ上がったりしている。

以前真冬の時期にロンドンに行こうとしていろいろ手はずを整えかけたときに知り合いのイギリス人にものすごく寒いからやめろとしきりに言われた。

なぜ行きたかったというと特に理由はないが、いろいろ行ける状況があったということであるが、変な邪魔の仕方をする人がいて結局行けなかった。

あれから10年ぐらい当たっているのだろうか。

今にして思えばよくそんなことを考えたものだと思う。

いわゆる若気の至りとでもいうやつであろうか。

別にロンドンに冬に行ったからといってそれほどまずいことでもないとは思うが、いずれにしても少なくとも今よりかはバイタリティ(そういえばこの言葉もいつのまにか死語になってしまったような気がする)があったことは確かであろう。

最近は何となく自分の限界が見えてきた感じがする。

以前は虚勢をはってるみたく肉親からも言われて非常に憤慨して今も憤慨したりいろいろな人を恨んではいるけれど、変な言い方だがそれはそれでいいのではないかと割り切れるようになったのかもしれない。

暑いとか寒いとか言うことはたいしたことではないように思われるかもしれないが、たとえば自分が北海道に住めるかというとこれはまず無理であろう。

そういう諦めみたいなものも必要だなと感じる今日この頃でした。

インタビューは難しいのだろう。

2005-12-22 23:06:21 | つぶやき

今日ある店で隣りに座った女性がいろいろなものを机の上で散らかしていた。

自分よりちょっと若いぐらいの人だろうか。

肌は過ごし浅黒くて、女性にしてはがっちりした体格の人だった。

黒くて大きいボストン・バックに散らかした物をしまいこんで立った姿を見るとなにかの制服らしきものを着ていた。

きっとこれから夜勤なのだろう。

それもたぶん女性にとっては少し肉体的にきつい仕事なのだろう。

うちの母の知り合いの娘さんが以前大学生の頃のバイトで、やはり夜のきつい仕事をしていたと聞いたことがある。

でもそれを長く続けられる人はそう多くは無いはずだと思う。

たぶん今日はそういう人のうちの一人とすれ違ったのだろうと思う。

こういう言い方も失礼になるかも知れないけれど、どんな人でもみなそれぞれ自分の世界というものを持っているはず。

一生のうちに出会える人の数はそう多くは無くて、自分が知りえることはこの世の中のほんの一部に過ぎない。

今思い出したが、木村拓也が同い年のいろいろな職業の女性と二人だけで語り合う番組をやっていた。

木村拓也がその女性にインタビューする形で、それぞれの職業の苦労話などを訊いていて、それなりに面白かったが、インタビューされるほうも全くの素人が多かったけれども中にはすでに有名になっている人もいた。

テレビだし、顔と名前も出てるし、短い時間で他人の職業や内面についてどれだけのことがきけるかということはかなり限界があるだろうと思われるが具体的なことは忘れてしまったものの、それなりに面白かった記憶がある。

あるプロバイダのサイトで編集者が有名人と会って、毎回インタビューしてそれをブログにまとめているのがあるがはっきり言ってつまらないことこの上ない。

いかにも役者さんのプロフィールを調べてそれをまじめになぞってる感じでほとんど意外性や驚きのようなものが自分には感じられない。

木村拓也の場合にはいろいろな職業の人にインタビューしている点が面白かったのだけれど、面白かった点の一つはあまり予備知識など無く、なんでもざっくばらんに尋ねている点が面白かった。

もちろん木村拓也が素人の人と話しているということ自体が面白いことこの上ないわけだが、きちんと受け答えしてた人たちもなかなかすごい人たちだったと思う。

だいたいプロフィールや他のインタビューなどを見てからインタビューするのであれば、あらためてインタビューする意義というものがあまり無くなってしまうのではないかと思う。

本当に面白いインタビューというものがあれば、もしかしたらあまり世間の注目をあびない分野で絶対にメディアにでない人にインタビューするのが面白いのではないかと思う。

むろんそういうインタビューのようなものを集めた本もあると思う。でも今日隣り合わせた女性と話すとしたらどんな会話が成り立っただろうかなどと考えてみるのも空想ではあるが面白。

むろんテレビなどで見る実際のインタビューにしても必ずしも真実を伝えてるとは限らないし、一回や二回あったぐらいでその人の考えや気持ちなど本当に分かるわけではないかもしれない。

テレビでもネットでもいろいろ伝えることに関して自分は疑問を抱くことがあるのは、きっとこの人が言ってることには違う部分があるはずだなどと思うからである。

それが本当はもっとこの人は奥深いものをもっているはずだと思える場合と、この人は見かけほど有能な人ではないはずだと思う場合があって、そう思う基準のようなものはほとんど「かん」になっているように思う。

前者は後者に比べ圧倒的に少ない。でもそういう少ない人に自分はどんな形であれめぐりあって行きたいと思っている。

自分がそうでないからこそそう思っていることは断わるまでもないけれどこれも一種のゴーマニズムかも知れない。

インタビューというのはもちろん「される側」だけでなく「する側」もそれなりのものを持ってないとただでさえ表面的なものがさらに表面的なものになってしまいがちだと思う。

インタビューなんて所詮そんなものかも知れないし、インタビューといっても時間などの種類によって千差万別ではあるけれど、ノンフィクションの優れたものの多くは、山際淳司のそれのように理想的なインタビューが元になってできているのではないだろうか。

今日はここを見てくれている古くからの友人ともすれ違って、もしかして話してくれそうだったけれど結局すれ違っただけで終わってしまった。

そういうわけで私は話しだすとやたら長いので、またいつかぜひいろいろ教えてください。

ここなどの反応も最近心配ではあるけれどまた感想聞かせてね。

やはり今頃ですが、DVDで前田対アンドレを見た

2005-12-20 00:12:08 | 格闘技

友人の家で前田対アンドレの試合を見た。

この試合は10年ほど前、知り合いの知り合いがビデオを持ってるというので本当に見たくて仕方なくて、何度もその知り合いにせっついたが、その頃は見られなかった。

昨日は友人宅でDVDで見たがその頃のことなどを思い出してなつかしかった。

その友人と二人でネットでも見たことはあったのだが、今回はアンドレの強さを改めて感じた。

DVDでも普通の放送などで見る映像と比べてややぼやけた印象があったものの、やはりアンドレの表情は尋常でないものを感じさせるものがあり、前田の方は焦りの色が色濃かったような印象を持った。

試合の立ち上がりにいきなりアンドレが寝技で前田の頭のほうから覆いかぶさり腕と首を極めにかかった。

自分はアンドレが寝技ができるとは知らなかったのでそれにもびっくりだが、前田も驚いたのではなかったか。

自分の記憶では前田はアンドレ戦のあとたしか週刊ゴングで藤原と対談していてそのアンドレの最初の寝技に関して、アンドレが前田をつぶしに来た事に関して非難めいたことを藤原と話していたような記憶がある。

前田はセメントの試合に応じなかったように見えたがなぜだったのだろうか。

新日のセコンドに「やっちゃっていいのか?」というようなことをきいていたようであるが、この当時のUWFの選手たちかなり他の団体の選手たちに関してかなり実力のほどを見くびった発言をしていたのではなかったかと思うのだが、であれば、寝技でも逆に極めてやればいいだろうと思うのだが、どうも寝技ではあまり前田に分があるようには思えなかった。

もっとも何どもアンドレからテイク・ダウンを奪っていたのは、それだけでもすごいといえばすごいようにも見えるが、アンドレは前田の関節でもキックでも全くきかないふりをしているようだった。

さすがに試合の後半ではよろけていたが、前田のドロップキックなどはまるでハエを追い払うかのように手で振り落としていた。

前田もあまりキックができないのはもしかしたら逆につかまれて寝技にかれることをおそれたのだろうか。

アンドレもヘッド・バッドやチョップは一切出さなかった。非常に不思議な感じの試合であったが、寝技であれ、なんであれ前田がもっと積極てきいにいかなかったのは面食らったということだろうか。

前田のキックは顔面や即頭部などへきめることが多かったと思う。

アンドレの場合にはそれはさすがに無理なのでちょっと手をこまねいていたという感じの試合に見えた。今思いついたのだが、アンドレも全くチョップのたぐいを出さなかったのはもしかしてセメントであれば買わされると思ったからだろうか。

アンドレ対前田というのは当時夢の対決であったはずだが、たとえばこれが東京の大きな会場であったらまずこういう試合はできなかっただろう。

こういう言い方もどうかと思うが、あの会場で徹底的にセメントでとことんやりあう試合をする事もまた考えにくい。

結局のところ、お互いのプライドがぶつかり合いはしたが、やはり「世紀の凡戦」という言葉がふさわしかったのであろうか。

いずれにしても前田のプロレスに対する考え方とは全く相容れない試合であったことは確かであるように思える。

逆に言うとアンドレがそれをさせなかったということで、アンドレのほうが格の違いを見せつけたような印象であった。


今頃ですがエディ・ゲレロの冥福を祈ります

2005-12-17 23:34:24 | 格闘技

つい2、3日前にエディ・ゲレロが死んだことを知った。

ゲレロと名のつくレスラーは多く、誰が誰やら、どういう姻戚関係にあるのかわからなかったりするが、エディ・ゲレロといえばあのWWEで活躍してた彼だとわかってもまだ実感がわかなくて今先ほど検索してやっとこさ確認している次第。

あれだけ小さな体で超ヘビー級の連中を相手に堂々わたりあっていたわけだが、それにしても早すぎる死だ。

今回はじめて知ったが二代目ブラック・タイガーとして新日でも活躍していたらしい。

こちらのWWEのページには彼のキャリアが書かれている。

遅まきながらつつしんでご冥福をお祈りしたい。



山田和史「さんだあず」がM-1グランプリ準決勝進出でNHKを退職させられたことについて

2005-12-15 00:43:00 | つぶやき

NHKの職員が退職してお笑いの活動に入るらしい。

こちらのニュースです。

自分はこの番組についてもNHKをやめた山田という人についても全く知らないのだが、芸能活動と仕事を両立させていた人が民間企業に20年ぐらい前にいたはずでそれと比べてNHKはちょっと厳しすぎるような気がしたのであえて書きたい。

このニュースでまずよく分からないののはどうもこの人は「M-1グランプリ」というお笑いのオーディションみたいな番組にでたらしいが、これが民放の番組であるらしいことだ。そして以下のくだりは特に疑問に感じる。

上層部からは「NHK職員として準決勝に出ることは許されない。もし出るなら、処分の対象になる」とくぎを刺されたが、「それならば…」と準決勝出場をとった。

この人はM-1グランプリは第一回から出ていたらしいのだが、どうも準決勝に出ることは許されないとかかれているところをみると、それまでは黙認していたということであろうか。

いわゆる服務規程などでよその局の番組に出演することなどに関して規定はなかったのだろうか。

もっともそれが宣伝になることもあるだろうから、許可を得ればいいということなのかもしれない。

しかしいずれにせよ今まではあまり目くじらを立てられてはいなかったようであるところをみると、もしかしたらそんないいとこまでは行かないだろうから大目にみようということだったのかもしれない。

でもこれは勝ち進んでいけば準決勝に出たり優勝する可能性もあるわけだから今まで民放の番組に参加することを大目に見ていて準決勝に出るならやめてもらわなければ困ると言うのもなんだかおかしな話に思えてならない。

この人はどうも受信料の話題もネタにしていたらしいのでそういったことも関係あるのかも知れないが、いずれにせよ今まで仕事をしながら漫才も頑張ってきたのだから、ちょっとNHKも厳しすぎるような気もする。

少なくとも最終的な結果を見るまでは退職を迫るようなことはしないでむしろ応援するぐらいのことをしたらNHKのイメージアップにつながったのではないか。

もしいい結果が出て、漫才の活動に本腰を入れるとしても、できればせめて1年ぐらい休職扱いにしてどうも駄目だったらまた戻れるぐらいの措置をしてほしいものだと思う。

これを留学などと比較するのは次元が違うかもしれないが、NHKの職員でも採用されてから留学して学位を取得している人もたしかいたはずだ。

それは記者の人で国際関係の分野の人が何人かそういう人がいたと思うのだが、漫才の活動にしてもきっと仕事に役立つはずだしもうちょっと違う対応がNHKにできなかったのかと残念だ。

小さな幸せ

2005-12-14 00:27:53 | つぶやき

具体的にどんなの?といわれると困るけど、小さな幸せが永く続くといいと思う。

むろん今は幸せではないけど、とにかく健康であわてず騒がず、驚かず、自分が驚くようなことも何もなく、できるだけ永く平和に暮らせればそれでいいと思う。

むろん自分の好きな人にも男女を問わず幸せでいてほしい。

嫌いな人にはいずれ一泡も二泡も吹かせてやるつもり。

好きな人でも嫌いになってしまうことはこれまでもあったし、これからもあるかもしれない。

でもできればいろんな人をずっと好きでいたい。

それが一番の幸せかも知れない。

今年をあらわす漢字一文字は「愛」だそうだ。

自分はこういうなんかの標語みたいなものはどこかの宣伝じゃないかと思ってしまってあまり好きではないし、別に愛に飢えてるつもりはない。

でもこんなこと書いてるんじゃやっぱ愛に飢えてるのかな?

心理テストみたいのやったけど

2005-12-13 00:08:37 | クダ

ある最新の科学技術の成果を展示していると「思われる」施設に行った。

正式な名称などは忘れてしまったのだが、ある展示以外は最新の科学技術に見えた。

何がそう見えなかったかというと心理テストのようなものがあって、タッチ・パネルを触って答えを選んでいって結果が出るというもので、ようするに昔からよくある心理テストである。

一体何が新しいのか知らないが、もしかしたらこんな展示みたいのをやってるところを見ると古い技術も紹介している場所だったのかもしれない。

タッチ・パネル自体の説明はなかったので、その占いのような心理テスト自体を展示していたことはたぶん間違いないとは思うのだが、以下その結果。


カウンセリング必要度チェック

必用が強まっている段階:少しストレスがたまってきているようで、カウンセリングが必要な状態です。
この程度のストレスなら自分自身と向き合う作業をすることによって、少しずつ問題を軽くすることができるはずです。

イイコ度チェック
自己表現が得意なタイプ:あなたは、自分の意見や気持ちを人に伝えることができる自己表現のできる人ですね。
しかし、言いたい放題言うことと、率直に言うこととは違います。
あなたはどちらですか?
もし前者なら人に認められようとする発言ではなく、自己満足させたい、人を愛するために「私は・・・と思う」「私は・・・してほしい」と常に「私」表現で、上手に自己主張(アサーション)することが大切です。

こんなものをまじめにやって読んでる私はたしかにカウンセリングが必要かもしれないと思えるほどつまらぬ内容である、などというと「言いたい放題言う」ことになるのだろうか。

カウンセリング必要度チェックの最初の文と二つ目の文は自分には矛盾してるように思われて仕方ない。

どういう仕組みでこういう結果が出るのか知らないが、イイコ度チェックにしてもいかにも自分に当てはまるようではあるが、これって誰にでも当てはまることのような気がするんだけど、それも占いとか心理テストというのはこういうものが多いということになるのかな。

これは国立大学の教授がつくったものらしいけど、こんなことやって喜んたり給料や研究費やらなんやらもらってるのかな。

だとしたらその大学の教授って本当に悩みがなさそうでいいね、と思った。


見える景色・見えない友達

2005-12-10 23:23:27 | つぶやき

絶対に一生忘れられない人はだれでもたくさんいるだろう。

自分の場合うらみつらみなどで覚えている人が多いのだが、すごく親しかった友人で二十歳の頃に突然死んでしまった友人Yのことも絶対に忘れられない存在だ。

もちろん家族や親戚などで死んでしまった者も数え上げてゆくと忘れられない人の数は多いし、それぞれの人のことを同じ程度に毎日思って過ごしているわけではもちろんない。

生きている人でも疎遠になったり、決定的に別れてしまった人も数え切れない。

Yが死んでからの数週間はとてもつらくて朝も夜も号泣しているような感じだった。

何かにつけ彼のことを思いだして、今彼が自分のことをどう思っているかなどと勝手に想像しながら、笑ってしずかに見守ってくれているような錯覚に陥ることで自分をはげましたりなぐさめたり、そしてもしかしたら自分を甘やかしてきたのかもしれない。

Yのことはできれば自分の実名で書こうと思っていたのだが、今ここで書いているのはなぜかといえば、彼のことを思いだす頻度が昔に比べればあきらかに減ってきているからであって、もしかしたら自分の中から彼の存在が消えてしまうかもしれないというかすかな予感さえあるからである。

Yのことを思い出す資格など自分にはないとも思うが、そんなことに資格などないはずで、自分は彼のことは絶対に忘れたくはない。

今年も自分にとって大切な人をまた一人なくしてしまった。

生きている限り自分の大切な人をなくしてゆくのは仕方がないにしても、うらみ骨髄の人たちがあいかわらずピンシャンしているらしいことだけはどうにかならないかと思う。

といってもそういう人たちは自分より若い人が多いので逆にこっちもそう思われているかも知れない。

この人間だけは許せないと思っている人間の一人は視力が弱かった。

その人間のことは忘れようとしてもとても忘れられるものではなく最近また思い出すことが多くなった。

自分はとにもかくにも五体満足でこのように視力が衰えることもなく上のような写真を撮ってブログを更新したりしている。

これがばれたらきっと彼女はバカにするだろう。

というより全く相手にされてないわけだから、いつか「目にものを見せてやる」などと思うが、そのためにはとりあえず彼女にも長生きしてもらって目も大事にしてもらわないと困るなどとも思う。

というわけで自分はすごく性格が悪いわけだが、性格が悪くなったのにもそれなりに理由があることだけは分かってほしいなどと誰に言うともなく書いておこう。

ただの椅子の写真ですが

2005-12-09 23:02:17 | つぶやき

これは都内某所にあった椅子であるが、こういう椅子を見るとすぐに座ってみたくなる

なぜ座りたくなるかというと、自分は数年来腰痛に悩まされているからである

今日は特にそれがひどかった

家を出る前からいきなり背中全体にまるで電気ショックでもあびたかのような痛みが走って、背中中が固まってしまうような感じさえした



短い時間ではあったけれど、以前にも電車の中でも同じような体験をしたこともある

歩いていてもやはり腰というか背中が痛くてこういう椅子を見るとその上でのけぞってみたりしたくなって実際やってみた


少しよくなった

別に腰はあまり使わないし、わたしというかこのブログが嫌いだけども、いろいろな理由から見てる人もいるかもしれませんが、まだまだ長生きしますんでよろしくお付き合いください

ある牛どんやで見たもの

2005-12-07 21:20:45 | つぶやき

とある有名牛丼チェーン店で見かけた壁である。

盆には同じ映画のポスター風の葉書があって、送ると抽選で鑑賞権が当たるかもしれないらしい。

切手は貼らねばならないのだが、切手は余ってるのでそれで送って、もし当たったらそれをどこかへ売ればいいなどとせこいことを考えている。

それと今思いだしたが、本当は金を送ってもらうべきところを切手を送られて頭に来たことがある。

せっかく忘れていたのに、全く関係ないことで思い出してしまった。

そのことが頭に引っかかってこれ以上何を書けばいいのか忘れてしまったではないか???

ロッキー6?撮影開始したらしい。

2005-12-04 22:42:06 | つぶやき

こちらなどに書いてありますが、ロッキー6の撮影が開始された。

ラスベガスで実際のボクシングの試合の前に撮影されたらしい。シルベスター・スタローンも59歳で最近はあまりヒット作に恵まれてないらしい。

ロッキー5からも12年が過ぎているそうだ。

チャック・ウェップナーに自分がモデルだとして、スタローンが訴えられたのは記憶に新しいところ。今度は引退したボクサーが復活する話らしい。

スタローンの映画はいろいろあって、以前友人にまわってきた株主招待券で見た映画は全く失望させられた。たしかサッカー場が舞台だった。あとファンクスなどが出たパラダイス・アレイも自分にはいい映画だったがあまり評判はよくなかったと思う。

コブラは良かった。ブリジット・ニールセンが好きなタイプなんてあまりに非現実的だが、イラストを現実にしたような容姿だった。

シリーズものは続けてゆくのが難しいし、完結というのももったいないこともあるだろう。

ロッキーの第一作を見たときは感動して、その後よく朝などにジョギングしたのはたぶんその影響だったと思う。

高田馬場にあった小さな洋書屋でロッキーの本を買ったのも考えてみるともう数十年前になる。ロッキー4はたしか劇場で見たがハルク・ホーガンが出たのだったろうか。

それもかなり前の気がする。

第一作にでていたマネージャー役の老人もたしか物故しているはず。

時がたつのは早いものだとあらためて思うと同時にあの映画をテレビで見て感動していた若い頃がなつかしい。