京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

悪口の解剖学: ヘンリー王子への最高の悪口

2020年08月21日 | 悪口学

 

ヘンリー王子が環境保全を主張し、飛行機の利用制限を訴えたのに対して、イギリスの元運輸相のノーマン・ベーカーが、これを『肉食獣が菜食主義を勧めているようなものだ』と批判した。悪口はかくあるべしという、まことにセンスのある表現である。偽善的だとか売名行為だなどというよりずっと印象深くインパクトがある。ヘンリー王子がプライベートジェットを頻繁に利用していることは、CNNのニュース(https://www.cnn.co.jp/world/35141572.html)にもなっている。

 アメリカ元副大統領のアル・ゴアも、講演やドキュメント「不都合な真実」での環境問題での啓蒙活動が評価され、2007年にIPCCと共にノーベル平和賞を受賞した。しかし、本人が電気代のかかる広大な豪邸にすみ、庶民と比較しても、べらぼうにエネルギーを消費する生活をしてる「不都合な真実」が問題になった。環境問題などを唱え運動する人は、まず「自己否定」を率先して行わなければならない。そうでなければ、たいてい富裕有閑人による『肉食獣による菜食主義の勧め』になってしまう。

 

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悪口の解剖学: 三国志にみる悪口の活用

2020年08月17日 | 悪口学

   歴史的に最も有名な悪口文書の代表は、中国の「文選」に載っている陳琳の「袁紹のために豫州に檄す」であろう。

操は贅閹の遺醜にして、本より懿徳無し。剽狡は鋒のごとく協い、乱を好み禍を楽しむ........

袁紹の下にいた陳琳は「曹操打倒の檄文」を書いた。これには曹操の悪口だけでなく、祖父が宦官であったことや、父がその養子であったことにまでふれている。まさに罵詈雑言。曹操はそれを読んで激怒したが、後に、陳琳が捕虜になったとき、その文才を認めて命を助け文書官にしている。期待に応じて陳琳は、「呉の将校部曲に激す」を書き、「孫権は豆と麦の区別も出来ない若造で、こいつの名前は刑書に書き込む価値も無いアホンダラだ」などと激しく罵倒した。これらの檄文は「文選」という中国の古典に収録されているので、創作ではなく歴史的な事実のようである。

 三国志演義では諸葛孔明は魏の老臣である曹真に罵詈雑言の満ちた手紙を送り、憤死させている。これは演義のフィクションで史実ではないが、当時は、相手の士気を阻喪させ、味方を活気づける文書をばらまくのが、重要な宣伝戦であった。演義には、また孔明と魏の王朗が大軍を前に舌戦を展開し、ここでも孔明の罵倒により、王朗が憤死している。これも、史実ではないが、古代や中世の戦争では会戦の前に、一種のアジテーションをすることが多かったようだ。ギリシャの神々も戦いの前に、お互いに口上を述べ合い、相手を罵倒する掛け合いをすることが古典に書かれている(山本幸司参照)。

 日本の軍記物語にも、開戦前の口合戦が記録されている。源平合戦における屋島の戦いで、平家の中治郎兵衛盛嗣と義経の家来伊勢三郎義盛とのやりとりが残っている。盛嗣が「義経ちゅうのは、ガキのころ、あわれな姿で東北をさまよっていた舎那王のことだろう」とバカにしていうと、義盛も「てめえこそ、北陸で義仲にさんざん叩かれ、ほうほうのていで京に逃げ帰ってきた乞食野郎だ」と言い返している。頭が良くなくては、こんな悪口もすらすら言えない。戦闘前の口上は、兵士の士気を左右したのではないだろか?

鎌倉時代の御成敗式目には「悪口の咎の事」という禁令があって、武士の悪口は処罰されていた。名誉を重んじる武士が悪口によって闘殺にいたることが度々あったので、幕府は厳しきこれを禁じ、犯す者を処罰した。「悪態の科学」(エマ・バーン:原書房)という本にも日本では西洋に比較してFuckとかShitといういうな罵倒語が少ないのはこの歴史的な事柄によるとしている。

 

参考図書

山本幸司 『<悪口>という文化』 平凡社 2006

井波律子 『三国志名言集』岩波現代文庫 296 (2018)

陳瞬臣 諸葛孔明(中国ライブラリー15)集英社1999

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悪口の解剖学:『名曲悪口事典』

2020年08月13日 | 悪口学

ニコラム・スロニムスキー編 :『名曲悪口事典』(伊藤制子ら訳) 音楽之友社 2008

以下は本誌に掲載された19世紀の音楽評論である。

 

ショパンについて

 『多くの人はもっと悪く言うかもしれないが、比類なく馬鹿げて大げさな贅沢品の卸売業者である。(中略)ショパンの作品はどれも、大言壮語と耐えがたい不協和音のごちゃごちゃした外観である。彼が「このように」風変わりなことをしないときは、シュトラウスや他のワルツ作曲家以上のものではない。(中略)ショパンの怠慢には目下のところひとつの理由がある。あの恋多き魅惑的な女のなかの女ジョルジュ・サンドの抗い難い束縛に妨げられているのだ。同じく不思議なのは、かつて崇高で恐ろしく敬虔な民主主義者ラムネーの心を奪ったほどの彼女が、夢のような生活を手放してまでショパンという芸術的にも取るに足らない者と戯れることに、どうして満足できるのかということだ。』(ミュージカル・ワールド(ロンドン)1841年10月28日) 

ベートーベンについて

『《交響曲第九番》のオーケストラ部分全体が、実際とても退屈だった。幾度か寝入りそうになってしまった。(中略)非常に期待していた合唱部分に到達したときには、ずいぷんとほっとした。《ヤンキー・ドゥードル》のような八小節の陳腐な主題で始まった(中略)。有名な交響曲のこの部分に関しては、ほとんど互いに混ざり合わない奇妙で滑稽、たどたどしく捧猛でキーキー響く素材と、ただひとつのわかりやすい旋律からできあがっているようだ、と残念だがいわなくてはならない。プログラムに印刷されている歌詞に関していえば、まったくお話にならず、しかも一切の騒音がなにを意図しているのか、まったくわからなかった。総体的な印象としては、インディアンの雄叫びと荒れ狂った野良猫たちから成り立ったコンサートだった』(「The Orchestra」 1868年6月20日)

ワグナーについて

 『ワーグナーという男には、いささかの才能も備わっていない。彼の旋律は、といっても旋律がみつかる場面にかぎっての話だが、ヴェルディやフロトーよりもさらにまずいし、気の抜けたメンデルスゾーンよりも捻くれている。こうしたことはすべて、厚い堕落の壁に覆われている。彼のオーケストレーーションは装飾的だが下品だ。ヅァイオリンが最高音域で悲鳴を上げ、聴き手を極度の緊張状態に陥れる。私は演奏会が終わる前に席を立った。請け合ってもいいが、もし、あと少しそこにとどまっていたら、私も妻もヒステリーの発作を起こしていただろう。ああした神経症は、ワーグナー白身の持病だろうか?』(セザール・キュイがリムスキー・コルサコフRimsky,Korsakovへ宛てた手紙、1863年3月9日)

チャイコフスキーについて

 『《悲憤交響曲》は、汚いドブに人間の絶望の吐き溜を編み込んだ作品で、音楽がなしうるかぎりの醜態である。第一楽章は、ゾラの『クロードの告白』の音楽版と言ってよい。なんともいいがたい第二主題は、いわばハイネがいう「もうろくして思い出す幼な恋」〔訳注‥『新詩集』〕だ。それにしても幼な恋とは!風刺画家ホガースの書いた放蕩息子の恋だろうか,明らかにこの楽章には力がこもっている。野蛮で品のない楽想を、チャイコフスキー以外の誰が力あるものにできようか?斜に構えたリズムの第二楽章は、卑しいとしか言いようかないし、第三楽章は薄っぺらな悪態だ。最終楽章では、目のかすんだ脳梅毒に直面させられ、トロンボーンの荘厳な碑文が、締めくくりの言葉を述べる。「かくして堕落が続きます」(後略)。』(W.F. アブトーブ 「ボストン・イヴニング・トランスクリプト1898年10月31日」

  なんともどれも凄まじい。音楽評論というものは少しほめて、沢山けなすというのが正道かと思っていたが、この著が紹介する評論は、どれも頭から100%否定に徹している。しかも罵詈雑言に近いものが多い。それも相手はベートーベン、ショパン、シューマン、ワグナー、ブラームス、チャイコフスキーなどの大家ばかりである。読んでいて、頭がくらくらしてくる。どうしてこんな音楽評がはやったのか? 著者スロニムスキーの説では、この手のものでないと読者が読まないということらしい。あるいは、これを読んで、どんなにひどいか確かめるめるために、音楽会に聴衆があつまったのかもしれない。

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悪口の解剖学:獅子文六 『東京の悪口』

2020年08月13日 | 悪口学

獅子文六 『東京の悪口』新潮社 1959年

  文六のふるいエッセイである。東京はすみにくい。サイレンの音がうるさい。水道の出が悪い。電圧が低い。電話が自動式で交換手がいない。会合の回数が増えた(これは東京のせいではなく本人の問題だ)などというたわいのない不平不満が続く。どうなることやらと思って読み続けると、後の方ですぱっと一刀両断の悪口が登場した。

 『私は、街角や車中で、近頃の東京人が悪相になったと驚くことがある。男も女も、ずいぶん人相が悪くなった。美人は美人で、眼つきがよくない。(中略)一番人相のよくないのは、東京駅から湘南電車二等室ヘドッカと乗り込むような、チンビラ実業家だか、イソチキ改治家だかわからぬ連中で、必ずゴルフバッグを網棚へあげて、他人の領分を侵犯し、座席の方も、新聞やら、週刊誌やらを置いて二人分を占領する。この連中の顔つき眼つきを見ていると、明治時代の車夫馬丁のそれと、まったく変らない。精神生活というものと、完全に絶縁した人間でなければ、あんな面相にはならない。

 そのくせ、彼らの身許を洗ってみれば、恐らく大部分が大学を出ているだろう。東大出もいるにちがいない。日本の敦育とはどういうことなのだと、考える前に、あんな面にならなければ、東京の世渡りはできぬ事情もあろうと、側隠の情も起る。

 尤もこんな手合いと美人だけが、悪相を備えているのではなく、商人だって、サラリーマンだって、オフィス・ガールだって、学生諸君だって、ロクな人相はしていない。温厚や寛容の相は、どこに行っても、見当らなくなった』(以上引用)

 イヤハヤ、東京人の顔つきについて、なんともすごい悪口が展開されている。これは、最近では、日本人全体にあてなまりそうな悪口である。もっとも、コロナ騒動でほとんどの日本人がマスクをしているので人相の判定がむつかしい。

 

 

 

 

 

 

 

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悪口の解剖学:蕪村の京都人への悪口

2020年08月12日 | 悪口学

 蕪村は京都に来てから、転々と居を変えていたが、晩年になって仏光寺烏丸西入ルに落ち着く。仏光寺通りから南に入った路地の奥で、そこには地蔵が祭られていたという。蕪村は仏光寺通りの長屋住まいで、いろいろ苦労したようである。

 

以下2句はいずれも蕪村の生活感が出ている。

 我を厭う隣家寒夜に鍋を鳴す(自筆句帳984)安永4年

これには鳴鍋弁というタイトルがついた長い後書きが添えてある。

 比句の意は漢ノ高祖は沛と云所の人にて甚貧しくおはしけるに、嫂の方へふと行かれけるに、折しも何やらあつものを煮て居たりけるが、劉邦に喰う事を惜しみて、杓子で鍋の底を鳴らし、最早何もないと云うことをしらせて劉邦に喰せざりける故事也。

 しかし考えてみると、長屋の隣の亭主やカミさんが、劉邦の貧窮時代の苦労話を知っていて夜中に鍋を鳴らすわけがない。蕪村家族への単なる嫌がらせで騒音を立てているのだ。現代でも、神経の少しいおかしいこのような迷惑住民がたまにアパートにいて問題になる。ともかく「我を嫌う」仲の悪い隣人の日常的ないやがらせなのである。蕪村の後書きは、それを踏まえた上での一種の諧謔である。

 

  かはもりやむかいの女房こちを見る(自筆句帳298)

 蕪村のすむ長屋の天井裏にはアブラコウモリがたくさん住み着いていた。これはアブラムシと呼ばれ、天井を汚す気味の悪い飛翔動物として人々は嫌っていた。蒸し暑い夏の夕方、このアブラムシが蕪村の屋根の隙間からバタバタ飛び出していく様を鬱陶しくみつめる向いのカミサンと目があった。なんとも気まずい雰囲気がただよう。尾形功の校注(『蕪村全集:発句』)は、目があったのを艶情としてとらえているが、これはおかしな誤った解釈である。

 

高井几董(1741-89)への蕪村の手紙に、京都人への悪口が露骨に書かれている。

 何かに付け京師之心、日本第一之悪性にて候。日頃は左も不存候所、俳諧をはじめ候て後、つくづくと思い合候事共多御座候。凡日本過半は行暦いたし、人心之善悪も掌をさすごとくあきらめ居申候

(「何かにつけて京都の人間の心は日本一の性悪である。日頃はそうも思わないが、ここで俳諧をはじめて、つくづくとそれに思いあたることが多い。私は日本全国を歩き回り、人の心の善悪が掌をさすように分かっている」)

門人の中で若い几董ばかりを、蕪村が依怙贔屓するという陰口を伝え聞いて頭に来て書いた手紙である。蕪村は苦労人で、あまり人の悪口を云わない自制的な人だったが、たまに怒ると迫力がある。他国から京都に来て長年すんでいると、蕪村の気持ちがよくわかる気がする。京都人の裏表の違いがはっきりしているのには驚かされることが多い。

 

追記 (2020/08/13)

井上泰至 『<悪口>の文学、文学者の<悪口>』には蕪村以外にも、芭蕉や一茶の「悪口」も載せられている。ただ芭蕉のは、すこしハメをはずした路通にたいする師匠の揶揄だし、一茶のは相続問題で揉めている弟の批判である。

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悪口の解剖学: 筒井康隆老人の非美学

2020年07月31日 | 悪口学

 筒井康隆『老人の美学』新潮新書 8352019

  筒井康隆作品の本質はおおむね「人類への悪口」である。それが乾いたニヒリズムとなって、ときには陽気にときには陰鬱に、浮き沈みしながら漂流している。

筒井の初期のエッセイ集に「暗黒世界のオデッセイ」(星文社 1975年)というのがある。これは、田辺聖子さんとの対談を除いて、ほとんど悪口のオンパレードのような本だ。ここで、この悪口の王者が、悪口の解析をしてくれている。

  ある人がぼくに関して表現した悪意を、ぼくに伝えた友人がいた。

 「筒井のヤロー、って言ってたよ」

  この場合、この友人の意図は、ぼくとその人との仲をより悪くしたかったわけであろうが、ぼくの反感は幾分なりともその友人に向けらてしまうわけである。

  友人Aが自分に、「あの友人Bが君のことでこんな悪口を言ってたよ」と告げ口したとする。Bとは普段仲良くしているので、まさかあいつがと思が、あり得ないことではない。しかし、これは大抵の場合、Aが親切で情報を提供してくれているのではない。まず、Aは、Bを代弁者にして嫌がらせを言っている可能性が大だ。さらに、情報提供者のふりをして、すり寄り、かつBとの関係を悪化させようとする意図があるかもしれない。この手の悪口は、よく経験するが、目的は複合的で狡猾である。

 筒井のある個人に対する最近の悪口は、揚書『老人の美学』の第4章「老人が昔の知人と話したがる理由」に出てくる。このエッセイの要旨は、定年退職後の老人は、昔の職場や仕事上の知人のところに、むやみに出向くべきでないという、常識的な忠告である。

ここに、仁尾一三という、だいぶ前の小説新潮の編集者についての悪口がでてくる。芸術劇場で筒井が白石加代子と朗読劇を共演した楽屋に、突然、仁尾氏があらわれ迷惑したという話しである。その顛末が、ヤケにねちっこく描写されている。

仁尾氏は2010年に亡くなっている。気づかいのある作家なら、エピソードを紹介するにしても、名前は出さないものであろう。しかも、筒井は自分の新人作家の頃に、たいへん仁尾氏の世話になったと書いている。礼儀として名前を出さないのが普通だ。

ここで、筒井が普通でなくなっているのは、きっとこの仁尾氏に昔、忘れられないようなひどい目にあったか、あるいはイヤなことを言われたのだろう。老人になると、不快なエピソード記憶が、カビの生えたメモリー格納庫から、ある日突然、出てくることがある。これを人にしゃべったり書いたりするのは、あまり美的なこととはいえない。

 

追記1) (2020/08/03)

数学者の森毅は「信頼とは悪口の言える関係のことだ。たとえば、友人同士でここにいない別の友人の悪口を言うぐらいのことはよくある。そうした悪口はたとえば本人の耳にも入るものだ。絶対に本人の耳に入らないようようだと、それこそ陰口でいやらしい。そしてその悪口が本人の耳に入っても、友人関係は崩れたりしない。そうした関係が信頼というものである」といっている(『森毅ベストエッセイ集』ー池内紀編 ちくま文庫 筑摩書房 2019)。

筒井と森をとりまく人の質によって、悪口の考え方が違っている。一方は文芸関係者であり、一方はアカデミーの人々であった。

 

追記2) (2020/08/12)

井上泰至は『<悪口>の文学、文学者の<悪口>』(新典社新書 3、2008)で江戸時代の作家(芭蕉、西鶴、近松、蕪村、一茶、上田秋成らが発した悪口の読解を行っている。井上によると、文学者の悪口はけっこう多いそうである。文学には個性が要求され、こだわりをもつ作家は、いきおい悪口が多くなる。おまけに語彙が比較的豊富なので不自由しない。文学者の悪口がその作家の文学の本質とかかわっているとも言っている。

 

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悪口の解剖学:昨日の友は今日の敵

2020年07月30日 | 悪口学

ブライアン・サイクス『イブの七人の娘たち』大野晶子訳 ソニー・マガジン 2001

   科学研究者は、同じ目標に向かって、お互いに仲良く協力しあっているものかと思うのであるが、そのようなケースはむしろまれである。たいていは、商売敵として反目し合っている。この世界では2番手や3番手では意味がなく、一番であることが大事だ。いつもライバルに出し抜かれないかと注意してなければならない。そういったストレスが、相手への敵愾心と闘争心を高めることになる。これは、あらゆる学問分野でみられる傾向である。

ジャナン・レヴィンがドキュメント『重力波は歌う』(田沢恭子, 松井 信彦訳、早川書房 2016)において、物理学者のジョセフ・ウェーバとリチャード・ガーウインとが、重力波の有無をめぐって、MITの会議場で殴り合いになりかけたエピソードを書いている。敵対するマフィアでも、人前では紳士的にふるまっているというのに。

ライバル同士だけでなく、一度、共同研究をしたことのある教授と弟子、しかもその弟子が女性の場合は、相克はたいへん深刻なものになる。その例がブライアン・サイクス(Bryan Sykes, 1947~ )とエリカ・ハーゲルのケースである。ブライアン・サイクスは、イギリスの分子人類学者にしてオックスフォード大学分子医学研究所遺伝学教授である。1989年、『ネイチャー』誌で古代人骨からDNA型鑑定が可能であることを明らかにし、アイスマンのミトコンドリアDNAを解析したり、帝政ロシア・ロマノフ王朝の子孫と称する人のDNA型鑑定、イギリス人の姓とY染色体ハプログループの関係についても研究を行った。エリカ・ハーゲルは1980年代にサイクスの最初の助手になった女性研究者である。彼女は生化学の学位を持っており、DNA分析に関しては優秀な技量をそなえていたという。

サイクスの書によると、「エリカがわたしたちの研究所で過ごした最後の日々、われわれ二人のあいだに亀裂は広がるばかりでだった。それをなんとか修復しようとお互いに試みたことが何度かあったものの、彼女とわたしはあれ以来、ぎこちない関係のままだった。その緊張が、それからくりひろげられようとしていたドラマに特別な一面を加えることになる」と述べている。

要するに同じ職場の男性上司と女性の部下の間になんらかの深刻なトラブルが生じた。エリカは別のグループに移り、しばらくして、意趣返しするように、サイクスの学説を覆す内容の論文を発表した。

すったもんだしたあげく、結局、サイクスはエリカのデーターが間違いであることを自白させる。この著はそのドラマをなまなましく追っている。有名な学者が、これほどある個人との関係をさらけ出して、科学論争の顛末で述べるのはめずらしい。

 

 

 

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悪口の解剖学:小説的虚構の論文不正

2020年07月28日 | 悪口学

神里達博『リスクの正体-研究不正—事実と虚構の壁が溶けたか』岩波新書1836 2020

このエッセーはユニークな研究不正考である。一章をとって問題にしたのは、東洋英和女学院の元院長F氏の不正論文事件であった。

F氏の著作に重大な疑義があるとされ、同女学院が調査委員会をつくった。その結果、著書と論考に、他人の論文の盗用と内容の捏造があることが明らかになった。具体的には著書は『ヴァイマールの聖なる政治的精神-ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』(岩波書店、2012 年 196-199 頁)で、論考は「エルンスト・トレルチの家計簿」(『図書』岩波書店、2015 年 8 月号 20-25 頁)であった。研究と発表は、同学院でのものではなく別の大学に在職中に行われたものであった。

盗用はよくある話しだが、引用文献や資料の捏造はめったにない。科学論文でいうと、データーの捏造に該当する行為である(ただ、調べればすぐウソが判明するのだが)。学長は 2019 年 3 月 で、本件にかかわる著書及び論考の出版社に対し、書籍の回収、論考についての訂正・お詫びの掲載の措置を求める勧告を行なった。そして、2019 年 5 月 の臨時理事会でF教授の懲戒解雇処分を決定した。

盗用は10ヶ所もあるので、ウッカリではすまされない話しだが、ボケてましたとかいえる。しかし、捏造はまったく言い逃れができない。F氏は多数の著書、翻訳書を刊行し、学術受賞も多い実力者である。どうして、こんな馬鹿げた事をしたのであろうか?

掲書の著者は谷崎潤一郎の小説『春琴抄』を援用して、F氏が「実はあの本はある種の小説だったのです。新しい文学表現の実験でした」と弁明していたのではないかと述べている。無論、一種の諧謔であるが、これによって、このエッセイが単なる不正事件の報告に終わらず、気の利いた文化悪口になっている。

 

 

 

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悪口の解剖学:牧野富太郎おおいに怒る!

2020年07月22日 | 悪口学

牧野富太郎 『植物一日一題』ちくま学芸文庫 筑摩書房 2019

(牧野富太郎)

「日本の植物学の父」といわれる牧野富太郎(1862年 - 1957年)が、植物についての和漢の蘊蓄と見識とでまとめたエッセイ集である。ほとんどが、日本の植物を話題にしているが、二題の例外がある。一つは「小野蘭山先生の髑髏」で、もう一つは「二十四歳のシーボルト画像」と題する短編である。ここには、白井光太郎への露骨な悪口が書かれている。白井は牧野とほぼ同じ頃の生まれで、東京帝国大学理科大学を卒業、ドイツに留学して植物病理学を研究、東京帝国大学農科大学に世界初となる植物病理学講座を新設し、これの担当教授になった。1920年に日本植物病理学会を設立、初代会長に就任している。牧野は白井の何を問題にしたのか。その部分を抜粋して紹介する。

 「理学博士白井光太郎君の著『日本博物学年表』の口絵に出てくるシーボルトの肖像画は、もと私の所有であったが、今からずつと以前明治三十五、六年の時分でもあったろうか、私は白井君のこの如きものの嗜好癖を思い遣ってこれを同君に進呈した。この肖像は彩色を施した全身画で、白井君の記しているように二十四歳で文政九年 (1826)東都に来たときの写生肖像絵で、これは『本草図譜』の著者、灌園岩崎常正の描いたものである。そして私は当時これを本郷区東京大学近くの群庶軒書店から購求したもので、同書店ではこれを岩崎家の遺族から買い入れたものである。白井君はこの肖像の上半分だけを同氏著書、すなわち『贈訂日本博物年表』(明治四十一年)に掲げているが、それを私から得た由来はかって一度も書いたことなく、またいささかも謝意を表したこともなかったので、今ここにそれを私から白井氏に渡した顛末を叙して、その肖像画の由来を明らかにしておく。なおこのほかに灌園の筆で美濃半紙へ着色で描いた小金井桜等の景色画二、三枚も併せて白井君に進呈しておいたが、それらの画は今どこへ行っているのだろう。また小野蘭山自筆の掛軸一個も気前良く進呈しておいた』(以下略)

「シーボルトの肖像画」とは、江戸参府に随行したシーボルトを岩崎常正が写生したもので、シーボルトの紹介と服装の説明がされている(下図)。左上に目のスケッチが挿入された面白い絵であるが、現在は国立国会図書館蔵となっている。この貴重な歴史的資料の絵を、高額で牧野が手に入れた。牧野の郷里の酒屋がつぶれる前で、比較的裕福なころの話しであろう。それを、白井にやったのに、資料として出した著書に何のコメントもないのは、不義理なことだと非難している。

牧野と白井は、学科は違うとはいえ、おなじ帝国大学の講師と教授の身分である。実名入りで内容もあまりに露骨すぎるし、白井君と呼び捨てにしているのも、気になる(もっとも白井は牧野が東京帝国大学植物学科で教えた学生の一人であったが)。調べてみると、これが書かれたは1946年(昭和21年)で、出版されたのは昭和28年となっている。白井光太郎は1932年に、すでに亡くなっていたのだ。牧野は、こころおきなく悪口が言えたわけだ。

 

(岩崎常正画 シーボルト肖像)

 牧野富太郎は高知県高岡郡佐川町に生まれた。生家は雑貨業と酒造業を営む裕福な商家(「岸屋」)で、幼少のころから植物に興味を示していた。3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くし、その後、気丈な祖母に育てられた。10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳で郷校である名教館に入り儒学者伊藤蘭林に学んだ。19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、初めて上京した。東京では博物学者の田中芳男と小野職怒の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりした。22歳の時に再び上京し、そこで東京帝国大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ねる。そして、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可された。26歳で『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。自ら印刷技術を学び、絵も自分で描いた。牧野は多くの新種植物を発見するなどして、それを次々と発表した。しかし、周囲の人にたいして気を使わない性格も災いして矢田部教授らの反感をかい、教室の出入りを禁止されたりした。その後、31歳で、矢田部退任後(大学内の権力争いで罷免)に主任教授となった松村任三に呼び戻される形で助手となった。その頃には生家は完全に没落しており、研究に必要な資金にも生活費にも事欠いていた。それでも研究のために必要と思った書籍は高価なものでも全て購入するなどしていたため、多額の借金をつくり一家は困窮した。

『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』(昭和十五年小倉謙編東京帝国大学理学部植物学教室発行)で、牧野の東大植物学教室での処遇の変遷を追うことができる。

明治26年9月11日帝国大学理学大学植物学教室の職員録に、「牧野富太郎任帝国大学理科助手」とある。以降、明治43年3月に「休職ヲ命ズ」となるまで、長い間、助手を勤めている。この「沿革」には毎年、教員や生徒の名前や状況が記録されている。たとえば明治30年度に於ける植物学教室においては、松村任三教授、三好学教授が、それぞれ第一・第二講座を担任し、松村教授は第一年生徒の植物識別、第二年生徒の植物分類学、三好教授は第一年の普通植物学、第二年の植物解剖及び生理学実験、第三年の植物生理学を受け持った。助手は牧野富太郎の外に、藤井健次郎、大渡忠太郎であった。当時、動植第一学年に、宇野太郎、谷津直秀、矢部吉田禎、齋藤賢道などの秀抜が在籍した。

 明治43年には嘱託となるが、大正元年服部広太郎、早田文蔵とともに講師に任ぜられるとある。ここには教員の担当授業や実習が、こまかく記載されているが、「牧野講師ハ受持チナカリケリ」とされている。しかも、この記載が、毎年度、何回も繰り返されている。助手は学生の教育義務は課されていないが、講師には当然それがあった。その当時の植物学教室における牧野の行動と評価をかいまみる思いがする。一方で、大正4年には「牧野富太郎主幹(植物学研究)雑誌創刊」とあり、研究実績においては面目躍如といったところがある。牧野は昭和14年に辞表を提出し退職する77歳まで、その職にあった。講師は教授のように定年はなく、1年ごとの雇用更新だったそうだ。それまで誰も勇退を勧められなかったのは、牧野の博識が頼りにされていたからである(ただ辞任時にも大学との間で一悶着あったという)。退職後も、在職中と変わりなく植物の研究に没頭した。牧野は、各地で後学にたいして植物の観察や分類法を指導し、さらに多くの著書を残した。そして昭和32年、東京で94歳に及ぶ生涯を閉じた。牧野の人生は、まことに幸せなものであったといえる。写真の顔にもそれが表れている。

参考図書

高知新聞社編 『Makino』北降館 2014

コロナ・ブックス編集部 『牧野富太郎』平凡社 2017

 

明治三十一年秋。東大理科植物学教室実習室における三好教授と学生(谷津直秀、斎藤賢道、矢部吉禎)

    植物園前の学生たち。真ん中足を組んでいるのは斎藤賢道。

 

 

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悪口の解剖学:ジェームズ・ワトソン定番の嫌がらせ。

2020年06月28日 | 悪口学

 ジェームズ・デューイ・ワトソン(James Dewey Watson, 1928年)は1953年にフランシス・クリック(1916年- 2004年)とともに遺伝子DNAの二重螺旋の構造を解明し、1962年にノーベル賞を受賞した。

 ワトソンは、15歳で大学に入学し、20歳で遺伝学のPh.Dの学位をとり、シカゴの神童といわれていた。22歳で英国ケンブリッジに留学し、ここで知り合ったクリックと共同で遺伝子DNAの化学構造を明らかにした。

彼は科学者の伝記によく登場するような自制的なジェントルマンでは決してない。ノーベル賞受賞後に出版した『二重らせん』はベストセラーとなり、いまでも読み継がれているが、この本の中で、ロザリンド・フランクリンの撮ったX線回折写真を本人の承諾もなく見ることによって、DNAの構造を思いついた事をあからさまに述べている。

ウィキペディア(Wikipedia)の記事をみても、人種差別発言を繰り返すなど問題の多い人物である。当年92歳で存命中。

 マックス・ペルツ (Max・F・Perutz)は英国でX線解析法によるヘモグロビンの研究に従事し、1962年にノーベル化学賞を受賞した有名な生化学者である。ペルツは、ワトソンが英国に留学していた1950年ごろ、キャベンディシュ研究所で分子生物の研究グループの主任をしていた。クリックは、そのペルツのグループの一員であった。ある日、ペルツの部屋にクールカットの頭で目玉の飛び出た変わった男が、挨拶もせずに入ってきて、「ここで仕事をさせてもらえませんか?」と言った。その男こそジム・ワトソンであった。

ペルツの評によると、ワトソンとクリックに共通しているのは、自分と知的に同程度の人物はめったにいないという、途方もない尊大さであったとしている。ワトソンが『二重らせん』で、ロザリンド・フランクリンを攻撃的で視野の狭いインテリ女性として描いたことに、ペルツは「才能ある女性を侮蔑したことに猛烈に腹をたてた」と述べている。

 

 フランクリン・ポルトガルはその著、The Least Likely Man-Marshall Nirenberg and the discovery of the genetic code(「あり得ないほどすごい男・ニーレンバーグと遺伝子暗号」)で、ワトソンの異常な性向について、次のようなエピソードを伝えている。

ニーレンバーグは後で述べるが、DNAの遺伝子コードを解明し、1968年にノーベル生理学・医学賞を受賞したアメリカ人である。

 『1961年10月にワトソンはニーレンバーグをマサチューセッツ工科大学での講演に招待した。それを聞きに来た聴衆で大講堂はあふれかえり、後から来た人は建物に入れなかった。

 ニーレンバーグは、遺伝暗号を解明する自分の研究結果を話し始めた。ワトソンは、いつものように、傍らにニューヨークタイムズを置いて最前列に陣取っていた。ニーレンバーグの講演の半ばになるとワトソンは急に新聞をバサバサと広げて読み出した。ニーレンバーグは、ワトソンが気に入らない話しや同意できない話しを聞いた時には、必ずこのような大人げない行動をとることを人から聞いていた。。ニーレンバーグは、この情け容赦のない無礼にたじろいで一瞬講演を中止しようかと考えたが、結局、最後までやり通した。科学者は、話しの内容が不満でも講演が終わるまで静かに聴き、その後で批判や反対の発言をするのが普通である。このワトソンのように、途中で話しの妨害を決してしないものである』(以上庵主訳)

 

 気に入らない講演の話しを聞くと、これ見よがしに新聞を読みはじめるのが、ワトソン定番の嫌がらせであった。どうして、ワトソンはニーレンバーグの講演が気に入らなかったのだろうか。それには、遺伝子暗号の解明にかかわる当時の激しい先陣争いが背景にあった。

 1953年のワトソン・クリックによるDNAの二重螺旋モデルが明らかにされて、ただちに遺伝子暗号を解読する研究が始まった。ワトソン、クリックとガモフは、この研究目的のためにRANタイクラブ(RNA Tie Club)という国際的な組織を作った。これは定員20名で、ワトソン、クリック、ガモフをはじめ、ブレナー、カルビン、シャルガフ、ステントなど錚々たる核酸の研究者が含まれていた。メンバーの一人づつに1個のアミノ酸が割当てられ、それを支配する遺伝子コードを明らかにすることが義務付けられていた。クラブ会員のネクタイには二重らせんがデザインされていたそうである。

 だれもが、このRANタイクラブの一人が遺伝子コード解明の先駆けをするものと信じていた。ところがそれを行ったのは、当時、NIHの研究員の一人に過ぎなかったマーシャル・ニーレンバーグ (1927-2010)であった。かれはドイツから来たポスドクのヨハネス・マッシー (Johannes Mathaei)と協力し、無細胞タンパク質合成系を使って実験をすすめた。そして人工的RNA(UUUUUUUUUUUUUU)を用い、UUUがフェニルアラニンに対応していることを明らかにした。この実験結果は1961年8月のモスクワでの国際生化学会議で発表された。ニーレンバーグは結局、64個のアミノ酸コドンのうち54個を明らかにしている。

 先を越されたRNAタイクラブは、このニーレンバーグの発表に驚き、かつ不快であった。ニーレンバーグの講演で、ワトソンが嫌がらせをしたのは、まさにその態度表明であったのだ。

  ワトソンの相棒であったイギリス人のクリックも、人の講演中に同じように嫌がらせをしたことを、庵主は前のブログで述べた (「悪口の解剖学 IV フランシス・クリック、おまえもか!」19/06/24)。ペルツの言うように、二人とも尊大で二重螺旋のように屈折したところがあった。

 

追記 (2020/03/12)

ジェームズ・ワトソンは、分類学者の間でも評判が悪い。スティーブン・B・ハードはその著『学名の秘密』(上京恵訳)(原書房 2021)でインドネシアのゾウムシにTrigonopterus watsoniの学名が付けられたことに憤慨している。著者はワトソンを強固な人種差別主義者、女性差別主義者として知られており、長らく彼に献名された種の学名がないことを吉としていた。

 

参考図書

Franklin H. Portugal. The Least Likely Man-Marshall Nirenberg and the discovery of the genetic code. The MIT Press、2015

Max・F・Perutz. Is Science Necessary? Essays on Science and Scientists. E.P.Dutton,

1989(『科学はいま』中馬一郎訳 1991、共立出版)

 

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悪口の解剖学: パストゥール伝説の崩壊

2020年04月21日 | 悪口学

ジル・アルプティアン『疑惑の科学者たちー盗用・捏造・不正の歴史』(吉田春美訳)原書房 2018

ルイ・パストゥール (1822-1895)は19世紀フランスの生物学(生化学・細菌学)の巨人として知られている。庵主は若い頃、パストゥールの伝記を読んで、一人の人間がどうしてこんなに次々と画期的な発見を成すことができたのかと驚嘆した憶えがある。そして自分の非才を嘆いた。

分子の光学異性体の発見、低温殺菌法(パスチャライゼーション)の開発、生命の自然発生説論破、蚕微粒子病の解決、酵母によるアルコール醗酵の発見、ワクチン開発などを行なった。パストゥールは世界の偉人伝に必ず登場する人物である。

 

 ところが、最近になってパストゥールの評価は急降下した。その原因は彼自身が残していた「研究ノート」によるものである。そのノートはパリの科学アカデミーの金庫に保存されていたものであるが、規約により100年間、開示されないまま管理されていた。それが、1988年に開かれて読めるようになった。そこには、信じられない研究不正の事実がパストゥール自身によって記録されていたのである。上掲のアルプティアンの書の一章に、その仔細が述べられている。それは以下のごとし。

 醗酵の研究では教え子であるアントワーヌ・ペシャン(1816-1908)の研究を盗用して自分の発見のようにしている。ワインの低温殺菌法もニコラ・アベール(1749 - 1841)とアルフレッド・ド・ヴェルニット(1806-1886)の二人がそれに関する研究論文を発表しているのに、知らないふりをして自分の発見のように装った。

さらに驚くべき不正は、羊の炭疽ワクチンについての研究である。パストゥールが作った「酸素で弱めた」ワクチンは羊の炭疽に全く効力がなかった。そこで、アンリ・トウッサン (1847-1890)が殺菌剤を利用して作ったワクチンを密かに手に入れ、それを公開実験で使い自分のワクチンは効果があると主張した。この恐るべき所業はパストゥールの「研究ノート」に自分の手で記録されている。彼の助手のアンドリアン・ロアールによって、死後に告発されていた事実であるが、誰も信じなかったのである。

狂犬病ワクチンはパストゥールの偉業の一つとして有名であるが、これもピエール・ヴィクトル・ガルティエ (1846-1908)のものである事は周知の歴史的事実である。これに関しても、パストゥールは厚かましく自分の成果のように宣伝した。不思議な事に、多くの伝記では彼の発明のように書かれてきた。

現代の科学者社会の倫理基準によると、炭疽ワクチンの不正実験だけでもパストゥールはその研究機関を懲戒免職されるに値する。そしてアカデミーの全ての地位と名誉を剥奪されていてもおかしくない行為である。たとえ、他にどんな公正な研究成果があったとしてもである。

しかし、伝記作家のパトリス・ドブレは次のように述べている。

「パストゥールはときに、他人が記述した研究成果を確認してから横取りしているだけのように見える。けれども、ほったらかしにされた実証実験、すなわち活用されずにいる研究結果をふたたび取り上げている点で彼ほど革新的な者はいなかった。彼の天才たる所以は総合の精神にある」と。これはあまりに甘すぎる評価である。

神格化された人物の遺骸を掘り起こして断罪する事はむつかしいようだ。Wikipediaの[炭疽菌]の項目をみると「1881年ルイ・パストゥールは、世界ではじめて生菌ワクチンを弱毒化した炭疽菌を使って開発した」と書かれている。

 

参考文献

ヴァレリー・ラド 『パスツール伝』(桶谷繁雄訳)白水社 1964

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悪口の解剖学: 日本人は劣化しているのか?

2019年11月20日 | 悪口学
 
 
 
香山リカ『劣化する日本人』-自分のことしか考えられない人たち
KKベストセラーズ (2014)
 
 著者の香山さんは精神科医師で立教大学教授である。ここでは平成の終わり頃におこったトンでもない事件をいくつか取り上げて、日本人が自分本位で劣化していると憂いている。いまや何事も考えない社会となり、知性も言語も脆弱になっていることが事件の背景にあるとした。
 
理研のスタップ細胞問題、全聾者 (?)の偽ベートーベン騒動のなどの偽造事件の他にノバルティスファーマ社と大学の研究者が行ったデーター偽造事件についても述べている。この会社の降血圧治療薬ディオバン(バルサルタン)は約1000億円近い売り上げをあげていた。これの「効果」に関する研究がいくつもの大学(京都府立医科大学・東京慈恵会医科大学・滋賀医科大学・千葉大学・名古屋大学)の医学部でなされ、そのすぐれた「効力」が喧伝された。それにより人気があがり、売り上げがさらに約300億円アップしたという。これらの研究室には、総額で約11億円もの研究費がノバルティスファーマ社から寄付されていた。
 
ところが、この論文作成に関わっていた当時のノバルティスファーマ社員の一人(S.N)がデーターを偽造していたことが判明したのである。いわゆるディオバン事件である。S.Nは逮捕されて薬事法違反で起訴された(1、2審とも不思議なことに無罪)。これに関する全ての論文は撤回され、責任をとって京都府立医科大学の松原教授が辞職するなどの処分がなされた。しかしディオバンそのものの認可が取り下げられたというわけではない。認可時のデーターは確かだったというわけだが、本当だろうか?まあまだ使っているので少しは効き目があるのだろうが。
 
S.Nは、すべて個人の意志で行った単独犯であると主張した。しかし一流大学の医学部研究室で複数の共著者がおりながら、学術論文の結論がデーター解析員一人の意志で決まるわけがない。会社と研究室が最初からグル(計画的)だったのか、あるは金をもらった医者達が「忖度」したのか?金さえもらえれば何でもやるというのが昨今の大学の医師の特性なのであろうか?生真面目で真摯な医師もいるに違いないが、たぶん研究費が足りなくて出世できないのだろうね。
 
香山さんのこの著書は、精神科医としての立場から専門的な分析をまじえた社会評論になっている。ところが第五章の「劣化する政治家たち」では大阪市長だった橋本徹氏の悪口がヤンヤヤンヤと展開されていてオヤッと思った。橋本氏が人を公然とバカよばわりすることなどをやり玉にあげている。香山氏自身も橋本氏にサイババ呼ばわりされたことで、少しカチンときたようである。全体として研究者らしい落ち着いた筆致なのに、このあたりは文章に少し感情がこもっている。
 
追記(2020/04/25)
 
2012年、T.F氏は臨床研究論文を捏造したとして東邦大学医学部を解雇された。彼が書いた183編もの論文は不正を理由に掲載雑誌から撤回・抹消された。この数は科学論文としては、ギネスブック並みの世界記録だそうだ。麻酔医であったF氏は、全身麻酔のときの吐き気と嘔吐を予防するための措置に関する論文を多数出していた。ここでもある種の特定の製薬の有効性を強調した論文があった(ジル・アルプティアン『疑惑の科学者たち』原書房 2018)。
 論文監視サイト「リトラクションウオッチ」によると、2018年には研究論文の総数がたった5%しかない日本人の論文撤回数がずば抜けて多い。その上位10位のうち、5人を日本人が占めているそうだ(「榎木英介「サイエンス誌があぶりだす医学研究不正大国ニッポン」)。
 
追記 (2021/11/29)
一方で優れた論文の数が増えておればよいのだが、エクセレントペーパーは年々数が減っている(「日経サイエンス2021/11月号p11:薄まる日本の存在感)。統計ではインパクトファクターは90年代には世界で3位だったのが、2018年にはインドにも抜かれて10位になり下がさっている。ちなみに1位は中国で2位のアメリカを抜き去った。この記事では若手をもっと抜擢せよと言っているが、問題は自由な独創的研究を行える文化的環境の整備である。
 
 
 
 
 
 
 
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悪口の解剖学 : Nature誌なんかぶっ壊せ!

2019年08月29日 | 悪口学

 PCR (polymerase chain reaction)の発明者でノーベル化学賞の受賞者 (1993)であったキャリー・マリス博士が今月7日に亡くなった。享年74歳。PCR法は微量のDNAを無限に増幅する手法として、分子生物学分野のあらゆる研究室で用いられている。マリスはアメリカの生んだ型にはまらない破格の科学者で、その破格ぶりは半生の自伝『マリス博士の奇想天外な人生』(福岡伸一訳、早川書房2000)にいかんなく披露されている。

 

       

  (1993年キャリー・マリスノーベル化学賞受賞)

 マリスは1966年に「時間逆転の宇宙論的な意味」というタイトルの論文をNature誌に投稿した。当時、彼はカリフォルニア大学バークレー校の生化学専攻の大学院生にすぎなかった。天文学や宇宙論の専門でもなく、ひやかしのつもりで投稿した論文が採択されるなどとは、まったく期待していなかった。しかし、驚くべき事にそれは編集者によって採択され堂々とNatureの数ページを飾ったのである。世界中からその論文別刷りの請求が届き、通信社は「奇想天外なSF小説に聞こえるかもしれないが、マリス博士の鋭い洞察によれば宇宙に存在する物質の半分は時間に逆行しているという」とこれを宣伝した。まだ大学院生だったマリスは科学の世界はどこか狂っていると感じたそうだ。

 後になってPCR法を開発したマリスは、このときも意気揚々と原稿をNatureに投稿した。革命的な発明なので、当然採択されると思い込んでいたのである。しかしNature編集部の返事はなんとreject(掲載拒否)であった。彼は仕方なくScience誌に再投稿したが、ここでも掲載拒否。ていねいな事に、「貴殿の論文はわれわれの読者の要求水準に達しないので、別のもう少し審査基準のあまい雑誌に投稿されたし」という嫌みな手紙がそえられていた。結局、それは「酵素学方法論」というあまり名の知られない雑誌に掲載されたが、それが1993年のノーベル賞の受賞論文となったのである。マリスは金輪際、これらの有名雑誌 (NatureやScience)に好意をもつことはしないと誓ったそうである。

  Nature誌やScience誌に研究論文や記事が掲載されたりすると、日本では赤飯を炊いてお祝いすると言う。それほど、これらはインパクトの高い権威ある雑誌として認定されている。新聞記者も掲載後にいそいそと著者のところに記事をとりにくる。「Natureなんて、昔はデモシカ雑誌だったよ」という年寄りの先生がいるぐらいだから、1950年以前はたいした雑誌ではなかったようだ。ところが1953年にワトソンとクリックによるDNA二重螺旋の論文が発表されてから、急に掲載が難しくなった。ワレモワレモとうぬぼれ屋が投稿し始めて掲載率が低くなったせいである。しかし、激しい競争と厳しい審査の眼をくぐり抜けて掲載されたNature論文の信憑性に疑義が投げかけられた例は、STAP細胞のみならず、枚挙にいとまがない。売れる雑誌をテーゼにした商業主義が、大事な基礎研究を無視し、かっこよさそうなインチキ研究を拾うといった構造を生んでいるようだ。

 

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悪口の解剖学 : 東大医学部教授のとんでもない「権威」

2019年08月10日 | 悪口学

 

 由良三郎 (1921-2004)は晩年になって小説を書き始めた推理作家である。処女作「運命交響曲殺人事件」で第二回サントリーミステリー大賞 (1984)を受賞した。その他、『ある化学者の殺人 』( 1985)、『象牙の塔の殺意』(1986), バイアグラ殺人事件 (1999)など多数の作品がある。本名は吉野亀三郎。東京銀座生まれで、旧制第一高等学校から東大医学部に進学した。卒業後は、横浜市大教授を経て、東大医科学研究所ウイルス学教授をつとめ、1982年に定年退官している。れっきとした医科学者であった。

  この人の著に『ミステリーを科学したら』というエッセイ集がある。推理小説に登場する殺人などのトリックを話題にまとめたものである。この中に「権威」という掌編があり、読んでみると東大医学部教授の悪口がたくさん述べられている。以下引用する。

 『平成二年三月八日の新聞を読んでいたら、驚くべき記事にぶつかった。それは、厚生省の中央薬事審議会が、唾液腺ホルモン注射剤パロチンの老人性白内障などに対する効力を再検討した結果、無効と断じたので、この薬の製造販売は中止され、一ヵ月以内に製品は回収されることになったという発表である。唾液腺ホルモンというのは、故東大名誉教授O博士が発見したもので、氏はその化学構造も決定し、さらにそれが骨の生成を助けるなどの生理的作用があることも見出だし、それら一連の発見により昭和十九年に帝国学士院賞恩賜賞、昭和三十二年には文化勲章を受けられているのである。その製品はパロチンという名で発売され、国内のどの病院でも採用され、広くいろいろな方面に応用されていたはずである。それが全然無効だというのだ。これが驚かないでいられようか!もっとも、この薬に関しては、どうも理解できないことが多々あった。その一つは、それだけ立派な発見であるのならば、当然世界中の医学教科書に紹介されていなくては嘘なのだが、それから五十年近く経った今日までどんな外国の医学書にも出ていない。外国の病理学の専門家に訊いても、誰も唾液腺ホルモンというものの存在を知らないのである。あまり変なので、昔O博士と共同研究をしていたK博士に尋ねてみた。K博士はO博士の指導を受けて唾液腺ホルモンの骨生成促進作用を研究し、連名で論文を発表している。そのK博士は、「唾液には気を付けなくてはいけないよ。昔から怪しい話は眉に唾を付けて聞けと言うじゃないか。私としてはそれ以上は教えられない」と答えられた。なんだか釈然としない話である』(以上引用)

   ここに出てくるパロチン(parotin)は耳下腺から唾液とともに分泌されるペプチドホルモンで、骨の発育、白内障の予防、老化防止などの作用を持つといわれていた。これの発見と薬の開発は緒方知三郎 (1883-1973)、すなわちO教授であった。緒方洪庵の孫で1954年にパロチンなどの成果で文化勲章を受けた。当時の内分泌学界での最高権威であった。昔に発見された薬で20年以上生き残るものは少ない。新しい薬が開発されるためもあるが、「権威」者が亡くなったころに、童話の「裸の王様」に出てくる子供達のような医者が「効かない、役に立たない」と言い始めるからである。しかし、この緒方の弟子というK博士の話は本当だろうか?由良の『権威』の中には、他にも効かない薬として、やはり東大医のT博士とA博士が開発した強心剤Vの話などが出ている。なんとも情けなくなってくる。

 由良はさらに『教授会』というエッセイでも東大医学の教授の悪口を露骨に述べている。教授会での人事選考におけるK教授の信じられない発言記録である。。

 私も決戦投票ではAに一票を入れようと考えていた。彼の業績が他の二人より優れていると判断したわけではない。私にはそんな判断は無理だった。ただなんとなくそう決めたのである。強いて理由を挙げれば、Aを個人的に知っていたことと、他の二人には面識がなかったというだけのことだ。恥ずかしながら、こちらもあまりまっとうではなかった。そのときK教授がさっと手を挙げて発言を求めた。彼の言葉をできるだけ忠実に再現してみよう。それはこうだった。「どうも皆さんはAくんを推しているようだがね、僕はあいつみたいな人格劣等な男を、この教授会の一員に迎えることには、絶対に反対なんだ」これには一同もびっくり。さすがに議長が厳しいロを利いた。人格劣等とは聞捨てならないが、どういうことからそう言うのかと。するとK教授が眉間にしわを寄せつつ、ではお話ししましょう、と言って語ったことを聞いて、一同はまたまた驚いた。

「あいつが大学を出て、ここの助手として就職してきた直後だった。今から二十年も前の話さ。ここで恒例の秋の運動会があった。そのと特も最後の種目は全員参加の紅白玉入れだ。用意ドンで、一方は白、もう一方は赤の玉を宙吊り瞳に投げ入れる。そして、何十秒かの後に、止めの合図の空砲が鳴った。さあそのときだよ、諸君! ……Aはこそこそと簸に近付いて、手にした赤い玉を二つも簸に放り込んだのだ。……審判員が一人ずつ赤白の龍に付いて、龍から玉を出すと、皆が声を揃えて数える。なんと、その結果は、赤が一個多くて、赤の勝ちだった。僕は白だったので、実に残念だった。そのときの悔しさは、今でも忘れられないよ」

 面食らってきょとんとした議長が、人格劣等説の根拠はそれだけか、と念を押して質ねると、K教授はしかつめらしい顔でうなずいた。さすがに、どの教授も、この話には付いて行けなかった。そして投票の結果は、Aが当選した。Aの名誉のために断っておくが、彼は稀に見る人格者であって、どんな人にも愛想がよく、その点大学教授としては例外的と言ってもいいくらいだ。むしろ、どっちかと言ったら、K教授のほうがよっぽどおかしかった。だがそのK博士も亡くなられてからすでに久しい。ついでに追加すると、K博士は日本で最初にある学会を創設した功労者で、その道では世界的にも有名な学者だったのである』(以上引用)

  1960年代の大学紛争の頃、団交で大学教授が世間の常識に外れた発言をするので、学生は彼らを「専門バカ」と呼んだが、パロチンの話は「専門もバカ」だったのではないかと思わせる。しかしながら当時においても、東大の先生だけがバカだったわけはなく、他の大学の先生はもっとバカだったのだろう。ただ、東大というそびえ立つ「権威」のために、世間や学会に与えた迷惑も大きかったようだ。こういった「権威者」が死んでいなくなるまで、効かない高価な薬を飲まされつづける一般庶民こそ、いい迷惑だった。

 

 

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悪口の解剖学 : 借家人は偽物ワイン造り

2019年08月08日 | 悪口学

 

 ベンジャミン・ウォレス『世界一高いワイン「ジェファーソンボトル」の酔えない事情-真贋をめぐる大騒動』

(原題 「The Billionaire’s Vinegar」) 佐藤桂訳 早川書房 2008年


  この書は、ニューヨーク在住のルポライターによるワインの偽物にまつまわるドキュメントである。1985年、ロンドンのクリスティーズで一本の赤ワイン「シャートー・ラフィット1787」が競売にかけられた。この瓶には「Th J」と刻印があり米国第3代大統領トーマス・ジェファーソンが購入したワインであるとされていたが、10万5000ポンド(当時の為替で約3000万円)でアメリカの実業家キップ・フォブズにより落札された。ワイン一本での、この記録はいまだ破られていない。その提供者はドイツ人のハーディー・ローデンストックという著名なワイン収集家であった。何本ものジェファーソンボトルが、パリの古いビルにあるレンガの壁に囲まれたワインセラーの中で、発見されたとローデンストックは言う。ローデンストックはワイン業界のセレブであり、ワイン愛好家の文化人とも多数の交流があった。この書の前半は、ワイン好きだったジェファーソンやビィンテージワインを収集するアメリカの成金などの話が続く。しかし、後半はローデンストックに焦点を当て、ページが進むにつれてこの人物が偽ワイン造りのとんでもない詐欺師ではないかと思わせる展開となる。なにか推理小説を読むような雰囲気である。

  ローデンストックを疑って、敢然と挑戦したのはビル・コークというアメリカの実業家である。彼もオークションやディラーを経てローデンストックから何本もの怪しげなビィンテージを掴まされていたのである。コークは金に糸目をつけずに、これらが本物か偽物かを調べはじめた。放射性元素のセシウム137を調べる分析方法も試したが、決定的な証拠は得られなかった。しかし瓶の刻印の削り跡を顕微鏡で観察すると、それは当時の器具を用いてできたものではなく、最近の電動工具を使ったものであることが判明した。瓶の中身を化学的に調べなくても偽物であることが、はっきりとわかったのである。ローデンストックの他のジェファーソンボトルも全くの偽物だった。コークは、かくして2006年にマンハッタンの連邦裁判所に訴訟をおこした。本書の経緯を読むと、訴訟の勝敗は簡単につくと思われたが、ローデンストックもしぶとく反撃したようで、裁判は灰色の決着のようであった。ローデンストックは2018年5月 19日に亡くなった(https://www.winereport.jp › archive)。

  1991年ごろ、ローデンストックはミュンヘンでアンドレアス・クラインという人の家を借りていた。建物の半分には家主のクラインの家族が住んでいた。ここでローデンストックは「絶対に借りて欲しくない借家人」の典型的な行動をとる。以下、訳本から抜粋して紹介(一部省略)。

『ローデンストック夫妻は建物の半分を使い、1997年からはクライン夫妻がもう半分に入居して、薄い壁一枚を共有して暮らしはじめた。アンドレアス・クラインから見たローデンストックは奇想天外な男だった。話をすれば、出しぬけに「友人の」フランツ・ベッケンバウアーやゲアハルト・シュレーダー首相、ヴオルフガング・ポルシエ、ミック・フリック(メルセデスーベンツの一族)といった名前がいつも出てくる。あまりにも知り合い自慢が過ぎるので、ローデンストックは自分というものに自信がないのだろうと強く印象づけられた。

 ときおりローデンストックがワインを一本譲ってくれることがあった。そんなときは、必ずなんらかの頼みごとをされた。あるときは、一階の部屋ににおいが入りこむから裏庭でのバーベキューをやめてもらいたいと言った。またあるときは、壁から音が筒抜けなので、階段の昇り降りをもう少し静かにやってくれと頼まれた。静かに歩けるようにと、南スペインで買ったスリッパを一足くれたこともある。クライン夫妻のほうが、ローデンストックが発する音に対して寛容だった。在宅時は地下室の方向
から何かを叩く音がよく聞こえてきた。

 やがて、共同で使っている屋根裏部屋にカビが生えるという困りごとが発生し、クライン夫妻は2001年、雨漏りする屋根を葺きなおし、屋根裏部屋も新しく作り変えることに決めた。ドイツの法律では、借主の許可も取る必要があった。それなのにローデンストックは、最初は協力すると言ったにもかかわらず、そのうち金銭や賃貸料の値引きを要求しはじめた。

 クラインとローデンストックは法廷で争うことになった。カビの件でローデンストックは一時的に近くの高級住宅地にある高額な賃料のペントハウスヘ移り住んだが、家具などの所有物はほとんど残したまま、クラインヘの家賃の支払いを止めていた。ローデンストックは明け渡しには15万ユーロの費用が生じるとクライン夫妻に告げ、そのうえ裁判では証拠を提造した、とクラインは言う。ある時点で、書類上の家主であるクラインの義理の母へ宛てた手紙のコピーを法廷に提出したが、それを公然と、しかしながら不注意な日付に改京していた。手紙の住所に、日付の時点では存在しなかった郵便番号が書かれていたのである。

 裁判は長引いた。クライン夫妻はふたりの幼い子どもを抱え、まともな屋根のない、壁にカビが生えた家に住んでおり、長引く訴訟を戦い抜くのは厳しかったが、いまのところ裁判所はローデンストックを立ち退かせることも改装に取りかかることも許可しようとしなかった。悪夢のような借家人をどうやって追い出そうかと困り果てていたクラインは、予定している改装工事は、どちらにせよ留守がちなローデンストックにはなんの迷惑もかからないと主張していた。ローデンストックはそれに対し法廷で、自分のほかの家は休暇用のアパートメントにすぎず、本拠地はミュンヘンであると証言した。アンドレアス・クラインは、おそらくドイツの税金を払っていないローデンストックが居住地はミュンヘンだと断言したことを当局が知れば、大変な関心を寄せるに連いないと思った。クラインはローデンストックの法廷証言のコピーを税務当局へ提出した。

 情報を流してから三年近くがすぎた2004年12月、ようやく税務警察が訪ねてきて、ローデンストックがすでにこの家に居住していないことを確認したいと申し出た。税務警察はすでにローデンストックに関連する住所の一覧を作りあげ、現地当局と共同で捜索をはじめていた。ローデンストックの事務所となっていたアパートメントは、すぐ近所にあり、クラインは税務当局が車三台ぶんもの書類を持ち去るのを見ていた。捜索の三日後、そして裁判がはじまってからまる三年後、ローデンストックは比較的少額である15000ユーロの立ち退き料と引き換えに、ようやくクライン夫妻の家を退去することに同意した』(以上)

 この引用部は、クラインが訴訟を知ってローデンストックの悪口を書いた手紙(メイル)をコークに送ったものを資料にして書かれている。悪口の効用の一つはfree rider『ただ乗り野郎』の情報を広めて、おたがいに被害に合わないための社会的な知恵である。これは借家問題といった些細な事件とはいえ、一事が万事ということもある。これを世間の人が知っておれば、ローデンストックの贋ワインにひっかかる事もなかったのではないだろうか。少なくとも無防備に信頼する事はなかったはずだ。

 この本にはビル・コークという執念の人が登場し、ローデンストックを最終的には監獄に送ろうと訴訟を繰り返す。民事訴訟は消耗戦で結局金の多い方、すなわち弁護士費用を最後まで払える余裕のある方が勝つ。だから貧乏人はどんなに正義や理非が通っていても勝てない。盗人にも三分の理といって、相手はなんだかんだと言うのである。両方の弁護士はその構造を知っているので、どちらもどこで手を打つかは訴訟の最初から計算してやっている。裁判官も同じ穴の狢でその辺の事が分かっており、適当に双方が消耗したときに、和解を提案するのである。しかし、コークは大金持ちで、ワインの購入費以上の費用を使って訴訟を継続し、「趣味」の一つとしてローデンストックに挑戦した。一種のサイコパスといえる人物であるが、それでもはっきりした勝利は掴めなかった。

 

 

 

 

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