京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

シモーヌ・ヴェイユの思想

2024年11月28日 | 評論

 

 むかし、シモーヌ・ヴェイユとその名を舌頭に転がすだけで血圧が上がった人は、いま何歳ぐらいになっているのだろか?作家の須賀敦子(1929-1998)は「本に読まれて」(中公新書)のなかで、その熱病的没頭の時代を「ヴェイユは、50年代の初頭に大学院で勉強していた私たち女子学生の仲間にとって灯台のような存在だった」と書いている。

 ヴェイユは1909年パリに生まれ、人類史でも稀な激動の時代を火の玉のように生き、1943年イギリスで客死した女性哲学者である。1966年発行の京都大学新聞 (13638号)に哲学者の長谷正当(当時京大研修員)が、彼女の著「労働と人生についての省察」についての書評を出している。その書き出しは「ヴェイユの著書が最近紹介されはじめている」で始まるので、この頃からかなり読まれるようになり、さらに少し時代がすすむと、全共闘の論客も関心を持つようになった(彼女はレーニンやトロッキーもおおいに批判した)。

 ヴェイユは体験(「事実との接触」)を媒介にして「真理に対する飢餓、実存に対する渇き」をもって太く短い人生を歩んだ。彼女は工場に入り実際、労働することによりそれが奴隷労働であることを実感した。奴隷状態を生み出す原因は「速さ」と「命令」という二つの事であった(この本質は現在も変わっていない)。もう一つの体験はスペイン動乱であった。それぞれ「不幸の経験」と「集団の経験」としてその思想に刻みこまれた。

 ヴェイユ家は「ヴェイユ」姓が示すようにユダヤ系であったが、両親はユダヤ教に服さず、二人の子供もユダヤ教に接触させないように教育していた。そしてシモーヌ自身は思想的にユダヤ教を厳しく批判する立場をとった。

 「残虐、支配への意思、敗れた敵に対する非人間的な軽蔑、そして力への敬服などを表明するユダヤ経典が、キリスト教に持ち込まれたことは不幸なことだ」と述べている。シモーヌ・ヴェイユの論法によると、ヒトラーの反ユダヤ主義は、この残虐なユダヤ経典の教えをそのまま反転模倣したことになる。最近のイスラエルのパレスチナ人民への暴虐は、まさに、これを証明しているとしてしか思えないのである。

 

 参考書

大木健 「シモーヌ・ヴェイユの生涯」勁草書房

フランシーヌ・デュ・ブレシックス・グレイ 「シモーヌ・ヴェイユ」岩波書店 2009

 

追記(2024/11/06)

青年ヘーゲル学派のブルーノ・バウワーは1843年に「ユダヤ人問題」で、ユダヤ人が空想上の民族性にしがみついている限りユダヤ人の解放はありえないと述べた。マルクスはやはり1843年に「ユダヤ人問題によせて」でバウワーの論を批判しながら、国家と宗教とのかかわりについて展開している。ただしこの頃はイスラエルはまだ建国されていなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「学者の値打ち」と「学者の悪口」

2024年11月04日 | 悪口学

 

   鷲田小彌太(1942~)が書いた「学者の値打ち」(ちくま書房)と云う本は、文系研究者の悪口で溢れている。鷲田は鷲田でも大阪大学学長をしていた鷲田精一氏(1949~)とは無関係(類縁関係なし)のようである。面白いことに、ご両人とも専門は哲学で、小彌太氏は阪大の哲学を卒業し専門はマルクス、ヘーゲル、スピノザ。一方、精一氏の方は京大の哲学を卒業し、フッサールを研究しておられた。

  この書「学者の値打ち」では現存・物故によらず実名であまたの研究者・学者がバサバサ切られている。大学や研究所とは無縁の吉本隆明、高橋亀吉などのフリーの評論家や文筆家を含んでいる。すさまじいのは、{表6}の大阪大学哲学科メンバー(および出身者)にたいする評価である。沢寫久敬、伊藤四郎、相原信作、田畑稔などとともに、公正を期すためか、著者の鷲田小彌太氏もリストに並んでいる。ここでは、例えば相原信作は研究評価(B)、教育評価(B)、人格(A)、業績(C)、総合(B)などとなっており、自身はそれぞれ、B、C、B、B、Bだそうだ。小林秀雄なんかは、C,C,C,B,Cになっているので、まだましな方なんだろうが、これをみた関係者はどう思っているのだろうか?

「学者の値打ち」は、どう考えても、その成し遂げた研究業績・成果でもって判断する外ない。哲学は世界(宇宙、自然、社会と人間)の正しい認識の仕方を提示する学問であろう。どのようなオリジナルな事や概念を発見あるいは思いついたか、そしてそれをどれだけ、きっちり発表したかが絶対基準となる。人格や教育は良いにこしたことはないが、2次的なものである(だいたい人柄の良くって優れた哲学者など聞いたことがない。人柄が悪いから哲学者になるのである)。本書は、各対象者をその皮相面からするどく批判はしているが、業績視点での批評はあまりない。そもそも日本の哲学でオリジナルなものはあるのだろうか? 

 

追記(2024/11/07)

梅原猛の「山川草木悉皆成仏」の思想も文芸の世界の話で体系的な哲学とはいえない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする