三浦半島上陸の地、米が浜の龍本寺をあとにした日蓮聖人は、当時の政治の中心・鎌倉に向けて歩いてゆきます。
途中には、遠い昔からの史跡があります。
池之端という商店街には、弁天様。
JR衣笠駅のほど近くにはお題目の法塔(右)。
台座には龍本寺の名前が刻まれています。
「金谷山」と刻まれているので、大明寺のお上人の書なのでしょう。
日蓮聖人五百遠忌に建てられたもののようです。
その左には・・・う~ん読めない・・・
「日蓮大菩薩・・霊場」の石碑
でも目指している方向は間違ってなさそうだぞ!
クラシックな衣笠駅を通り越し・・・
来ました!大明寺!!
スポーツで有名な三浦学苑高校に隣接しています。
まずは巨大な法塔がお出迎え!
法塔の台座には「石渡吉右衛門」さんの名前。
龍本寺の「石渡左衛門尉」と関係あるのかな?
境内は山に向かって奥に広そうです。
椿が満開!!
講中発見!
八幡村題目講中、今の久里浜あたりの講だと思われます。
山門です。
左右に仁王様が立っていますので「仁王門」かな?
傾斜地の山門って、お城の門に近い圧迫感がありますね~
山号は「金谷山」です。
東京湾フェリーは久里浜を出航すると金谷に着きますが、由緒はそれではなく、「後嵯峨天皇の第一皇子で、鎌倉幕府の第六代・将軍となり、後に謀反のかどで北条氏に追われた宗尊親王が当地に来て、谷あいから金色の光が発する光景を見て、「金谷山」と名付けた」とお寺の紹介に書いてありました。
デーン!!
重量感のある本堂です。
あれ?あの家紋・・・
葵の御紋だ!
徳川幕府と関係あるお寺なのかな?
なになに?
日蓮聖人が米が浜に建てた宗門最初のお寺「御浦法華堂」が手狭になったので(わかる!裏が崖であれ以上寺域が広がんないもんね!)この衣笠の地に移築し「金谷山大妙寺」としたそうです。
大妙寺・・・うんうん、日蓮宗のお寺っぽい名前ですよね~
江戸時代に十六石(すごいの?)の寺領を与えられていたそうです。ただその朱印状に「大明寺」と書き誤られたのが現在まで引き継がれているそうです。
江戸城に登城するときは十万石の格式が許されたお寺らしく、そのステータスから葵の御紋が付いているのかもしれませんね~!
常在殿です。
釈迦堂のようです。
中にお釈迦様の像が安置されているんでしょうね!
七面堂です。
日蓮宗のお寺は七面天女を祀るお堂が多いですね!
六地蔵です。
お釈迦様が姿を消している間、人々の苦しみを救ってくれるのがお地蔵さんですが、人間が繰り返す6つの世界の苦しみ(六道)を救うために六体あるそうですよ。
ここ大明寺は太田道灌公の子、資康公の五輪塔があることでも有名です。
戦国時代にこの一帯を治めていた三浦氏(この界隈ではヒーローっすね!)を北条氏が攻め入った時に、三浦氏救援のために太田資康公が江戸城からはせ参じ、討ち死にしてしまいました。
大明寺に葬られたという記録はあるようなのですが、墓が見つからなかったようです。
昭和56年に三浦氏の末裔の方の奥様(東京・板橋の日蓮宗のお寺のお上人みたいですよ!)が慰霊のためにお墓に代わる五輪塔を建てたそうです。
日蓮聖人像です。
岩の上ぽいところにお立ちになってる像が多いような・・・
不安定な足元でも姿勢はいい!!
鎌倉に入られる前のお若いころなのかな、がっちり体形です。
眉毛が印象的です。
たどった足跡が次々にお寺になっているなんて、やっぱりカリスマです。
境内にはこんな場所もありました。
人とのつながりの希薄な現在こそ、仏教の果たす役割は大きいのかもしれませんね・・・。
実は大明寺、戦前戦後の長きにわたって綱脇龍妙上人が住職をされたお寺でもあります。
綱脇龍妙上人は世界で唯一、仏教者によるハンセン病療養所であった、身延深敬園を開いたお上人として知られています。
大明寺の門前にある深愛幼稚園は昭和30(1955)年、綱脇上人が中心となって創設され、初代園長も務められたといいます。
綱脇上人が実践された福祉の精神は、今も脈々と受け継がれているようです。
さあ、あまりゆっくりしていられないぞ~!
鎌倉に向けて・・・次は高祖坂かな~?
最後にこんなのを見つけました!
初めて見た~!「百度石」
お百度参りの目印ですよね~!
しっかし・・・
ここ百度は、ヤバいでしょ?
受験シーズンの今、お父さんお母さん、トライしてみませんか?