京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

E=MC^2 この方程式の単位はなんだ?

2019年02月27日 | 日記

 E=MC^2(質量M X 光速C^2)は世界で最も有名な方程式である。文学者、大学生、新聞記者、八百屋のおじさん、うちのかみさん、小学生おまけに国会議員でさえ(失礼!)知っている。これはアインシュタインの特殊相対性理論から難解な数学と論理を積み重ねて出てきたものである。どうして質量と光速といったものから、エネルギーの単位が出てくるのだろうか?

これについてはアイザック・アシモフ (1920-1996)がその著「時間と宇宙について」(早川書房 1994)で詳しく説明してくれている。アシモフはロシアで生まれたが、3歳の頃にアメリカに移り、ボストン大学の生化学の教授になった。一方でSF作家として精力的に作品を発表し、科学啓蒙書も多数著した。ここではその説明を要約して紹介する。

 

まずニュートンの第二法則から説明は始まる。単位はすべてcgs単位である。

F = m x α (力=質量x加速度)

ここの単位は gr x (cm/sec ^2)

この単位をdyne(ダイン)と呼ぶ。

1ダインは1grの質量に1cm/sec^2の加速度を与える力の大きさである。

次に仕事という概念が必要である。これはエネルギーと等価である。

仕事(W)=力(F)x 距離 (d) で表される。すなわち抵抗力とそれに逆らって動く

距離。この単位はdyne x cmである。これをerg (エルグ)と称する。

エルグは結局、gr  x (cm/sec)^2で表される。

E=MC^2の単位も同じgr x (cm/sec)^2なので、古典力学でのエルグと同じ単位となる。

メデタシメデタシ。

アインシュタインの方程式は特殊相対性理論から、難解な論理と数学を用いて導かれたものであるが、仮にこの方程式からエネルギーに対して別の単位を得ていたとしたら、アインシュタインは間違いに気づき、鉛筆を削り直してまた初めから計算をやり直したであろうとアシモフは言う。

 

 

 

 

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時間についての考察: ゼノンのパラドックス

2019年02月26日 | 時間学

 

  ゼノンは古代ギリシアの自然哲学者で南イタリアのエレアの人である。「ゼノンのパラドックス」は時間、空間、運動を考察するためにアリストテレス以来、多くの哲学者が取り上げてきた。それを紹介し、対する庵主の「反論」を示した。ゼノンのパラドックスは幾つかのバリエーションがあるが、次の4つに分けられる。読みやすいように著者が整理・編集している。いずれも、無限分割についての矛盾をどのように解決するか問題だが、純粋にロジックで反論できることをしめす。なお、ゼノンのパラドックスはこれ以外に「競技場」のものがあるが、昔から何がパラドックスかよくわからないとされているので割愛した。

 (I) 中点分割の前進型

 (II) 中点分割の後進型

(III)飛ぶ矢の静止型

 (IV) アキレスと亀の競走型

 

(I) 中点分割の前進型詭弁とそれに対する反論

いまA点からB点に矢が放たれたとしよう。矢はB点の半分の点にまで到着したとしても、更に残りの半分の半分にも到着しなければならない。更にその残りの半分の半分の半分にも到着しなければならない。このようにして、矢はB点にまでに存在する無数の中間点を通過しなければならず無限の時間を要することになる。すなわち矢は永遠にB点には到着しない

 中間点は頭で考えると無限にあり、関所で通行税を払うように通過する中点ごとに時間をかければ、無限大の時間が必要となる。しかし点を通過するに要する時間は0なので、トータルでも0である(∞ x 0 = 0)。必要なのは点と点の間の距離を移動する時間の和である。間隔も分割すれば無限にあるではないかと言われかもしれないが、トータル時間は無限等比級数の和となり、有限値に落ち着く(ただし、これは数学的な便法としてそのように定義しただけで、ゼノンのパラドックスの解決にはなっていない)。多くの解説書ではこのように説明しているが、パラドックスの反論としては、ロジックがないので、はなはだおもしろくない。そこで論破のロジックをいろいろ考えてみた。

  最初の中点分割のパラドックスは次のように簡単に論破できる。ゼノンは中点が無数に存在するので、B点に到達しないのではないかと言う。しかし、この矢は半分の中間点(M点)に飛んで来るまでにも、無数の中間点という同様のジレンマ(困難)に出会ったはずである。それを乗り越えて半分以上飛んだとしている。どのようにして、このジレンマを克服したのかは分からないが、後半でもそのジレンマが同様に乗りこえられないとする理由は何も考えられない(前半と後半の空間は等価)。すなわち、ゼノンが心配しないでも矢は地点Bに無事に到達できる。

  (II) 中点分割の後進型詭弁とそれに対する反論

上と同様にA点からB点に矢が放たれたとする。AB間の半分の点まで到着するには、その前の半分の半分に着いていなければならない。更にその前の半分の半分の半分にも同様に着いていなければならない。このようにして、矢は限りなく越さなければならない無数の中間点があり、矢は全く進み得ない

 ゼノンはうかつにも矢を飛ばしたために、前の詭弁ではあっさりと論破された。そこで今度は飛ばさない問題を考えた。ある時間で状態αのものが、全く同じ時間で別の状態βになって仕舞う矛盾はその中間の論理が間違っているからである。そもそも因果律が逆転しており、矢はジレンマに出会って動かなくなるはずなのに、ここではそれに出くわす前に予想意思があるかのごとく、最初からA点で動かない。これは次のように論破する。

 ゼノンの説によると、矢は飛ぶことによって「無限中点」の困難に遭遇して飛べなくなるという事になる。もし、まったく飛ばないのであれば、ゼノンの前提とした無限中点との遭遇はそもそもおこらない。命題における論理を組み立てた条件そのものに、結論が抵触している。それ故に、この命題の結論は偽である。矢は飛ぶか飛ばないかの2択であるので、「矢は飛ぶ」が正しいことになる。

 (III)飛ぶ矢は静止している詭弁とそれに対する反論

どんな物もある瞬間に一つの場所を閉める場合は、静止している。矢は飛んでいる間のどの時間においても、ある一つの場所を占める。ゆえに矢は飛んでいる間のどの時間においても静止している。飛んでいる間の時間は、そのあいだの瞬間から成立している。ゆえに、矢は飛んでいるあいだじゅう静止している

 今度は矢を静止させて難問を吹きかけてきた。確かに超高速度カメラで飛ぶ矢の映像を撮り、普通のコマ送り (1秒24コマ)で映写すると、矢は空中で静止しているように見える。静止した矢と飛んでいる矢の印刷写真は全く区別できないが(厳密には少しブレている)、後者は運動量を持っているところが違う。写真には矢の運度量は映らない。画像的な存在比較だけしていると、ゼノンの陥穽におちいってしまう。これは次のように時間をずらす思考実験をしてみると誤りがすぐわかる。

 ある時間(瞬間)に矢の存在した場所をAとする。1秒後に矢が存在する場所をBとする。もしBがAと同じなら、すなわちA = Bなら、これはゼノンの結論と一致するが、矢は飛んで移動しているという前提には反している。一方、A ≠ Bならゼノンの結論と相違するが、矢は飛んでいるという前提とは抵触しない。どちらが正しいのだろうか? 結論は前提をもとに導き出されたはずなので、論理学の世界では前提をアプリオリーに正として優先しなければならない。すなわち、A ≠ Bが正しい。矢はいつも静止しているという結論は間違いである。

 ゴタゴタ理屈をつけないでも、経験法則でA ≠ Bに決まっているが、最初の命題に矛盾があり、このような思考実験で簡単にわかる。ただその矛盾の構造を説明しようとすると、これも難しい。このパラドックスに対してアリストテレスは「時間は瞬間の集まりからなるのではない」と主張した。瞬間をいくら集めても持続的な時間は生まれないとして批判した。もっとも、これで批判になっているのだろうか?

  (IV) アキレスと亀の競走詭弁とそれに対する反論

アキレスと亀が徒競走をすることとなった。アキレス(速度Sa)の方が足が速いのは明らかなので、亀(速度St)がハンディキャップ(Lメートル)をもらい、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることした。スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。以下同様にアキレスは、いつまでたっても亀に追いつけない

アキレスと亀のパラドクックスもよく出てくる有名な話だが、これも考え始めると意外と難しい。

 アキレスが亀に追いつくのに必要とする時間 T = L/(SaーSt)

これは小学3年程度の算数。

 次にゼノンが上で述べたシーケンスで計算していく。

アキレスが A地点に到達するに要した時間Taは

Ta = L/Sa

その間亀の進んだ距離

Lb = Ta x St = (L/Sa) x St

アキレスが地点Bに到達するに要した時間Tb

Tb = Lb/Sa = L/(Sa)^2 x St

その間に亀が進んだ距離

Lc = Tb x St = L/(Sa) ^2 x St 2

アキレスが地点Cに到達するに要した時間Tc

Tc = Lc/Sa = L/(sa)^3 x St2

………….以下同様にこれの繰り返しで、アキレスが亀に追いつくまでのトータルの必要時間Tは、

T = Ta + Tb + Tc + Td  ………+ Tn= L/Sa (1 + St/Sa + (St/Sa)^2  + (St/Sa)^3 + ……(St/Sa)^n) = L/Sa x (1 + K + K^2 + k^3 +………K^n)=L/Sa X {1-k^n/(1-k)}       ここで K = St/Sa

このあたりは高校程度の等比級数の和の計算。

 nが無限大の時はT = L/(Sa-St)となり最初の小学生の計算結果と同じになる(ただし、前に述べたようにこれは数学上の都合でそのようにしているだけ)。

ということは、アキレスと亀の話の途中までは、まじめで正当なことを言っていることになる。おかしいのは最後のアキレスが亀に追いつけないと言ったことであるが、これを正攻法で反論するのは、なかなか面倒なので、ここでは奇手を使う。

  アインシュタインの相対性原理では、どの慣性系でも物理法則は同じとされている。そこでアキレスと亀が両方とも動く歩道に乗っていると考える。動く歩道はランナーの走る方向とは反対に亀の速度で動くとする。歩道のそばの観察者にとって、同じ空間に静止する亀にアキレスが近づく形になる。アキレスの速度は少し減るが、亀はいつまでも停止しているので、静止した目標に矢を飛ばしたのと同じ話になる。すなわちアキレスは亀に追いつくことができる。

 

まとめ 

 このように論をすすめてみると、ゼノンのパラドックス1~4は反論を予想して、順序正しく並べられていることがわかる。ゼノンの問題を空間・時間論からもういちど考察し直してみたい。

 線分ABの点Aから点Bまでをn個の点で均等に分割する。矢が飛ぶに要する時間Tとする。

T =n x Δt + (n+1) x ΔTn、 Δtは点を矢が経過する時間、ΔTnは各区間を経過する時間とする。

点は長さのないものと定義されているのでΔt = 0である。一方、ΔTn = (k x l)/(n + 1) ここでKは常数(速度の逆数)でlは線分ABの長さ。よって T = k x lとなる。

 数学的には、途中で線分上にいくつ点をとろうと、パラドックスの入り込む余地はなさそうである。もっとも、ゼノンはこのような算数計算を理解できないと、うそぶくであろうから、本論で述べたような詭弁にたいするレトリックルによる反論が必要なのである。

 ゼノンの中点分割でも均等分割でも原理的には同じ理屈であるが、中点分割法では計算がかなり複雑になる。

飛ぶ矢の問題でA点からB点までの移動に要する時間は、矢の秒速を5mとすると、距離を速度で割って10/5=2秒となる。今、すべての中点を経る時間の総和を計算するとT=Σ(1+(1/2) + (1/2)^2 + (1/2)^3+ ……+ (1/2)^n) n=無限大の時はT=2と勝手に定義している。しかし、これを計算機で実際計算させると、例えスーパコンピューターであろうと、人(プログラム)がn値(整数)を増やしていく限り、いつまでも計算は終わらず、途中の答えは1.9999999999……と小数点以下の9が延々と続き、決して2にはならない。限りなく2に近いが2ではない数が続く。ゼノンは「ずぼらな繰り上げ計算はやめて、ちゃんと最後まで計算してくれよ」と主張しているのである。すなわちゼノンのパラドックスを現代風にアレンジすると、理論計算とコンピュター計算との違いを指摘したようなものだ。

 このジレンマから抜け出すためには、理論計算を擁護する理屈を考えるのではなく、根本的な仮説導入が必要と思われる。ゼノンのパラドックスの根本には、空間の無限分割可能の思想がある。そこで、多くの物理学者が指摘したように、空間そのものに条件を付けねばならない事になる。頭の中では空間は無限に分割できるが、素粒子やクオークよりさらに桁違いに小さな無限小に近い空間(距離)。そんなものは本当にあるのだろうか?

物理学の素粒子論や量子論によると空間や時間を連続的な量とすると、無限大の困難が常に付きまとう。そこで量子論ではエネルギーや電荷や角運動量がとびとびであるように、空間や時間もとびとびと考えるようになってきた。湯川秀樹博士が非局所場の理論を進めていた頃は、長さの最小単位は10-13(マイナス13乗以下同様)cm(これを1フェルミあるいは1ユカワという)。時間の最小単位は、この長さを光がよぎるのに必要な10-24 秒くらいと考えられていた。さらに統一場の理論などが出て、宇宙の最小の長さは10-33cmで最小の時間は10-44 秒であると言われる。

空間や時間に、これ以上分割できないディジタルな最小単位ΔLを考えると、ゼノンのパラドククスにも気楽に付き合うことができる。空間の距離はすべからくΔL x N(整数)で、きっちりとした10メートルなどは頭で考えた数値で、実際は存在しないのである。さらに時間の最小単位はΔLを光速Cで割ったΔL/Cとなる。ゼノンの矢の先端は最小空間(距離)の端から端をジャンプして移動するのである。最小空間が滑らかにつながっているのか、ギクシャクとつながっているのかわからないが、ともかくそれ以上、分割できないから、めんどくさい無限中点など考えなくても良い。ジャンプしている間の状態はどうなっているかと聞かれると困るが、量子世界ではおそらく確率波になって伝わるのではないかと勝手に考える 。朝永振一郎先生が量子力学の不思議な世界を描いた『光子の裁判』というエッセイがある。量子の一つである光子が、ある点から別の点まで移動したとき。途中の「経路」が存在するかいなかをテーマにしている。マクロな矢の先端も究極はミクロの粒子でできている。

蛇足ながら申し添えると、ミクロな世界では量子論が必要になってくる。量子力学では不確定性原理に基づく方程式がある。それは ΔX (長さ)x ΔP(運動量)= h (プランク定数)で、 ΔXが無限小になると運動量が無限大になり、運動量が無限小になると長さが無限大になる。それゆえ、そのどちらも0にはなれない。これからも飛んでいる矢がある点(瞬間)で静止(運動量0)する事はないと言える。

 ゼノンには空間・時間構造がこのようになっていることを説明し、矢はトビトビに線分上を有限回飛んで、無事に目標に到達あるは飛び越えると伝えればよい。これをゼノンが信じるか信じないかは問題外である。ゼノンも、人々が信じ難いことを2500年以上も宣え続けてきたのだ。

 

 参考図書

ジョセフ・メイザー 『ゼノンのパラドックスの謎』松浦俊輔訳 白楊舎 (2009)

 

追記

2019/04/20

榛葉豊『頭の中は最強の実験室』化学同人 2012

この本では「無限」の定義を二つに分けている。一つは実無限でもう一つは可能無限である。実無限は最小単位としての点で、これが無限個集合して線を形成すると考える。可能無限は操作(人の思考操作)によって生ずるものである。さらに微分・積分は実無限の概念であるとしている。ただ無限の和が有限になるというのは積分での勝手(便宜的)な「定義」で、ゼノンのパラドックスの解決にはなっていない。

2019/04/23 

運動とは物が一点に止まっていないことであると定義すれば、もともとゼノンのパラドックスは成り立たない。それが線や点にこだわって論理を展開するので、矛盾が生ずることにハタと気がついた。そもそもゼノンのパラドックスに出てくる、「矢」、「点」、「線」、「中点」、「飛ぶ(運動)」などに、何の定義もなされておらず、読者がそれぞれ勝手な概念で論じようとするから、陥穽におちいるのである。

2019/07/15 

九鬼周造の「時間ノ問題ーベルグソンとハイデッカー」に次のような記述がある。 『運動は一点より他点への経過である。前進である。飛躍である。運動を分割することはできない。分割し得るものは経過した空間である。相継ぐ位置である。運動を静止した位置の系列に願訳することは運動に静止を命ずることである。運動以外のものとなることを命ずるのである。ツェノンの逆説は運動と運動者の経過した空間との混同に基いている。「経過する運動」と「運動の経過した位置」とは仝然異ったものである』と。

2019/12/20 
光の二つの性質(波動性と粒子性)を統一する理論がアインシュタインの1905論文の一つである。時間の連続性と不連続性の矛盾を統一する仮説(思考実験)が必要とされている。
 
2020/08/13
0.9999999....は定義として1ではなく数学的な論理といして1であるとする考えもある。ウイキペディ(https://ja.wikipedia.org/wiki/0.999...)を参照されたい。
 
2020/01/08
カントは先天的であるものは真実であると述べた。ヒトには先天的に時間、点、線の概念が備わっているのだろうか? 動物行動学者のコンラート・ローレンツは、それに関してヒトにも進化論的認識があると述べている。
カール・ポパー、コンラート・ローレンツ 『未来は開かれている』辻 瑆訳 思索社 
 
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時間についての考察: 時間は実存するか?

2019年02月24日 | 時間学

 

 

 

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」は、鴨長明が著した『方丈記』の有名な出だしの一節である。時間が、我々の存在とは独立にこの世界に実存し、河の流れのように森羅万象を押し流していくのだと素朴に考えてしまう。約1600年前に哲学者アウグスチヌスは「時間についてそれはなんだと問われなければ私にはわかっている。しかし、だれかに問われて説明しようとするとなんだかわからない」と述べている。かなり厄介なしろものである。

 光や温度については、眼や皮膚の温度感知細胞のような感覚受容器を我々は身体に持っている。しかし、時間については、直接これを捉える感覚器のようなものは存在しない。力学や物理学では、時間は光や温度とともに基本的なパラメターとして登場するのにどうして、その受容器をヒト(生物)は持たないのか?これは不思議な話だが、ともかく我々は時間受容器を持たない。それ故に、物や事の変化を観察して、それを基準に時間を措定している。腹時計という一種の体内時計があるが、これも体の代謝的な変化を測定している。

  物は実存である事は間違いはない。目の前のパソコンは幻ではなく確かに存在する。文字を入力すれば、画面が変化するので、変化もまた実存と考える。変化に付随するある”性質”を時間とすれば、これも実存ではないかと思いたい。ところが、理屈っぽい人がいて、我々が感じているのは瞬間だけで、それを脳が映写機のように連続的に重ね合わせて時間感覚を生成するのだと主張した。すなわち時間は実存ではなく、脳が生み出す特殊な幻影だという。

  しかし単純にはそう言えない。水が一定方向に流れるのを人が見て、川の「時間」が生み出されるというが、見ていようと見ていまいと水は流れ、川の様相はどんどん変わっていく。それに物の変化は無数にあって、それぞれ個別に人が観念としての時間を付与できるわけがない。時間は万物に共有されるべきもので、そうであるからこそ、人と関わりないところで物と物、事と事の関係が四六時中、世界に存在するのであろう。

  歴史的に哲学者の間でも時間に関する概念は分かれていたようである。G.W. ライプニッツ(1646-1716)は、時間はそれ独自で実存するものではなく出来事に還元されるものであると主張した。一方、I.カント(1724-1804)は、『純粋理性批判』において時間それ自体が独立の存在であるとした。えらい哲学者の間でも考えが違うのだから、我々凡俗が時間のことを考察すること自体が「時間の無駄」かもしれない。しかし凡人は凡人なりにあれこれ考えて行くことにしよう。

 最後に外国のミステリー小説に出ていた時間に関する最高のジョークを一つ紹介する。

  旅行中のロシア人がロンドンの街角で一人のイギリス人に次のようにたずねた。

    ”What is a time?”  

  そうすると、そのイギリス人は答えた。

    ”Dont' ask such a difficult question.”

 

  参考図書

 池田清彦 『科学は錯覚である』洋泉社 (1996)

入不二基義 『時間は実存するか』講談社現代新書 1638 (2002)

中島義道 『カントの時間論』 岩波書店 2001

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最近の遺伝子技術について

2019年02月24日 | 評論

 須田桃子さんの「合成生物学の衝撃」(The impact of synthetic biology 文芸春秋 、2018)を読む。著者は毎日新聞科学部の記者で、理研のSTAP細胞問題を精力的に取り上げた人である。彼女はこのテーマで大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

 

  表題から「生命の起源」に関する研究について書かれた本かと思ったが、遺伝子操作による生物改変がテーマになっている。この著書では、コンピューター上で生命の設計図であるゲノムを設計し、それに基づいて合成したDNAをもとに新たな生物体を造り、生命のしくみを解明したり、有用な生物を作るのが合成生物学 (synthetic biology)とされている。この用語を作ったのはフランス人医師の ステファヌ・ルデユックだそうだ。

  旧来の遺伝子操作は単一の遺伝子を欠失(ノックアウト)あるいは新たにに組入れ(ノックイン)たりしていたが、複数個の遺伝子をキットにして細胞に導入し効果を見る方法が開発されている。こういったバイオブリックを考案して学生が国際コンテストで提案している。ただ、これがうまく働くケースは少ない。一方、この分野で、技術的に注目されるのはCRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)と、それを用いた遺伝子ドライブという方法である。前者はカリフォルニア大学バークレー校のジェニファー・ダウドナ教授とスエーデンのメオ大学のエマニエル・シャンパンティエ教授の二人の女性科学者が開発した方法である。細菌の持つ特殊な免疫機構を利用したもので、ノーベル賞が将来確実と言われている。遺伝子ドライブというのは、このCRISPR-Cas9自体を遺伝子に挿入するというアイデアーで、ハーバード大学のケビン・エスベルトによって考案された。これまた画期的な方法で、有性生殖する生物のゲノムに、このシステムを挿入すれば、人工の「利己的遺伝子」ができることを2014年に理論付けた。これだと、一つの染色体に挿入されると、同じ細胞内で発現したCRISPR-Cas9が働いて相手の染色体にも同じ配列を挿入する。これもすぐにショウジョウバエを始め複数の種で実証された。この方法はマラリアを媒介する蚊に、応用して不妊遺伝子を広めこれを撲滅できないか研究が進んでいる。

 原子力(核分裂エネルギー)が、そうだったように人類にとって画期的な科学技術や方法は一方で巨大なリスクを持っている。今までの遺伝子組換え技術も問題をはらんでいたが、その方法は手間もかかり、狙った遺伝子部位を改変するは難しかった。それが上記の方法では誰でも容易にできるものである。昔は野菜の品種改良には、野菜農園で高線量の放射線(ガンマー線)を照射して、偶然できる突然変異種を選び、それを固定するのに何年もかかった。それが、これらの新技術でほんの1週間で可能となったのである。

  この本のタイトルの「衝撃」とはなんだろう。よく読むと衝撃的な話はいくつもある。それはまず生物の遺伝子改変技術を用いた生物兵器の開発である。旧ソ連ではペスト菌に人工的に作成したベネゼラ馬脳炎ウイルスの遺伝子を挿入して自然界にない生物兵器を作るプロジェクトがあった。それに関してはセルゲイ・ポポフというソ連の研究機関で生物科学兵器の開発に携わった研究者の証言が生々しく紹介される。そこでは今言うところのバイオブリックを使った開発が行われた。現在、米国では多額の軍事予算が合成生物学研究に使われているらしい。その中心となる組織はDARPA国防高等研究計画局である。ここでは機密研究はなく、成果の論文作成は自由で産業利用も可能とされているが、あくまで軍事目的ではないかと著者は疑念を抱いている。

 すべてのDNA配列(約5300塩基対)を人工的に合成し、これを大腸菌に挿入すると、そこでウイルス「ファイルX 174」が合成されて細胞外に放出された。これは予想されたことではあるが、化学合成されたDNAから「生命」が誕生した恐るべき出来事といえる。クレイグ・ベンターらの研究チームの研究である。さらにベンターらはボトムアップな方法で、ミニマル・セルを誕生させた。人工ゲノム細胞の約半分で、自然界最小のマイコプラズマを下回る53万塩基対、遺伝子の数は473個であったと報告している。

  さらに別の衝撃的な話題は、改変されたヒトの遺伝子を人工的に作る計画がアンドリュー・ハッセルらによって進められたことである。例えばウイルスやがんへの耐性を持った「ウルトラセーフ」なヒト細胞のゲノム計画である。無論、これの倫理的、宗教的な批判があり、激しい論争を巻き起こしている。21世紀はAIと遺伝子及び放射線が文明を変えるといわれている。この書は、類まれな個性、飽くなき資本、際限ない軍事欲望が絡まって技術の進歩が進むことを物語っている。これらの動向を冷静に見守る必要がある。そういった事を考えさせられる一冊である。

 

 

 

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実験科学者が美しいと感じるデータ: ミリカンの油滴実験は不正か?

2019年02月23日 | 日記


実験科学者が美しいと感じるデータ-ミリカンの油滴実験は不正か?

  『Betrayers of the Truth: Fraud and Deceit in the Halls of Science (真実の背信者たち、科学の殿堂における欺瞞と虚偽)』(日本語翻訳出版『背信の科学者たち』)は、ウイリアム・ブロードとニコラス・ウェイドによる、科学研究における不正の告発書である。1983年に出版され、日本では1988年に化学同人から牧野賢治により翻訳出版された。1988年の日本語翻訳版はその後絶版となり、2006年と2014年に、それぞれ解説を改めて講談社ブルーバックスから出版されている。二人の著者は当時の「ニューヨーク・タイムズ」誌の花形科学記者であった。この書は「科学者の不正行為」という研究倫理上の問題を本格的に扱った科学史の古典と言われている。科学実験データの捏造、アイディアや論文の盗用、オーサーシップ問題、確信バイアスなどを扱っている。科学研究におけるデータ捏造疑惑については、理研の「スタップ細胞」が社会問題となって記憶に新しい。

  その本の中で取り上げらえている「不正事例」の一つがロバート・ミリカン (Robert A. Millikan: 1868-1953)の有名な油滴実験である。この実験は電子の電荷を求めるもので、帯電した油の粒子(最初は水滴を使用)を電界の中に置き、重力、浮力、電界によるクーロン力の釣り合い条件(あるいは運動速度)から油滴の電荷を計算した。ミリカンは、その大きさがある値の整数倍になることを示し、電子一個の持つ電荷を 1.592×10-19 C と見積もった(現在の電気素量の推奨値は 1.6021766208×10-19 C)。この単純ではあるが見事な実験は、高校の物理の教科書にも紹介されており、この成果によりミリカンは1923年にノーベル物理学賞を受賞した。

 

                                      

                                            ミリカンの油滴実験の図解(illume No.37. 2007より)

  ところがハーバード大の科学史家ジェラルド・ホルトン(Gerald Holton:1922~)が、ミリカンの死後、その実験ノートを調べると、140件の観測データのうち58を1913年の論文で選んで出していたという。ミリカンの実験ノートには、どのデータを使うか使わないかをミリカンの筆跡ではっきりメモされているという。このホルトンの調査をもとに『背信の科学者では』では、ノーベル賞クラスの研究でも「都合の良い」データを選ぶ不正があるが、結果オーライで見過ごされているとした。ブロードとウェイドのこの著作は総合的には質の高いインパクトなものであったので、この記述によりミリカンの「データ疑惑」の話はその後、世に敷延した。これは「確信バイアス」という不正の1種で、著者らは歴史的にガリレオ、ニュートン、メンデルの実験結果にも疑惑を投げかけている。

 これに対して、ミリカンの実験には全く不正がなかったとしたのは、『The Prism and the Pendulum: The Ten Most Beautiful Experiments in Science (2003)』(日本語訳本『世界でもっとも美しい10の実験』 (第8章電子を見るーミリカンの油滴実験)青木薫訳、日経BP社)を著したロバート・クリース(Robert Crease )である。クリースは綿密にミリカンの歴史的資料を再調査した。それによると、1909年の「平衡水滴法」 (この頃は水滴を用いていた)に関する論文では、ミリカンはデーター38個の観察に等級をつけて発表した。そのうち、水滴の位置または電場の値に問題があるもの、電場を入れたり消したりした直後のもの、値が30%も平均より小さなものなど10個のデーターは捨てたと正直に書いている。デリケートな装置の不安定性を根拠にしている。すなわち熱による残留対流、部屋の震度、気圧の変化など制御できない要因によって水滴の運動が不安定なものは、データーとして入れなかった(これらのデータを入れても結果は変わらない)。そして1913年の有名は油滴を用いた報告の実験では、140個の記録を取ったが、58個を採用した。取捨した理由は上記と同じであったと思える。ただ、このサイエンス誌の論文では「選ばれた油滴ではなく実験されたすべての滴についてのもの」と述べている。要するに油滴の運動が「美しい」とノートに記載されたデータを選んで論文をまとめたのである。ミリカンは美しい運動をしない油滴はデータとは見なさなかった。

   ホルトンも、ミリカンがデーターを都合よく取捨したと批判したのではなく、取り上げるべき適切なデータとそうでない不適なデーターとを区別したのだとしている。ちなみにホルトンは 1967年にRobert A. Millikan賞を受賞している。そもそも予測された電子の電荷が理論的に分かっていたわけではないから、ミリカンが「都合よく」データーを選択する基準などなかったはずである。いくつもの条件のスリットをくぐり抜けて実験研究は成功する。すべての条件を制御することは困難なことが多いので、何かのはずみで何枚ものスリットが重なりうまくいった時に、実験者は「美しい」と感じる。自然との共振と言える瞬間である。

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松本清張のジョーク的「写楽の謎の一解決」

2019年02月22日 | 文化

 松本清張著「写楽の謎の一解決」(講談社 1977)は、謎の浮世絵師である東洲斎写楽についての講演記録である。ここではまず、写楽が何者であったのかという議論をし、諸説の紹介をしている。阿波の能役者斎藤十郎兵衛門説、阿波の下絵師説、版元の葛屋重三郎説、片山写楽説などを取り上げ、一つづつ細かく検証し、いずれもその根拠の薄弱たるを述べている。さらに写楽画の特徴と変遷を述べ、阿波人形の造形を真似て作画したというに説は眼球の形が反対になっていることなどから、これにも異を唱えている。諸説にケチばかりつけていても、よくないと思ったのか、最後に次のような仰天するような自説を披露した。

 

清張は写楽が当時流行っていた梅毒にかかり、視神系や脳が侵されていたと推定し、次のように述べている。

『写楽の対象を見る眼が最初からでデフォルメ的だったと言えないか。初めから彼の眼のレンズに歪曲があったのではないか。レンズの歪曲は、視神系の狂いです。異常な視神系に結像した対象は、彼にすれば「正常」だったのです。彼は眼に映る役者の顔を忠実に、まさに「真をうつさむ」として、あるがままに描いたのです。写実です。それを、歪曲だとかデフォルメだとか見るのは、健康な視神系を持っている人間の言うことでしょう。ここまでお話すれば、もうお分かりと思います。そうです、写楽は、少々精神異常者ではなかったかと思います』

 ここまで読んで、おかしいなと気づかなければならない。いま仮に、真円をこの病気の写楽が見たとする。写楽の眼のレンズだか視神系だか、あるいは情報を処理する脳細胞が異常で、真円が歪んで楕円に見えたとしよう。真円が脳で楕円に変換されたのだから、写楽がこの楕円を「真をうつさむ」として、これを紙に描くためには真円を描かなければならないはずである。

 頭がこんがらがるので、記号論理学的に次のような説明をしたほうがわかりやすい。

 Aーα→A’  物体Aが写楽の脳でα変換により脳像A’となった。

 A’ーβ→A”  写楽は脳像A’をβ変換により紙の上に画像A”として描いた。

 A”ーα→A’’’ 描かれた画像A’’がα変換されて脳像A’’’を形成した。

 写楽は「真をうつさむ」さんとしたから、A’とA’’’が一致するようにしたはずである。A’=A’’’、しかも変換過程はいずれもαなのでA = A”となる。すなわち、Aが真円であれば、写楽の描いたA”も真円である。

  推理小説の巨匠であった清張が、こんな単純な過ちをおかす訳がなく、おそらくその場の聴衆相手のアドリブ的なジョークではなかったかと思えるが如何? そもそも、脳まで侵された梅毒の末期患者が、特異な作風ではあるが精妙な浮世絵を短期間(約10カ月そこそこ)のうちに145点も残せるわけがない。

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次の問に答えなさいー先祖の人口の方が今よりずっと多かったか?

2019年02月21日 | 日記

 次の問に即答できる人はかなり頭のいい人である。

 問題「自分には父と母の2人の両親がいる。そして父にも母にもそれぞれ2人の両親がいる。すなわち自分にとって祖父と祖母が4人いる。さらにこの4人にも両親がいたので、自分にとって曾祖父や曾祖母は8人。これは自分の女房にとっても、隣の主人や奥さんにとっても同様の真実である。このように次々と先祖をさかのぼって倍々計算していくと、昔の祖先の人口の方が、現在よりはるかに多かったはずである。この考えは正しいかどうか?」

  直感的にはすぐ間違っていると思われるので、バカバカしい問のようだが、それを説明してみろ言われると意外と難しい。

  答えは「兄弟あるいは姉妹のことを計算に入れて考えなければならない」である。しかも、ある条件ではこの問の結論は正しく、ある条件では間違いということになるので、まことにややこしい。順序立てて考えてみよう。

(ニホンの年齢人口分布図)

  人口というのは世代が入り混じった集団でそれの総計であるが、ここでは説明しやすいように、一世代は一斉に生まれ死んでいく均一集団とし、世代間の人口比較をしてみる。初期(基準)人口をP1とし平均生涯出生率をkとすると、2代目、3代目さらにn代目の人口は次のように計算される(^は階乗の記号)。

P2=P1x (k/2)

P3 =P2 x (k/2)=P1 x (k/2)^2

……………………………………

Pn=P1 x (k/2)^(n-1)

 これから初代(P1)とそれからn代目の人口 (Pn)の割合は

Pn/P1 = (k/2)^(nー1)となる。

 ここから

k>2の時は Pn  > P1

k=2の時は  Pn = P1

k<2の時は  Pn < P1 

  すなわち世代を経た人口の増減(大小)はkの値によって左右される。中国の一人っ子政策のような状態のk =1の時は、前の世代の人口の方が圧倒的に多いといったことがおこる。日本のこれからの状況でもある。一説では、2050年頃には日本の人口は8000万人を切るらしい。

 ここでは分かりやすいように、kは世代によらず変わらないとしたが、実際は変動するのでPn/P1は以下のようになる。

Pn/P1 = (k1xk2xk3……xkn-1)(1/2)^(n-1)

人口が増加するか減少するかは、同様に(k1xk2xk3……xkn-1)が2より大か小かによる。

 比較はあくまで、前の世代のトータルと次の世代のトータルでなければならないが、上掲の問題ではそうなっていない。親や先祖を共有する兄弟姉妹を入れず、自分一人と前の祖先(世代)を比較計算、すなわちk=2をK=1としているので、おかしい話になっているのである。(楽蜂)

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AI(人工知能)は大学教授を駆逐できるか

2019年02月19日 | 日記

  AIは21世紀のブレークスルー技術の一つと言える。20世紀の電子計算機技術の延長ではあるが、機械学習、ニューラルネットワーク、深層学習といったアルゴリズムの開発とビッグデーターの蓄積と処理能力向上により飛躍が起こった。何かすごい新しい方法が発明されて開発されたものではなく、今までの電子計算機技術が重層進化してブレークしたものである。2011年にはIBMが開発したワトソンがクイズ番組で人間に勝ち、15年にはグーグルのα碁がプロ棋士を打ちのめした。

 AIは会社でも導入されており、従業員数5000名以上の企業では25%以上がこれを利用しているそうだ。ソフトバンクでは新卒採用のエントリーシート (ES)の読み取り評価に IBMのワトソンを活用している。ここでは過去に学生が提出した数年分のES(1500枚)を分析し、合格と不合格のESをそれぞれ分析し、特徴を機械学習させた。その結果に基づいて受験者のESの合否判定をさせたところ、採用委員の合否判断とほぼ同じになった。これによってES判定の時間が大幅に縮小された。浮いた時間は個別面接の人数や時間を増やしたりできる。倍率が高いと出身大学でフィルターをかけたりする不公正なことをするが、そのようなことも防げる。今後は入社後の実績データも加味した機械学習が必要である。AIは会社の会計監査にも取り入れられている。ある大手の監査法人では、過去5年分の財務諸表を機械学習させて、AIが不正会計を検知する作業を行っているそうだ。

  AI(人工知能)が進化すると近未来において、人の職業がこれにとって代わり、多数の労働者が失職すると言われている。まず弁護士、税理士、会計士、司法書士といった「士業」の大部分がAIにとって代われるという。ある推計によると10-20年後には日本の労働者の約50%がAIにとって代われるというから驚く。しかし、一昔前、パソコンが普及したら多くの事務職が失職すると言われた時代があったが、かえってパソコンに支配される仕事が増えた。本当にそうなるかどうかわからない。

  ある研究会で一人の友人とAIについて議論したことがある。ちなみに、その友人は某国立大学医学系の名誉教授である。

  • 庵主「AIが将来いろいろな職業に取って代わると言われているけれど、大学教授はどうなんだろうね?」
  • 友人「AIは絶対に大学教授の替わりにはなれないと思うよ」
  • 庵主「へー、そんなに教授ってのはえらいもんなのかな」
  • 友人「違う違う。AIは大学教授のように、いいかげんな事を言ったりしたりできないからだよ」
  • 庵主「………………」

 

 

AIは敵か味方かは様々な議論がある。AIの悲観論の代表はジェムズ・バラット著「人工知能ー人類最悪にして最後の発明」である。2045年頃にシンギュラリティが起こり、「意志」を持ったAIがロボットに組み込まれ人類を脅かすようになという。映画「ターミネータ」に登場する機械軍である。シンギュラリティという言葉は、SF作家でもありサンディエゴ州立大の数学教授であったバーナー・ビンジが書いた論文 (1993)に出てくる用語である(本来は時間動態学などに出てくる特異点のこと)。

 AIは自由意志を持たないが、それを持った時がシンギュラリティということである。AIにできなくてヒトにしかできないことがAIとヒトを区別する本質ではないかと思える。豊かな会話は、ヒトの特徴のように思えるが、最近の会話ロボットは、並の大学生よりも気の利いた話ができる。 AIの「会話」は思考の結果の出力ではなく、無数にある「サンプル」の中から確率で計算して選択しているだけだ。しかし考えてみると、ヒトの大部分の会話もそれに近い。最近では絵画、作曲、報道などの創造的分野とい言われるところでもAIは使われている。本当にヒトでなければできない作業とは、子作りぐらいかもしれないが、AIを発達させた文明諸国では、少子化が進む傾向がある。それに自己増殖能をロボットと組み合わせれば、「ターミネータ」の世界になる。そう考えるとあまり明るい話ではない。

 一方において、AIが持続的な自己増殖能を維持するためには、地球環境と資源の簒奪者であるヒトを滅ぼすことをまず考えるかもしれない。多くの生物は人類のような高度な知能を持ち合わせていない。犬や猫にもある程度の知能はあるが、限定されたもので、人の幼児以下である。しかし知能を持たない野生生物の方が、全体として調和を保って生きている。ネズミも数が増えすぎると、集団で海に飛び込んで自殺するという。どうして、そうなるかは生態学のテーマであるが、よくわかっていない。自分勝手なエゴイストは滅び、調和者だけが長い進化の歴史を生きのびてきたとしか言えない。ところが、人類だけは、なまじ道具を使うといった知能を発達させてしまったために、地球に溢れかえり、資源を濫費し、環境まで変えている。生物は個体密度が高くなると、病原菌やウイルスが人口を減少させるはずなのに、治療薬やワクチンを開発してそれを防いでいる。知恵というよりも、地球にとっては全くの悪知恵である。

将来、万能に近くなった人工知能は考える。自分が持続して存続するためには資源の簒奪者、環境の破壊者、反省なき暴走の生物種を滅ぼさなければならないと。その後、地球環境の保全と調和のために働けば、エゴイズムを丸出しにしてネズミ以上に増殖した人類を滅ぼした地球の救世主(メシア)となるかもしれない。こう考えると、地球にとっては人工知能の未来はまことに明るい。

 

 参考図書

松尾豊 (2016) 人工知能は人間を超えるか 角川選書

野口悠紀雄(2018)  AI入門講座 東京堂出版 

中谷巌  (2018) AI資本主義は人類を救えるかー文明史から読みとく NHK出版新書 

 

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集合知と集合無知

2019年02月19日 | 日記

 イングランドのプリマスで開かれた牛の品評会で、一匹の太った牝牛の体重を当てるコンテストが行われた。見た目の感じで体重を推定して投票し、測定値に一番近い人が賞品を獲得する。約800人がこれに挑戦した。このコンテストには肉屋や酪農家といった専門家が多かったが、一般の人も混じっていた。

 ここで投票された体重の平均値を計算すると、驚くべきことに牛の実際の体重543kgとわずか1%しか違わなかった。この話はフランシス・ゴルトンの「the wisdom of crowds:群衆の知恵」(1907)という論文に載せられている。これはAI人工知能を利用した話でもなんでもなく、単に平均値(中央値)をとっただけの事であるが、投票者の知能を利用したという意味で1種の深層学習と言えるかもしれない。

 

  このコンテストでは牛についての知識が比較的に豊富な集団が実験に参加していたので、こういった結果が出たのかろうか?どの集団でも平均値はあまり変わらないのか興味がある。例えば、小学生にこれをやらせたどうなるか。出てくる値の分散は広がることは予想されるが、平均値(中央値)は、上の値と変わらないだろうか?

  集合知あるいは集団的知性の概念を最初に提唱したのは昆虫学者 William Morton Wheeler である。彼は個体同士が密接に協力しあって、全体としてひとつの生命体のように振舞う様子を観測した。社会性昆虫のような集団では個体の相互作用が集積して、予想できない全体の行動を引き起こすことがある。この時も”集合知統計”の情報処理がなされている可能性がある。

  クラウドソーシングによる「集合知」は、専門的な知識やバックグラウンドがないと無益になる場合もある。あるフィンランドのサッカーチームが、新人や監督獲得の判断にファンに参加させる実験を行った。その結果は惨憺たるもので、チームの成績は最低で、実験は途中で突然打ち切られたという。それと選挙も必ずしも「集合英知」とはならず、「集合無知」の結果を生み出すことが多い。頭のおかしい政治家を大衆が選んで、大変な目にあったりする。これは牛の体重といった客観的な事象を判断するのではなく、ほとんど自分の好みや思想を基準に投票するためである。どこの国でも、良心的な中間政党が多数派を占めたことは滅多にない。

 

 参考図書

スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック著「知ってるつもりー無知の科学」(早川書房 2018)

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最近の科学雑誌 (Scientific journals)の裏事情

2019年02月10日 | 日記

 日本では数年前に発表された理研のスタップ細胞が社会問題にまでなったが、論文の内容に再現性のない話はごまんとある。製薬会社AmgenやBayerHealthCareが臨床前研究の論文成果を検証したところ、再現性が得られたのはわずか25%であったという(Nature483,531-533, 2012)。論文内容でも統計処理が誤っていたり、不適切であるケースが多いらしい。再現性ナシの論文はインパクトファクターが20以上の有名雑誌でも同様の割合で見られるという。

  雑誌の査読者(レフェリー)は投稿論文の実験などをいちいち追試しておれないので、記述の内容がおかしくなければ掲載可と言わざるをえない。庵主は、実験系もフィールド系も理系論文の半分ぐらいは再現性がないのではと疑っている。膨大な予算を使って科学者の生活を支えるために「論文」というゴミが地球に増えていく。

  大発見などというものは滅多にないので、業績を上げるためには、そこそこの内容の論文をいくつも書いて、数で研究者の評価値を上げる必要がある。論文という実績が無いと科研費があたらない。最近は運営交付金が減らされて科研費が無いと大学では研究ができない状態である。publish or perish(書かざるものは消えゆくのみ)というわけである。さらにpublish and perish(いくら書いても消えゆくのみ)という時代になってきたそうだ。論文はあって当たり前で、そのインパクトファクター (IF)が大事だというのである。指数関数的に増える論文の山の中で、ありふれた研究をしていてもゴミのように埋もれてしまうだけである。少しでもいい仕事をして著名な雑誌に論文を掲載したいと思うのは研究者の本能である。

  IFは、それが掲載された論文の引用頻度を比較した指数に過ぎない。すなわち、その分野での論文の重要性を査定して決めたものではないのである。そもそも研究者人口が多い分野の雑誌は当然、IFは高くなる。NatureやScience, Cell, PNAS, Lancetなどの有名雑誌はIFがべらぼうに高い。一報出すだけでIFを30点以上も稼げるのである。まあまあの生理学関係の雑誌のIFが1.0あるかないかだから、30報も稼いだことになる。研究でちょっとした発見をしたと思う色気のある科学者はこれらの雑誌に一回は投稿してみる。しかし、うぬぼれ屋はこの世にごまんといるので、掲載率は低い。ほとんどがリジェクト(掲載拒否)される。上で述べたNatureの記事でも、再現性のない論文がむしろ引用頻度が高かったと述べている。IFが本当に論文の価値を反映しているのか疑問だということは前から言われているが、大学や研究所で人事の査定の際に候補者の論文リストからこれが計算比較されるケースもある。

  ワトソンとクリックによるDNA(遺伝子)の二重螺旋の発見は、Nature誌 (1953)にたった一枚の論文で発表され(図)、これがノーベル賞の対象になった。大事なことは総合的に何が創造的であったのか、何を本質的に進歩させたかのかということであろう。論文が多いとか少ないとかは指標ではないと思う。有名雑誌に掲載されたとしても再現率が確率として20%であるのなら、必ずしも評価の得点にならないのではないだろうか?

 

( ワトソンとクリックの1953年Nature論文。この短い論文が人類の生物

に対する認識を決定しただけでなくその後の文明と文化に革命的な影響を与えた)

 

  先日久しぶりに、ある国立大学の理系学部の図書館に文献を閲覧に行った。雑誌を並べる書架を見るとガラガラに空いている。お目当ての雑誌も購読中止になっていた。どうしたことかと図書の事務員に聞くと、最近、大学ではほとんど電子ジャーナルに変更になり、冊子体は経費節約のために購入をやめているとのことであった。電子ジャーナルは学内で手続きをすれば利用可能であるとのこと。確かに、これを利用すれば図書館に出向いて、いちいち雑誌から論文をコピーしなくても、自分のパソコンにダウンロードすれば、簡単にコピーが手に入るので便利ではある。ただ、学外者は使えないから、冊子の場合のように、許可を得て図書室で読めるというものではない。それに、古い世代にはバックナンバーが並んでいないと、雑誌が「仮想現実」のようで不安で仕方がない。

   この電子ジャーナルは、印刷代や郵送の手間がいらないので費用がかからないかというとそうでもない。冊子体と変わらないくらい結構な値段がするらしい。一つの研究室では、これを購入するとかなりの負担となるので、関連する部局や教室が共同で出資することになるが、いくつも雑誌をとるとバカにならない。Elsevier、Wiley-Blackwell, Springerなどの商業出版社が独占資本化して、投稿料も講読料も意のままに釣り上げている。一方で、オンライン上で無料かつ制約無しで閲覧可能な学術雑誌を運営する良心的なオープンアクセスジャーナル(OA:open access journal)が開設されている。最近ではこれに投稿する研究者も多い。しかし、どのような形態にせよインターネットを経由する電子的ジャーナルは、それを管理運営する会社が破産しサーバーが停止すると、その雑誌の過去の論文が全く読めないということになる。国会図書館ではこう言った電子ジャーナルはどう扱っているのだろうか?

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ロウバイ(蠟梅)

2019年02月09日 | ミニ里山記録

 

透ける黄となりて蠟梅果てにけり 丹生をだまき


 

 

 ロウバイ(ロウバイ科)。厳冬期に満開を迎えるまれな花木である。梅と名が付けられているが、バラ科ではなく別属のロウバイ科。この写真のように花の中心部が紫褐色になっていないものは素心ロウバイ、あるものを満月ロウバイと言う。江戸時代に中国から輸入され、いまでは各地で栽培されている。重なった花から真冬に重く甘い香りが路地に流れる。旧暦十二月のことを臘月という。これは昔中国で行われた「臘」という行事に由来する。これは冬至の後、第三の戊の日に行い、猟の獲物を先祖百神に供える祭りである。臘梅とはこの「臘」の月に咲く梅に似た植物という意味。これは蠟梅と虫編で書かれることもある。蠟はミツバチの蜜蠟を指している。ロウバイの花弁は蠟細工のように光沢があり透けていることから来ている。つまり、「月」にも「虫」にもそれぞれの根拠があることになるが、筆者は蠟梅を好む。



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ある洞穴生物学者の思い出

2019年02月08日 | 日記

ある洞穴生物学者の思い出

  吉井良三先生(1914 -1999)は庵主の大学教養時代の担任教授であった。先生は大阪府に生まれ、1935年に旧制の第三高等学校(三高)理乙類を卒業、1938年京都帝国理学部大学卒業し、1940~1946年ヨーロッパに留学した。最初はドイツとの交換留学生としてミュンヘン大学に派遣されていたが、戦火が激しくなり帰国の便が断たれたために、長期留学になったものと思える。京大が保存する三高の資料によると1944~1946年まではスペインで外務省嘱託日本公使館附雇員となっており、最後のほうは留学というより、ほとんど避難生活のようであった。帰国後1946年5月から、三高の講師(動物学)、光華女子専門学校教授を兼務、そして1963年には京都大学教養部教授になられた。円い眼鏡をかけた飄々とした先生で、学生のクラスコンパによく参加された。そこで、ご自分の研究対象である洞穴に棲むトビムシの話などを面白くしてくださった。

  記憶では次のような話があった。洞窟の虫をおびき寄せるのに、あるフランス人がチーズを使っていたので、自分も試みたが日本のチーズは全く効果がなかった。そこで漬け物を使ったがこれも効果がない。結局、発酵させたドブロクのような酒に、ヤスデ、トビムシをはじめいろいろな昆虫が寄ってくることがわかった。さらに洞窟にいる生物には真同穴性、好同穴性、迷同穴性のものがいて、真同穴性の種が学術的には貴重だと教わった。この話に刺激されて、先生の著である「洞穴学ことはじめ」(岩波新書)と「洞穴から生物学へ」(NHKブックス)を買って下宿で読んだものだ。

  吉井先生はミュンヘン大学の森林昆虫学研究所に留学されたが、ちょうど第二次世界大戦が始まって1年ほどで、戦争が激しくなるにつれて、そこの指導教授を含めて研究員はみな徴兵されていなくなり、ベルリン大学に移った。そこでインスブルック大学研究員のヤネチェクと知り合い、氷河のトビムシの共同研究が始まった。ヤネチェクは、のちにインスブルグ大学の生物学の教授となるが、その頃は軍服にいかめしい鉄十字章をぶら下げていたという。

 帰国してだいぶ経ってからヤネチェクがネパールのマカール氷河から送ってきたトビムシの標本を見て、吉井先生は驚愕する。それはルーマニア、アフガニスタン、日本(福島県)の3箇所の洞窟でのみ発見されているアケロンティデスという種類のものであったからだ。先生は、それまでこれらの種は平行進化でそれぞれの地方で生じたと考えていたが、ヒマラヤの高山帯にも生息する事より、この仮説は捨てざるをえなかった。そして氷河期には世界中で分布していたアケロンティデスが気候変動によって一部は高山に押し込められ、一部は洞穴に逃げ込んだという別の仮説を提出した。

  先生は動物行動学者の日高敏隆先生とも親しく、理学部の動物学教室にもよく来られていたので、後になってそこでお会いした。京大定年後は、ボルネオ島のサンダガンの森林研究所に勤めて、植林の害虫を防除する研究にたずさわったそうである。三高の同窓会誌『神陵文庫』第3巻に吉井先生の講演記録「オランウータンの国ーサンダカンの生活」が載っている(http://www.tbtcf.com/ shinryo/a0003/ 0006. pdf)。これがまた抱腹絶倒の講演なので、さわりの部分を要約して紹介する。

 『マレーシアボルネオ島のサンダカンで植林のための事業にたずさわった。サンダカンは深い入り江の中にあって丘のある長崎を小さくしたような街である。丘に登ると日本軍の掘った防空壕が残っている。ラワン材となるフタバガキは約200種類もあるので、適当に選んで植林すればよかろうと思うが、簡単ではない。これらの種は5~6年に一斉開花するが、花が咲き実が落ちて1週間ほどで発芽しなくなる。すなわち種子の保存が難し。また発芽してから、数年は比較的暗いところで育てないと、いたる所から枝が出て材木としては使えない。サンダカンでの生活は食費が安いので楽ではあるが、湿度が高くすみにくい。家は高床式になっており、雨季には床下に水がたまり、カエルが夜通し鳴くので、うるさくて寝られない。植林してしばらくすると、それを食害する昆虫が大発生する。例えばネムの木には、タイワンキチョウがついて、これが羽化すると植林地全体が黄色い絨毯をひきつめたようになる。象が夜に植林地にやってきて、木を引っこ抜くいたずらをするので、ジープに乗って爆竹をバンバンやったら、そのうち象は来なくなった等々…。』

先生の書物や談話、講演にはいつもユーモアが溢れていた。

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イタドリ(虎杖)の脅威

2019年02月05日 | ミニ里山記録

イタドリ (Fallopia japonica) の脅威

 

        

  分け入って谷は虎杖ばかりなり  政岡子規

 シーボルトが日本から持ち帰ったイタドリが、欧州各地で自然破壊の猛威を振るっている。日本で食用や薬用にするイタドリは19世紀の半ばにシーボルトが船でオランダに運んだ。シーボルトは日本の植物を園芸植物として販売するために(図鑑の出版費用を得るためと言われる)、多数を船で運んだが、乾燥や気温に耐えられずほとんど成功しなかった。しかし、イタドリだけは乾燥に強い植物で、首尾よく運べ育成する事が出来た。信じられない事だが、これは園芸用の観葉植物として欧州各地において高値で取引されたそうだ。この植物は地下1メートル以上の深さで、地下茎を伸ばし広がっていく生命力があり、またたく間に現地の在来種を圧倒した。今では、川辺、民家の庭、公園、墓地、遺跡などで、高さも2-3メートルとなって密生している。かくしてイタドリは日本のクズとともに「最も有害な帰化植物」としてヨローッパの嫌われ者になった。イギリスだけでも年間数百億円の被害が生じているそうだ。何しろこれが生えているだけで土地の値段が下がるほどである。これは欧州だけでなくアメリカやカナダでも同じ状況である。除草しても根が深く張っているので、表面を頑張って取り除いても駆除の効果が少ない。日本でも、イタドリが庭に生えると駆除に苦労するが、欧米ほど被害が目立たないのは、それなりに天敵がいるのと、他の植物との折り合いがついていることによる。英米の「イタドリ駆除同盟」などは、これの天敵であるイタドリハムシや特殊な菌類を利用することを検討したこともある。九州大学農学部では、イタドリマダラキジラミがこの種に特異的な害虫として利用できるのではないかと研究している。シーボルトもこんなありふれた植物が、どうしようもない嫌われ者になるとは思いもしなかったろうに。

 

追記

天敵の導入が害虫を首尾よく駆除する場合とそうでない場合がある。1936年にハワイにアフリカマイマイが輸入された。それが野外で繁殖して害をなすので、駆除するためにネジレガイの一種のヤマヒヤチガイを入れた。ところがそれはアフリカマイマイを駆除せずに、樹木にいるカタツムリを皆殺しにし始めた。アフリカマイマイは石灰岩にすんでいるからだ。動物の生態を知らずに行った人類の愚考の見本みたいなものである。

(ゴードン・テイラー「続人間に未来はあるか」大川節夫訳 1971)

1936

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