京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

京都の子規と俳句

2024年08月31日 | 文化

 

 旅人の京へ入る日や初時雨

 川一つ処々の紅葉かな    

 老僧や掌に柚味噌の味噌を点ず   子規

 

 明治25年11月10日子規は京都に来て麩屋町の柊家(ひいらぎや)に泊まる。虚子が旅館を訪れると、子規が庭に降りて砧を使って何か作業している。

「何をおいでるのぞ」

昨日、高尾に行って取ってきた紅葉の色をハンカチに移しているのよ」と子規は嬉しそうに答えた。

 

(柊家旅館)

 前日、子規は人力車を雇って京都の高尾、槇尾、栂尾で紅葉狩りを行った。子規は高尾の売店で、紅葉の形を染め付けた手拭をみかけ、それをヒントにしてハンカチに染めることを思いついたようである。紅葉の色素はカロチン系のもので木綿に染めるのは無理なので、多分うまくいかなかったのではないか。「老僧や」の句はその後、天田愚庵をおとずれたときのものだ。

  ちなみに子規の泊まった柊家旅館の座敷は、その後、漱石や川端康成をはじめ多くの文豪が宿泊した歴史的な場所となり、いまでも使われている。

  同年11月14日。子規は母の八重と妹の律をともなって京都観光をおこなった。松山をひきあげて東京で家族で暮らすために、二人を迎えにきた途中の観光旅行であった。この時も3人で柊家旅館に泊まっている。

 

参考図書

  坪内稔典 「俳句で歩く京都」淡交社 (2006)

  森まゆみ 「子規の音」新潮社 (2017)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日俳壇に入選するコツ

2024年08月28日 | 文化

 朝日俳壇は一般俳人のあこがれの新聞投句欄である。これに入選すると、赤飯を焚いてお祝いするほどのすごい事らしい。庵主は昔、何の気なしに次の一句をここに投稿したことがある。

  去年今年貫きとうす放射線  楽蜂

 ちょうど東北大震災で東電の第一原発事故がおこった頃の話だ。高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」を本歌取りした時事俳句にすぎない。これを、なんと金子兜太さんが採ってくれたのである。以来、気をよくして何十回も投句したが、まったく音沙汰がない。結局、止めてしまった。

金子兜太 (1919-2018)

  ところで2010年の雑誌「くりま」(文芸春秋増刊)5月号に次の記事が載っている。

『六千句から四十句が残るまでの過酷なサバイバルを実況中継(ルポルタージュ)朝日俳壇の入選はこうして決まる:選者◎稲畑汀子/大串 章/金子兜太/長谷川櫂』

 この記事によると、毎回とどいた約6000通のハガキから4人の選者が各自10句を選抜する。入選確率は単純計算で150分の一である。選者全員が朝日新聞の本社会議室に集まり同時に個別で作業し、午前中約3時間程で終えるようである。1分で約23枚を読み込んでいく計算になる。超人の荒業というほかない。そして最後に選んだ句の評をまとめる。これを毎週繰り返すというから、想像をこえる体力と気力の4人組である(現在は大串、長谷川、高山れお、小林貴子)。多分、それなりの報酬があるのだろうが、朝日の俳壇選者になることは、囲碁や将棋の名人戦リーグに入るのとおなじく、その実力と名声を認めれらえたことになる。

 ところで、この人たちはどのような基準で選句してるのだろうか?共通の基準があるのか、ばらばらの好きな基準でやってるのか?ここでは「選者同士で重なりあった選句の数」(平成21年の1年間)がデーターとして出てるのでそれを見てみよう。

稲畑  X 金子   0

稲畑  X   長谷川 4

金子  X 大串    4

長谷川 X  大串   6

稲畑  X 大串    8

金子  X    長谷川     8

       計 30句

 

  何も考えずにランダムにハガキを選んだ場合は、A氏とB氏の重なる確率は600枚に一枚の割合である。一年を50週として年間の一人の選句総数は10X50で500枚になる。これから年間の重なり枚数は1枚弱。それゆえ稲畑さんと金子さんの重なり0枚は、必ずしも「お互いの好みの違い」とは言えず、統計的にありうる事である。あとの重なり4は好みか偶然かは計算しないと微妙なところだが、6や8は偶然とはいえず、かなり好みがあっていた結果と思える。ただ合っているといっても、500枚のうちの高々6-8枚で、後の大部分はお互いにちがった作品を選んでいることになる。どうも選句は共通した基準で選んでいるのではなく(それならもっと重なりが多いはず)、自分の好みで選んでいることになりそうだ。

 ほかの新聞投句欄では選者が複数の場合は、投句者が選者を指定する事になっている。たとえば京都新聞の場合は選者は坪内捻転さん岩城久治さんらで、自分の好きな人を選んで投句する。そうなるとその選者の好みそうな俳句を作るのが人情となろう。結局、朝日俳壇の場合も4人の選者の誰と絞った作風の作品を投稿するのが入選の確率を高めそうである。さらに「サブリミナル効果」を狙って同じ句を10枚ぐらい送る人もいる。また、一人で100句も同時に送ってくる人もいる(規約がないから違反とはいえないようだ)。

 ただ、こんな手間と経費をかけて、この新聞欄に自分の俳句を掲載することに、どれだけの意義や価値があるのだろうか?つらつら、駄句・凡句の並んだこの欄を眺めているとかなり疑問に思えてくる。



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドクロの面を持つ蛾がミツバチを襲う

2024年08月21日 | ミニ里山記録

 

 学名 Acherontia styx。スズメ科メンガタスズ属。英名はdeath-head hawkmoth.

 ロンドンの郊外にあるシルウッドパークという学園都市に立ち寄った時、多くの民家の花壇に、ミツバチの巣箱が置かれているのを見た。趣味と実益といった事もあるのだろうが、ヨーロッパにおける養蜂の長い歴史文化を垣間みた気がした。イギリス人にならったわけではないが、定年後、ニホンミツバチを飼い始めた。いま住んでいる家は京都市の真如堂のそばにある。庭に待ち箱を置くと、ほとんど毎年、ニホンミツバチの分蜂群が入る。

 ある夜、巣箱でギギギ•••といった異様な音がするので、巣の蓋をはずし、懐中電灯で中をのぞくと大型の蛾がいた。ミツバチの巣を襲って蜜を盗むメンガタスズメガ(面形雀蛾)の成虫だ。背中にドクロのような不気味なマークを持っているので面形という。おまけに体のどこを振動させるのか、蛾のくせに鳴くのである。口吻は短いが強靭でミツバチの巣に入り込んで巣盤に穴をあけて蜜を盗み取る。ときどきミツバチの返り討ちにあって巣箱の傍に死骸が転がっている。

 セルゲーエフ・ボリス・フェドロヴィチという人の書いた本「おもしろい生理学」(東京図書:金子不二夫訳、1980)によるとメンガタスズメの出す音は、女王バチが巣内で出す音と同じ声色で門番バチをだますそうだ。擬態ならぬ擬声か?ただし、この話を文献検索しても、これに関する論文は見当たらなかった。ちょとあやしい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頭が良いと短命になるという生物学的証明

2024年08月19日 | 評論

<頭が良いと短命になるという生物学的証明>

 

 スイスのフリプール大学のタデウシュ・カベッキーはショウジョウバエを用いて学習行動が強化される選択実験を行ない、それがどの様な特性(形質)をもたらすか調べた。ハエにオレンジとパイナップルのゼリーを選択させるが、一方のゼリーにキニーネを加えておく。数時間でハエは苦いキニーネを避けて、もう一方のゼリーを好む様になる。この学習を3時間行なったのち、選んだゼリーに生んだ卵を取って育てる。このような操作を15代続けると、短い時間で学習できるハエが選抜でき、普通は3時間かかる学習が1時間でできる「かしこい」ハエの系統ができる。

 しかし、このハエはその代わりに短命という代価(トレードオフ)を支払っていることが分かった。美人(ハエ)薄命というが賢人(ハエ)薄命となっていたのである。人間でも勉強ばかりしていると、青成ひょうたんのようになって、健康を害することはあるが、単に遺伝的に「かしこく」なっただけのハエの寿命が短縮する理由はよくわかっていない。なにか生理的に潜在ストレスがかっているのか、ニューロンの結線構造におかしな事がおこっているのだろうか?

 一方、栄養価の低い餌でハエを育て、集団の中で比較的発育の速い個体を何代にもわたり選抜する。これを先ほどのような学習実験で学習能をみてみると、選抜する前のものより格段に低下していた。この実験段階では餌は普通のものを与えているので餌の影響ではない。この系統は多産になっており、「貧乏人の子沢山」のような家系になっていた。人の場合、そのような家の子の頭は、いいのか悪いのかという統計は無論ない。

 

参考文献

カール・ジンマー「進化:生命のたどった道」(2012 岩波新書 長谷川真理子訳)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「古池や蛙飛びこむ水のをと」は名句か駄句か?

2024年08月19日 | 日記

「古池や蛙飛びこむ水のをと」は名句か駄句か?

 

 

 小学校の教科書にも載っている有名な俳句である。

この句は知られる限り3種類の表記がある。(芭蕉句集:日本古典文学大系 岩波書店1979)

古池や蛙飛びこむ水のをと(波留濃日:蛙合あつめ句)

ふる池やかわず飛こむみづの音 (芭蕉図録)

古る池や蛙飛込む水のおと(池田市「柿右衛門文庫」所蔵の芭蕉真筆の短冊)

 この中で真筆の短冊の表記が一番この句にふさわしく思える。

 

 小西甚一によると、これの初案は「古池や蛙とんだる水の音」だそうだ。天和元年(1681)か2年の頃の話である。上五をどうするか芭蕉が迷っていると、其角が「山吹や」はどうかと提案したのに、芭蕉はそれを採用せず「古池や」としたそうだ。支考の「葛の松原」という俳書に書いてある話だから本当だろう。小西によると「飛んだる」は当時の段林派の影響がみえるという。貞享(1684) 三年三月に芭蕉庵で催した「蛙合」二十番の際に「飛び込む」に改作したらしい。

 古池にカエルが飛び込めば、ポチャンと水音がするのはあたり前だから、其角は山吹の取り合わせで景色に奥行きを与えようとした。それを拒否して芭蕉はあえて「古池や」とした。池を注視させることにより、水と空気の波紋を視覚と聴覚で表したのであろう。まあまあの写生句ではあるが、いまでは小学生でもこんな句は作らない。どこの句会に之を出しても誰も採らないだろう。しかし、当時はこのような「斬新」な作品はまったく見当たらなかった。

   正岡子規も「古池の句の弁」で同様の趣旨のことを述べている。子規はその時代の蛙の俳句を多数ならべ、「悪句また悪句、駄洒落また駄洒落、読んで古池の句に至りて全くその種類を異にするの感あらん」と述べている。

ただ、この俳句は作られてから、芭蕉自身もコメントしたことはなかったし、弟子はだれも言及しなかった。ようするに完全に無視されていたのに、どうして人口に膾炙し俳句の代表のようになったのか?子規も不思議なこととしており、芭蕉はあの世で不満を述べているっだろうと言っている。

 江戸期の前衛的俳句、現代のただ事凡句といえよう。

 

参考図書

小西甚一 「俳句の世界ー発生から現代まで」 講談社学術文庫1159( 2010)

正岡子規 「古池の句の弁」(明治38年10月「ホトトギス」)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「蕪村評論」の評論

2024年08月13日 | 評論
(呉春筆 蕪村像)
 
 蕪村の俳句を評論した文集は多い。江戸期後半には、俳人として、ほぼ無視されていた蕪村俳句を掘り起こしたのは、明治になって正岡子規である。以来、多数の俳人あるいは評論家が蕪村の俳句を独自の視点で解釈・評論している。それぞれの特徴を取り出し、その評価と批判を行なった。
 
1) 中村稔「与謝蕪村考」(青土社)2023 
 著者は弁護士さんのようである。弁護士の俳句評論とは、かかるものかと納得した。著者は、まず他の評者の意見を紹介し、裁判における相手側の陳述書に対するように、これに反論していく。たとえば蕪村「春風馬堤曲」の章では尾形功の解釈を紹介し、たまに同意することもあるが、ほとんどケチをつけている。その立場は、有体に言って弁護士リアリストとしてのもので、揚げ足取りで面白くない。たとえば、俳詩「春風馬堤曲」に登城する主人公を軽佻浮薄な女の子の道行ととらえている。中村は、「尾形は学者のくせに想像力が過剰すぎる」と批判してるが、尾形の解釈の方が、ずっと豊かで楽しい。ようするに面白くないのだ。かといって弁護士的リアリズムに徹しているかというと、そうでもない。たとえば、蕪村の「離別(さら)れたる身を踏込んで田植えかな」の解釈を、離縁された女性が田植え時期に員数合わせで婚家に呼び寄せられ手伝う情景としている。これは、珍しく尾形の「蕪村全集」での校註に従ったようだが、常識的にはありえない話だ。藤田真一は、出戻ってきた娘が実家の田植えの作業に参加するときの複雑な心境としている。これが普通の解釈であろう。また、蕪村「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の句でも、中村は「くれて」と「過行く」の措辞が矛盾していると述べている。しかし「過行く」は家に入らないでという意味に決まっているではないか。それに、この句の主人公は友人でも家の主人でもなく「鮎」であることを忘れている。釣り上げて足の速い鮎を配る友人の心遣いが、よみとれないようでは駄目だ。ただ、本書は、蕪村の生活句を「境涯詠」などに分類するなど、いままでにみられない新たな分類を行った点で評価できる。子規や朔太郎は生活者としての蕪村の句をまとめなかった。100点満点で65点。
 
2)藤田真一 「蕪村」(岩波文庫705)2000
 これは蕪村俳句の評論集ではなく、俳人蕪村を多角的に分析した評伝のような構成になっている。藤田は当時、京都府大の教授であった。春風馬堤曲の鑑賞においては、藪入り少女のちょっとはしゃいだ気持ちと故郷への想いが錯綜した道行きとして無理なく解説されている。「融通無碍な発想があって、そのくせ人間らしい心が、ふわっと伝わる蕪村の俳諧世界を紹介したい」と著者はいっている。学者の評論であるが、蕪村のほのぼのとした人柄を伝える佳作である。藤田には他に「蕪村の名句を読む」(河出書房)や「風呂で読む蕪村」(世界思想社)がある。いずれも蕪村自身の独白でもって、代表句を紹介するユニークな著書である。この中の蕪村「滝口に燈を呼声やはるの雨」は、貴人と武士が経験する時間の対比論で鑑賞した名解釈である。90点。

 

3)正岡子規 「俳人蕪村」(講談社文芸文庫)1999
 明治30年4月13日から11月15日まで、子規が「日本」及び「日本付録通報」に連載したものである(底本は明治32年「ほととぎす発行)。子規によると生存中、蕪村は画人としてより俳人として有名だったそうだ。それが死後、画人蕪村として知られ、その俳句はほとんど評価されなかったそうだ。しかし子規派の再評価により、その俳名が再び画名を上回ってきたと自画自賛している。ここでは、蕪村の俳句を「積極的美」「客観的美」「人事的美」「複雑的美」「理想的美」などに分類し、用語の自由性、句法の革新性、句調の斬新性、味のある特殊な文法(間違った文法なのに句に趣をあたえている)、材料の特殊性を挙げている。そして、それぞれの項目で該当する例句を挙げている(材料の特殊性では「公達に狐ばけたり宵の春」など)。すべての句をくまなく読み込んで整理したのであろうが、おそるべき気力と分析力である。春風馬堤曲に関しては、あまり詳しい解説はないが、「蕪村を知るこよなきもので、俳句以外に蕪村の文学としてはこれ以外にはない」としているが、一方で新体詩の先駆けを開けなかったことを惜しいんでいる。
 
 この著の圧巻は蕪村の「創造的文法誤謬」論である。蕪村は結構、文法を無視した作品を作った。「をさな子の寺なつかしむ銀杏かな」の「なつかしむ」について子規は次のように語る。
 「これは蕪村の創造した動詞であろう。果たしてそうとすると蕪村は傍若無人の振る舞いをした者といえる。しかしながら、百年後の今に至ってこの”なつかしむ”を引き続き用いている者は多数いる。蕪村の造語はいつか辞書にも載るようになるだろう。英雄の事業というものはこのようなものである」(筆者口語訳)
 
 ともかく、この評論や他著「蕪村と几董」などによって、埋もれていた蕪村俳句は、近代によみがえった。只一点ケチをつけると、子規は最後の方で「蕪村の悪句は埋没して佳句のみのこりたるか。俳句における技量は俳句界を横絶せり、ついに芭蕉其角の及ぶ所に非ず」としているが、蕪村俳句全集をみるに必ずしもそうでない。駄句、凡句も結構ある。99点。
 
4)萩原朔太郎 「郷愁の詩人・与謝蕪村」岩波文庫 1988
詩想(ポエジイ)にあふれたセンチメンタリストとしての蕪村を定着させた朔太郎の有名な書である。個人誌「生理」に昭和8-10年連載された。ここでは、まず子規派が、蕪村俳句を写生主義として規定してしまったことを批判している。しかしこれは明らかに誤解である。前の「俳人蕪村」を読んでも、たしかに「直ちにもって絵画となしうべき」ような作品を「客観的美」として分類しているが、それは蕪村俳句のジャンヌの一つにすぎない。ほかに人事句など、あまりロマンにみちたものではないのも子規は紹介している。朔太郎も「我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす」を紹介しているが、これなんかロマンどころか生活がにじみ出た俳句だ。むしろ、リリシズムの極致である「花茨故郷の路に似たるかな」の引用を抜かしている。これを抜かしてはいかん。蕪村はクリスタルグラスのような多面体である。時代のせいかも知れないが、朔太郎の読みは浅いのではないか。ただ蕪村の飄逸な書体を評して、彼を「炬燵の詩人」としたのは慧眼である。90点、
 
5) 竹西寛子「竹西寛子の松尾芭蕉集 与謝蕪村集」集英社 1996
 竹西寛子は原爆体験をもった小説家であり文学評論家である。ここで竹西寛子は蕪村の俳句を一句づつ解釈していくが、その内容は極めて良識的で納得できるものである。壮大な「菜の花や月は東に日は西に」から生活句「菜の花や笋見ゆる小風呂敷」まで蕪村世界を無難にこなしている。「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の夜半は夜中ではなく、夜半亭の事だとする宮地伝三郎(京大教授で動物学者)の説も紹介している。それなりに勉強したということであろう。ただ驚くほど新鮮な解釈を披露しているわけでない。80点

6) 小西甚一 「俳句の世界(第七章 蕪村)」 講談社学術文庫 1995
 俳諧の起源から説きはじめた俳句の歴史書における蕪村論である。「樟の根をしずかにぬなすしぐれかな」の「しずかに」の用法が当句を名品に仕上げたという解説には感じいった。断章での解説であるせいか、評論対象の選句が自由で斬新な雰囲気ではあるが、短いのでものたりない。75点。
 
7) 森本哲郎 「詩人与謝蕪村の世界」講談社学術文庫 1996
 森本哲郎(1925-2014)は)新聞記者を経て評論家となり東京女子大教授。「世界の旅」など多数の著書がある。俳人でも文学者でもない政治畑のジャーナリストの蕪村論である。雑誌「国文学」に掲載されたものをまとめたらしいが、理由はあとがきを読んでもよくわからない。ただ「私は蕪村が好きだ。蕪村の世界をこのうえなく美しいと思う」と述べている。好きでなかったら書けない。テーマ別に18章で構成されている。どれも蕪村俳句を様々な角度から解説するが、著者の博覧強記にはおどろくほかない。「島原の草履にちかきこてふかな」の句について、プラトンのイデア論を挽きつつ、「世界は仮の相であり、夢であり、幻であり、影であるというあの荘子の哲学は、蕪村の芸樹の中では独特の美学となり十七文字に結晶している」と述べている。子規、朔太郎の評論に次ぐ記念すべき書である。95点。
 
8)高橋治 「蕪村春秋」朝日文庫 2001
高橋治(1929-2015)直木賞作家、映画監督。「蕪村に狂う人、蕪村を知らずに終わる人。世の中には二種類の人間しかいない」と強烈なフレーズで始まる映像作家の蕪村論。「鮎くれてよらで過行く夜半の門」は夜釣り、火振り漁としているが、鮎を渡す手元から家の門を遠景にしたズームアウトの手法が凄いと言っている。また「花野」の項で日本人は本当は自然を大事にしないのに、その美を「仮託」する悪いくせがあり、近代においてはさんざん環境破壊を繰り返してきたと述べている。同感である。85点
 
9)稲垣克己 「蕪村のまなざし」 風媒社 2009
作者は1929生まれの銀行勤務経験者。「守ろうシデコブシ」(中日新聞)などの著書がある。前半は句評で後半は蕪村の事績の紀行集になっている。蕪村は京都で四条烏丸東イル、室町綾小路下ル、仏光寺釘隠町に転々と寓居を変えたそうである。
 
 蜻蛉や村なつかしき壁の色
 いな妻や波もてゆえる秋津島
 屋根ひくき宿うれしさよ冬ごもり
 咲くべくもおもわであるを石路花
 
これらの句は他の評者は取り上げていない。これをみても庶民派蕪村を現代の蕪村が誠実に紹介している。80点。
 
10)佐々木丞平、佐々木正子、小林恭二、野中昭夫 「蕪村:放浪する文人」新潮社
蕪村句の評論集というより蕪村作品(絵画を含む)の写真集といった本である。蕪村句そのものの評論は中村氏による1章「俳人蕪村の実力」という短い一章がある。蕪村句はほとんど駄句であるが、中にはホームラン級のがあると言っている。駄句や凡句もあるが、言い過ぎだろう。あまり元気のでる話ではない。70点。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コノプカの法則ー不思議なビギナーズラックと連続の法則

2024年08月11日 | 評論

  人生いろいろ経験を積むと、ビギナーズラックといった事を経験したりする。麻雀を初めてやった人が役満を上がり、それですっかり病みつきになったりする。あるいは、不運や幸運が連続して起こる事もよく見聞きする。宝くじなど普通は(庵主の場合は特に)、当たったためしがないのに、連続して高額賞金の当たる人がいて、まったくうらやましい。初心者(ビギナー)には大きな幸運が起こりやすく、不運や幸運はそれぞれ連続することが多い。

  1960年代末のことである。カリフォルニア工科大学で行動遺伝子学の研究を目指していたシーモア・ベンザー(Seymour Benzer:1921-2007)の研究室にロナルド・コノプカ (Ronald Konopuk :1947-2015)という大学院生がいた。この研究室は、ショウジョウバエにおける行動遺伝学の分野でめざましい成果をあげていた。コノプカはショウジョウバエを突然変異剤のEMSで処理し、羽化リズムの異常な時計ミュータントを作成しようと試みた。当時は、体内時計の突然変異体などは絶対に作れないと考えられていたので、研究室の先輩達はコノプカに「それこそ時間の無駄だからやめた方がいいよ」と忠告したそうだ。ところがコノプカは、わずか200本目の培養瓶で、羽化リズムの異常なハエを見つけ、最終的には3種類(短周期、長周期、無周期)の体内時計ミュータントをつぎつぎ作成する事に成功した。通常は何千本もの培養瓶のハエをスクリーニングしても取れるかどうかわからケースが多い。それにはものすごい退屈な時間と経費がかかるものだ。

   これらのミュータントの遺伝子座位はいずれもX染色体のwhite (白眼) 遺伝子のすぐ近くに位置し(これも遺伝子座を解析したりするのに幸運な位置)、period遺伝子と命名された。この結果はベンザーとの共著で、権威ある米国科学アカデミー紀要(PNAS誌 1971)に掲載された。これは、動物における時計遺伝子の最初の発見であり、分子レベルでの体内時計研究のビッグバンとなったものである。

  日本人の堀田凱樹博士(後に東大教授)はその頃、ベンザー研究室に留学していた。彼はコノプカのために、ショウジョウバエの歩行活動リズムを測定する装置を開発した。しかし、この論文(PNAS)の共同研究者とはならなかった。同一の遺伝子部位に3箇所も変異を起こしたミュータントがほぼ同時に取れる確率を計算し、「これはやばい話ではないか」と感じ、辞退されたそうである。それほど、低い確率のことが同時に起こっていたと言えよう。研究における「ビギナーズラック」と「連続の法則」の典型的な例であり、科学史家はこれをまとめて『コノプカの法則』とよんでいる。これはジョナサン・ワイナーの著『時間・愛・記憶の遺伝子を求めて―生物学者シーモア・ベンザーの軌跡』にも出てくる有名な話である。

 

 

   コノプカの発見したピリオド遺伝子 (period)は、その後の時計生物学におけるイコンとなり、分子レベルの研究はこれを原点に発展したと言える。period遺伝子は数グループの間のデッドヒートの末に1984年に完全配列があきらかになった。一昨年 (2017)、ジェフリー・ホール、マイケル・ロスバシュ、マイク・ヤングの3人が「概日リズムを制御する分子メカニズムの解明」によりノーベル賞を受賞したのは記憶に新しい。

   ただ、その後のコノプカ博士の研究者としての人生はそれほど幸せなものでなかったようだ。時間生物学者のピッテンドリク教授の博士研究員を経たのち、母校のカリフォルニア工科大でassistan professor(助教授)になったが、完璧主義であったことや分子生物学の潮流に乗り遅れたこともあり、あまり論文が出ずに失職した。米国の研究大学では6年毎に教員への厳しい査定があり業績が少ないと辞めさせられる。別の大学に移ったが、そこでもうまく行かず、結局、研究の継続を断念した。人生の後半では「不運の連続の法則」がつきまとった人と言える。彼は素晴らしいチョウのコレクターであったという。

   『コノプカの法則』については、似たようなことを古生物学者の瀬戸口烈司さん(京都大学名誉教授)も述べている(1999年9月3日京都新聞朝刊「現代の言葉」)。瀬戸口さんのグループは、南米でサル類の化石の発掘調査を行った。調査機関は約3か月である。化石は見つかる時は別々の場所で同時に複数個見つかることが多いそうだ(良い事の連続の法則)。一方で、調査隊員から腎臓結石と急性肝炎といった確率の低い病人が同時に出る事もある(悪い事の連続の法則)。そして化石調査に初めて参加した学生が、まぐれで立派な化石を発見する事がある(ビギナーラックの法則)。この学生は大喜びして、ますます化石研究にはまりこみ、活動量が増えてどんどん成果が上がる。すなわち正のフィードバック効果が起こる。こういった化石の発見には運がつきもので、特定の人について回る性質があり運の良い人は次々貴重な化石を見つけるが、悪い人はなかなか見つからないそうである。これも連続の法則の一種である。

 ロブ・ダン著『家は生態系』(今西康子訳)白揚社 2021にも同様のビギナーズ・ラックの例が書かれている。高校生のキャサリン・ドリコスがダンの研究室にボランティアでやって来た。彼女はタイガー(トラ)に興味をもっていたので、ダンは「タイガーアント(トラ蟻)」を調べたらとアドバイスした。そうすると彼女はたちまち、ラボの裏で「タイガーアント」(ディスコシレア・テスタシモ)の巣を発見してしまった。それまでは、誰もこの種の巣や女王を見た事がなかったのに。

 

参考図書

 ジョナサン・ワイナー (2001) 時間・愛・記憶の遺伝子を求めて―生物学者シーモア・ベンザーの軌跡、 早川書房

松本 顕 (2018) 時をあやつる遺伝子、 岩波書店

Michael Rosebush (2017)「Ronard Konopka 1947-2015) Cell 161, April 9, 187.

 

追記(2024/08/11)

コノプカのperiodの発見とよく似た話を、ショウジョウバエで「睡眠」を研究している粂和彦氏が「時間の分子生物学」(講談社現代新書)で述べている(p121)。不眠症のハエを偶然発見したのであるが、ビギナーズラックであったとそうだ。ついている人は幸せなりきである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の二ホンミツバチ分蜂

2024年08月05日 | ミニ里山記録

2024年3月 越冬2群の二ホンミツバチうち1群はアカリンダニのために消滅。

4月22日 生き残った群から、午前11時ごろ第一回分蜂(写真1)。庭の桜の幹に蜂球を作る(写真2)。網で捕獲し、別の巣箱に取り込む。中群で順調に営巣している(写真3)。

 

(写真 1)

 (写真 2)

(写真」3)

 

  4月24日 第二回分蜂群。シロバナキンリョウヘンを傍においた丸胴の巣箱の外側サイドに自然分蜂群がきて、蜂球形成(写真4)。巣に入れるが、再びもとの場所にもどり蜂球形成。そのまま放置する。由来不明。

 

 (写真 4)

 

4月25日 翌日、13時ごろ、隣の別の巣箱に集団で移動。小群ながら順調に巣盤を作りはじめている (写真5)。

 

 (写真 5)

7月中旬

 

 

第三回分蜂 シロバナキンリョウヘンに。小群。ミカン箱の巣箱にとりこむ。由来不明。

7月中旬

 

5月11日アカバナキンリョウヘンに第4回分蜂群(中群)。重箱巣にとりいれる。、おそらく野生の他群由来。

 

8月3日重箱巣に夏分蜂

1000匹程度の小群なり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球温暖化とナガサキアゲハの「江戸参府」

2024年08月03日 | ミニ里山記録

 

   ナガサキアゲハの雄(2023年8月京都市内で撮影)

 

  庭の山椒の枝に大型の黒蝶が悠然と止まっているのを見つけた(上写真)。ナガサキアゲハ(Papilio memnon)の雄である。このチョウはアゲハチョウ属に分類され成虫の前翅長は60-80mmに及ぶ。関西地方で観られる黒色系のアゲハ蝶はこのチョウの他に、クロアゲハ、カラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、モンキアゲハ、ジャコウアゲハ、オナガアゲハがいる。ナガサキアゲハの雄はクロアゲハに、雌はモンキアゲハに似ているが、このチョウは後翅に尾状突起が無いことが特徴である(後述するがメスには尾を持つものがたまにいる)。雌雄とも前後翅の裏面基部に顕著な赤い斑点がある。このチョウは東南アジアインドネシアの島嶼から、中国台湾を経て日本まで広く分布しており、いくつかの亜種に分かれている。

 ナガサキアゲハは、そもそも南方系のチョウで、1980年頃までは九州全県および四国南部の平地から低い山地帯にかけてふつうに見られたが、本州では山口、広島でまれに観られる程度であった。しかし1980年代半ば頃から、近畿地方でも目撃と捕獲の記録が出始め、1990年に岐阜県、1992年に愛知県で、さらに2000年ごろには横浜や東京都内でも見られるようになった。白水隆の蝶図鑑には2006年に、三浦半島で定着し普通に見られるようになっていると記載されている。このチョウの北進は東京で止まることはなく、2007年に茨木、2009年に福島、宮城でも確認されるようになった。2012年には仙台市で、ナガサキアゲハの5齢幼虫がカラタチに定着していたというインタネット情報もある。ナガサキアゲハ以外にもモンキアゲハ、クロコノマチョウ、イシガケチョウ、ヤマトシジミなどのチョウ類も同様に分布を北に広げている。その原因は、地球温暖化により平均気温がどこも昔より高くなっているためである。急速に分布を広げるナガサキアゲハは地球温暖化の「環境指標生物」とされている。今後、青森さらには北海道でも目撃される日が来るかもしれない。          

 江戸時代、長崎出島に常駐していたオランダ人は、将軍を表敬訪問するため江戸参府を行うのを習わしとしていた。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも1826年2月15日、商館長のシュツルレルに随伴して長崎を出発し江戸に向かい、4月10日に到着している。こういった歴史的事実をなぞって、このチョウの東京までの北進を「ナガサキアゲハの江戸参府」とマスコミは報じた。     

 日本に棲息するナガサキアゲハP. memnon thunbergii の亜種名 "thunbergii"は、シーボルトが命名したもので、18世紀に来日した長崎のオランダ商館医で植物学者のカール・ツンベルクに敬意を表したものである。シーボルトは1823年8月12日出島に上陸し、わずか二か月後に小論文[DieDe historiae naturalis in Japonia statu(日本における自然史の現状)]をラテン語で書き上げている。これは翌年、バタビアで出版されたが、そこで紹介されたのは哺乳類5種、鳥類2種、爬虫類1種、魚類1種、甲殻類14種、昆虫2種の25種類の動物である(植物は含まれていない)。この2種の昆虫の一つがナガサキアゲハであった。もう一種はタテハチョウ科のルリタテハ(Kaniska canace)で、この蝶は北海道を含めて日本列島に広く分布している。記載された標本のいくつかは、それまで商館長であったブロムホフが集めていたものをシーボルトに託したものである。                     

 ナガサキアゲハが緯度の高い比較的寒冷な地域に分布を広げていくメカニズムが研究されている。それは、どうやら1年中の最寒月の最低気温が地球温暖化で次第に高くなり、冬眠している蛹の凍死率を下げたためのようである。化性(発生回数)や光周性(季節情報の受容能)を遺伝的に変化させるまでには至っていない。すなわち、集団として昆虫の生理生態的な形質が変化しているのではなく、温暖化にともなって冬季の生残率が高まったことで、寒冷な地方に分布が拡大していると考えらる。 チョウ類の分布拡大は、蝶の愛好家には好ましい事態かもしれないが、熱帯の感染症を媒介する昆虫も拡大・繁殖することで公衆衛生的な問題が生ずる可能性がある。例えば、重症性のマラリアを媒介するコガタハマダラカである。これは日本では、沖縄の宮古・八重山諸島にのみ分布しており、今のところ沖縄本島では見つかっていない。しかし、温暖化が進めば、沖縄から、九州南部、四国の太平洋地域まで拡がると言われている。植物は昆虫に比べて移動・分散が遅いので、このような急速な水平分布の変動は知られていないが、高山植物の生息域が温暖化で狭めらえている例がある。桜などの開花日が平均移動統計によると次第に早くなっているのも、その影響と考えられる。         

 産業革命以来、地球の平均気温は1.5℃ほど上昇している。京都では1881年以来の統計データーで約2.2℃上昇している。これは、どんなに頑迷な温暖化陰謀論者でも認めざるを得ない事実であろう。この6月中旬には、イスラム教徒がサウジアラビアの聖地メッカを訪れる大巡礼で、巡礼者1300人以上が熱中症で死亡したと報じられている。メッカでは6月17日に気温52度を記録し、おそるべき酷暑が続いていた。国連のグテーレス事務総長が、いまや「地球温暖化」ではなく「地球沸騰化」であると述べる事態になっている。その原因については諸説があるが、工業活動に伴う温暖化ガスの増加や原子炉の廃熱が、その主要原因であるとする考えが主流である。

  京都は盆地で冬は寒く、夏はことさら暑い。伝統的な町屋は夏の暑さ対策のために工夫がなされていたが、最近はどのビルや家屋にもクーラーを取り付けているので、それが出す廃熱のために街はますます暑く住みにくくなっている。温暖化に加えて、こういった都市熱の影響もあって、京都では気温が35℃以上の猛暑日が年々、増加している。ナガサキアゲハの北進で最低温度が生物の生存率を支配する例をみたが、京都の夏場における酷暑日の増加は、老人や病弱者の熱中症を増やすだけでなく、全体の平均余命の縮小を引き起こしているかもしれない。気温の平均値よりも暑さの突出日に注意しないといけない。

 このように、ナガサキアゲハは環境指標生物として有名なチョウになったが、分子生物学の分野でもスーパージーン(超遺伝子)を持つチョウとして注目を浴びている。最後にこの「超遺伝子」について簡単に述べておく。熱帯にはオオベニモンアゲハという色鮮やかな毒蝶がいる。そして、これにそっくりベーツ型擬態したナガサキアゲハがおなじ場所にすんでいる。これは全てメスで、色彩だけでなく、有尾で形態もよく似ている。しかも、ゆっくり飛ぶといった行動までまねる。非擬態型のメスもいて、これは無尾で、オスの擬態型はまったく観られない。これを発見したのはダーウインとともに進化論を提唱したアルフレッド・ウオーレスである。最初は、複数の擬態遺伝子がまとまって、性染色体に存在するのかと考えられていたが、常染色体上に逆位や組み換えの起こりにくい構造で存在することが分かった。こういった遺伝子セットを「超遺伝子」というらしい。その遺伝子構造にトランスポゾンを含むことから、ひょっとすると相手の毒蝶の遺伝子から。なんらかの仕組みで飛んできたのかもしれない。日本列島を北上するナガサキアゲハには擬態型のものは観られない。温度感受性の違いが議論されているが、出たとしても真っ先に鳥に食われてしまうからであろう。

 

参考文献

P.F Siebold(1824) De historiae naturalis in Japonia statu, nec non de augmento emolumentisque in decursu perscrutationum exspectandis dissertatio : cui accedunt spicilegia faunae Japonicae.

(日本における自然史の現状ー調査の進行に伴う増加と利益についての論文:日本動物相に関する摘録を付す)Batavia

北原正彦, 入來正躬, 清水 剛 (2001) 「日本におけるナガサキアゲハ(Papilio memnon Linnaeus) の分布の拡大と気候温暖化の関係」蝶と蛾 52 巻 4 号 p253-264

古屋政信、石井実 (2010) 「気候温暖化とナガサキアゲハの分布拡大」{地球温暖化と昆虫:  桐谷圭治、湯川淳一編}p54-105, 全国農村教育協会

藤原晴彦 (2020) 「超遺伝子」光文社新書 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする