スリッパに入り込んだカブトムシ(甲虫、兜虫、Trypoxylus dichotomus)
夜中の12時ごろ書斎の灯りにやったきたカブトムシの雄。
まだまだこの辺り(京都市浄土寺地区)は自然がある。
スリッパに入り込んだカブトムシ(甲虫、兜虫、Trypoxylus dichotomus)
夜中の12時ごろ書斎の灯りにやったきたカブトムシの雄。
まだまだこの辺り(京都市浄土寺地区)は自然がある。
(「実話web」より転載)
宮崎学氏(1945-2022)については、その死後も様々な評価・評論がなされている。思索者、体制批判者として彼がどれだけ世界や社会を透徹して見ていたのかは問題があるが、一つだけ感心して彼の文章を読んだ記憶がある。その著「突破者外伝」(祥伝社2014年)において次のようなことを述べている(p216)。
「最近、農村や一部の都市でもクマが出没して問題になってるが、この原因の一つは村や町内で結界を作っていた放し飼いのイヌがいなくなったためである。昔は犬は放し飼いが基本で、これらが習性から自然に集団化して縄張りをもち、集落の周辺に現れる野生動物を追いかけた。クマよりずっと小さくて弱いイヌも集団になると強い。日本のようにイヌの放し飼いを禁止している国家もめずらしい。イヌが人を噛む、吠えてうるさい、糞で道路が汚れるなどの小市民的な理由から、農村部でも都市でもイヌの放し飼いをやめるようになった。その結果、シカ、クマ、イノシシなどの野外動物がそこに進出してきた」
筆者も比叡山延暦寺のお坊さんに同じようなことを聞いたことがある。昔は、叡山にはかなりの野犬がいて、彼らのお陰でシカやイノシシが畑に入り込まなかったそうである。さらに個人的な思い出を述べると、昭和20年代には都市でも犬は放し飼いで、幼稚園に通う道すがら町の辻々にボス犬がいて、これと闘いながらの通園だった。また、1970年代ごろでも京都市内の某大学の植物園内に夜な夜な野犬が集まってきて、夜中に園内で作業をする人を取り囲んだりしていた。日本では大昔から人と犬は密着して暮らしてきたし、そのような記録がある。そもそもホモ・サピエンスが栄えてネアンデルタール人が滅びた原因の一つがイヌとの共生の有無だったという説もある。
暴力団対策法で新宿のヤクザ(町内の犬)が取り締まれて、いなったくなったので、”本物の犯罪者”である中国マフィア(熊)が縄張りに入り込んで来たという。社会でも身体でも無菌状態にすると、かえって脆弱になるという理屈に、どれだけの根拠があるかわからないが、宮崎氏の主張はなんとなくエコロジカルで合理的なものと思えた。
ところで、須田慎一郎氏がYutubeで語る宮崎氏の「追悼番組」(追悼 宮崎学さんから学んだこと - YouTube)にはかなりやばい話がでてくる。ホテルのロビーで宮崎氏が須田氏を恐喝し、いう事を聞かないので、ちゃぶ台返しをしたというのだ。これはチンピラヤクザの常とう手段で、ここでは町の野良犬を演じていた。”権力と戦うアウトロー”のはずが、チンピラヤクザの裏の顔を持っていたのである。それが魅力といえば魅力だったかもしれないが、こんな事で論客宮崎が”しのぎ”をしていたとは情けない。
(注1:「宮崎学」をインターネット検索していると写真家の宮崎学(みやざきがく)氏とかぶる。この人は長野県出身で、社会的視点にたって自然と人間をテーマに活動しているまじめな報道写真家である)こっちの宮崎氏の著「イマドキの野生生物」(農文協2012)には、ツキノワグマの生態の話がでてくる。森林構造の変化により、その活動分布が変化してきたという。
(注2:「ヒトとイヌの共生」から「人と犬の共生」への進化的考察が今後のテーマである。犬が街にいない社会がどのようになるのか? また人が減少すると犬はどのようになるのか文化動物学的考察の展開が期待できる。各民族におけるその形態と変遷を比較生態的に考究する必要がある。林良博の「日本から犬がいなくなる日 時事通信社 2023)も参考になるが、文化史的考察は希薄である。
追記(2023/07/17)
人と犬の「共生」を破壊したのは、明治政府であることをアーロン・スキャブランドが「犬の帝国-幕末日本から現代まで」(岩波書店、2009)で書いている。鑑札のない犬に懸賞金をつけて始末させた。
NHKスペシャル「人体」取材班著『シリーズ人体、遺伝子』ー健康長寿、容姿、才能まで秘密を解明!、講談社、2019
最先端の技術で人のDNA分析により、性別、年齢、髪の色、皮膚の色、民族などが推定できるようになっている。年齢はDNAのメチル化の程度を調べると分かるらしい(歳を取るにつれてメチル化された特定部位のシトシンの割合が増える)。これは前から分かっているのでさほど驚くべき事ではないが、本書で紹介されている「DNA顔モンタージュ」については「ほんまかいな?」という感想である。そこには次のような内容が書かれていた。
米国ではパラボン・ナノラズ社の「DNAの情報から顔を再現する」方法を警察の捜査に利用し、犯人の残したDNA情報を基に顔モンタージュを作り、それにより逮捕にいたったという事である。さらに中国科学院のKun Tang(クン・タン)博士らのチームは、人のDNAに1万カ所以上も顔の形態(morphology)を決める部位 がある事を明らかにした。方法としては、たくさんの人の3次元画像を収集し、人工知能AIを用いてDNAとその顔画像のデーターの関係を明らかにしたという。ディープラーニングのアルゴリズムを確立し、複雑な関係性を見いだしたそうだ。実際に俳優の鈴木亮平さんにDNAサンプルを提供してもらい、タン博士が研究成果で得たアルゴリズムでもって顔の3D画像を作ると、「気味が悪いほど」よく似た顔画像が得られた。
本書によると、この研究成果(表題では「中国版DNA顔モンタージュ技術」)は学術雑誌に発表されているという (67頁)。これはゲノミックス、AIとコンピューター3D技術を組み合わせた画期的な研究だと思い文献検索してみた。中国科学アカデミーのホームページ(https://www.researchgate.net/ scientific-contributions/ 38255 468_Kun_Tang)でタン博士の最新の報告(bioRxvのプレプリント)は『Novel genetic loci affecting facial shape variation in humans (11月2019年発表)』というものである。しかし、これにはそんな事は書いていない。さらに,リストに掲載の過去の論文をさかのぼって調べても、上記のような内容のものは出てこない。庵主の検索法に穴があるのかもしれないが、このあたり少しひっかかる。
上海大学に在籍中のタン博士が行ったComputational Biology誌の論文[Detecing Genetic Association of Common Human Facial Morphological Variation Using High Density 3D Image Registration] (2013年)を読んでみた。これは、口唇口蓋裂と関連する遺伝子(IRF6)を含む顔形態遺伝子と顔貌の関連を調べたもので、これについてはまあまあ良質な論文と思えた。
本書にはその他に以下のような話題が並んでいる。DNAのタンパク質をコードしているORF(open reading frame)の読み取開始の上流のエンハンサーの塩基配列がon-offの活性に重要だという事とDNAのメチル化が次世代の遺伝子発現の調節にまで影響している事などが述べられている(遺伝子配列や組成が環境によって変化し、次世代に遺伝するのではないので誤解してはならない)。さらにDNA配列の多様性によって薬や食材の効果が一人づつ違う。たとえばコーヒーの健康効果についてもそれを分解する遺伝子 (CYP1A2)発現の程度に個人差がある。それによってコーヒーが有効な人と、かえって害になる人に分かれるそうだ。
脚注:(2023/07/07)
DNAのSNPから顔を推定するサービス会社(ParbonNan-Labs)が米国にあって、サンプルの人の年令、肌,目、髪の色、そばかすの有無、祖先(人類のどのグループか)などを調べてくれる。これらを総合して作った顔の推定モンタージュ写真は実物とかなり似ている(Newton 2023,7月号)。
新入りの朝顔葛を追ひ払う 楽蜂
近所の空き地の崖を外来性のマルバアメリカアサガオがすっかり覆い尽している(上の写真)。今までは葛(クズ)がこの場所を優占していたが、おそらく誰かがそれを除去した後に、この朝顔が急激にはびこったものだろう。この朝顔は日本古来の朝顔と花はよく似ているが、葉っぱが厚くて広く遠慮会釈もなく増えるので、まったく趣がない。おまけに花季が長く、遅いものでは12月になっても咲いていたりする。花色はやぼったい濃い紫である。インターネット情報では、これが一部の農地に侵入して被害をもたらしているそうだ。
日本伝来の朝顔は、俳句で夏の季語として、さわやかさ、すずしさ、しずかさ、せつなさを表す代表的な夏季の風物であった。筆者の好きな朝顔の俳句五句。
朝顔に我は飯食ふ男かな 芭蕉
あさがほの花はぢけたりはなひとつ 暁台
朝顔や一輪深き淵の色 蕪村
朝貎や咲いた許りの命かな 漱石
朝顔の紺の彼方の月日かな 波郷
この外来種の朝顔ではとてもこんな句を作る気にならない。日本の自然はどんどん外来の侵入種のために変化してきたが、最近の花屋の店頭に並ぶ花もほとんど外国産のものだ。野外フィールドだけでなく、感覚フィールドでの侵入種による撹乱も「日本人の遺伝子」にとっては問題である。
世界で最も有名な科学方程式はアインシュタインが発見したE=mc2(エネルギー=質量 X 光速の2乗)であろう。これは特殊相対性理論から導き出されたもので、エネルギーと質量が等価関係を持ち、相互に互換性があり、条件が整えばエネルギーが質量に変換されるのと同様に、質量もまた適切な条件のもとではエネルギーに変換されることを示している。この方程式により人類は「原子の火」を手に入れて、まず原爆が、ついで原子力エネルギーが生み出された。
アインシュタインは、純粋にこの式を理論から導きだしたので、核分裂によるエネルギーの解放などは予想もしていなかった。それを物語る有名なエピソードがある。 1920年の年末、ベルリンにいたアインシュタインのもとに一人の青年が分厚い原稿を抱えて訪れ、会って話したいと言い張った。受付で押し問答があり、面倒な手続きの末、青年はようやくアインシュタインに会うことができた。彼はアインシュタインに、あの有名な方程式E=mc2を基にして、軍事目的に利用できる驚異的な爆発力を持つ兵器が作れると語った。その場に居合わせた人たちの話では、アインシュタインはこの話をまったく相手にしようとせず、こう言ったといわれる。 『まあ落ち着きたまえ。きみのばかばかしい説の詳しい話に立ち入らなければ、きみはさらに恥をかかずにすむよ』 ところがなんと、それから二十五年後、広島・長崎への原爆投下をもたらしたのは、アインシュタイン方程式の応用にほかならなかったのである。
原子物理学の分野で飛躍的な発展が遂げられ、核反応が発見されたのは、レオ・シラードが神がかり的な直感を得た1933年のことだった。すなわち、もしある元素内の原子が衝撃を受けて二つの中性子を放射すると、連鎖反応が始まるのではないかというものだった。ヨーロッパの数人の科学者たちが実際に核分裂を発見したのは、1938年になってからだった。イタリアのエンリコ・フェルミが、その第一発見者だと言われている。それに続いてキュリー夫人の義理の息子であるフランスのフレデリック・ジョリオ、ドイツでは化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンもそれを発見した。ニールス・ボーアは、核分裂の実験が成功し、その理論的な説明もすでにできているというニュースを、1939年にワシントンで開催された第5回理論物理学会の席上で、アメリカの研究者たちに知らせた。このニュースは、またたく間に全科学界に広がった。核分裂に伴う質量欠損により膨大なエネルギーが生ずる事が実証されたのである。
ナチスがなぜ原子力を軍事目的に利用しなかったのか、いまでも謎とされている。世界中の科学者の半数が、原子物理学の発展やその利用法について討論していた。軍事面で応用できそうな発見には、いつでもすぐに飛びついていたナチスドイツが、核に関しては反応が遅かった。 第一の理由としてあげられるのは、幸いアドルフ•ヒトラーは原子力のもたらす現象にまるで興味がなかったという事だ。第一次大戦の伍長には原子力の重要性を理解する能力はなかったようだ。第二の理由は、ドイツの中心的な科学者たちが、故意に核分裂発見のニュースを隠したという点である。彼らは結果を見越して、ナチスにその秘密を敦えるべきでないと考えた。とくにハイゼンベルクの努力によって、ナチスは核兵器の開発で連合国に遅れをとった。
大事な事は、連合国側は核開発でドイツより優位に立っていることを、終戦の直前まで自覚していなかったことである。いつもナチスに先を超されているのではないかという強迫観念があったので、アメリカはマンハッタン計画を推進し、1941年から核兵器開発に莫大な投資をした(心の片隅には大戦後のソ連との軍事的対抗戦略の事もあった)。連合国の核兵器開発ブログラムを作るに当たってアインシュタインが果たした投割についてはすでに伝説化してしまったが、その背景に潜む事実はしばしばあいまいにされ、一連の計画推進への関与については甚だしく誤解されている。 連合国における核兵器開発プログラム推進の音頭を取ったのは、ハンガリー出身の物理学者レオー•シラードだった。彼は、核爆弾製造の競争でドイツに勝つ必要性があることをルーズヴェルト大統領に知らせなければならないと思った。だが、アインシュタインほどの大物でないと大統領を動かすことはできないことも分かっていた。シラードは1938年七月、アインシュタインを訪問することにした。その夏、アインシュタインはロングアイランドの友入のもとに滞在していた。シラードと彼の意見に共感したプリンストン大学物理学教授のユージン・ウィグナーは、アインシュタインの居場所をつきとめて突然に訪問し、この危険な状況を説明した。
アインシュタインは、核分裂を原子爆弾に利用するという考えに仰天したという。1930年代から40年代にかけての彼の研究テーマは物理学の主流からはかけ離れた統一場理論の研究をしていた。おそらく、核分裂の利用についてのホットな議論は追いかけていなかったのだろう。第二次大戦が終結した直後に、アインシュタインはシラードが待ちかけた話について雑誌記事のなかで言及している。「われわれの時代に、それが本当に実現するとは思いませんでした。理論的には可能だとは思いましたが」 アインシュタインは科学界の代表として発言することに同意し、シラードが起草した核分裂の利用について大統領に行動を呼びかける手紙に署名した。1939年8月2日付のルーズヴェルト大統領あての手紙は次のようなものだった。 『大統領閣下 エンリコ・フェルミとレオ・シラードの最近の研究の結果によりますと、近い将来ウランが重要なエネルギー源として利用される可能性があると思えます。ある意味でこの状況は警戒を要しますし、必要となれば政府の早急な対応が望まれます。したがって、これから述べる事実をお知らせし、ご注意を喚起させていただくのが私の任務だと考える次第です。 この四か月で、フランスのジョリオ、ならびにアメリカのフェルミ、シラードの研究によって分かったことは、大量のウランを用いて核分裂の連鎖反応を起こし、それにより強大なエネルギーと大量のラジウムのような新しい元素を発生させ得る可能性があるという点です。近く実行に移されることは、まず間違いありません。 この新しい現象は、爆弾の製造に結びつくかもしれません。そして確信は持てませんが、強力な新型の爆弾が作られることが十分に考えられます。この型の爆弾は、一つだけでも船で運ばれて港で爆発すれば、周辺部を含めて港全体を壊滅させる力を持っています。おそらくそのような爆弾ですから、重すぎて航空輸送には耐えないでしょう。 アメリカにもある程度ウラン鉱石はあるものの、品質は著しく劣っています。カナダや旧チェコスロヴァキア領からはかなり産出するものの、世界最大の鉱山はベルギー領コンゴにあります。 この状況にかんがみて、政府と密接な関係にある核連鎖反応の研究チームを組むことが望ましいというお考えに至るのではないでしょうか。そのためには、閣下が信用されるしかるべき人物に、非公式に仕事を委ねるのが賢明かと思われます。その人物は、次のような任務を果たすことになるでしょう。 (a)政府各省と連絡を取り、新しい発見を逐一知らせ、政府が取るべき行動を進言する。とくに、アメリカがウランを確保できるよう心がける。 (b)現在、大学研究室の予算内でおこなわれている実験を促進する。そのためには、当該の人物がこの目的のために進んで寄付をしてくれる個人と接触して必要な限りの資金を供給してもらい、必要な設備の整った企業の研究所の協力を仰ぐ。 ドイツは、占領したチェコスロヴァキアの鉱山のウラン輸出を禁じたと聞いています。このように迅速な行動に出るということは、ドイツ国務次官の息子フォン・ワイツゼッカーがベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所と結んでいて、そこでアメリカと同様のウランの実験がいま繰り返されているためと推察されます。 敬具 A・アインシュタイン』
この手紙を仲介したのは大統領にかなりの影響力を持っていた経済学者のアレグザングー・ザックスだった。アインシュタインの手紙を読むと、ルーズヴェルトはすぐに対策を講じると発表した。その晩のうちに、核分裂の利用法について調査する小委員会を設置した。その瞬間に、ヒロシマヘの道が聞かれたと言われている。 シラードが核兵器開発プログラムで助力を求めてきたとき、アインシュタインは大きな道徳的ジレンマに陥った。二、三年のうちに、彼の政治的見解は極端な平和主義から核兵器推進へと変身した。だがこの心変わりも、単なる思いつきではなかった。もし連合国が原子爆弾を製造しなかったら、遅かれ早かれナチスが製造することになるだろう。その場合、消極的に抵抗しても効果はない。そう考えたために、彼は手紙に署名したのだった。アインシュタインはロマン•ローラン的な反戦主義を棄却して反ファシズム戦争の推進者となっていたので、当然の帰結であった。
署名したことによって、彼は後に「原爆の父」というありがたくない名前を頂戴することになったが、これはまったく事実に反する。アインシュタインは、E=mc2という方程式を作ったが、ヒロシマとナガサキに落とされた原爆を製造したマンハッタン計画にはまったく関与していなかった。核実験に立ち合ったことも、一度もなかった。マンハッタン計画を主導したのはユダヤ系アメリカ人で、当時、ロスアラモス国立研究所の所長であった物理学者ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer, 1904年 - 1967年)であった。
1945年8月6日の朝、史上初の厚子爆弾がヒロシマに投下された。瞬時に七万人もの日本人が命を落とし、その後に火傷や放射線障害で亡くなった人は十万人にものぼった。連合軍の核兵器製造計画が、ついに実現したのだった。アインシュタインはそのニュースをラジオで知った。彼は茫然として、「なんと恐ろしいことを」と言ったといわれる。ドイツがまるで核兵器を製造できる状況になかったことを連合国側が知ったのは、終戦後になってからだった。世界で最初の実験原子炉であるシカゴ•パイル1号が臨界に達したのは、1942年12月2日で、ここで生成したプルトニュウムが長崎の原爆に利用されたと言われている。この原子炉もマンハッタン計画の一部であった。
第二次大戦後、冷戦のもとに核兵器が世界中に拡散していく状況を見て、アインシュタインは、世界が悲惨な核地獄への道を歩んでいることを懸念した。戦争終結から亡くなるまで、彼は核兵器の廃絶を訴え続けた。体調が許す限り、彼はどこにでも行って熱弁を振るった。めったにプリンストンを離れることはなかったが、彼が強く気にかけていた核兵器拡散の恐怖について講演をするために、ときに短期間ニューヨークを訪れることもあった。アインシュタインはためらうことなく戦前のように平和主義に逆戻りした。その目的を達成するために、彼はイギリスの友人である哲学者で数学者のバートランド•ラッセルとの親交を深めた。二人は平和主義を広めるために、さまざまな策を練った。そして第二次大戦の教訓を忘れて、またもや不条理を繰り返そうとする時流を、力を合わせて押しとどめようとした。
アインシュタインが最も貢献したのは、原子科学者緊急委員会という組織を通じた反核運動だった。彼はその理事会の会長兼議長であり、必要とされる一般大衆の興味を引く作戦のうえで、彼の知名度が大いに役立った。その組織の目的は核兵器の危険性を一人でも多くの人に知ってもらい、ひいてはその開発に力を注ぐ政府の非道徳的な行為に目を向けさせることだった。そのためにアインシュタインは講演を行い、ニュース映画やラジオ向けのインタビューに応じた。全国紙に寄稿したり、雑誌や緊急委員会の機関誌にも執筆した。核兵器廃絶を訴えたラッセル•アインシュタイン宣言(アインシュタイン没後で遺言と言われる)には湯川秀樹博士も共同宣言者として名前を連ねている。
このような活動を続けていたが、1955年4月12日、アインシュタインは大動脈瘤破裂のためにプリンストンの自宅で倒れ、18日に息を引きとった。享年76歳。世界最初の商用原子力発電所として、イギリスセラフィールドのコールダーホール原子力発電所が完成する1年前の事であった(ガロア)。
「人間性について決して絶望してはならない。なぜなら我々は人間なのだから(アインシュタイン語録より)
参考図書 マイケル•ホワイト、ジョン•グリビン「素顔のアインシュタイン」(仙名紀訳)新潮社,
より)この書には日本人がいかに”科学的好奇心”の旺盛な民族だったかが分かるエピソードが書yかれている。1922年11月アインシュタインは日本を訪問した。たいへんな歓迎をうけたが、最初の大衆を相手にした講演は4時間を超えるものであったが、聴衆は最後まで静粛に聞いていた。翌日の講演では、さすがに長すぎると考えてアインシュタインは2時間30分に短縮した。ところが、終わると主催者は、今日の講演時間は昨日よりも短かったと気を悪くして文句をいったそうだ。