2022年6月17日公開 日本=フランス=フィリピン=カタール 112分
夫と死別してひとりで慎ましく暮らす、角谷ミチ(倍賞千恵子)は78歳。ある日、高齢を理由にホテルの客室清掃の仕事を突然解雇される。住む場所をも失いそうになった彼女は<プラン75>の申請を検討し始める。一方、市役所の<プラン75>の申請窓口で働くヒロム(磯村勇斗)、死を選んだお年寄りに“その日”が来る直前までサポートするコールセンタースタッフの瑶子(河合優実)は、このシステムの存在に強い疑問を抱いていく。また、フィリピンから単身来日した介護職のマリア(ステファニー・アリアン)は幼い娘の手術費用を稼ぐため、より高給の<プラン75>関連施設に転職。利用者の遺品処理など、複雑な思いを抱えて作業に勤しむ日々を送る。
果たして、<プラン75>に翻弄される人々が最後に見出した答えとは―――。(公式HPより)
果たして、<プラン75>に翻弄される人々が最後に見出した答えとは―――。(公式HPより)
是枝裕和監督が総合監修を務めたオムニバス映画「十年 Ten Years Japan」の一編として発表した短編「PLAN75」を早川千絵監督自ら長編化した作品で、年齢による命の線引きという制度を、当事者である高齢者や若い世代はどう受けとめ、何を選択し、どう生きていくのかを問いかけています。
2025年。高齢者が国の財政を圧迫して皺寄せがきていると恨む若者による老人襲撃事件が相次ぐ事態を受け、満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>が国会で可決・施行されます。物議を醸す一方、超高齢化問題の解決策として受け入れられていきます。
ある日、同僚の同年代の女性たちと健康診断に行ったミチは、〈プラン75〉のCM広告を目にします。病院や役所など至る所に〈プラン75〉を推奨する広告が貼られています。 同僚の一人が孫のために腹を括って〈プラン75〉を申請するともらえる10万円で最期に贅沢をしたいと話すのを聞いて、独り身のミチと稲子(大方斐紗子)は複雑です。
娘家族と疎遠で「寂しいだけが人生だ」と言っていた稲子が、ホテルの清掃突然倒れ病院に運ばれたことがきっかけで、ミチたち高齢女性が年齢を理由に解雇されます。
突然職を失ったミチは、家の立ち退きを迫られて不動産屋を何軒も回りますが、部屋は見つかりません。やっと見つかった職は夜の交通整備の仕事で、寒空の下の仕事はこたえます。退院した稲子と連絡がつかず不安になったミチが家を訪ねると稲子が孤独死していました。仕事、住む場所、友人を次々失ったミチが<プラン75>に目を向けるようになる過程が淡々と描かれていき、切なさと世間の冷たさへの憤りがこみあげてきます。
娘の手術費用を必要としていたマリアは、仲間から高額の報酬が貰える〈プラン75〉の関連施設の仕事を紹介されます。それは〈プラン75〉に応じた人の遺品整理の仕事でした。同僚が遺品を着服しているところを目撃したマリアに、同僚は死人はもう使わないと言ってマリアにも遺品を差し出し彼女は受け取ります。
〈プラン75〉の申請窓口で働くヒロムの前に、叔父が〈プラン75〉の申請にやってきます。長年音信不通だった叔父(たかお鷹)との再会に動揺を隠せないヒロム。上司からは3親等内は担当できないと外されてしまいます。
〈プラン75〉の申請をしたミチは、連絡してきたコールセンターのと夫の話などを嬉しそうに話します。支給された10万円で、ミチは夫との思い出の場所に行こうと思い、瑤子に付き合ってほしいと頼みます。会うことは禁じられましたが言わなければバレないと瑤子は快く了承してくれました。
ボウリング場で夫とのデートで飲んだクリームソーダを飲み、ボウリング楽しむミチを見ているうち、情が移ってしまった瑤子は、ミチとの最後の電話で涙声になりながら心変わりしたら止めることもできることを再度伝えますが、ミチは「話せて本当に楽しかった、おばあちゃんの長話に付き合ってくれてありがとう」と伝え、翌朝施設に向かいます。
同じ日、叔父に頼まれ、葛藤を抱えながらも引き止められずに車で施設まで送り届けたヒロムでしたが、帰り道、車を止めると引き返します。施設で叔父を探すヒロムは、途中で目が覚めてしまったミチと目が合います。隣のベッドに既に息を引き取った叔父の姿を見て取り乱したヒロムは、叔父を抱えて施設から出て行こうとするところを、マリアが通りかかり手助けしてくれます。
叔父を乗せて火葬場に急ぐ途中、スピードを出し過ぎたヒロムはパトカーに止められます。一方、目を覚ましてしまったミチは、施設を抜け出して夕日を見つめます。それは生きようと決意したかのような表情でした。
後期高齢化が進むにつれ、世間の不寛容さも加速していっています。定年引き下げで労働人口を増やそうとする動きもありますが、長生きは歓迎されない時代になりつつあります。
健康診断のシーンで、稲子が、「こういうところに来るのは肩身が狭いね、いつまでも長生きしたいみたいで」と言っていたり、稲子の家にミチが泊まった際「今日は用心棒がいるから泥棒も来ない」と言うシーンがありましたが、高齢者に向ける世間の冷たい視線を端的に表現していたと思います。
2016年に起きた障害者施設殺傷事件の犯人は、人の命を生産性で語り社会の役に立たない人間は生きている価値がない考えていましたが、このような考え方が徐々に社会に蔓延してきているのです。政治家や著名人の差別的発言の根底にも通じている気がします。でも、家族や経済的に恵まれた高齢者はまず選択しないだろうし、結局は弱者の「姥捨て山」になるのではないでしょうか。経済格差が広がる中、〈プラン75〉が現実となる日が来ないと言い切れない現状を憂えます。
しかし、個人的には「尊厳死」と絡めて、その選択が国の思惑ではなく全くの個人の意思であるなら、許容したい気持ちもあるのを認めざるを得ません。何をもって「生きる」とするのかは、まさに個人に任されて然るべきだと思うからです。