長崎に立ち寄ったおりに、出島のオランダ商館跡を見学した。そこには当時の建物が復元されており、往時のオランダ人の生活をしのぶことができる。この史跡の一隅にラテン語の彫られた石碑が建てられていた(写真)。案内板の説明をよると、これはシーボルトが、商館の先輩であったエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer:1651-1716)とカール・ピーター・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg : 1743-1828)の二人を顕彰して、当時の出島の植物園に建立したものであった。そこには「ケンペル、ツュンベリー見られよ。ここに君らの植物、年ごとに緑よそおひ花咲きいでて、植えたる主をしのびては、愛しき鬘(かずら)なしつつあるを」と書かれている。シーボルトは江戸時代末期にオランダ東インド会社から出島に派遣されたドイツ人医師であり、また博物学者であったこともよく知られている。一方、この碑文に出てくるケンペルとツュンベリーの経歴や事跡については、日本人にはあまり知られていない。二人の医術の程度はどのようなもので、当時の日本の医学ににどのような貢献をしたのだろうか。さらに碑文に書かれている彼らの植物とのかかわりとは、一体どのようなものだったのだろうか。
(図1)
エンゲルベルト・ケンペルはドイツ北部の都市レムゴーに生まれた(図1)。ここはまだ魔女狩りが残っている中世のような街であったが、父親は開明的な牧師だったそうだ。この古い街を嫌ってケンペルは16歳のときにハーメルンに移り、さらにヨーロッパを転々としながら、医学、薬学、自然科学、哲学、歴史学をおさめた(当時、このような個人レベルでの文理融合が一般的だったのかどうか知らないが、こういった背景が後に書かれた大著『廻国奇観』(Amoenitates Exoticae)をユニークな世界見聞録にした)。その後、ロシア、ペルシャ、インド、ジャワを経て、長い旅路の末に元禄3年(1690)、ワールストロー号で長崎・出島に到着した。ケンペルはオランダ東インド会社に就職し、商館医として派遣されたのだが、当時の商館員名簿には「上級外科員、給与36グルデン」と記録されている。当時、植民地を管理する東インド会社の医師の責務は大きかった。船旅の環境は悪く、乗組員の多くが死んだり病気になった。さらにバタビア政庁がある熱帯の植民地では風土病や感染症のリスクが高かった。医者は怪我した患者だけでなく、得体の知れないさまざな疾病に対応しなければならなかったのである。長崎はバタビアよりましだったはずだが、ケンペルが出島に到着してほどなく、オランダ人館員の一人が手当の甲斐なく病死している。出島で館員以外の日本人を診断する事は許されていなかったが、出島の乙名であった吉川儀部右衛門を治療した記録が残されている。ここでのケンペルの唯一の日本人弟子は後に幕府の大通詞に出世した今村源右衛門で、ラテン語と医術を教え込んだ。
オランダ人の江戸参府は嘉永3年(1633)にはじまったが、これはオランダ商館長が通商を許可されている事に対するお礼を将軍に言上し方物を献ずるための旅行であった。江戸参府の様子はケンペルが晩年書いた『日本誌』(Japanska Historia)の第五章『参府日記』で多くの紙幅が割かれている(斎藤信訳『江戸参府旅行日記』平凡社・東洋文庫)。ケンペルは1691年元禄4年(1691)と5年に連続して江戸参府に随行した。芭蕉が「かぴたんもつくばゝせけり君が春」という発句をつくった頃で、五代将軍綱吉の世であった。オランダ人は商館長に医師と書記の三人で、それに長崎奉行所の検使と通詞などの日本人をいれて一行は総計約60名に及んだ。オランダ人は大名のように駕籠に乗って移動した。元禄4年の江戸参府は商館長バイテンヘムに率いられて、2月13日に長崎を出発し、3月13日江戸着、4月5日江戸発、5月7日に帰還している。
旅の途中でさまざまな出来事があったが、ケンペルにとって最大のハイライトは将軍綱吉との面談であった。綱吉は犬公方といわれ評判はよくなかったが、好奇心の強い将軍だったようだ。形式的な拝謁が終わってから、外国人の生態観察のつもりか、ケンペルは広間で歌ったり踊ったりさせられた。その後で、様々な医学的な質問がケンペルになされた。「内科と外科の病気のうちで、何が一番重く危険と思っているか」「癌と体内の腫瘍にその方はいかに対処しているのか」などの問がなされたが、極め付きは「西洋では不老長寿の薬は発見されておるのか」というものであった。秦の始皇帝以来、最高権力者が医者に聞くことはたいてい決まっている。薬学が得意なケンペルはそれに対して、「ございます。それは一種の酒精でして適度に用いれば体の水気を保ち活力を旺盛にいたします」と答えた。そして長ったらしいラテン語の薬の名前を将軍に告げた。もとよりそんな物は無かったのだが、日本人が長い外国語に弱いことを知っていたのである。綱吉は興味を持ち、次回それを持参するように命じたという。ケンペルは翌年、毒にも薬にもならないアンモニア化合物の混ざった丁子油を差し出したと『参府日記』に書き留めている。ケンペルは江戸滞在中に将軍の侍医の怪我を診たり、野犬に噛みつかれ負傷した人足の治療を施している。その男に対してケンペルは「その犬をやっつけなかったのか」と尋ねた。狂犬病の可能性を危惧したのである。ところが、その男は怪訝な顔をして「この私に自分の命を賭けるようなことをせよとでもおっしゃるのですか」と答えたそうだ。綱吉の「生類憐みの令」によって犬が過保護にされていたことが実感できるエピソードである。
ケンペルは薬学と自然博物学をケーニヒスベルグで学んだ。『廻国奇観』の第5巻では日本の植物を紹介している。『日本誌』第1巻9章にも「日本の植物」の項目があり、主に栽培植物を記述しているが、これらは日本の植物を西洋に紹介した最初の文献となった。大英博物館にはケンペルによる日本の植物のスケッチや写生図が残されている。シーボルトの『日本植物誌』でもハコネウツギの項目などにケンペルの記述が引用されている。しかし『参府日記』を読むと、記述のほとんどが人文的な事柄で、植物を含めた自然物の記載は意外と少ない。ただ、肥前彼杵あたりで見たクスノキの大樹には感銘を受けたようで、これを書きとどめている。
ケンペルは元禄5年(1692)に、この特異な文化の国日本を離れ、バタビアを経てオランダに帰着した。その後、ライデンで学位論文「10の珍奇な観察」を書いて医学博士となっている。この論文は後に『廻国奇観』にすべて収められている。その10の項目には「陰嚢水種」、「骨腫瘍」、「日本の鍼灸」など医学的な内容もあるが、「ペルシャの痺鱏(シビレエイ)」、「カスピ海の苦水」などと言った不思議なものが並んでいる。この頃の博士は、現代のそれと違い文字通り「博学の人士」に与えられたのであろうか。ケンペルは故郷の町に近いステインホフケンペルでリッペ伯爵の侍医となって余生をすごしたが、1716年に65歳の人生を終えた。生誕地レムゴーの公園には、水原秋櫻子の「花と咲く元禄の世の見聞記」を刻んだ句碑が建てられている。
(図2)
ケンペルが日本を去って83年後1775年に、やはりオランダ東インド会社から商館医としてカール・ツュンベリーが出島に派遣されてやって来た(図2)。若狭小名浜の藩医杉田玄白らによって『解体新書』が刊行された翌年のことである。ツュンベリーは1743年、スエーデンのインシューピングという町で生まれた。父親は役場の書記で、石灰を商う裕福な一家であった。彼は18歳のときにストックホルム近郊のウプサラ大学に入学し、分類学の父として有名なカール・フォン・リンネ教授に師事して医学と植物学を学んだ。今では信じられないことだが、リンネは医学部で解剖学と植物学の両方を教えていたのである。ツュンベリーは、ここで医学博士号を取得した。学位論文のタイトルはケンペルのように「珍奇」なものでなく、「座骨神経痛について」というまともなものであった。その後、彼はパリの医学校に留学している。この頃、彼は植物学者のヨハネス・ビュルマンやベルナード・ド・ジュシューなどと交流した。1771年になってビュルマンの推薦で医師として東インド会社に就職したツュンベリーは、アフリカとバタビアでの滞在を経て、1775年8月に長崎に到着した。
日本でのツュンベリーの活動は『江戸参府随行記』(高橋文訳、平凡社・東洋文庫)に詳しく記録されている。そこで「出島では職務につくことは滅多になかったので、それ以外の貴重な時間を昆虫や植物の採集、調査、保存、そして通詞との交流に費やした」と述べている。当時のオランダ通詞のなかで、茂節右衛門とその息子の伝之進の父子は植物愛好家であったこともあり、ツュンベリーのために献身的に働いた。ツュンベリーは日本滞在中、精力的に植物を採集・記録し、後にツュンベリーの『日本植物誌』を著わした。これはラテン語で書かれ420頁に及ぶもので、リンネ式の二名法にもとずいて分類された約800種の植物が記載されている。そのほぼ半数が新種とされた。彼の集めた基準標本は現在、ウプサラ大学に保管されている。これらの業績によりツュンベリーは「日本植物学の父」と呼ばれるようになった。
ツュンベリーも安永5年(1776)3月に商館長フェイトに随行して江戸参府を行っている。『随行記』を読むとケンペルの『参府日記』に比べて植物についての記載ははるかに多く詳細である。箱根では植物を採集するため、駕籠から降りて徒歩でフィールドワークを行い随員を困らせたりした。将軍家治との謁見は、幸いなことに儀礼的なものだけで終わり、ケンペルの時のような猿芝居や試問はなかった。江戸滞在中は岡田養仙、栗崎道巴、天野良順などの医師と面談し、桂川甫周、中川淳庵と交流した。甫周と淳庵は玄白とともに解体新書の翻訳にたずさわった蘭学者である。淳庵は医学だけでなく、西洋の植物学とラテン語をツュンベリーから学び、その後もお互いに文通を続けたといわれている。
当時の江戸で流行っていた最悪の感染症は梅毒であった。玄白の回顧録『形影夜話』によると、医者にかかる患者の70-80%が梅毒患者であったそうだ。そのころ、西洋では梅毒の療法として適量の昇汞(塩化第二水銀)を用いた治療が行われていたので、江戸滞在中にツュンベリーは持参した昇汞を使って梅毒患者の治療を試みている。患者については性別さえも知らされなかったが、状況から徳川家の枢要な人物のようであった。その様子を『随行記』に次のように記している。
「そこで、私はこの国の医師や通詞に水銀剤を利用する方法を実践させることにした。時おり少量の昇汞を彼らに与え、それを水に溶解しシロップを添加してどのように使用するかについて教えた。ついで、この溶液は必要な準備のあと、細心の注意をはらって大勢の乞食同様の人々に使われ、毎日私に報告された。そして私の指導のもとに、ついには自分の患者に、この溶液を用いてみるまでの勇気を持つようになった。そして、これによる効果は信じがたいほどであり、ほとんど奇跡であると思ったようだ。この成果は彼らにとって重要であり、やがては全国民に計り知れないほどの効果をもたらすようになるかも知れない」(高橋文訳)
「乞食同様の人々」への試験投与は、現在の医療倫理からするとひどい話であるが、ツュンベリーは安全量を熟知しており、それを指示して行ったのものである。この治療法はツュンベリーの通詞であり弟子でもあった吉雄幸作による著『紅毛秘事記』を通じて広く全国に伝播し、当時の医療に定着したといわれる。ツュンベリーは医師としてより植物学者としての活躍が目につくが、梅毒の水銀剤療法の導入といった貢献も忘れてはならない。ただ、この療法は劇的効果をもたらしたように記しているが、当時でも評価は分かれたようである。杉田玄白は『形影夜話』であまり効用はないと述べている。
ツュンベリーは安永5年(1776)12月長崎を出帆し、バタビア、セイロン、オランダ、イギリスを経てスエーデンに帰国した。後に、亡きリンネの後を継いでウプサラ大学の植物学と医学の正教授となり、さらに科学アカデミーの総裁にも選出されている。1828年、まだ教授職にあったツュンベリーは85歳で亡くなった。まことに満ち足りた人生であったといえる。
ところで「出島の三学者」とよばれるケンペル、ツュンベリー、シーボルトはいづれもオランダ人ではなかった。ケンペルとシーボルトはドイツ人、ツュンベリーはスエーデン人であった。当時、オランダに医師が少なかったわけではない。植民地をかかえたオランダは経済的に繁栄していたので、大学卒の医者はわざわざリスクの高いアジア地域で働く人が少なかったのである。しかしながら、この三人は、たまたま商館医のポストが空いていたから雇われたというのではなく、それぞれ神秘の国日本に魅せられ積極的に応募して日本にやってきた。そして、いずれも江戸参府の見聞録を含む『日本誌』と『日本植物誌』をまとめた。これらは、今でも江戸期の社会や自然を知るかけがえのない資料となっている。
参考図書など
ボダルト・ベイリー(中直一訳)『ケンペル-礼節の国に来りて』ミネルバ書房 2009
松井洋子『ケンペルとシーボルト』山川出版社 2019
スエーデン大使館・日本植物学会『ツュンベリー来日200年記念誌』スエーデン大使館、日本植物学会刊 1978
木村陽二郎『ナチュラリスト、ツュンベリーの長い旅』(ツュンベリー著、高橋文訳「江戸参府随行記」) 平凡社 2006