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雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(72」

2020-09-08 05:27:57 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(72」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/182(2020/9/7/月】台風10号で引き籠っていたが、隠居と言うか仙人みたいな生活だなあと思う。社会人でも会社人でもない、カミサンに(お情けで)飼育されている老犬・・・ゴミ出し専用、猫よりマシ・・・そんなところか。


「全日本ゴミ出しヂヂイ連盟」、通称「ゴミG連」は地域社会のゴミ問題に取り組み、環境改善・老害対策に努めます、なんていうのはあり得るな。


ただ、組織とか集団は創れても、維持するのは難しそうだ。どうしても派閥はできるし、婦人部に手を出すヂヂイはまだしも、中には宗教や政党の勧誘、商売に利用する輩も出てくるから、よほど役員が結束していないと組織はもたない、自壊したりする。


ところが肝心の役員内部、幹部同士で争い始めて、そのために分裂したりは日常茶飯事だ。人間の性か、と思うが、組織も社会も国家、民族も大昔からそういう事態にならないように工夫はしている。建国神話、伝説、伝統、道徳、習慣、禁忌、礼節、長幼の序などなどが紐帯になっている。それは人間の智慧だが、一般的に「利」が絡むとタガが緩みやすく、長期の結束は難しいようだ。日本は神代の昔から天皇を戴くことで2000年も続いており、これは人類の奇跡だろう。


『麻雀放浪記』の阿佐田哲也(朝だ、徹夜だ!)の本名が色川武大とは知らなかった。彼の言葉だったと思うのだが「北(ペイ)も鳴かずば撃たれまい」というのがあって、仕事の上で麻雀、ゴルフを習い始めていた小生は雀卓で言われて「上手いこと言うなあ」と大いに感激したものである。授業料は痛かったが・・・


「雉も鳴かずば撃たれまい」、処世訓だな。


<余計なことを言ったばかりに、自ら災いを招くことのたとえ。口は災いの元、三寸の舌に五尺の身を亡ぼす、物言えば唇寒し秋の風>


言葉に気を付けろ、という戒めは多い。「沈黙は金、雄弁は銀」は英国産らしい。


<何も語らず黙っていることは、すぐれた雄弁よりも大切であるということ。イギリスの思想家カーライルの言葉で、「Speech is silver, silence is golden」から。よどみなく話せることも大事だが、黙るべきときを知ることは、もっと大事だということ。言わぬが花、言わぬは言うにまさる、言葉多きは品少なし>


「負けは負け、江戸っ子だろ、野暮は言いっこなし」なんていう言葉もあったなあ。夏彦翁によると欧州の社交界では「野暮」は厳禁だった。WIKIによると、


<社交界とは、王族、貴族、上流階級の名家などの人々が集い、社交(交流)する場のこと。英語の"society"から来ている。


歴史的には、爵位や称号など勲章や地位を持たぬ者は、基本的には出席することができない集まりだった。


知的で洗練された会話や振る舞いをすることが求められ、各国間での高度な外交や交渉事、政治や経済の方向性や流れなどが、あたかも世間話のように決められている歴史的な場でもある。


ヴェルサイユ宮殿などフランスの宮廷に起源を持つサロンが有名である。明治時代の日本でも社交界を育てるため、鹿鳴館が造られ、華族文化が開花した。現代日本においても、皇族、旧華族、名門家、政治家、高級官僚、財界人、各国要人、外交官・大使、名士などが集う"社交界"があり、夜会などが催されている。


近年、セレブリティー(著名人、セレブタント、成金など)らが集うパーティーやイベント等が、ほぼ同義の意味で多くのメディアで報道されたりするが全く別物である。それら単なる成金・平民富裕層の社交の場のことは普通「クラブ」と呼ぶ>


名家でも成金でも平民富裕層でもなく、しゃべくりもできない(断酒の副作用)小生は一人遊びのヒッキーでしか生きられないのか。ヒッキークラブを創っても誰もしゃべらない・・・気味悪いし、誰も来なくなるな。


<社交辞令:日常から行事、風習などといった場面での人間付き合いにおいて、物事を円滑に進めるために発言することが望ましいとされている挨拶や誉め言葉。相手に対して本音を言っている場合と、止むを得ずであったり、利益のために相手に対して不本意や偽りの態度をとっている場合とが存在する。


社会的交流の中で、相手を気遣う為に使う嘘や御世辞を言う事、答えになっていない様な遠回しな答え方、問題解決を後回しにする為に何らかの口実を使う事など。


しかしながら相手が、その様な答え方を求めていない場合などでは、問題が膨張し取り返しの付かない程の大きなトラブルへと発展することがある>


小生が現役の時は「仕事には政治や宗教の話題を持ちださない」「空気を読む、場違いな発言や行動はしない」「TPOを考慮する」というのは基本的なマナーだった。TPOは、Time「時」、Place「所」、Occasion「場合」の略で、時と場所柄と場合を考えて発言、行動すべしというのは社会人の常識、良識、ルールだったが、今もそうだろう。


人気商売、例えば芸人なら日共の「労音」と池田教の「民音」でのステージで応援メッセージを求められたら、まさか当たり障りのない「平和のために頑張りましょう」だけでは客は満足しないから「安倍政治にNO! 菅を許さない」とか「池田先生万歳! いつまでもご長寿で」とか言ってくすぐるだろう。


しかし、政治や宗教の色のついていないステージで、芸を見に来た観客の価値観にお構いなく、自分の個人的な特定の主義思想を公言するのは露骨なマナー違反ではないか。観客は憂き世を忘れて「芸」を楽しみたいから安くはないチケットを買って見に来ているのであり、芸人の主義思想を知りたいからではない。


こういう不埒な行為を野暮、無粋、下司、下劣、世間知らず、無知蒙昧という。周囲に「それは芸道にもとる」と諫める人もいないと、学ばざれば暗し、舌禍はやがて身を亡ぼす、自業自得・・・このまま突っ走れば観客ばかりかヒイキ筋、タニマチも手を引くだろう。孤立、そして破綻する。


外国交際=外交は「血を流さない戦争」だという。ニコニコしながら、餌付けしながら、時々「衣の下の鎧」をちらつかせたり「袖の下」で握ったり・・・自国のファンを創るためには何でもありのようだ。


中共の外交は毛沢東のスターリン詣でから始まったといって良いだろう。カネ、武器、技術などがなければ、米国の支援を受けている蒋介石軍との内戦には勝てない。


林賢參「建国前夜における毛沢東の対米戦略」(「アジア研究」2003年10月)から。


<終戦直前の1945年5月、中共七期党大会で毛沢東は「戦後の趨勢から見れば、米国の反ソと蒋介石の反共が必然の流れであるため、我々はソ連を必要とすると同時にソ連も我々を必要とする」と述べ、そして自信にあふれたように出席者に対し、「ソ連の援助が必ず来る。来なければ、俺の首を切っても構わない」と冗談めかして誓った。


彼は、スターリンが米ソ冷戦と蒋介石の親米反ソ傾向によって、中共を支持して蒋介石政権を倒す以外に選択肢はないという敵味方の関係を見抜いたからである。


対日開戦をきっかけに満州を占領したソ連は、毛沢東の予想通りに中共の協力者として再び中国で影響力を振るってきた。終戦後、国共の満州争奪戦から分かるように、ヨーロッパに端を発した米ソ冷戦の波は、すでに中国にまで押し寄せ、「国民党・アメリカ」対「中共・ソ連」という図式で展開されてきた。


それにより、ソ連の援助をもとにする中共の西北戦略は、満州を奪取して戦略的基地の樹立を目指す東北戦略として復活した。


満州の確保は、スターリンのソ連東部安全保障の構想にとって極めて重要な位置を占めている。ところが、終戦直後、米軍は国民党軍を満州に送り込むために、満州の航海ルートを制する青島などに上陸しはじめた。それに対し、スターリンは神経を尖らせ、対抗措置として中共という切り札を使って蒋介石とアメリカの行動を牽制しようとした。


1945年9月14日、ソ連極東軍の代表は中共の本拠地延安を訪ね、(中共の赤い)旗を出さないならば、中共軍の満州進出を認めると通告した。翌15日、劉少奇は直ちに政治局拡大会議を開き、ソ連軍が押収した日本関東軍の武器装備を取得するために、華中と華北を拠点としている100旅団の軍幹部と数千名の延安幹部を、丸腰で軍服を着用せずに迅速に満州に向かわせた。


当時中共の戦略的目標は、華北と東北の支配権を奪取し、それを以って蒋介石に立ち向かうというものであった。この政策決定は、国共内戦の流れに決定的な影響を与えた「東北戦略」であった。


10月4日、ソ連軍は中共東北局に対し、数十万兵力を装備できるような日本軍の武器弾薬その他の軍事装備すべてを中共に引き渡せると伝えた。その後、蒋介石政権の抗議により、ソ連軍は表向きではその引き渡しを拒んだが、実際には、暗黙のうちに便宜を与え、最終的にその引き渡しに支障は生じなかった。


中国社会科学院研究員楊奎松によると、11月初旬の時点で中共東北局は、日本軍の輸送機6機、戦車50台、100門以上の大砲、瀋陽軍需工場の設備、及び十数万兵力を装備できる満州南部にある日本軍武器庫の銃器弾薬を受け取ったのである。


こうしたソ連軍の協力について、毛沢東は 1945年11月12日に開かれた政治局会議で、「19万の軍隊を東北に派遣したということは、共産党樹立以来、はじめての大規模な部隊移動だ」と述べ、ソ連軍の協力によって全国各地に散在している中共軍を急遽満州に集結させた状況を報告した。


また「東北でのソ連軍の協力について、我々はしっかりやるべきで、外の誰にも漏らしてはならない。今のところ、我々は一部の(地方)政権を接収した。12万丁の銃、幾つかの大砲と(軍需)工場をも接収した。1、2週間後、ソ連軍が撤退する前に、接収工作を終わらせなければならない」と満足の意を隠さなかった。


それに加えて、ソ連軍は口実を設けて撤兵の期限を勝手に延ばしたり、国民党軍の満州接収を妨害したりして、中共軍の満州移動の所要時間を稼ぐことに務めてきた。


このようにして1946年2月末ごろ、満州の中共軍がすでに大砲や戦車など重装備と弾薬を大量保有し、31万9000名兵力にのぼるまで増強してきた。ソ連軍の協力がない限り、中共軍は短期間でこのように急速な増強を成し遂げることが不可能であった。


それだけに、ソ連軍の撤退後、満州の接収に来た蒋介石・国民党軍が直面した敵は、過去のゲリラ戦の兵器でなく、米製兵器にも劣らぬ日本軍兵器を装備され、しかも勢力が地方に浸透した中共軍であった。


満州争奪戦の火蓋が切って落とされた後、ソ連は中共軍の武器弾薬の補給者と避難所の提供者の役割を演じつつ、中共の満州制圧に大きな貢献をした。ソ連共産党政治局委員によると、48年の終わりまで、ソ連軍は総勢70万人分の日本軍の武器・弾薬を中共軍に引き渡した。


こうしたソ連軍の協力を背景に中共は48年11月、満州の奪取に成功し、その後満州を戦略的根拠地として蒋介石政権に致命的一撃を与えた「三大戦役」の勝利を収めた。


毛沢東は1949年2月4日の(スターリンの特使との)会談で、「仮にソ連からの援助が何もなかったとしたら、我々はほとんど今日の勝利を得られなかっただろう。我々はソ連から送られた援助額の4分の1に達する東北での軍事援助が非常に重要な役割を果たしたという事実も、決して忘れてはならない」と述べ、中共の勝利に対するソ連の貢献を高く評価したのである>


スターリンは毛沢東を格下の子分扱いしたが、世界で唯一の大スポンサーだから毛はスターリンが死ぬまで頭が上がらなかった。お目通りが叶うまで2か月も待たされるという恥辱にも耐えたそうだ。


TPOを弁えて「物言えば唇寒し秋の風、じっと我慢のシトシトピッチャン」で巨大帝国を築いた毛沢東はそれなりに偉かったが、スターリンが死んでからはブレーキがなくなって、まるで暴君、1964年の核保有以外はやることなすことすべて失敗、トウ小平がどうにかまともな国にした。


それを毛沢東原理主義の習近平がちゃぶ台返しで滅茶苦茶にしようとしている。改革開放で美味い汁を吸ってきた幹部連中は、このままではやがて習近平流の文革で「腐敗分子」として吊るし上げられ、資産を奪われ、公開処刑されるだろう。座して死を待つか、先手を取って習近平を殺すか、二択しかない。中共と世界は岐路にある。