アーノルド・C・ブラックマン 『ダーウィンに消された男』(羽田節子、新妻昭子訳)朝日新聞社 1984年
1858年6月、ダウンの屋敷でダーウィンはアルフレド・ラッセル・ウオーレスの手紙を受け取った。それは、生物の進化論を見事に述べた論文が同封されていた。ウオーレスはインドネシアのモルッカ諸島のテルナテから、まだ誰も発表していなかった進化のメカニズムを簡潔に述べた論文をダーウィンに送り、それをライエルに渡してほしいと頼んだのだ。
科学史の多くの記述では、同年8月のリンネ学会でダーウィンとウオーレスの進化に関する論文が同時に発表されたとなっているが、実際に発表されたのはウオーレスの「テルナテ論文」だけで、ダーウィンのほうは論文は無く、エザ・グレイへの手紙が添えられた概要のみであった。ブラックマンの掲書は、ダーウィンがその手紙を受け取ってから、いかに「ずる」をして、進化論に関する優先権を手にいれようとしたか、手に入るあらゆる資料を基に論じている。
この著を読むとブラックマンが比類ない粘液質のドキュメント作家であるかがわかる。ここでのダーウィンに関する進化論の優先権に関する記述は、悪口ではなく、純粋に倫理的な批判である。詳しくは本書を読むか、内井氏の論考ダーウィンの自然選択説に関する二つの疑惑(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/ 2433/59170/1/jk15_ 001.pdf)を参照されたい。
アルフレド・ラッセル・ウオーレス
ここで紹介するブラックマンの悪口は、「著者取材ノート」という後書きに書き込まれたものである。「ダーウィンの不正」の話しとは、関わりのない彼の私的なエピソードであるが、結構強烈なもので、以下のその部分を転載する。
「夢想家のウオーレスは、誰もが協力的だとはかぎらないと知ったら、きっと心を傷めたにちがいない。ルイス・マッキニーのばあいがそうである。マッキニーは『ウオーレスと自然淘汰』(1972)その他の著作で、ウオーレスの二人の孫のことを書いている。1997年10月、私はイギリス再訪の準備中に、マッキニーに手紙を書いて、ウオーレスの孫たちの住所を教えてくれるよう頼んだ。返事はなかった。11月にふたたび手紙を書いたが、やはり返事をもらえなかった。12月、私はマッキニーが努めるカンザス大学に電話し、当方払いで電話をくれるよう伝言した。電話はこなかった。アメリカン人のいいぐさでは三振アウトである。このエピソードになぜあきれるかというと、私や他の税金支払者は、ウオーレスに関するマッキニーの研究を一部財政的に援助しているからだ。マッキニーは二つの財団と連邦政府の国立健康研究所 (NIH)から研究費を受けている。NIHの研究助成金統計課の記録によると、彼はウオーレスの研究に対して少なくとも1 万6850ドルを受け取っている。公金を受けている個人は大衆に対して義務を負っている」(以上一部省略して引用)。
マッキニーの研究費を担当課に問い合わせて悪口の資料にするとは、著者のおそるべき粘液質が発揮されている。このような場合、大抵の人は、返事がないのには不快な気持ちを持つが、邪魔くさいので、次の仕事にかかるものだ。
ただ、この著者のしつこい悪口が救われているのは、最初の書き出し「夢想家のウオーレスは、誰もが協力的だとはかぎらないと知ったら、きっと心を傷めたにちがいない」がいささかのユーモアを含んでいるのと、税金利用者の義務についての理屈を述べたところである。マッキニーは情報が提供できない理由があったのであろうが、それを知らせるべきであった。
忙しい時期には、人からの手紙にもメールにも応答しないことがたまにある。しかし、油断すると、このような粘液質の人物によって、それだけのことで、悪口を公開される事があるので注意が必要である。
追記:本来、「ウオーレスの進化論」が「ダーウィン・ウオーレスの進化論」に、そして今や「ダーウィンの進化論」になってしまった理由はいくつかある。それはウオーレス自身にも問題があった。ウオーレスは心霊術を信じていたことや、ダーウィンと違ってヒトの進化を意識的に取り上げなったことである。