妄人妄語 衆議院議員野田聖子さんの選挙公約消去 有権者・国民を愚弄するサイト一時閉鎖に抗議します!「非道」はどっち?

すいませんがコメントはご遠慮いただいてます。選挙公約に関する記事はカテゴリから「野田聖子批判」を選択してください。

組閣に望むこと。文化庁長官などは文部科学大臣と兼任させて人件費を浮かせる姿勢を見せてはどうですか。

2005-10-30 21:47:53 | つぶやき

内閣改造に関しては予測がしにくいと言われている。情報がなくて番記者たちは相当困ってるんではないでしょうかね、などというコメントをNEWS23で田勢康弘はしていたようだが、そういう本人もようするに何も言ってないのに等しかったように見えたりした。

自分ももちろんまったく想像もつかないが、もうすでに北側国土交通大臣の留任は決まっているし、意外に留任が多いかもしれないなどとも思ったりする。

もちろん法務大臣はまず間違いなく替わるだろう。

あとはあまり興味ないが、川口順子などがまた入閣したらいやだとかそんなことを思う。

小泉チルドレンの入閣はないと思う。ハマコーやミッチーの息子さんたちもそろそろ入閣する時期なのではないかと思ったりする。

とにかく予想は全くできないが、たとえば罷免された島村農林水産大臣の後任として副大臣から大臣になった岩永を替えるということも自分には考えにくい。

それにしても組閣のたびに思うのだが、どうしてこんなにこの国は(よその国は知らないが)大臣が多いのだろう。

大臣とは別なのかもしれないが、組閣のときに決まる人事としてたとえば文化庁長官というのがあったように思う。

これは内閣とは別なのかよく分からないが、文部科学省の下部組織のようだ。

だとすれば文化庁長官というのは文部科学大臣が兼任すればすむのではないだろうか。

そうはならずに河合の留任ではないかとは思うが。

あと国家公安委員長というのも組閣のときに決まるように思うのだが、これも法務大臣が兼務すればいいのではないか。

どうも分かりにくいのだが、国家公安委員会というのは内閣府の組織のようで、こういうことを見ると、本当に省庁再編というのはあらためてやる必要があるように思えてくる。

こちらをご覧ください。

もちろん国家公安員会というのも文化庁というのもなくして公務員の数も減らすことができればそれに越したことはないだろう。

たとえば金融庁というのも5年前にできたようだが、これも財務大臣が兼任でいいだろうし、できるだけ早く財務省にと統合されてほしい。

ちなみに不思議なことにこれまた内閣府の下にある組織のようだ。

まだまだいらない役所はたくさんあると思うが今すぐにそういう役所をなくすことができないとすれば、できるだけ大臣を兼務させることによって人件費を浮かせるようにしてほしいものだ。

まさか大臣を兼務した場合には給与も二倍になったりしないだろうなと思っていたら、どうもそれはないようである。

こちらの情報からそうであることを祈っております。

                         文中敬称略

やや不調です。

2005-10-29 23:57:27 | クダ

最近どうも筆が重いというのだろうか、書きたいことが思うように書けないでいる。ここに書きたいことはたくさんあるのだけれど、どうも毎日これが書きたい、あれについて書きたいと思いながらも、まだ情報も集めてないし考えがまとまってないからあとで書こうなどと思っているうちにむなしく日々が過ぎてゆく。

自分が考えている事を全て書くことはもちろんできるはずはないのでとりあえず何でもいいから書いておこうと思うのだけれど、やっぱり読んでくださっている方がいることなどを思うとブレーキがかかってしまうこともある。

ここのところだいぶアクセスは減ったがそれでもずいぶんたくさんの人が見てくださるし、思いもかけぬところで紹介していただいたりといったことがあって、本当に自分でもこのブログを続けてきてよかったと思う。

何のためにブログを書いているのかは自分でもはっきりと認識しているわけではなくて、書いているうちに何らかの意味を見出してゆくことができるものなのかも知れない。

特に目標があってはじめたわけではないが自分はあまりタイピングも早くはないし、分かりやすい文を書けるわけでもない。

タイピングに関してはまだブラインドタッチはできないけれどとにかくこれは慣れるしかないのであろう。文を書くことも、慣れが大事なのだろう。でも新鮮な気持ちも忘れてはならないだろう。

アクセス数が一時的にでも増えるとつい「もっと増えるのでは」とかいろいろな気持ちも起きるし、これは下手なことはかけないな、などとも思う。
でもいろいろ慎重になったりしてるとなかなか思うようにブログを書くことができない。

そんなことをとりとめもなく最近考えている。

というわけでこれからもあまり正確ではなく配慮にかける点などもあるかもしれませんがそうした点は多めにみてほしいなどと私としては殊勝なことを書いて今日は終わりにしたい。

六本木ヒルズの近くに米軍の施設があるらしくてヘリ?がすごく低いところをよく飛んでるのがコワイです。

2005-10-28 23:02:32 | 町で見かけた嫌なこと
青山のあたりを歩いているとものすごい爆音とともにヘリが自分の真上を飛んでいるということがたびたびある。

ヒルズからそれほど遠くないところに米軍の施設があるらしくて、どうもそこに離発着しているようだ。

そこの人たちはなれているのかもしれないが、その場面に遭遇するたびに自分はびっくりする。とにかく自分の真上を飛んでいる感じで、ちょっとこわい。もう少し上のほうを飛べないものなのかと思う。

これがもし自分に落ちてきたらどうしてくれるのかと思ったりする。写真は望遠を使わずに撮ったものであるはずだが、それでこれだけ大きく写るというのはどれだけ近いところを飛んでいるのか想像していただけるのはないか。

ヘリがわりと近くで飛んでいるというのはここに限らないが、このあたりは特に低いところを飛んでいる。その米軍の施設は坂をちょうど下りたところにあるのでどうしても着陸するにはそのあたりで急降下しなければならないのであろう。

今日は自家用飛行機が高校のグランドに不時着したが、とにかくヘリであれ何であれ、安全対策は万全の上にも万全を期してほしいものだ。

国が六本木に美術館?を作っていた。ナショナル・ギャラリーだとさ。

2005-10-27 22:48:04 | 町で見かけた嫌なこと
今日六本木を歩いていたらこんなものを見かけた。
もうほとんど完成しているようだから完成したら利用させていただきますが、ここはそばにでかい道路があって交通量が多いし、どこが最寄の駅か分からないが、あまりわかりやすい場所ではないし、それより何よりこんなに都内には美術館がたくさんあるのにまた美術館だか博物館だか作る必要あるのかね。
ちなみに文部科学省がこの公共事業(かな?)に関して出してる発表らしきものは
これ以外にあるのでしょうか?

とにかく私はあきれてものが言えないです。黒川紀章の建築らしいが、外観は特に目新しい感じはしないというか、単なる流行の追っかけっこみたいな感じがしました。
九州にも新しく博物館はできたし、こういうものの維持費も馬鹿にならないはず。
先の選挙では国債の話しなどが出ていたけど、こういう建物が建てられていることは自分は全く聞いてなかった。どうしてそういうことを具体的に指摘する議員が(自分の知る限り)いないのだろう。

こういうのはもう必要ないと考えてるのはそれともわたしだけなのか。

ため息しか出ない。ちなみに自民党の公約にはたしか沖縄にまた大学をつくることも書かれていた。

沖縄にはいったいいくつ大学があるのかしらないが大学や文化施設と名がつけば税金の無駄遣いとは言えないということなんでしょうか。
もうそういう時代ではないと思いますがどうなんでしょうね。

                       文中敬称略

ロッテおめでとう☆しかし?!

2005-10-26 23:30:57 | つぶやき
ロッテが日本一の栄冠を手にした。日本シリーズ四連勝はすごいですね。ロッテはリーグ優勝自体もすごく久しぶりなのだろうからどうせならと言ってはへんだが、日本シリーズも優勝してほしかったが、四連勝とは驚きですね。

野球は詳しくなくて日本シリーズも全くといってよいほど見てないんだけど、少し気になるのは日本シリーズが四試合で終わってしまったということ。

いつかもこういう事が報道されたかもしれないけれど、たとえば日本シリーズを七試合やるのと、四試合やるのとでは球団の収入はもちろんだいぶ違うでしょうね。

もっと気になるのがチケットを手に入れた人はどうするのだろうかということ。普通に買ってれば払い戻しになるのかな。

でもたとえば金券ショップなどでプラチナチケットを手に入れた人はどうするんだろう。あるいはネット・オークションで手に入れた人もいるだろうし。

話は変わるが、以前なかなかリサイタルをしなくてしかもキャンセルすることで有名なマルタ・アルへリッチというピアニストのリサイタルのチケットを手に入れてアルヘリッチのリサイタルに行くといったところ後日、その人にアルヘリッチのリサイタル行きましたかと訊かれた。

キャンセルになりましたというと、その人は自分がアルへリッチのリサイタルに行くことをだんなさんに言ったと言う。そうしたらそのだんなさんは「やらないと思うよ」と言っていたと笑って言われてしまった。

話はまったく違うけれど、なかなか手に入らないチケットを手に入れてそれが無駄になったときのショックはものすごく大きい。

そんなわけで阪神にはもう少し頑張ってほしかった。あまりよく分からないが、実戦を少しでも離れると調子が出ないと言うこともあるのかもしれない。

今日知ったこと二つほど。日本体育協会会長は誰だか知って驚いた。

2005-10-25 22:01:43 | クダ
今日あるスポーツに関する雑誌を見ていたら森喜朗が日本体育協会の会長だと書いてあった。驚いた。
インタビューが載っていたのだけれど、その内容にはそれほど興味はもてなくて、興味を持ったのはその写真である。
この人をうまく撮ることができるのか分からないし、「見てくれ」のよしあしというのは主観によるところが大きいだろうからなんとも言いようがないが、その写真を見るとなんともたとえようがない下っ腹の出かたである。
この人が太っていることは誰でも知っているのだが、それにしてもあれだけ下腹部を強調した写真というのをこういうインタビューで載せるというのはわたしには驚きだ。
見るからに運動不足でスポーツをしている体型には見えないと思う人が多いのではないか。
別にこの写真を見なくてもそんなことは分かるが、この体型で「スポーツの振興」を図ってきたというようなことを言われると、読む方はびっくりする。
インタビューの写真というのはよく何枚も撮ると言われるが、これはプロの撮った写真ではないだろう。もちろん写真に撮られるほうもあまり細かいことにこだわらない人のような感じだ。
それと平成25年に東京国体が開かれることが決まっているらしい。このことも今日はじめて知った。あともう一つスポーツ紙で今日知ったことがあるが、あまりネット上のニュースには出ていないようだ。いずれあらためて書きたいと思っている。

                          文中敬称略

川口より子は年をサイトで公開すべきでは。自分の名前をひらがなで表記する議員が多い。

2005-10-24 23:34:59 | つぶやき
参議院神奈川選挙区の補欠選挙区で川口順子が勝利した。先の衆議院選挙の後では自民党を勝たせすぎたと有権者が考えているのではないかということがよくいわれていたが、この結果を見るかぎりそういうことはいえそうもない。

まずこの選挙が行われたのはなぜかというのは民主党元「参議院議員」の斉藤頸が先の衆議院選挙で小泉に対する「刺客」として参議院議員を辞職したからだったはずだ。

まず先の衆議院議員選挙に関してすごくお金がかかる選挙を勝手にやるのはけしからぬということがいわれた。

たしか野田聖子が500億以上かかるといってテレビで批判しているのを見たがその後その数字は700億以上にもあがっていった。

たしかに税金の無駄な使い方はよくないが果たして衆議院選挙が無駄と言えるだろうか。有権者の側から言わせれば選挙自体はむしろあまり間をおかずにやってほしいと思うのは自分だけだろうか。

ようするに選挙費用がかかりすぎるということが問題なのであって、選挙費用が高いので選挙をやるべきではないというのはおかしな話しである。

先の衆議院選挙ではこうした小泉解散劇に関する批判や「刺客」そのものに話がかたよりすぎて、「刺客」の立て方に関してはいわゆるワイドショー的注目にとどまってしまった感があるが、もともと参議院議員だったものや市長だったものが「刺客」として擁立されたために補欠選挙などが行われたことについてはあまり批判されなかったようである。

こうした補欠選挙などこそ本当に税金の無駄使い選挙ではなかったか。自分が衆議院議員になりたい、とかだれそれの「刺客」になりたいといった個人の希望によって自分から任期途中で議員を辞職してしまったがために選挙が行われるというのはそれこそ個人の勝手で税金が使われることになるので全くもってけしからぬ話であると私は思う。

衆参同時選挙のときなどに「鞍替え」をするか、任期を全うして次の衆議院選挙に備えて参議院に立候補しないなど深謀遠慮が必要ではないか。でなければ有権者に対しても失礼ではないだろうか。一旦選ばれた以上、よほどのことがない限り参議院議員であれどこかの市長であれ、とにかくできるだけ任期を全うすべきであると私は思う。

少し事情は違うが青ヶ島の教育長も立候補して当選したが、この人に関してもまるで「公募」に応募することが目的化しているみたいで非常に自分は不愉快である。

さてまず斉藤頸のことに戻るがこの人の顔を見てピント来た人も多いのではないか。あの田中真紀子外務大臣の更迭騒ぎの直後に小泉が「女になかれるとどうしようもない。涙は女の武器だ」とかいったあとで斉藤が国会でこの発言を取り上げて、「女性蔑視」ではないかとして女性大臣にそれぞれ意見をいわせた。

そのとき川口順子は「わたしにも早くそうい男性が現れて涙は女の武器だといってもらいたいものだ」と言って塩川正十郎が大声で「うまいこというね」と言って呵呵大笑していた。

何を訊こうと訊くほうの勝手だがそれにしてもこれが国会で訊くことかどうかとあきれたのだが、ようするに斉藤という議員に関してはそのときのイメージが強く、それ以外には特に印象はない。

斉藤の後を川口が引き継ぐ形になったわけだがこれもなにかの因縁だろうか。

それにしてもなぜ斉藤頸が小泉の「刺客」足りうるのか全く理解にくるしむが、この人は比例名簿にも載らずにそのまま失職したのであろうか。だとしたらなんとも言いようがないが正直あきれ果てる。

他にも確か天木直人も小泉の選挙区で立候補していたようだが、こうした人たちはようするにお金がたくさんあるということなのか、単に目立ちたいのか知らないが、小泉相手なら選挙に落ちても本望だということか。そんな選挙区をまじめに取り上げていたNEWS23にも驚いたものであった。

わたしには今回の参議院の補欠選挙にしてもはっきりいって川口が勝つことは自明のことであった。それだけにひどくしらけた思いをしたのはわたしだけであろうか。

しかし川口をなぜ参議院議員にするのかよくわからない。この人が外務大臣になるとき民間から女性採用ということで騒がれたけれども、このひとはもともと役人だったわけで純粋に「民間」といえるのかどうなのか。その当時は民間にはいたのだけれどもとももと官僚だったわけだから、それほど「民間」ということで騒ぐ値打ちがあったのかどうか。

外務大臣をやった後には参議院のいすが用意されているのでは、そもそも民間から登用した意味がどれだけあるのか。

つまりこれははっきりいって順番が逆になっただけの話しであって、こういう手法で「民間」から大臣にさせてその「知名度」を利用して選挙にも勝たせると言う手法は非常にまずいと思うのはわたしだけであろうか。

やや事情が違うが元・東大総長の有馬朗人も同じように先に大臣になってから参議院議員になったのはなかったか。あまり活動したようにも思えなかったが、最近引退したらしい。

こちらをご覧ください

川口に関しては外務大臣当時の京都会議をまとめたことが評価されているようだが、あの議定書に日本はたしか長いこと批准しなかったので、批准しないことに関しては必ずしも川口のせいだとはいえないかもしれないが、いずれにせよ京都会議が成功したとは言えないと自分は思っている。

細かいことになるが川口は自身のサイトで自分の年齢を公開していない。女性と言っても議員になるのであれば当然公開すべきだと自分は思う。選挙広報などには書いてあるのであろうが、はっきりいってこの人も議員としてもかなりな高齢ではないだろうか。

ちなみに森山真弓も昭和2年生まれで大変なお年である。若ければいいというものではないし、あまり年のことはいうべきではないが、果たしてその年で国会議員であることがいいことかどうか。

それともう一つ細かいことであるが、国会議員に限らず最近人名や地名をひらがなにすることが目立つ。自分は誤字が多いし、あえてひらがなで書くことも多いが、たとえば筑波エクスプレスなどと言わずに「つくばエクスプレス」と言ったりするのはまだしも「TX」だかなんだかでそのことを思い出すのは自分には難しい。

川口順子も「川口より子」と書いたり、斉藤頸も「斉藤つよし」と書いたり、それ以外にも必要以上に自分の名前をひらがなにする人が多い。

「石原のぶてる」だの「石原ひろたか」だのHPに書いてあるのを見るとこういう人たちは有権者が字の読み書きがあまり得意でないと考えているのかと腹立たしくなる。

自分の名前ぐらいきちんと漢字で読み書きしてもらえないような人が国会議員でいいのかと思う。
  
                        文中敬称略


長生きしてやる?!今日は暗いです。死んだ後のPCはどうする。

2005-10-23 18:31:30 | つぶやき
非常に悲しい訃報がわたしのところへ入った。

教えてくれた本人もまだ実感がわいてないようだった。まだ自分も信じられないが、とりあえずその方のご冥福をお祈りしたい。

それにしてもこういう訃報が入るたびに思うのは、どうしていい人から先にあの世へ行ってしまうのだろうかということだ。こんなときにこんなことを書くのもまずいかもしれないが、いろいろ自分が恨みを抱いている人間たちというのはいっこうに死ぬ気配がない。

きっと私のことなど忘れているだろうが、むこうもそう思ってるかも知れないし、もし自分が先に死んだりしたら、きっとその人たちは喜んでどんちゃん騒ぎをするのではないか。

そう思うとやはり自分は長生きしてやろうと最近思うようになった。むろんこのブログを読んで頭に来てる人もいるかも知れないが、まだまだ続けてゆきたいと思っている。

それにしても人が突然死ぬと何かと大変である。わたしのような一文無しならただ焼けばいいだけの話であろうが、むろんそれにも金がかかる。人のことはあまり想像すべきではないかもしれないが、裕福な人が死んだ場合、全てを家族に話していればいいが、そうでない場合は本当に困るかもしれない。

またパソコンの中身をどうするかということもあるだろう。パソコンといえば家のパソコンだけではないわけだし、見るからにはメディアなども見とくべきものもあるのかも知れない。

実はPCに関してなくなった方と少しだけ話したことがあった。

もしかしたら自分がPCの中を見ることになるかもしれない。ご本人はそれをどう思われるかは分からないが、とにかくそういうことになりそうである。許してくださることをねがいたい。

もちろん自分は死んでもPCの中味はゴミしかないです。

けどここのことなどを一応他の友人に教えてある。

何かあったら頼みます。



教員の給与や年金を下げたりしたらますます優秀な人物はそっぽをむいてしまうだろう。

2005-10-22 22:55:02 | つぶやき
公立の小中学校の校長の年金が事務次官より高いというので、教員の給料を下げる話が浮上してきた。

こちらのニュースです

このブログを見ている人もいろいろな職業の人がいるだろうし、自分の数少ない友人の職業も決して一様ではない。そんなこんなで書きにくい部分もあるのだが、こういう動きに関しては私は反対である。

非常に大雑把な議論で教員の年金や給料が高すぎるということを主張しているようであるので、こちらも大雑把な議論になってしまうが、いくつかの点でこれには疑問がある。

まず事務次官の年金と教員の年金を比べているが、退職金はどうなっているのだろうか。数年前事務次官の退職金は9千万近いということでいろいろ批判されたのではなかったか。まさか今は減っただろうが、いずれにせよ教員の退職金はその何分の一でしかないのではないか。

そもそも月に26万という年金が飛びぬけて高いかというと、自分は決してそうは思わない。公立の小学校や中学校を定年まで勤めてそれぐらいの年金であれば、これが高すぎるとまでいえるかどうか。

役人の人たちから言わせれば、自分たちの方がはるかに優秀で厳しい競争を勝ち抜いてきて、何で小学校の校長より年金が低いのだ、と思われるかもしれないが、もともと公務員の給料や年金などというのはそれほど高いものではなくて、職種によってそれほどばらつきがないものなのである。

それと当たり前のことだがこれは年金の話であるがこの記事に見られるように、校長の年金が事務次官の年金と比べて高いということを言ったあとで、突然一般行政職と比べて教員は人材確保の点から給料が高くなっていることを指摘している。

年金を事務次官と校長で比べるならば給料や賞与に関しても比べるべきではないだろうか。

私はよく知らないが、小中学校の校長は事務次官より高い給料や年金をもらっているのだろうか。たぶん校長のほうがかなり低いはずだ。

年金の話であれば、本当は年金の種類ということも検討されるべきであると思うが、そういうことはまったくなしに一般行政職と教員の給料の比較になっているのもおかしい。

まず各省の事務次官は国家公務員で、公立の小中学校の校長は地方公務員である。どちらも共済年金であろうが、これはどれぐらいにの金額をどれぐらい納めているかによって年金の支給額も違ってくるであろうから、小中学校の校長のほうが、かりに事務次官より給料が安くても在職中に年金に払った金額の総計が事務次官のそれよりも多いということはおおいにありうることではないだろうか。

ようするに年金に対して多く支払っていれば、その分支給額は多いはずでそうなっていなければむしろおかしな話である。制度がそれぞれどのようになっているかは分からないが、単純に言ってそれだけの話しに過ぎないのではないか。

生涯賃金などは考慮せずに単純に事務次官と校長経験者の年金を比べて、給料から年金から教員は減らせではあまりにも理不尽な感じがする。

また比較は難しいが、国家公務員と地方公務員とでは地方公務員のほうが給料が高いということもあるのではないか。

これもこの問題にからんでくるはずであるが、全く触れられてはいないようだ。

また仕事の質などは一概に比べるべきではないだろうが、今現在の教育現場というものはそれほどよいことばかりではないのだし、せめて給料ぐらい他の職に比べてやや高めにしなければあまりにもかわいそうだという気がする。

科学技術やITなどには莫大な予算を出し、人文系を筆頭に不毛な学問研究には研究費をたくさん出して、小中学校の教員の給料を減らすと言うのは本当にこの国にとってよいことであろうか。

もしほんの少しの給料が一般行政職に比べて高いぐらいで学校の先生になるという優秀な学生を増やすことはできないと考えるならそういう議論もありえるかもしれない。

しかし、私立はさておくとして、公立の学校の教員がそれほどいい仕事で、高給取りかというと決してそうではないだろう。

たとえば中学校にネイティブスピーカーの英語教師はたくさんいるが、この人たちはおそらくみな時間給であろうが、どういう給与体系になっているのかは分からない。しかし、たとえば町の英語学校の給料に比べて公立の学校の教師のほうがやたらに給料が安かったらとてもではないが、公立の学校で教えるネイティブ・スピーカーなどはいなくなるはずである。

だから日本人の講師とネイティブの外人講師とでは給料が同じであるかはしらないが、いずれにせよ、あまり給料が安かったら日本人だろうが外人だろうがあまり優秀なものは公立の学校では教えないだろう。

今から三十年ぐらい前の、就職難の時代に「でもしか」教師という言葉がはやったそうである。

一般企業があまり新卒を雇わないので教員に「でも」なるかという者や、教員になる「しか」ないものがたくさんでたらしい。そういうものたちが教員になった時代に教育現場でどういうことが起こったか、あるいはまだそうしたことが起こり続けているかあらためてここで書くまでもないだろう。

むろん使命感に燃えて最初から教員を目指している人もいるだろうし、給料などで働く意欲が左右されるのは教員としてあるまじきことだというのはもっともであるが、それははっきり言ってきれい事に過ぎないのではないだろうか。

以前平日の昼間に江戸東京博物館に行ったことがある。ちょうど小学校の社会科見学とぶつかってものすごい子どもたちの大声でわたしはうるさくて仕方がなかった。そこの職員も引率の先生もまるで気にしているふうではなかったが、私はあんなうるささは、短時間でも耐えられない。

教員というのはようするにそういう拷問のようなうるささに耐えるのが仕事の一部でもあると考えれば、これはかなりハードな仕事だということが言えるのではないだろうか。そして世の中にはものすごくきつい仕事だが、それをになってくれる人がいなければ社会全体が困る仕事というのがたくさんあって、そういう仕事にはある程度高い給料や年金が支払われるべきだと思うのは自分だけであろうか。

以前『極道の妻』たちという映画の一つの中の岩下志麻のせりふで「先生なんて給料やすいやろ」というせりふがあった。そこでの安いという意味はどういう意味かは分からないがようするに妹の縁談か何かで、教員と結婚してもそれほどいい生活ができるというわけではないということを言いたかったのだろう。

言い方はともかくとしてそれも真実の一面をついているように思う。いずれにせよ学校の教員は高い給料をもらうべきではないということがどのような理由からか必ずしも分からないが、いずれにせよ教員に対して冷たく当たる風潮ができるとすれば、それはますますこの国の教育をゆがめることにあるのではないかと思う。

すでにこうした形での教員に対する風当たりは強まってきていて、その風潮が教育現場を荒廃させてきたのかもしれない。むしろそのことが少なくとも自分にはより明瞭に意識できるようになるニュースであったと言うべきか。

もし予算削減という視点で言うなら、学校の事務職員を減らすことこそ検討されるべきではないだろうか。

これも今はどうなっているかは分からないが、一昔前だと一つの学校に事務員が何人かいてあまり忙しくはなかったという情報を得たことがある。

はっきり言ってそれぞれの学校に事務員は一人もいれば充分すぎるぐらいだろう。

教育委員会の職員でも本当は余り気味なのではないか。またあちこちにある教育相談所などどれだけ仕事があってどれだけ教育の役に立っているのか分からないところにも実はあまり忙しくない人は結構いるのではないだろうか。

学校の教員の給料を減らす以外にもたくさん減らすべき文教予算はあるのではないだろうか。

絵文字のテスト

2005-10-21 12:32:47 | つぶやき
ここは絵文字もあるのですが、テキストでできるか試してみます。

絵文字とかスマイリーってあんまし使わないんだけど、

できるかどうかちょっと試しにやってみよう。

††‡
★☆☉☎☏☜☞☺☻☼♀♂♠♡♣♤♥♦♧♨♩♪♫♬♭♯

☀ฺ ☁ฺ ☂ฺ ☃ฺ ☄ฺ ☇ฺ ☈ฺ ☊ฺ ☋ฺ ☌ฺ

(´;゜;д;゜;`)

♡♥


Yahooの検索画面に「スポンサー・サイト」が出てくることについて

2005-10-21 01:17:57 | クダ
先日も書いたがYahooの検索システムが「リニューアル」された。
ひどく残念なリニューアルだ。たとえばYahooの検索画面で「前原代表」で検索してみると、上のほうにうすい青の背景でスポンサー・サイトの表示が現れる。
「前原通販ディノス」とか、「前原の新築マンション徹底比較」とかでてくるが、そういうのが出ないようにするために「前原」でなく、「前原代表」で検索してるわけで。。。
「関連検索ワード」で「民主党 前原代表」と言うのが出るが、そんなの二度手間というか、マウスを再び動かすのも無駄というか疲れが倍化するのでそういう動きはしたくないのに困ったものだ。
ちなみにその画面で「登録サイト」をクリックすると今あげた二つの「スポンサー・サイト」しか出てこないってどういうことなんだろう。
「前原」や「前原誠司」で検索すれば一応この人のサイトはでてくるが、いずれにしろ先ほどの二つのサイトはついて回るようだ。
しかしこの「スポンサーサイト」が「前原代表」でも「前原」でも「前原誠司」でも出てくるっていうことはようするにYahooや取引のある会社が提携してそうなるようにしていることなのか。

ちなみに「前田日明」で検索してみると一切スポンサーサイトなし、「前田」だと横にPRのでかいバナーが出てくるだけである。「長野智子」で検索したり、「長野子」で検索したりしてみるとどうもこれはとにかく「長野」を含む言葉には何でもかんでもこういう「スポンサーサイト」が出てくるようにしてしまったようだ。

しかし検索結果にこんな形で宣伝が出るようにしていったら、宣伝ばかりが増えていってそもそも自分のほしい情報が見つけにくいということにもなりかねない。

TOPにだって宣伝はあるのだし、TOPのどこかをクリックすればとにかく宣伝が出まくるわけだから、キーワードを入れての検索結果にまで登録サイトが出るようにしたらネット上は本当に宣伝ばかりになってしまいかねない。

Yahooは「スポンサー・サイト掲載について」とか、「リニューアルによる変更について」といった説明もしている。後者の方は問い合わせもできるようになっているようだ。メールで返事が来るらしいから、検索結果を見た側の人が検索結果に関して自分の希望は出せるようだ。

これはもともとキャッシュに関しても「キャッシュとは」のところから順順に見ていけば同じように質問は出せるのだからキャッシュや検索結果に関して人為的に変更することを要請することはできるわけだ。

かりに今後スポンサーサイトが増えていった場合、どのぐらいまで最初の検索結果のページを「スポンサーサイト」が占めるのかは分からない。スポンサーサイトも元からあったが、かなり目立つようになったし、増えたように思う。

ただで利用させてもらっているのだけれど、とにかくこういう「リニューアル」はすごく残念だ。

                     (文中敬称略)

小泉の靖国参拝を論じる側は東京高裁の判決などは無視しているところもあるようだが。。。

2005-10-20 00:28:02 | ど素人による法律問題
周知のように小泉が靖国を参拝したが、この参拝および大阪高裁の判決をめぐってはネット上でもすでにかなり詳しく論じられている。
自分は憲法を含め法律には詳しくないし、あまりたくさん情報も集めてはいないのだが、今回の小泉の靖国参拝に関してはいくつものことが複雑に絡みあって批判、あるいは議論されているようで、そうした議論の複雑さそのものが検証されてもよさそうなものだという気がする。

以下に小泉の靖国参拝に関していくつかの問題点を列挙してみる

1憲法違反である(大阪高裁判決、政教分離、思想良心の自由など)
2中国や韓国との外交上の問題(外交日程に支障をきたしている)
3靖国神社そのものに関する「問題点」(A級戦犯合祀の問題など)

これ以外にもいくつも問題点は指摘できるかもしれないが、いくつもの問題点がさまざまなレベルでこの問題を構成しているようだ。
たとえばどこかの大学かなにかの講座で首相の靖国参拝に関するレポートを書けなどと課題が出された場合、やはりこうしたことを全て網羅する必要があるのだろうか。

ちなみにこの裁判の訴状はこちらのサイトの「書面」や「訴状」をクリックして出るものでしょうか。原告の立場などもあるのでしょうが、それにしてもものすごくいろいろな問題が詳細に論じられているようです。

自分としては逆にこうしたことを全て網羅することに疑問を感じている。
はっきり言って、1に関していえば、小泉の靖国参拝自体が違憲かどうかは2とも3とも関係がないだろう。たとえば政教分離について論じる際どの宗教はよくてどの宗教は駄目だ、などと言う議論が起こってはならないと自分は考えているが、この国の一部の論調はまさにそうしたたぐいの議論の様相を呈しているようにさえ自分には思われる。

しかし政教分離ということに関しては憲法20条に「いかなる宗教団体も」とあるから、そもそも憲法問題を論じるならば、靖国神社そのものに関して議論すること自体おかしいのではないか。この赤の部分はよく朝2時ごろの追記です。

ニュース番組などを見ているものには1、2、3のことが次々と言われるので、こうしたことが峻別できなくなってしまうのではないだろうか。

たとえば加藤千洋は小泉の公約として「中国との友好的な関係を保つ」ということを守っていないのではということをたしか昨日の『報道ステーション』で言っていた。
今日は前原との党首討論で小泉が憲法19条の思想良心の自由を持ち出した事に関して隣りの20条は見てないのかということを言って、部分的に憲法の中から自分に都合のよい部分だけを取り上げることを非難していた。
なぜかかなり控えめなニュアンスで言っているし、違う日に言っているということはあるにせよ、やはり加藤の中ではこうしたことが一緒くたになっているかまたは、一緒くたにしたがっているように思える。
さて19条から20条を以下に引用してみよう。

**************************************************************
〔思想及び良心の自由〕
第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
〔信教の自由〕
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
**************************************************************

加藤は20条の中の「国から特権を受けてはならない」という部分を言っていたのであるが、20条は「信教の自由」を定めた箇所である。小泉の靖国参拝は「信教」とまでは言えるかどうかは微妙だが、もし20条一項の二つ目の文を言うのであれば、最初の文も言及しなければ、それこそ「つまみ食い」(と加藤は小泉を批判していたようであったが)に加藤の方こそ陥っていることになるのではないか。
「信教の自由」と「思想・良心の自由」の違いは前者には宗教が絡んでいることであろうが、いずれにせよ19条は憲法そのものに関する非常に難しい問題を含んでいるところだと私は認識していて、もちろん20条も解釈上の難しい点はあるであろう。

ここでは20条の一項にまず焦点を当てたいのであるが、自分としては第三項を解釈する際、第一項にある「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」という部分を踏まえたものでなければならないと思う。
つまり首相であれ、他の政治家であれ、「信教の自由は保障」した上で、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」としているのであるから、ここで言う宗教活動とは、(本当はそのような但し書き抜きで「宗教活動は」と言いたいのだが)、参拝のようなものを指して言うのではなく、たとえばなにかの宗教を始めるとか、自分のホームページにある特定の宗教の説明を書いたページを載せるなど、宗教そのものを広める活動のことを言うのではないか。
したがってたとえばある宗教の信者が個人的に行う行為を制限するものではないだろう。これはかってな解釈だと言う人もいるかもしれないが、当たり前のことだと言う人も多いだろう。

実際大阪高裁の判決の中では小泉が参拝することで靖国のサイトのアクセス数が増えたというようなことを言っているようであるが、これは小泉が意図してやったことではなく、小泉が参拝したことの副次的な効果と言うべきものであるから、これは特に宗教を広める行動とは言えず、こうしたことを持ち出して違憲だということはいかにもこじつけめいたことだと思う。

それと大阪高裁の判決は基本的に国が勝訴しているので、国は上告?できないということや、たしか東京高裁では同じような訴訟に関して憲法判断は示さず原告は上告するらしい。
こちらをご覧ください

轡田が言うように大阪の判決に従わないのでは遵法精神が失われると言うのは理解に苦しむ。
ようするにテレ朝は自分に都合のよい判決を持ち出しているのではないだろうか。


最後になってしまうがもちろん日本が近隣諸国に言い尽くせない被害を与えたことは自分も認めざるを得ないし、これからも中国や韓国との友好関係は維持してゆくべきだと思っている。
しかし繰り返しになるが、これは憲法とはまた別の話であって日本も「一応」独立した主権国家であることもたしかであるはずだ。

(すみませんが、いつもそうですが、今日は腕が痛くて、憲法訴訟?ということや、違憲立法審査権と違憲審査など、について他にもこれに関していろいろかきたいことがあったのですが、疲れたのでこれぐらいにさせてください)

このエントリーもまとまりませんが、大阪の判決が確定したらしいことなどは自分の幼いころからの友人が教えてくれたことを記して謝意といたします。また教えてください。

                       (文中敬称略)

若手官僚の留学費用の返還は基準を厳しくすべき。原田武夫は経歴をより具体的に公開すべきでは

2005-10-18 19:03:51 | 外務省と原田武夫批判
こちらのニュースでは若手官僚で早期退職した者に対する費用返還の動きが加速しつつあることを伝えている。人事院の意見書の内容を紹介しているページでは「返還義務の対象は帰国後5年以内の退職者」となっているが、これで充分だといえるだろうか。

「5年以内」ではなく、少なくとも「10年以内」とすべきではないだろうか。「2年間海外の大学院などに留学させる『行政官長期在外研究員』制度が問題となっている」とあるが、この制度は「2年間」と決まっているのだろうか。

かりに2年間留学して、その後5年以内に退職した者のみに返還を求めるというのではあまりに甘すぎるのではないか。

ちなみに原田武夫の場合1998年に「在外研修」から帰朝し、2005年に退職しているのでこの意見書の内容では返還の義務は生じないことになる。

こちらのプロフィールを見るとその「在外研修」期間は94年から98年までの長きに渉っている。

これは一体どういうことなのかよく分からないが、いくらなんでも「研修期間」が長すぎるのではないか。

「行政官長期在外研究員制度」自体は2年間だとすればそれを繰り返したのか、それとも他の制度を併用したのか分からないが、ようするにこうしたことは明らかにされていない。

原田のシンクタンクにある略歴はこちらの左のフレームの「ごあいさつ」にあるが、以下のようにやや異なった書き方になっているようだ。

1994年 在ドイツ日本国大使館に転勤
 ベルリン自由大学、テュービンゲン大学、ドイツ外務省研修所にて
      在外研修
 在ドイツ日本国大使館にて、大使秘書官および政務担当を歴任
1998年 帰朝

つまり非常に大雑把な書き方になっていて、それは個人の自由だといわれるかもしれないが、この期間は「転勤」なのか、「在外研修」なのかここではぼやかされてしまっている印象はいなめない。

また二つの大学に在籍していたようだが、学部なのか、院なのかも分からないし、どういう学位を得たのか得ていないのかもかかれてはいない。


何も書いていないところを見ると学位は得ていないのかもしれないが、それならそれでどういう資格でどういうコースにいたかなど、税金で留学しているなら明らかにすべきではないだろうか。

ようするに働きながら学んでいたということなのかもしれないが、外務省は学びながら働けるところなのか、あるいはそこに名前がある大学は働きながら学べる大学、というよりコースなのか、といったことが私としては非常に気になるところである。

もちろん原田に限らず留学して早めに退職した人間は官僚であれ、学者であれ、氏名やそれに費やした税金や奨学金の費用を全て公開すべきだと思う。

返還を求める制度ができるなら、できるだけ厳しい基準で返還をきちんと求めてゆく制度を作ってほしいものだ。

                        (文中敬称略)

ホワイトバンドの続き。OECD理事長に竹内佐和子東大教授が立候補したはずだが。。。

2005-10-18 00:41:18 | 外務省と原田武夫批判
大変すみませんが、今日はいつもにもましてまとまらないブログですが、そのうちまた書き直すかもしれません。

ホワイトバンドのページには世界銀行が最貧国に対する債務を帳消しにしたというようなことが書いてある。

こういうことを大きくサイトで書いてある場合、この世界銀行の決定がホワイトバンドの運動の高まりでなされた決定であるかのような印象を与えようとしている印象さえかもし出しているようにも見えかねない。

そんなことはありえない、そうした決定はこの運動とは全く関係ないところでなされたはずだと思われる人も多いだろう。自分もその一人だ。

しかし、だとしたらそもそもそういう運動や主張自体今ことさらに広げる必要があるのかということがむしろあらためて問われねばならないと思うのは私だけであろうか。

つまりいわゆる最貧国の対外債務というのが事実上帳消しになっている状態はかなり以前から続いているのではないかとも思われる。

これがはじめての帳消しかどうかはしらないが、もともと払われる見込みがないものを帳消しにしたところであまり意味はないのではないかと思われる。

それでもなぜ、こうしたことが行われるかといえば、さらにまた貧しい国々に借金をさせたり多額のODAを融資するためにこうしたいわば「身ぎれいにする」とでも言うような儀礼的なことが行われているのとしたら、これ自体一種のモラルハザードの悪循環の一部だといっても過言ではないだろう。

またいわゆる最貧国の中に中国やロシアが含まれるか分からないが、世界銀行の貧困の分析にはこの二つの国の貧困はかなり克服されつつあるものの、一応ロシアに関しては2004年の分析
こちらがあります。

中国に関しては都市部と地方で大きな開きがあるものの2001年の分析がこちらにある。こちらです。

ロシアも中国も大国であるが、こうした国も債務が免除されるのだろうか。

今はなんと呼ぶのが正式なのかは分からないがG8というのはもともと「先進国首脳会議」でSummitと呼ばれていてこれは冷戦時代に西側の諸国が集まって南北問題などについて話し合われるものであったのだが、いつのまにかロシアが入り込んでしまったようだ。

しかし考えてみるとアメリカにしても昔の話しだが、1920年代に関して「債務国から債権国へ」という言葉が使われるように昔は債務国であったのである。アメリカが債権国に転じたことには軍需産業の発達などがあったわけだが、考えてみると日本にしても戦後の経済復興というものは軍需特需が果たした役割は非常に大きい。

話が大きくずれてしまったが、ようするにここで確認しなければならないことは、債務帳消しを含めた対外援助のあり方として援助する国が民主国家であり治安が保たれているということが補償されているべきではないかということだ。

むろん軍事政権に支援することはまずいだろうし、かりに表向き民主化が達成されているかに見える国でも援助の恩恵が一般市民、国全体に行き渡っているかどうか常にチェックする必要があることは言うまでもないであろう。

日本はある意味敗戦後は民主化が達成され、自国のことのみに専念してこれたからこそ今日の繁栄が達成されたともいえるのだろうが、たとえば民主化された政府ということが世界銀行が分析している貧困の国の全てに達成されているかどうかは分からないし、ホワイトバンドのページでは「最貧国」が一体どこの国であるのか、自分は少しさがしただけでは分からない。

したがってどこの国の債務を帳消しにすべきといっているのか分からず、自分はこうしたことには詳しくないが、「世界の貧困をなくそう」といったようなきわめて曖昧な言葉で対外援助のあり方や南北問題の抱える難しい点が一切無視されてしまうということがあるのではないかということは言えるように思う。

「最」という言葉があるからといって、ある特定の国を指しているというわけではないようだ。

ホワイトバンドは先進国とか途上国といった言葉をたびたびもちいているが、先ほどかいてきたことは、つまりこうした線引きというのは「南」と「北」といった言い方でもできるのかどうかは分からないが国名を挙げなければ曖昧になる恐れがあるし、その考え方も必ずしも固定的にとらえられるものではないのではないかということである。

もちろん豊かな国と貧しい国は存在するが、日本が豊かだという人は、貧しい地方や私のような人を無視しているのだろう。

極端な話し国連ですら今は財政逼迫から老朽化した建物で雨漏りがして会議の場所を移動しなければならなくなったという報道があったばかりである。

これに関しては日本の国連大学もあることだし、日本のどこかに移すことはできないかとも思うが、いずれにせよ子どもが何秒に一人死んでいるということはどうにかしなければならないのはもちろんだが、いずれにせよ日本だって決して財政状況は芳しくはないので、それほど人助けばかりを言っていられるのかという問題はあるはずだ。

そしてまたはなしは戻るがホワイトバンドは「何で貧しいの?」と題されたページでこういうことを言っている。

こちらです

「借金を前の独裁政権の人が武器を買うためにしたのに、その借金を同じ国だからという理由で、民主化された後の政府が未だに背負っている国もあります」というのだが、これがどこの国のことだかまったく示されていないようだ。
たしかに、ウィキペディアのエチオピアに関する

こちらのページ

を見るとそういうことは言えそうだがこの国の80年代の状況というのはこのページで見ると惨憺たる物があったようだ。そしてその時代西側ではどうした文化現象があったといえば「バンド・エイド」などの大チャリティであってその創始者とも言うべきボブ・ゲルドフはホワイトバンドのページにも出ている。

このページ

には「20年前、アフリカ救済イベントで280億円の寄付を集め、喜んだのもつかの間、それがアフリカでは先進国への債務返済に一週間で消える額でした。寄付だけでは、貧困のスピードに追いつけないのです。みんなの意向を集めて、政策を引き寄せなければ」とあるのはようするにこうした運動に関して否定的なとらえかたをしている言葉のようにも聞えるが、80年代当時私がテレビで見た今はなきある高名な評論家の方は「ライブ・エイド」のエチオピアの貧困救済キャンペーンに関してだったと思うが、民衆の暴動が起きていることを引き合いに出して、そうしたチャリティ・イベントが当時の政権の延命につながりかねないことに言及していたと思う。

こうしたことで問題になるのは当たり前のことだが、国に対する援助はODAであれなんであれ、本当にその国の国民一人一人のためになるのか常に検証が必要であるということのように思われる。

国を通じた援助だとその国へまた日本の企業などがインフラ整備に乗り出すことで、これも公共事業になる可能性はあるし実際それはそうしてきたことではあるのかもしれないが、非常に曖昧ないい方になるが、金の使い方など気をつけるべき点は多いはずだ。

場合によっては自衛隊が直接その国に行って直接物資を配給したほうがいい場合もあるだろうし、できるだけそうしたほうがいいとさえ自分は思っている。

さてまた話は変わるが実はOECD理事長に東京大学の竹内佐和子教授が立候補しているはずだが、その結果が出たかどうかなどはまだ私はしらない。

たしかパリでも記者会見をしているはずだが、(こちらに書いてあります)そうしたことに関して外務省はまたどれぐらいの予算を計上したのか全くしなかったのかも私は知らないが、OECDの理事長にもし日本人が就任することにでもなったらますます日本はODAをふやすことになりそうで、非常に不安である。
                    
                     
                       文中敬称略

ホワイトバンドはネット上の広告などが発達し過ぎて利用者が混乱してしまった例の一つと言えるのではないか

2005-10-16 16:56:59 | クダ

ここが入り口であるホワイトバンドというものについてはネット上などで見て知っていたが、具体的な中味についてはしらなかった。今日たまたま「噂の東京マガジン」で週刊誌の紹介かななにかでこれが批判されているということをあらためて知った。何でもホワイトバンドを買っても「貧しい国」には全く寄付されないとかいうので、さらに調べてみると
こちらなどにそのことについて書いてある。


まず自分は寄付などに関してはどうしても斜に構えてしまうところがあって、全く寄付のようなことをしないわけではないし、必要なものであるとは思うが、本当にそれが困っている人の役に立つのかどうか疑問があるのではないかと思うことがおおい。

もちろん自分は人に寄付するような金持ちではなく、日々の生活にも困るぐらいであるが、そのせいかやはりこの「キャンペーン」には疑問を感じざるを得ない。

ここで寄り道だが、「キャンペーン」というのは一種の和製英語といえるかどうかは分からないが、「キャンペーン期間中は入会費無料」のような意味は英語にはないのではないだろうか。

さてこれをcampaignと考えた場合自分には選挙運動の意味で使われることが多いと思われる。もちろん何かの社会運動の意味で使われることもあるだろう。

ホワイトバンドは「キャンペーン」という言葉を使ったりプロジェクトという言葉も使っている。

ここで言いたいのは、どんな社会運動であれ、とかくこうした「活動」には選挙同様金がかかるものだということはたしかだが、それが仕方がない、ということではなく、自分が言いたいのは全く逆で、寄付する側、あるいはホワイトバンドのようなものを買う人もこれからはよほど注意しなければまずいことになってきているということである。

たとえばこのサイトには中田英寿が出ているが、こうしたものに協力すると有名人は名を落とすこともあるので気をつけるべきだ、などと書こうと思っていたが、どうも中田はこの運動に深いところでかかわっているらしい。

さてここでやっと本題に戻りつつあるが、どうもこの「運動」は分かりにくいというのは先のリンク先の以下の部分などである。

****************************************************************
「お金ではなく、あなたの声をください。その声をあらわすホワイトバンドを身につけてください。」これが、世界で展開するホワイトバンド・プロジェクトの共通のテーマです。
****************************************************************

お金ではなく、といっても実際にホワイトバンドを売っているのだから、こういう言い方はおかしいのではないだろうか。

本当にこういうことを言うなら、別にそこからホワイトバンドを買う必要はなく、自分で作るなり、テニス用品などを買って身につければいいのではないか。

逆にテニス用品のホワイトバンドや類似のものを普段身につけている人がいたとして、それがホワイトバンドの主張を体現していることにはもちろんならないわけで、結局そこからホワイトバンドを買うことがその主張にある意味「身をゆだねている」ことになることは明確で、その売り上げの数はその声が広まっていることを意味するものとして喧伝されてもいる。

はっきり言ってしまえばこれは商業活動ととられても仕方ないと自分は思っている。

たとえばネットでなにかの運動をしよう、あるいはこういう「声」を広めようと言った主張は個人のブログなどでもよく見かける。

しかしそうしたネット上の声というものが政策決定などにおいてどれだけの力を持ちうるのかということにはおのずと限界があるだろう。


もちろんホワイトバンドもおのずとその影響力に限界はあるだろうし、むしろ自分はあまりこういうものが影響力を持ってはまずいのではないかとさえ思っている。

ホワイトバンドのページを見ると、「300円の内訳をご説明します」と言うことが書かれたページは2005年09月22日の日付が入っているのだが、そうした説明は逆にそれ以前はなかったということだろうかなどとも思われる。

(注:日付に関しては最初にアップしたとき誤解していた部分があったので、すぐに直しました)

とえばホワイトバンドを買った人がホワイトバンドの活動について、とくにこれが募金活動ではないということについてきちんと知るように配慮されていたかという点に関してはむしろ説明不足を認めているようなものかもしれない。


ネット上に限らず一般的に言って宣伝というものはそれが「宣伝」に見えないものに工夫をしようと、たとえば広告会社はしのぎを削っているのだろうが、これがある種の政治的主張と結びついたとき、特に「宣伝」は、宣伝に見えなくなってしまう危険性が高まるだろう。

政治自体も宣伝になり果てた感もある今日だが、そうした宣伝か政治的主張か紛らわしいものに関して疑問をていしたり、その主張そのものに疑問を呈することもネット上では可能な「はず」であると思う。


このエントリーもなかなか考えがまとまりませんが、近日中に続きを書く「つもり」です。


                      (文中敬称略)