公立の小中学校の校長の年金が事務次官より高いというので、教員の給料を下げる話が浮上してきた。
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このブログを見ている人もいろいろな職業の人がいるだろうし、自分の数少ない友人の職業も決して一様ではない。そんなこんなで書きにくい部分もあるのだが、こういう動きに関しては私は反対である。
非常に大雑把な議論で教員の年金や給料が高すぎるということを主張しているようであるので、こちらも大雑把な議論になってしまうが、いくつかの点でこれには疑問がある。
まず事務次官の年金と教員の年金を比べているが、退職金はどうなっているのだろうか。数年前事務次官の退職金は9千万近いということでいろいろ批判されたのではなかったか。まさか今は減っただろうが、いずれにせよ教員の退職金はその何分の一でしかないのではないか。
そもそも月に26万という年金が飛びぬけて高いかというと、自分は決してそうは思わない。公立の小学校や中学校を定年まで勤めてそれぐらいの年金であれば、これが高すぎるとまでいえるかどうか。
役人の人たちから言わせれば、自分たちの方がはるかに優秀で厳しい競争を勝ち抜いてきて、何で小学校の校長より年金が低いのだ、と思われるかもしれないが、もともと公務員の給料や年金などというのはそれほど高いものではなくて、職種によってそれほどばらつきがないものなのである。
それと当たり前のことだがこれは年金の話であるがこの記事に見られるように、校長の年金が事務次官の年金と比べて高いということを言ったあとで、突然一般行政職と比べて教員は人材確保の点から給料が高くなっていることを指摘している。
年金を事務次官と校長で比べるならば給料や賞与に関しても比べるべきではないだろうか。
私はよく知らないが、小中学校の校長は事務次官より高い給料や年金をもらっているのだろうか。たぶん校長のほうがかなり低いはずだ。
年金の話であれば、本当は年金の種類ということも検討されるべきであると思うが、そういうことはまったくなしに一般行政職と教員の給料の比較になっているのもおかしい。
まず各省の事務次官は国家公務員で、公立の小中学校の校長は地方公務員である。どちらも共済年金であろうが、これはどれぐらいにの金額をどれぐらい納めているかによって年金の支給額も違ってくるであろうから、小中学校の校長のほうが、かりに事務次官より給料が安くても在職中に年金に払った金額の総計が事務次官のそれよりも多いということはおおいにありうることではないだろうか。
ようするに年金に対して多く支払っていれば、その分支給額は多いはずでそうなっていなければむしろおかしな話である。制度がそれぞれどのようになっているかは分からないが、単純に言ってそれだけの話しに過ぎないのではないか。
生涯賃金などは考慮せずに単純に事務次官と校長経験者の年金を比べて、給料から年金から教員は減らせではあまりにも理不尽な感じがする。
また比較は難しいが、国家公務員と地方公務員とでは地方公務員のほうが給料が高いということもあるのではないか。
これもこの問題にからんでくるはずであるが、全く触れられてはいないようだ。
また仕事の質などは一概に比べるべきではないだろうが、今現在の教育現場というものはそれほどよいことばかりではないのだし、せめて給料ぐらい他の職に比べてやや高めにしなければあまりにもかわいそうだという気がする。
科学技術やITなどには莫大な予算を出し、人文系を筆頭に不毛な学問研究には研究費をたくさん出して、小中学校の教員の給料を減らすと言うのは本当にこの国にとってよいことであろうか。
もしほんの少しの給料が一般行政職に比べて高いぐらいで学校の先生になるという優秀な学生を増やすことはできないと考えるならそういう議論もありえるかもしれない。
しかし、私立はさておくとして、公立の学校の教員がそれほどいい仕事で、高給取りかというと決してそうではないだろう。
たとえば中学校にネイティブスピーカーの英語教師はたくさんいるが、この人たちはおそらくみな時間給であろうが、どういう給与体系になっているのかは分からない。しかし、たとえば町の英語学校の給料に比べて公立の学校の教師のほうがやたらに給料が安かったらとてもではないが、公立の学校で教えるネイティブ・スピーカーなどはいなくなるはずである。
だから日本人の講師とネイティブの外人講師とでは給料が同じであるかはしらないが、いずれにせよ、あまり給料が安かったら日本人だろうが外人だろうがあまり優秀なものは公立の学校では教えないだろう。
今から三十年ぐらい前の、就職難の時代に「でもしか」教師という言葉がはやったそうである。
一般企業があまり新卒を雇わないので教員に「でも」なるかという者や、教員になる「しか」ないものがたくさんでたらしい。そういうものたちが教員になった時代に教育現場でどういうことが起こったか、あるいはまだそうしたことが起こり続けているかあらためてここで書くまでもないだろう。
むろん使命感に燃えて最初から教員を目指している人もいるだろうし、給料などで働く意欲が左右されるのは教員としてあるまじきことだというのはもっともであるが、それははっきり言ってきれい事に過ぎないのではないだろうか。
以前平日の昼間に江戸東京博物館に行ったことがある。ちょうど小学校の社会科見学とぶつかってものすごい子どもたちの大声でわたしはうるさくて仕方がなかった。そこの職員も引率の先生もまるで気にしているふうではなかったが、私はあんなうるささは、短時間でも耐えられない。
教員というのはようするにそういう拷問のようなうるささに耐えるのが仕事の一部でもあると考えれば、これはかなりハードな仕事だということが言えるのではないだろうか。そして世の中にはものすごくきつい仕事だが、それをになってくれる人がいなければ社会全体が困る仕事というのがたくさんあって、そういう仕事にはある程度高い給料や年金が支払われるべきだと思うのは自分だけであろうか。
以前『極道の妻』たちという映画の一つの中の岩下志麻のせりふで「先生なんて給料やすいやろ」というせりふがあった。そこでの安いという意味はどういう意味かは分からないがようするに妹の縁談か何かで、教員と結婚してもそれほどいい生活ができるというわけではないということを言いたかったのだろう。
言い方はともかくとしてそれも真実の一面をついているように思う。いずれにせよ学校の教員は高い給料をもらうべきではないということがどのような理由からか必ずしも分からないが、いずれにせよ教員に対して冷たく当たる風潮ができるとすれば、それはますますこの国の教育をゆがめることにあるのではないかと思う。
すでにこうした形での教員に対する風当たりは強まってきていて、その風潮が教育現場を荒廃させてきたのかもしれない。むしろそのことが少なくとも自分にはより明瞭に意識できるようになるニュースであったと言うべきか。
もし予算削減という視点で言うなら、学校の事務職員を減らすことこそ検討されるべきではないだろうか。
これも今はどうなっているかは分からないが、一昔前だと一つの学校に事務員が何人かいてあまり忙しくはなかったという情報を得たことがある。
はっきり言ってそれぞれの学校に事務員は一人もいれば充分すぎるぐらいだろう。
教育委員会の職員でも本当は余り気味なのではないか。またあちこちにある教育相談所などどれだけ仕事があってどれだけ教育の役に立っているのか分からないところにも実はあまり忙しくない人は結構いるのではないだろうか。
学校の教員の給料を減らす以外にもたくさん減らすべき文教予算はあるのではないだろうか。