京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

人類の社会的な集団の適正サイズは150人

2024年10月25日 | 文化

 人類において感染症のエピデミックやパンデミックがおき始めたのは、おそらく人々が集落を形成した以来のことと思える。それでは、本来、人はどれほどのサイズの集団でくらしていたのだろか?

 英国ハーバード大学の人類学者Robin Ian MacDonald Dunbar(ダンバー)教授は、各種の霊長類の大脳新皮質 (neocortex)の大きさがその種における群れのサイズと相関することを発見した(論文1)。大脳新皮質は、群れの増大に伴う情報処理量の飛躍的な増加に対応して、大きくなってきたものと考えられたのである。それまでは、大脳新皮質の進化は生態的問題の解決能に関連していると考えられていた。

 

Dr Robin Ian MacDonald Dunbar

この関係式から計算されたヒト(人)の群れサイズは、約150人ぐらいとされた。ダンバーはまた、クリスマスカードの交換に基づいた西洋社会における平均的なソシアルユニットは、やはり150人ほどだとしている(論文2)。

 ユヴアル・ノア・ハラリはその大著『サピエンス全史』において、噂話によってまとまっている集団の自然なサイズの上限を150人としている。この「魔法の数」を越えると、メンバーはお互いに人を親密に知る事も、それらの人について効果的に噂話をすることもないと述べている。この限界を越えるために、人類は神話という虚構が必要だったというのがハラリのご自慢な説である。

 縄文時代の三内丸山遺跡で約5500年前に集落が形成されはじめた頃、住居の数は40-50棟で人口は約200人ぐらいだったそうだ。これもDunbarの150人仮説に近い。

このサイズが、感染症の抵抗性に関して最適なのかは、今後の研究が必要である。

 

論文と参考図書 

1) RIM Dunbar:Neocortex size as a constraint on group size in primates. 3ournal of Human Evolution ( 1992) 20,469-493.

2) RA Hill and RIM Dunbar: Social Network size in humans. Human Nature (2003)14, 53–72.

亀田達也 『モラルの起源』岩波新書 1654 岩波書店 2017

 

追記(2024/10/25)

ルネ・デュボスはその著「人間への選択ー生物学的考察(紀伊国屋書店)」(p98)で「原始農耕以来、人類は主として血縁者で組織された小集団で生活しており50人を超えることはなかった」としている。150人は歴史時代になってからかもしれない。

 

 

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京都の子規と俳句

2024年08月31日 | 文化

 

 旅人の京へ入る日や初時雨

 川一つ処々の紅葉かな    

 老僧や掌に柚味噌の味噌を点ず   子規

 

 明治25年11月10日子規は京都に来て麩屋町の柊家(ひいらぎや)に泊まる。虚子が旅館を訪れると、子規が庭に降りて砧を使って何か作業している。

「何をおいでるのぞ」

昨日、高尾に行って取ってきた紅葉の色をハンカチに移しているのよ」と子規は嬉しそうに答えた。

 

(柊家旅館)

 前日、子規は人力車を雇って京都の高尾、槇尾、栂尾で紅葉狩りを行った。子規は高尾の売店で、紅葉の形を染め付けた手拭をみかけ、それをヒントにしてハンカチに染めることを思いついたようである。紅葉の色素はカロチン系のもので木綿に染めるのは無理なので、多分うまくいかなかったのではないか。「老僧や」の句はその後、天田愚庵をおとずれたときのものだ。

  ちなみに子規の泊まった柊家旅館の座敷は、その後、漱石や川端康成をはじめ多くの文豪が宿泊した歴史的な場所となり、いまでも使われている。

  同年11月14日。子規は母の八重と妹の律をともなって京都観光をおこなった。松山をひきあげて東京で家族で暮らすために、二人を迎えにきた途中の観光旅行であった。この時も3人で柊家旅館に泊まっている。

 

参考図書

  坪内稔典 「俳句で歩く京都」淡交社 (2006)

  森まゆみ 「子規の音」新潮社 (2017)

 

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朝日俳壇に入選するコツ

2024年08月28日 | 文化

 朝日俳壇は一般俳人のあこがれの新聞投句欄である。これに入選すると、赤飯を焚いてお祝いするほどのすごい事らしい。庵主は昔、何の気なしに次の一句をここに投稿したことがある。

  去年今年貫きとうす放射線  楽蜂

 ちょうど東北大震災で東電の第一原発事故がおこった頃の話だ。高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」を本歌取りした時事俳句にすぎない。これを、なんと金子兜太さんが採ってくれたのである。以来、気をよくして何十回も投句したが、まったく音沙汰がない。結局、止めてしまった。

金子兜太 (1919-2018)

  ところで2010年の雑誌「くりま」(文芸春秋増刊)5月号に次の記事が載っている。

『六千句から四十句が残るまでの過酷なサバイバルを実況中継(ルポルタージュ)朝日俳壇の入選はこうして決まる:選者◎稲畑汀子/大串 章/金子兜太/長谷川櫂』

 この記事によると、毎回とどいた約6000通のハガキから4人の選者が各自10句を選抜する。入選確率は単純計算で150分の一である。選者全員が朝日新聞の本社会議室に集まり同時に個別で作業し、午前中約3時間程で終えるようである。1分で約23枚を読み込んでいく計算になる。超人の荒業というほかない。そして最後に選んだ句の評をまとめる。これを毎週繰り返すというから、想像をこえる体力と気力の4人組である(現在は大串、長谷川、高山れお、小林貴子)。多分、それなりの報酬があるのだろうが、朝日の俳壇選者になることは、囲碁や将棋の名人戦リーグに入るのとおなじく、その実力と名声を認めれらえたことになる。

 ところで、この人たちはどのような基準で選句してるのだろうか?共通の基準があるのか、ばらばらの好きな基準でやってるのか?ここでは「選者同士で重なりあった選句の数」(平成21年の1年間)がデーターとして出てるのでそれを見てみよう。

稲畑  X 金子   0

稲畑  X   長谷川 4

金子  X 大串    4

長谷川 X  大串   6

稲畑  X 大串    8

金子  X    長谷川     8

       計 30句

 

  何も考えずにランダムにハガキを選んだ場合は、A氏とB氏の重なる確率は600枚に一枚の割合である。一年を50週として年間の一人の選句総数は10X50で500枚になる。これから年間の重なり枚数は1枚弱。それゆえ稲畑さんと金子さんの重なり0枚は、必ずしも「お互いの好みの違い」とは言えず、統計的にありうる事である。あとの重なり4は好みか偶然かは計算しないと微妙なところだが、6や8は偶然とはいえず、かなり好みがあっていた結果と思える。ただ合っているといっても、500枚のうちの高々6-8枚で、後の大部分はお互いにちがった作品を選んでいることになる。どうも選句は共通した基準で選んでいるのではなく(それならもっと重なりが多いはず)、自分の好みで選んでいることになりそうだ。

 ほかの新聞投句欄では選者が複数の場合は、投句者が選者を指定する事になっている。たとえば京都新聞の場合は選者は坪内捻転さん岩城久治さんらで、自分の好きな人を選んで投句する。そうなるとその選者の好みそうな俳句を作るのが人情となろう。結局、朝日俳壇の場合も4人の選者の誰と絞った作風の作品を投稿するのが入選の確率を高めそうである。さらに「サブリミナル効果」を狙って同じ句を10枚ぐらい送る人もいる。また、一人で100句も同時に送ってくる人もいる(規約がないから違反とはいえないようだ)。

 ただ、こんな手間と経費をかけて、この新聞欄に自分の俳句を掲載することに、どれだけの意義や価値があるのだろうか?つらつら、駄句・凡句の並んだこの欄を眺めているとかなり疑問に思えてくる。



 

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オランダ商館医ケンペルとツュンベリーが見た江戸時代の日本

2022年11月16日 | 文化

 

   長崎に立ち寄ったおりに、出島のオランダ商館跡を見学した。そこには当時の建物が復元されており、往時のオランダ人の生活をしのぶことができる。この史跡の一隅にラテン語の彫られた石碑が建てられていた(写真)。案内板の説明をよると、これはシーボルトが、商館の先輩であったエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer:1651-1716)とカール・ピーター・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg : 1743-1828)の二人を顕彰して、当時の出島の植物園に建立したものであった。そこには「ケンペル、ツュンベリー見られよ。ここに君らの植物、年ごとに緑よそおひ花咲きいでて、植えたる主をしのびては、愛しき鬘(かずら)なしつつあるを」と書かれている。シーボルトは江戸時代末期にオランダ東インド会社から出島に派遣されたドイツ人医師であり、また博物学者であったこともよく知られている。一方、この碑文に出てくるケンペルとツュンベリーの経歴や事跡については、日本人にはあまり知られていない。二人の医術の程度はどのようなもので、当時の日本の医学ににどのような貢献をしたのだろうか。さらに碑文に書かれている彼らの植物とのかかわりとは、一体どのようなものだったのだろうか。 

 

  (図1)

 エンゲルベルト・ケンペルはドイツ北部の都市レムゴーに生まれた(図1)。ここはまだ魔女狩りが残っている中世のような街であったが、父親は開明的な牧師だったそうだ。この古い街を嫌ってケンペルは16歳のときにハーメルンに移り、さらにヨーロッパを転々としながら、医学、薬学、自然科学、哲学、歴史学をおさめた(当時、このような個人レベルでの文理融合が一般的だったのかどうか知らないが、こういった背景が後に書かれた大著『廻国奇観』(Amoenitates Exoticae)をユニークな世界見聞録にした)。その後、ロシア、ペルシャ、インド、ジャワを経て、長い旅路の末に元禄3年(1690)、ワールストロー号で長崎・出島に到着した。ケンペルはオランダ東インド会社に就職し、商館医として派遣されたのだが、当時の商館員名簿には「上級外科員、給与36グルデン」と記録されている。当時、植民地を管理する東インド会社の医師の責務は大きかった。船旅の環境は悪く、乗組員の多くが死んだり病気になった。さらにバタビア政庁がある熱帯の植民地では風土病や感染症のリスクが高かった。医者は怪我した患者だけでなく、得体の知れないさまざな疾病に対応しなければならなかったのである。長崎はバタビアよりましだったはずだが、ケンペルが出島に到着してほどなく、オランダ人館員の一人が手当の甲斐なく病死している。出島で館員以外の日本人を診断する事は許されていなかったが、出島の乙名であった吉川儀部右衛門を治療した記録が残されている。ここでのケンペルの唯一の日本人弟子は後に幕府の大通詞に出世した今村源右衛門で、ラテン語と医術を教え込んだ。

 オランダ人の江戸参府は嘉永3年(1633)にはじまったが、これはオランダ商館長が通商を許可されている事に対するお礼を将軍に言上し方物を献ずるための旅行であった。江戸参府の様子はケンペルが晩年書いた『日本誌』(Japanska Historia)の第五章『参府日記』で多くの紙幅が割かれている(斎藤信訳『江戸参府旅行日記』平凡社・東洋文庫)。ケンペルは1691年元禄4年(1691)と5年に連続して江戸参府に随行した。芭蕉が「かぴたんもつくばゝせけり君が春」という発句をつくった頃で、五代将軍綱吉の世であった。オランダ人は商館長に医師と書記の三人で、それに長崎奉行所の検使と通詞などの日本人をいれて一行は総計約60名に及んだ。オランダ人は大名のように駕籠に乗って移動した。元禄4年の江戸参府は商館長バイテンヘムに率いられて、2月13日に長崎を出発し、3月13日江戸着、4月5日江戸発、5月7日に帰還している。

 旅の途中でさまざまな出来事があったが、ケンペルにとって最大のハイライトは将軍綱吉との面談であった。綱吉は犬公方といわれ評判はよくなかったが、好奇心の強い将軍だったようだ。形式的な拝謁が終わってから、外国人の生態観察のつもりか、ケンペルは広間で歌ったり踊ったりさせられた。その後で、様々な医学的な質問がケンペルになされた。「内科と外科の病気のうちで、何が一番重く危険と思っているか」「癌と体内の腫瘍にその方はいかに対処しているのか」などの問がなされたが、極め付きは「西洋では不老長寿の薬は発見されておるのか」というものであった。秦の始皇帝以来、最高権力者が医者に聞くことはたいてい決まっている。薬学が得意なケンペルはそれに対して、「ございます。それは一種の酒精でして適度に用いれば体の水気を保ち活力を旺盛にいたします」と答えた。そして長ったらしいラテン語の薬の名前を将軍に告げた。もとよりそんな物は無かったのだが、日本人が長い外国語に弱いことを知っていたのである。綱吉は興味を持ち、次回それを持参するように命じたという。ケンペルは翌年、毒にも薬にもならないアンモニア化合物の混ざった丁子油を差し出したと『参府日記』に書き留めている。ケンペルは江戸滞在中に将軍の侍医の怪我を診たり、野犬に噛みつかれ負傷した人足の治療を施している。その男に対してケンペルは「その犬をやっつけなかったのか」と尋ねた。狂犬病の可能性を危惧したのである。ところが、その男は怪訝な顔をして「この私に自分の命を賭けるようなことをせよとでもおっしゃるのですか」と答えたそうだ。綱吉の「生類憐みの令」によって犬が過保護にされていたことが実感できるエピソードである。

 ケンペルは薬学と自然博物学をケーニヒスベルグで学んだ。『廻国奇観』の第5巻では日本の植物を紹介している。『日本誌』第1巻9章にも「日本の植物」の項目があり、主に栽培植物を記述しているが、これらは日本の植物を西洋に紹介した最初の文献となった。大英博物館にはケンペルによる日本の植物のスケッチや写生図が残されている。シーボルトの『日本植物誌』でもハコネウツギの項目などにケンペルの記述が引用されている。しかし『参府日記』を読むと、記述のほとんどが人文的な事柄で、植物を含めた自然物の記載は意外と少ない。ただ、肥前彼杵あたりで見たクスノキの大樹には感銘を受けたようで、これを書きとどめている。

 ケンペルは元禄5年(1692)に、この特異な文化の国日本を離れ、バタビアを経てオランダに帰着した。その後、ライデンで学位論文「10の珍奇な観察」を書いて医学博士となっている。この論文は後に『廻国奇観』にすべて収められている。その10の項目には「陰嚢水種」、「骨腫瘍」、「日本の鍼灸」など医学的な内容もあるが、「ペルシャの痺鱏(シビレエイ)」、「カスピ海の苦水」などと言った不思議なものが並んでいる。この頃の博士は、現代のそれと違い文字通り「博学の人士」に与えられたのであろうか。ケンペルは故郷の町に近いステインホフケンペルでリッペ伯爵の侍医となって余生をすごしたが、1716年に65歳の人生を終えた。生誕地レムゴーの公園には、水原秋櫻子の「花と咲く元禄の世の見聞記」を刻んだ句碑が建てられている。

 

   (図2)

  ケンペルが日本を去って83年後1775年に、やはりオランダ東インド会社から商館医としてカール・ツュンベリーが出島に派遣されてやって来た(図2)。若狭小名浜の藩医杉田玄白らによって『解体新書』が刊行された翌年のことである。ツュンベリーは1743年、スエーデンのインシューピングという町で生まれた。父親は役場の書記で、石灰を商う裕福な一家であった。彼は18歳のときにストックホルム近郊のウプサラ大学に入学し、分類学の父として有名なカール・フォン・リンネ教授に師事して医学と植物学を学んだ。今では信じられないことだが、リンネは医学部で解剖学と植物学の両方を教えていたのである。ツュンベリーは、ここで医学博士号を取得した。学位論文のタイトルはケンペルのように「珍奇」なものでなく、「座骨神経痛について」というまともなものであった。その後、彼はパリの医学校に留学している。この頃、彼は植物学者のヨハネス・ビュルマンやベルナード・ド・ジュシューなどと交流した。1771年になってビュルマンの推薦で医師として東インド会社に就職したツュンベリーは、アフリカとバタビアでの滞在を経て、1775年8月に長崎に到着した。

 日本でのツュンベリーの活動は『江戸参府随行記』(高橋文訳、平凡社・東洋文庫)に詳しく記録されている。そこで「出島では職務につくことは滅多になかったので、それ以外の貴重な時間を昆虫や植物の採集、調査、保存、そして通詞との交流に費やした」と述べている。当時のオランダ通詞のなかで、茂節右衛門とその息子の伝之進の父子は植物愛好家であったこともあり、ツュンベリーのために献身的に働いた。ツュンベリーは日本滞在中、精力的に植物を採集・記録し、後にツュンベリーの『日本植物誌』を著わした。これはラテン語で書かれ420頁に及ぶもので、リンネ式の二名法にもとずいて分類された約800種の植物が記載されている。そのほぼ半数が新種とされた。彼の集めた基準標本は現在、ウプサラ大学に保管されている。これらの業績によりツュンベリーは「日本植物学の父」と呼ばれるようになった。

 ツュンベリーも安永5年(1776)3月に商館長フェイトに随行して江戸参府を行っている。『随行記』を読むとケンペルの『参府日記』に比べて植物についての記載ははるかに多く詳細である。箱根では植物を採集するため、駕籠から降りて徒歩でフィールドワークを行い随員を困らせたりした。将軍家治との謁見は、幸いなことに儀礼的なものだけで終わり、ケンペルの時のような猿芝居や試問はなかった。江戸滞在中は岡田養仙、栗崎道巴、天野良順などの医師と面談し、桂川甫周中川淳庵と交流した。甫周と淳庵は玄白とともに解体新書の翻訳にたずさわった蘭学者である。淳庵は医学だけでなく、西洋の植物学とラテン語をツュンベリーから学び、その後もお互いに文通を続けたといわれている。

 当時の江戸で流行っていた最悪の感染症は梅毒であった。玄白の回顧録『形影夜話』によると、医者にかかる患者の70-80%が梅毒患者であったそうだ。そのころ、西洋では梅毒の療法として適量の昇汞(塩化第二水銀)を用いた治療が行われていたので、江戸滞在中にツュンベリーは持参した昇汞を使って梅毒患者の治療を試みている。患者については性別さえも知らされなかったが、状況から徳川家の枢要な人物のようであった。その様子を『随行記』に次のように記している。

 「そこで、私はこの国の医師や通詞に水銀剤を利用する方法を実践させることにした。時おり少量の昇汞を彼らに与え、それを水に溶解しシロップを添加してどのように使用するかについて教えた。ついで、この溶液は必要な準備のあと、細心の注意をはらって大勢の乞食同様の人々に使われ、毎日私に報告された。そして私の指導のもとに、ついには自分の患者に、この溶液を用いてみるまでの勇気を持つようになった。そして、これによる効果は信じがたいほどであり、ほとんど奇跡であると思ったようだ。この成果は彼らにとって重要であり、やがては全国民に計り知れないほどの効果をもたらすようになるかも知れない」(高橋文訳)

 「乞食同様の人々」への試験投与は、現在の医療倫理からするとひどい話であるが、ツュンベリーは安全量を熟知しており、それを指示して行ったのものである。この治療法はツュンベリーの通詞であり弟子でもあった吉雄幸作による著『紅毛秘事記』を通じて広く全国に伝播し、当時の医療に定着したといわれる。ツュンベリーは医師としてより植物学者としての活躍が目につくが、梅毒の水銀剤療法の導入といった貢献も忘れてはならない。ただ、この療法は劇的効果をもたらしたように記しているが、当時でも評価は分かれたようである。杉田玄白は『形影夜話』であまり効用はないと述べている。

 ツュンベリーは安永5年(1776)12月長崎を出帆し、バタビア、セイロン、オランダ、イギリスを経てスエーデンに帰国した。後に、亡きリンネの後を継いでウプサラ大学の植物学と医学の正教授となり、さらに科学アカデミーの総裁にも選出されている。1828年、まだ教授職にあったツュンベリーは85歳で亡くなった。まことに満ち足りた人生であったといえる。

 ところで「出島の三学者」とよばれるケンペル、ツュンベリー、シーボルトはいづれもオランダ人ではなかった。ケンペルとシーボルトはドイツ人、ツュンベリーはスエーデン人であった。当時、オランダに医師が少なかったわけではない。植民地をかかえたオランダは経済的に繁栄していたので、大学卒の医者はわざわざリスクの高いアジア地域で働く人が少なかったのである。しかしながら、この三人は、たまたま商館医のポストが空いていたから雇われたというのではなく、それぞれ神秘の国日本に魅せられ積極的に応募して日本にやってきた。そして、いずれも江戸参府の見聞録を含む『日本誌』と『日本植物誌』をまとめた。これらは、今でも江戸期の社会や自然を知るかけがえのない資料となっている。

参考図書など

ボダルト・ベイリー(中直一訳)『ケンペル-礼節の国に来りて』ミネルバ書房 2009

松井洋子『ケンペルとシーボルト』山川出版社 2019

スエーデン大使館・日本植物学会『ツュンベリー来日200年記念誌』スエーデン大使館、日本植物学会刊 1978

木村陽二郎『ナチュラリスト、ツュンベリーの長い旅』(ツュンベリー著、高橋文訳「江戸参府随行記」) 平凡社 2006

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カール・ポパーの反証可能性とは?

2020年12月22日 | 文化

カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper、1902年- 1994年)

  •   1902年 オーストリア・ウィーンに生まれる
  •   1922年 ウィーン大学卒業
  •   1934年『科学的発見の論理』
  •   1937年 ニュージーランドへ亡命
  •   1945年『開かれた社会とその論敵』
  •   1946年 イギリスに移住
  •   1949年 ロンドン大学論理学科学方法論教授
  •   1969年 ロンドン大学名誉教授
  •   1976年 イギリス王立協会会員
  •   1992年 京都賞受賞
  •   1994年 死去
  •  

  カール・ポパーは、20世紀の開かれた精神を象徴する偉大な科学哲学者であった。ポパーの認識論は自己矛盾に陥いり易い「論理実証主義」を批判し、科学的思考の特徴は「反証可能性」にあるとして、「批判的合理主義」(critical rationalism)を主張した。

   ポパーによると、科学と非科学の違いは経験(実験や観察)による反証可能性の有無である。一つの理論あるいは命題が科学的なものであるためには、経験によって反駁・反証される可能性がなければならない。「神が地上に生命を創造した」は、いかなる観察や実験によっても反証できない。それゆえに、この命題は科学の対象にはなりえない。一方、「化学進化によって原始生命が発生した」は、実験によって反証できる可能性(あくまで可能性だが)があるので科学が扱うことができる。

 ある理論が経験により反証されると、理論の再構成(ポパーは廃棄ではないと言う)が必要となり、それにより新理論が提出される。そしてそれを反証する営為が繰り返される。反証されなければ、それは当面、未反証の理論として保存される。くぐり抜けた反証が多いほど、その理論は確度の高いものとして信頼され、少ないものは若い仮説として扱われる。いずれにせよ、いかなる理論も真理ではなく、永続的に反証を待つ仮説と言ってよい。「立証可能性」とせずに「反証可能性」とした理由はここにある。

 大事な事はポパーの唱える反証は、批判する側の主体の”姿勢”(attitude)であって、定説 (thesis)でもなく、命題(proposition)でもなく、理論(theory)でもないという事だ。ポパーはこういった姿勢を”批判的合理主義”と名ずけたのである。

この”姿勢”は科学的知識の成長や発見の契機に直接関わるものではないが(トーマス・クーンはそれを批判した)、それを保証する背景になるものである。科学界に提示されるあらゆる、説、理論、仮説、意見ー国際学会での発表から修士論文の発表までーを、いわば批判的かつ合理的に統括するシステムと言ってよい。これがあるからこそ、科学界が似非科学の集団と区別することができる

 たまたま、ある経験ができて反証的な姿勢が生ずるのではなく、まず個人とシムテムに理論や仮説に反証的な姿勢があり、それが契機となって経験(実験・観察)が続く。批判的合理主義は、いわば、学会発表の会場の最前列に陣取っている古参の学者のようなものである。これらの老学者達は、若手が新規な説を発表すると、必ず手をあげてクレームを付ける。その発言内容が、たとえ訳の分からない適切でなかったとしても、若手の新説はそれによって強化され成長するのである。ただ反証可能性をテーゼとする批判的合理主義は、ある学説を唱えたAとそれに反対するBとの論争におけるプロトコールではなく、科学界という総体のシステムがとる姿勢である。それ故に、めったにありえない事だが、A自身が自ら反証を試みる事もありうるのだ。

 多くの科学雑誌の査読制度は、この反証可能性を前提とする批判的合理主義の思想を基にしていると思える。査読者は、投稿論文の内容について、大抵自ら反証する実験・体験をする時間も手段もないが、その替わり新たな追加実験、追試あるいは詳しい条件の記述を要求するのである。こういった査読制度は、Nature誌に掲載されたスタップ細胞事件でも明らかになったように、100%機能するわけではないが、これがなければ科学雑誌は”科学”の雑誌ではなくなってしまう。

カントの「純粋理性批判」、ヘーゲルの弁証法との関係、さらにポパー自身の「自由社会の論敵とその論敵」へと通ずる社会思想との関連についての考察は今後の問題である。

 

参考文献

K. Kamino (1994) On Sir Karl Popper’s rationalism. The Annals of Japan Association for Philosophy of Science.  Vol.8 211-220.

第8回京都賞記念講演会パンフレット 1992 (稲盛財団)

村上陽一郎編『現代科学論の名著』中公新書 1989

吉田謙二 「ポパー哲学にせまるー批判的合理主義とは」 京都新聞1992年12月13日(朝刊15面)

松永俊男 「カール・ポパーの進化論」生物科学 35 , 89-96

小河原誠 『ポパー』講談社 199

 

追記(2020/03/11)

『未来は開かれている』(思索社 1986)でポパーはカントは純粋ではあったが、「純粋理性批判」で解決不能な問題を提議し、誰にも理解出来ない本を書いたとしてしている。これによってドイツでは「理解しにくさと深い事は同じ」という歴史的な誤解を招き、ヘーゲルはそれを利用した。ポパーによるとヘーゲルは不誠実で、真理を求める哲学者ではなく、感銘を与えようとした俗人であるとこきおろしている。

 

 

ポッパー『自由社会の哲学とその論敵』(武田弘道訳、世界思想社 1973年)

表紙に記入されたカール・ポパーの手書きサイン(1992年京都国際会議場にて)

 

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司馬遼太郎の『アメリカ素描』を読む: 多様性は力である

2020年07月08日 | 文化

司馬遼太郎 『アメリカ素描』新潮文庫 1986

(ニューヨークからボストンに向かう途中の司馬夫妻:同書より引用転載)

 

この書は文明論の本であるが、「多様性は力である」というフレーズが何度も繰り返される。

司馬遼太郎によるとアメリカ(The States)とは「文明という人工でできた国」である。群れで生活する人間には文明と文化が必要である。文明は普遍的で合理的で機能的なものであり、文化は特定の集団にのみ通用する不合理なものである(庵主考:文化は古びた文明ともいえる。不合理なものが最初から集団に定着するわけがなく、時代がたつにつれて合理的なものから形式的なものに変遷した)。

この本にはアメリカの歴史的な主流であるワスプ(英国由来白人)はあまり登場しない。むしろ中国系、韓国系、日系、アイリッシュ、イタリアンそれにベトナム系のアメリカ人の話しが、えんえんと続く。文明というものは多様な民族の中で醸成されるもののようである(オデンのようにそれぞれ固有の形と味を残したまま一つの鍋の中にいると表現している)。ただ必要条件としてはそれらの多民族を収容し、食わせ飲ませるだけの生産力をそなえていなければならない。

 

その歴史的な例として、司馬遼太郎は中国文明の興隆をあげて説明する。

中国文明は歴史的に、生業を異にする多様な民族がその都市国家の内外にびっしりといた。その異民族から様々な文明をまなび吸収した。殷周のころには、西方の姜から牧畜や食肉を、戦国のころには、匈奴から騎射やズボン、長靴を学んだ。他方、長江流域の荊蛮からは米作を学んだ。さらに華南の越という野蛮人から青銅文化、インドやペルシャから武術、曲芸、仏教という形而上学を学んだ。

清国の時代になって満州族のためにモノカルチャーとなり、西欧列強に屈したが、近代になって共産党の支配下で欧米の文明や技術を引き込み、ある分野ではその先端を走っている。

司馬遼太郎は日本の文明についても語る。

「文明は大陸の多民族国家でおこるものだから、孤島にすむ日本人はそれをみずから興す力がなかった。日本人は受容者にあまんじたが、ただ追随しただけではなく、それに創意工夫を加味して独自の文明と文化を作りあげた」と。

 最近になって”司馬史観”の批判本があいついで出されている。正すべき点は正すのは良いとしても、この傾向には、思想的かつ組織的な背景があるように感ずる。司馬遼太郎は戦前の軍国主義者を「狐に酒を飲ませて馬に乗せたような連中だった」とこきおろしたが、その遺伝子を持った細菌が再びあちこちで湧きはじめたようである。

 

(司馬遼太郎がみたマジソン街の聖パトリック教会:同書より引用転載)

 

 

 

 

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静かな祇園の風景

2020年03月16日 | 文化

 

 

 祇園の花見小路を久しぶりに歩いてみた。ほんとうに一昔前の京都にかえったような、すがすがしい気持ちになった。春節が終わる頃までは、外国の観光客であふれかえっていたのが嘘のようだ。

新型コロナウィルス騒動で、中国や韓国をはじめとする外人訪問客が激減したためである。インバウンド(嫌な言葉だ)を頼りにしていた商売はあがったりで、この状態が長引くと倒産する店がたくさんでると言われている。

これに関連して養老孟司さんが『京都の壁』(PHP研究所 2017)という講演録で、いいことをおっしゃっているので紹介する。

 

 『旅の宿の人を当てにしていては商いは長続きしない。たとえば今、私が商売を始めるとします。中国人の観光客が大勢来ているから、中国人をあてにして店を始めるとしましょう。でも、北京政府がへそを曲げたら、あっという間に減りますからね。そんな危ない商売はできないと私は思います。

 2016年の7月に台湾の台東に行ってきたのですが、台東のビジネスホテルの人が言っていました。台湾の総統が独立派にかわった。そうすると、中国本土からの客が三割も減ったそうです。北京政府が意地悪するのです。

 東京あたりでは中国人観光客の瀑買いを当て込んで、商売をしているところがたくさんあります。そんなものを当てにしていてはいけません。一時はいいので、そのときに稼ぐのはいいけれど、それをつい人間は当てにしてしまいます。たぶん、長続きはしないでしょう。中国人スタッフを雇ったとして、瀑買いが止まったらどうするのか?そういう下手な商売を京都の老舗はしません。やったかもしれませんが、そういうところはつぶれたのだと思います。結果、そうしなかった店だけが何百年と続いて老舗として残ってきたのです(以上引用)。』

 

 なんでも儲かったらいいというのは、京都人の心ではないのだ。調べたわけではないが、京都で外人相手の商売をする経営者は、「よそ者」なんだろうと思う。この騒動を契機に、京都の姿がこのまま保たれることを祈る。

 

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イグ・ノーベル心理学賞ー口にペンをくわえると幸せになる事の発見とそうはならない事の再発見!

2019年12月18日 | 文化
 イグ・ノーベルはノーベル賞のパロディー版である。昔は受賞者の中にはふざけていると言ってハーバード大学での授賞式をボイコットした人もいた。最近では人気があって、この季節になるとマスコミでよく報道されるようになった。
 

フリッシュ・ストラック(Fritz Strack)博士
(Copernicus Center for より転載)
 
 2019年のイグ・ノーベル心理学賞はドイツのフリッシュ・ストラック(Fritz Strack)博士が受賞した。 ストラック博士は、人がペンを口にくわえると笑い顔になってハッピーになるとして、1988年に論文発表した(参考論文1)。被験者はペンを口にくわえた不自然な状態で、漫画の面白さを判定した。すると被験者は通常よりも漫画を面白く感じたというのである。これは『表情フィードバック仮説』として、心理学の教科書に載りさかんに引用される有名な論文となった。無理にアハハハと声を出して笑うと、何故か気分が明るなりますよという心理療法に似た話だ。
 
 けれどもストラック氏は2013年から大規模な追試実験を組んで同様の実験を1894人の被験者にこころみた(参考論文2)。その結果はペンのくわえ効果なしであった。この論文では比較的誠実ではあるが歯切れの悪い言い訳をしている。いわく、『再現性の失敗は、うまくいく条件と効果を見つける良い機会である。再現性不可が建設的な役割を持つためには、重要な議論をはじめて結論を出す必要がある。効果が 1 つの条件でのみ発生し、別の条件下で発生しないことを示すことは単に効果なしを示すよりも有益である 。しかし、これには専門知識と多大な労力が必要となる』云々 有名になった自分の論文の結果を30年以上もたって、ご丁寧にみずから手間ひまかけて否定した。このなんとも言えない間延びが受けて、イグ・ノーベル賞の受賞に結びついた。
 
 ちなみにこの授賞式にはストラック博士が自ら出席し、事実を2分間で報告したそうである。歴代の受賞者の中には自分に不都合な受賞だと欠席する人もいたのに、それにくらべて誠実な態度だと評価されている。しかし、自ら訂正論文を出しているので当然の事だったのだろう。
この実験以外にも有名な心理学研究で再現性の無い例(「目の前の マシュマロを我慢できる子供の学力は高い」など)が、最近つぎつぎ報告され学会でも問題になっているらしい(日経新聞2019/12/15)。心理学は科学ではないという批判まででている。
 
参考論文とニュース
(1) Fritz Strack, Leonard L. Martin, and Sabine Stepper(1988) Inhibiting and facilitating conditions of the human smile: a nonobtrusive test of the facial feedback hypothesis.  Journal of Personality and Social Psychology, vol. 54, no. 5, 1988, pp. 768-777.
 
(2) Fritz Strack (2017) From Data to Truth in Psychological Science. A Personal Perspective”, Fritz Strack, Frontiers in Psychology, May 16, 2017.(https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2017.00702/full)
 
日本経済新聞2019年12月15日30面 『心理学実験再現つまづく』
特集「心理学の再現可能性」『心理学評論』第59巻1号(2016)(https://www.pri.kyoto-u.ac.jp/pub/ronbun/1056/index-j.html)

 

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松本清張のジョーク的「写楽の謎の一解決」

2019年02月22日 | 文化

 松本清張著「写楽の謎の一解決」(講談社 1977)は、謎の浮世絵師である東洲斎写楽についての講演記録である。ここではまず、写楽が何者であったのかという議論をし、諸説の紹介をしている。阿波の能役者斎藤十郎兵衛門説、阿波の下絵師説、版元の葛屋重三郎説、片山写楽説などを取り上げ、一つづつ細かく検証し、いずれもその根拠の薄弱たるを述べている。さらに写楽画の特徴と変遷を述べ、阿波人形の造形を真似て作画したというに説は眼球の形が反対になっていることなどから、これにも異を唱えている。諸説にケチばかりつけていても、よくないと思ったのか、最後に次のような仰天するような自説を披露した。

 

清張は写楽が当時流行っていた梅毒にかかり、視神系や脳が侵されていたと推定し、次のように述べている。

『写楽の対象を見る眼が最初からでデフォルメ的だったと言えないか。初めから彼の眼のレンズに歪曲があったのではないか。レンズの歪曲は、視神系の狂いです。異常な視神系に結像した対象は、彼にすれば「正常」だったのです。彼は眼に映る役者の顔を忠実に、まさに「真をうつさむ」として、あるがままに描いたのです。写実です。それを、歪曲だとかデフォルメだとか見るのは、健康な視神系を持っている人間の言うことでしょう。ここまでお話すれば、もうお分かりと思います。そうです、写楽は、少々精神異常者ではなかったかと思います』

 ここまで読んで、おかしいなと気づかなければならない。いま仮に、真円をこの病気の写楽が見たとする。写楽の眼のレンズだか視神系だか、あるいは情報を処理する脳細胞が異常で、真円が歪んで楕円に見えたとしよう。真円が脳で楕円に変換されたのだから、写楽がこの楕円を「真をうつさむ」として、これを紙に描くためには真円を描かなければならないはずである。

 頭がこんがらがるので、記号論理学的に次のような説明をしたほうがわかりやすい。

 Aーα→A’  物体Aが写楽の脳でα変換により脳像A’となった。

 A’ーβ→A”  写楽は脳像A’をβ変換により紙の上に画像A”として描いた。

 A”ーα→A’’’ 描かれた画像A’’がα変換されて脳像A’’’を形成した。

 写楽は「真をうつさむ」さんとしたから、A’とA’’’が一致するようにしたはずである。A’=A’’’、しかも変換過程はいずれもαなのでA = A”となる。すなわち、Aが真円であれば、写楽の描いたA”も真円である。

  推理小説の巨匠であった清張が、こんな単純な過ちをおかす訳がなく、おそらくその場の聴衆相手のアドリブ的なジョークではなかったかと思えるが如何? そもそも、脳まで侵された梅毒の末期患者が、特異な作風ではあるが精妙な浮世絵を短期間(約10カ月そこそこ)のうちに145点も残せるわけがない。

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鍔の美-名品鑑賞 (3)

2018年05月04日 | 文化

  鍔の美-名品鑑賞 (3) 

 

 

写真6.「月下孤狼図」江戸後期


  写真(6)この鉄鍔の箱書きには「寒月荒陵之狼金銀彫刻」とある。会津正阿弥派の一柳斎正光の作かと思われる。鍔形は長丸で、鉄地はねっとりとした黒褐色、耳は丁寧に打ち返えされており、据紋象嵌(すえもんぞうがん)の月と銀狼、金芒の出来映えは申し分ない。小柄と笄の両櫃の形も良い。芒と月と狼の組み合わせは江戸時代の工芸品での定番である。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の狼(オホカミ)の項にも、「狼ハ深山ノ大木アル処ニ棲ミ芒萱類ノ雑草アル地ヲ経ス狼ノ腹皮薄ク若シ芒ニ触レバ傷損スト云フ」とある。生態学的な根拠はあまりないが、狼は芒野に現れるという通説があったようだ。狼、芒、岩などの形象を右に集中し、地の左半分はたっぷり余白をとって、俳句のような風景を切り出している。巧みな構図が、一枚の鍔の中に緊張と緩和を生み出している。正光には他に鉄磨地の丸形鍔「竹に猛虎図」などが知られている。 

 

 

                                    写真7. 「潜り龍鍔」江戸中期


  写真(7)昇龍は縁起が良いので図柄として鍔にもよく使われる。武張った肉厚な彫は薩摩鍔と思える。この鍔のように体の一部が砂や雲に隠れているものを「潜(もぐり)り龍」という。高彫で隠れている部分が鍔の反対側に彫られている。薩摩鍔にはこの構図のものが多い。無銘なので、作者ははっきりしないが、小田直弁の作かと思える。龍の図柄の作品は得てして陳腐になるが、これは品よく落ちいている。鉄地も手入れがよくいきとどいており、明珍鍔のように鍛えがよく錆はほとんどみられない。

 蘭亭コレクションには、他にも印象深い鍔が沢山あり、それぞれみごとな一つの世界を切り出している。鍔の鑑賞においては、形や彫金、象嵌などの細工を見るだけではなく、鉄地そのものを味わうことが大事である。良質な鋼(はがね)に仕上がったものは、鉄味良く黒褐色から黒紫色を帯びている。鍔には良い錆(黒錆)と悪い錆(赤錆)があり、悪い錆がでないよう手入れが必要である。赤錆は、水分の存在下での鉄の自然酸化によって生じるFe(OH)3 等の水酸化物粒子のざらざらした凝集塊で、下地の保護作用はなく腐食はいつまでも進行する。一方、緻密な黒錆の酸化物被膜ができれば、不動態と呼ばれる状態になり、腐食に対する保護層として機能する。車のよく通行する道路のマンホールの鉄蓋が、タイヤに磨かれてほれぼれするような黒紫色の錆色を呈していることがある。鉄鍔の場合は、ひたすら布で磨き上げられることによってそれが出ているのである。

 テレビの「なんでも鑑定団」では、刀剣はたまに出品されるが、鍔が登場することはめったにない。これは、刀の備品の一部という概念があって、単独の美術品として愛好する収集家が比較的少ないためである。しかし、上で述べたように優れた古鍔は、じっくり鑑賞すればまことに味わい深い。鍔は京都では新門前の古美術商の店頭に並べられていることもあるし、名品を所有する美術館が刀装具の特別展示で公開することもある。そのような機会をとらえて鑑賞の目を養っていただきたい。

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鍔の美ー名品鑑賞 (2)

2018年05月03日 | 文化

鍔の美-名品鑑賞  (2)



                                                   写真3.「菊花赤銅地鍔」室町時代

 

 写真(3) 美濃鍔の一枚である。美濃派は足利時代の後藤祐乗を祖としている。美濃鍔は厚い赤銅地に秋草文様を深彫りし、これに良質の金銀でほどよく象嵌をほどこしたものが多い。これの地肌は魚子地(ななこじ)になっており、技巧を尽くした高級鍔と言える。魚子地とは金属面に魚卵状に特殊な鑿(のみ)を連続的に打ちつけたもので、白鳳時代から装剣具に見られる意匠である。色よく錆びた赤銅地に金色の菊が品よく調和している。鍔は本来、武士の戦闘における防御用具であり頑丈さと刀身とのバランスが実用的に重視されていた。しかし戦国の世が終わり、刀が武士の装飾品となるにつれて鍔もこのような華美なものに変化していった。秋口になって床の間に飾りたくなる逸品である。

 

 

 

       

 

               写真4. 「信家鍔」安土桃山時代

  写真(4) これは信家木瓜と言われるやや縦長の丸形で、地には蔓草が浅く彫られている。このように信家の図柄は簡単なものが多く、植物や亀甲のほか、仏教的な文字が刻まれているものもある。地肌は多少凹凸のある槌目仕立上げで、焼きなましの手法が採用され、黒紫色をした締まりのある鉄地で櫃や茎穴のバランスも良い。華美な象嵌や彫刻をほどこさず、地味な作風でありながら、「鍔の王者」と言われるだけあって、さすがに風格がある。最近の説では、「信家」は二代にわたる鍔工で、初代信家は尾張で織田信長に、二代目信家は芸州広島で福島政則に、それぞれ仕えたとされている。二人の作品は銘の切り方の違いによって区別されているが、この太字銘の鍔はおそらく2代目のものであろう。信家の鍔はバブルの頃、相当の高値で取引されていた。最近はさすがに落ち着いてきたが、それでもかなりの値が付けられている。

 

 

 

             写真5.「桜霞図糸透し鍔」江戸中期

  写真(5)銘は武州住伊藤正富作とある。正富は伊藤正永の門人とされている。伊藤鍔は、やや小ぶりの厚い丸形で肉彫や肉彫地透しを得意とし、これに金を用いた象嵌などの特徴を持つ。この鍔では、桜の花を近景に雲や霞を遠景にとって、金象嵌をほどこした雲の間に遠近感をつけるために3本の細い糸透しを入れている。この鍔は、全体としては品よくまとまっているが、正富の若い頃の作なのか、銘の切り方はあまりうまくない。

 

 

 

          

 

         

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鍔の美-名品鑑賞 (1)

2018年05月02日 | 文化


鍔の美-名品鑑賞  (1)


  鍔は刀の防具であるが、風景や動物植物を図柄として、平面に一つの世界を切り出している。庵主は長年、鍔の鑑賞を趣味として多数の作品をみてきたが、ここでは蘭亭コレクションの中のいくつかの名品をシリーズで紹介したい。      


              図1. 鍔の各部の名称

 

 鍔を鑑賞するためには、各部の名称を記憶しておくことが肝要なので図1を参考にしていただきたい。まず鍔の外周部を「耳」という。これは鍔と外の世界を隔絶する境界で、その形の良し悪しが作品の評価を左右する。耳の形としては丸耳、角耳、打ち返し耳、土手耳などがある。鍔を扱う際には真っ先に指で耳に触れるので、その触感も大事である。名品は、接触面からおのずとその歴史が伝わってくる。さらに鍔の金属部分の実質が「地」である。大部分の鍔の地は鉄でできているが、銅、金、銅と銀の合金(四分一)、真鍮などが使われているものもある。地は、透かし、象嵌(ぞうがん)、彫金など様々に加工され、その出来栄えが重要とされる。鍔にはいくつか穴が開けられている。刀の茎(なかご)を通す茎(中心)穴である。これの上下には刀の動きを防ぐために責金(せきがね)がはめ込まれている。他に半月形の笄櫃(こうがいびつ)と州浜形の小柄櫃(こずかびつ)の穴がある。笄は髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具である。良質な鍔はこれらの穴がバランス良く配置されている。茎穴の周囲の地の部分が切羽台で、古い鍔にはこの部分に切羽の跡が残っているが、明治以降に作られた新鍔には見当らないので鑑定の目安になる。 



 

              写真1.「桜花透し甲冑師鍔」鎌倉~南北朝時代

  写真(1)これは鎌倉時代から南北朝にかけて造られた甲冑師(かっちゅうし)鍔と呼ばれる古い鍔である。甲冑を作る金工が余技で製作したものと言われる。鍔は薄手で、耳をわずかに打ち返し、地には阿弥陀鑢(あみだやすり)をかけている。左に櫃穴が見られるが、後代(おそらく江戸期)になって開けられたものである。小透しの桜花をいくつか切ってある。甲冑師鍔では、桜以外に梅花、桔梗、蜻蛉などの文様を切ったものや、文字を刻んだものが見られる。透かしの技法はまだ稚拙で技巧らしい技巧のない作りは、強靭さを旨とした頃のものであるが、こういった素朴なデザインはむしろ現代の感覚に合っている。この鍔は時代が古く、表面に朽ちこみ(腐食跡)が見られるが、鉄の鍛えはまことに良い。


     

 

               写真2.「葡萄透し鍔」江戸中期

  写真(2)丸型鉄地の丁寧な透(すか)し鍔である。厚手の地肌を掘り下げて文様を高彫にする鋤出彫(すきだしぼり)によって、葡萄の房や葉が立体的に表現されている。日本の野生のノブドウは冷涼な気候を好み東北地方に多く、岩手ではこれでワインを醸造し販売している。ポリフェノールが多く独特の味がするといわれている。西日本の平地ではノブドウはあまり見かけないが、高地に生えている。この鍔は無銘で箱書きもないので、作者はわからないが江戸時代の正阿弥伝兵衛を頭とした秋田正阿弥派の作風によく似ている。筆者が最も愛好するコレクションの一つである(楽蜂)。

 

 

 

 

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芭蕉と蕪村と獺(かわうそ)

2018年04月27日 | 文化

 

 昨年の夏(2017年8月)、対馬で琉球大のチームがカワウソの撮影に成功し、絶滅したとされるニホンカワウソの再発見と騒がれたが、糞のDNA分析などから大陸のユーラシアカワウソと分かった。海を渡ってきたものが住み着いているらしい(繁殖しているかどうかは興味ある)。ニホンカワウソは明治期の乱獲で激減し、戦後における河川環境の破壊がダメ押しになって、1950年代の半ばにほぼ絶滅したと言われている。しかしニホンオオカミとともに、ときおり「生存」目撃が報道される。この種はシーボルトの編纂した『日本動物誌』にも記載されており、江戸時代には全国でそれなりに生存していたと思われる。ここでは獺が登場する芭蕉と蕪村の句を紹介してみよう。

 獺(かわうそ)の祭見て来よ瀬田の奥 芭蕉

 元禄3年(1691)1月の作で前書きに「膳所へ行く人に」とある。膳所に行く人は濱田洒堂。獺は魚を捕獲すると、すぐには食べず巣の上や川岸に並べて楽しんでいたといわれている。これを獺の祭で獺祭(だっさい)という。この一句の意味は、あなたは膳所へ行くそうだが、それならぜひ瀬田川の奥へ行って獺祭を御覧なさいということである。この頃は琵琶湖周辺に獺はたくさん棲息していたようだ。子規は、この獺祭という言葉が気に入ったらしく「獺祭書屋主人」と号していた。その俳句にも「茶器どもを獺の祭の並べ方」というのがある。

 獺(おそ)の住む池埋もれて柳かな 蕪村

 獺を見に、それが住んでいた自然池に行ってみたが、今は埋められて柳の生える野原となっていた。獺はどこに行ってしまったのだろうか…….という句意である。天明2年 (1782) 蕪村67歳で亡くなる前年の作である。蕪村のこの句から江戸時代のこの頃から既に、ニホンカワウソは干拓開発の被害を受けて生息範囲を狭められていた。この「池」というのはどこかわからないが、蕪村は晩年は旅に出てないので、京都近辺のものであろう。

                                     

 

 図は、江戸時代に描かれた『摂津名所図会』(1798年刊行)に描かれた「黒焼屋」の店頭の様子で 店先にカワウソ(「かわうそ」の札がみえる)やキツネ, ウサギに混ざってオオカミのような動物が吊るされている。「黒焼屋」は大阪中央区の高津宮の西階段下にあった動物の黒焼きを販売する当時の漢方薬局店で、この種の珍獣は高価な値段で取引されていたようだ。イモリの黒焼きは強壮剤として有名だが、獺の黒焼きは何の効用があったのだろうか? その後、獺は明治になって毛皮にするための乱獲と河川の自然環境で絶滅した。獺祭という言葉だけが俳句の季語として残っている。

参考: 蕪村全集第1巻発句 尾形仂、森田蘭著、 講談社 (1992)

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