京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

時間についての考察:ロマン・ローランの回帰する時間

2019年07月29日 | 時間学

 

 

『ひとつの世界の苦悩!同じ時刻に、多くの国々が圧迫と貧窮のために滅びつつある。大飢饉はヴオルガの民どもを貪り食ったころだ。ローマには黒シャツの先駆警吏どもの斧と鍼がふりかざされている。ハソガリーとバルカソ諸国の牢獄は拷問をうける人々の叫喚を窒息させている。古い自由の国フラソス、イギリス、アメリカは、自由が犯されるのを見殺しにして、腹を裂くやつどもを養成している。ドイツはその「先駆者たち」を虐殺した。モスクワ付近の白樺の森では、レーニンの澄んだ瞳が消え、彼の良心が滅びる。革命はその水先案内を失う。闇がヨーロッパを襲うかに見える。このニ人の子供の運命などがなんだろう。彼らの歓び、彼らの苦しみが、この海の中で一滴にとけ合った。耳を立てて聞け! おまえはそこに海のとどろきを聞くだろう。海全体が一滴一滴の中にあるのだ。あらゆる苦悩がそこに反射している。もしもその一滴一滴が、聞くことを欲したならここへおいで、うつむいてごらん! わたしが渚で拾った、水のしたたる貝殻に耳をつけてごらん! ひとつの世界がそこに泣いている。ひとつの世界がそこに死滅しつつある…..しかし、自分はまたそこに、すでに嬰児が泣くのを聞く』(ロマン・ローラン 『魅せられたる魂』より宮本正清訳)

 

  時間の矢がエントロピー増大とともに一方向に飛ぶように、世界の歴史は正義が増大する方向に進歩すると信じたい。しかし、人類は何度もおそろしい暴虐と愚かさを繰り返している。社会の歴史は、進歩の矢の時間ではなく、理不尽な環の時間で出来ている。マルクスは一度目は「悲劇であるが、二度目は喜劇である」といった。しかし二度どころか何度も愚行と悲劇を繰り返したのが人類の歴史である。それでも、ロマン・ローランは天性の楽天主義でもって、愛という希望が生まれくると信じたのである。

 

ロマン・ローランの生涯

  • 1866年1月29日 フランス中部のニエーヴル県クラムシーに生まれる.父エドム・ホール・エミール・ロランは公証人で、母はアントワネット・マリー。
  • 1868年 妹マドレーヌ生まれる(三歳で死亡)。
  • 1872年 2番目の妹マドレーヌが生まれる。
  • 1873年 クラムシーの公立中学校(現ロマン・ローラン中学校)に入学。
  • 1880年 パリに移住。高校サン・ルイに転入学、父は不動産銀行員となる。
  • 1882年 高校ルイ・ル・グランに転校。
  • 1883年 スイスのレマソ湖畔ヴイルヌーヴで夏をすごす。このときヴイクトール・ユゴーと出会う。
  • 1884年 シェイクスピアやユゴー、スピノーザに親しみ、ベートーヴェン、ワーグナーの皆楽に熱中する。5月15目再びユゴーに会う。高等師範学校の入学試験に失敗。
  • 1885年 5月21日、臨終のユゴーを見揃い、6月1日その葬儀に参列する。高等師範の入学試験に再び失敗。
  • 1886年 高等師範の入学試験に十番で合格、歴史学を専攻する。
  • 1887年 トルストイに手紙を書き、長文の返事をうる。
  • 1888年 スイスに旅行する。
  • 1889年 23歳 優秀な成績で高等師範学咬を卒業し政府の研究生としてローマに留学。
  • 1890年 モノーから紹介されたドイツの亡命婦人マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークを訪ねる。『ジャン・クリストフ』を着想。
  • 1891年 シチリア旅行。サルヴィアティに関する報告を脱稿。
  • 1892年 十月、コレージュ・ド・フランス教授ミシェル・ブレアルの娘クロチルドと結婚。学位論文執筆のためローマに旅行する。
  • 1893年 戯曲『聖王ルイ』『マントーヴァの包囲』執筆{未刊)。
  • 1895年『近代抒情劇の起原ーリュリー及びスカルラッティ以前のヨーロッパ歌劇の歴史』と『十六世紀のイタリアにおける絵画はなぜ顛廃したか』の二論文によって文学博の学位を得る。母校の講師に任命され、芸術史・音楽史を講ずる。ベルギー、オランダを旅行。
  • 1896年「演劇芸術』誌の編集に協カ。
  • 1897年5月妻とともにローマに旅行。トルストイヘ3度目の手紙。戯曲『敗れし人々』を執筆。 
  • 1898年 戯曲『ダントン』執筆。戯曲『狼J Les Loupsを執筆したが反ドレフェース派の陰謀を避けるために『死者たち』と題名を変えサン・ジュストの仮名で五月上演。
  • 1899年『パリ評論』の編集に参画。ベルリンに旅行し、R・シュトラウスを訪ねる。九月、妻とともにスイス旅行。ヌンツィオに再会。戯曲『理性の勝利』Le Triomphe de la Rajson執筆、上演。
  •  1900年 5月、ローマに旅行、スイスのルツェルソに旅す。論文『理想主義の害毒』発表。
  • 1901年 2月妻のクロチルドと離婚し、パリのモンパルナス通りのアパートに住む。ボン、ウイーンにベートーヴェンの生家とそのすごした家を訪ね、ベートーヴェン記念音楽祭のためマインツヘ旅行、トルストイヘ四度目の手紙。
  • 1902年 エコール・デ・オート・エチュード・ソシアルで音楽史の講座を担当。スイス、イタリアに旅行し、ローマでマイゼンブークに会う。戯曲『七月十四目』執筆、上演。『時は来たらん』Temps viendra執筆発表。伝記『フラソソワ・ミレー』を英文で刊行
  • 1903年 伝記『ベートーヴェンの生涯』La vie de Beethovenを発表。
  • 1904年 パリ大学の芸術史の講師となり、音楽史を開講。カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌから小説『ジャン・クリストフ』Jean‐Christopheの(曙)および(朝)刊行
  • 1905年 アルザス・ロレーヌに旅行。シュヴァイツァー、リクタンベルジュ、プリュニエールと相識る。『ジャン・クリストフ』(青年)、評論『ミケランジェロ』、戯曲『三人の恋する女』、論文『音楽都市としてのパリ』刊行。
  • 1906年 ジャン・クリストフ (反抗)、伝記『ミケランジエロの生涯』La vie de lVlichel‐Angeを刊行。
  • 1907年年 スペインに旅行。『ジャン・クリストフ』(広場の市)。
  • 1908年 シャン・クリストフ」(家の中)および『革命劇集』Le Thatre de la R6volutionを刊行。
  • 1910年  10月、パリで自動車事故のため負傷し、三ヵ月床につく。『ジャン・クリストフ』(女友達)、評論『ヘンデル』。11月トルストイ死す。
  • 1911年 ラヴイニャックの『音楽百科辞典』の編集に協力。病後の静養のためにローマに旅行。『ジャン・クリストフ』「燃えろ茨】、『伝記トルストイの生涯』La Vie de Tolstoi刊行.
  • 1912年 パリ大学を辞任。『『ジャン・クリストフ』(新しい日)を刊行、完結。
  • 1913年 『ジャン・クリストフ』』にたいしてアカデミー・フラソセーズから文学大賞を授与される。戯曲集『信仰の悲劇』Les Tragedie de la Foi刊行。
  • 1914年  48歳。 第一次世界大戦勃発。その報をスイス旅行中に聞き、スイスにとどまり、平和運動に専心する。ツヴァイクの協力を得て国際知識人会議をスイスで開こうと計画したが失敗。翌年までジュネーブの万国赤十字社俘虜情報局に志願して勤務。評論『戦いを越えて』を発表。小説『コラブリオン』執筆。 
  • 1916年  1915年度のノーベル文学賞を授与されるが、賞金はすべて赤十字社や社会市業団体に寄贈する。「クレランボー』執筆
  • 1917年 3月ロシア革命起こる。レーニンからロシアに同行を要請される
  • 1918年 平和に関してウィルソン大統領への公開状を発表。評論『エソベドクレース』Empedocle d'Agrigente、および小説『ピエールとリユース』を執筆。この年 11月休戦。
  • 1919年 5月母アントワネット死亡(七十四歳)、.6月ヴェルサイユ講和条約調印される。『精神独立の宣言』を『ユマニテ』紙に発表。
  • 1920年 『クレランボー』、『ピエールとリュース』Pierre et Luce刊行。
  • 1922年 スイスのヴィルヌーヴに妹のマドレーヌと移住。小説『魅せられたる魂』L'Ame Enchantee(アソネットとシルヴィ)、戯曲『敗れし人々』。 
  • 1923年 ロンドンで第一回国際ペンクラブ大会が開催され出席する。マリイ・クーダチェフ(のちのローラン夫人)と文通始まる。『ヨーロでハ』誌創刊。『魅せられたる魂』(夏)
  • 1924年 ガンヂーとの交友始まる。戯曲『愛と死の戯れ』を執筆。
  • 1925年 ドイツに旅行。
  • 1926年『ロマン・ローラン友たちの書』刊行。戯曲『花の復活祭』
  • 1927年ウイーンのベートーベン百年祭に出席、講演。反ファシズム委員会(アインシュタイン会長)が創設され、第一回集会で司会をする。
  • 1928年戯曲『獅子座流星群』刊行。
  • 1930年『ベートーベン研究』第二巻「ゲーテとベートーベン』刊行。
  • 1931年 6月16日父エミール死去(94歳)12月ガンジー来訪。
  • 1932年 アムステルダムで聞かれた世界反戦反ファシズム大会の議長となる。『魅せられたる魂』(予告するもの)。「ひとつの世界の死」および「マルヴィーダとの書簡集』刊行。
  • 1933年 ヒ″トラー政府よりゲーテ賞授与の申し出があったが拒絶する。六月、国際反ファッシズム委員会の名誉総裁となる。『魅せられたる魂』完結。
  • 1934年68歳。反ファッシスト行動委員会の第一回宣言に署名。マリイ・クーダチェフ(ロシア公爵の未亡人、父はロシア人、母はフランス人)と結婚。
  • 1935年政治論文集『闘争の15年』『革命によって平和を』刊行。
  • 1936年70歳。人民戦線内閣の援助で革命劇『ダントン』『七月十四日』上演。
  • 1938年 スイスのヴイルヌーヴからフランスのヴュズレーに転居。評伝『ルソー』戯曲『ロベスピエール』執筆。
  • 1939年フランス国立劇場で『愛と死の戯れ』上演。9月1日第二次世界大戦勃発。
  • 1940年 6月14日パリ陥落。
  • 1942年 『内面の旅路』刊行
  • 1943年 『ベートーベン研究』第4巻「第九交響楽」第5巻「最後の四重奏曲」刊行
  • 1944年8月パリ解放される。ソビエト大使館の革命記念祝宴に出席。12月30日ヴェズレーで死去。78歳。プレーヴに埋葬される。
 
参考図書
 世界の文学 31 『ロマン・ローラン:魅せられたる魂』宮本正清訳 中央公論社 (1963) 

 追記 1)

 晩年のロマン・ローランを批判する人々もいる。ローランがスターリンの暴虐な本性を見抜けずに、世界人民の希望の星と見なしていたことである。ワルター・クリヴイツキーが書いた暴露本『スターリン時代』(みすず書房 2019年第2版)には「この著名な作家が、その大きな威信のマントでスターリン独裁の恐怖を覆いかくすことによって全体主義に与えた援助は、はかりしれないほどだ」と述べている(p7)。ローランは文通していたゴーリキがスターリンによって暗殺されたことを知るべき立場にあったのである。

 
追記 2)
 終戦前の1944年に亡くなったローランは、ナチスドイツのホロコーストを知らなかったはずである。ジャンクリストフの祖国ドイツの蛮行をローランが知ったとすれば、どのように悲しんだであろうか?
 
 
 

 

 

 

 

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絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録IV : ヴィクトール・フランクル 『夜と霧』

2019年07月24日 | 絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録

ヴィクトール•フランクル  (Viktor Emil Frankl 1905-1997)『夜と霧』霜山徳爾訳(みすず書房)1956年

 

 

 

 庵主が小学生5-6年の頃、父親の本棚に並んでいた「夜と霧」(初版本)を読んだ。本を開くや、ナチスドイツの強制収容所で写した何枚もの無惨な写真が出てきて、恐れおののいた記憶がある。虐殺場面などの残虐なシーンが続くので、新版ではこれらは収録されてないはずである。その時の写真の印象が強烈で、本の内容について、どのように思ったかについては全くおぼえていない。しかし、読み直してみて、評判どおり読むべき20世紀の一冊であると思った。

 初版は本文の前に「解説」があり、ナチスの強制収容所であるアウシュビッツ、ベルゼン、ブッシェンワルト、ダッハにおいて、どのような残虐で非道な事が行われていたかが、細かく書かれている。第三帝国のあらゆる悲惨な道が、強制収容所での死へと続いていた。ユダヤ人、ロシアの戦争捕虜、パルチザン、連合国捕虜、夜と霧の囚人、ジプシー、障害者、侵略に協力する事を拒否したり、あるいは侵略者に抵抗した市民は、いずれもゲシュタポによって、その家庭から引きずり出された。これら無辜の人々を待ち受けていたのは死であり、たとえ運よくここを出れたとしても、身体は痛めつけられ、心にはすっかりひびが入れられていた。この「解説」では、ナチスの強制収容所の状況が詳しく報告されている。「ホロコーストは捏造だと」いう主張を一蹴できる資料である。

 「劣等」民族や人種に対する「最終的解決」はナチズム哲学の具体的な実践であり、強制収容所における集団虐殺であった。一方において、これは戦時における労働奴隷の確保を前提に、使えない弱者や病者を順次、ガス室で抹殺していくといった合理的、能率的な計算にもとずくものであったとされる。この悪魔的な非人間性は、ナチス思想とドイツ人独特の合理主義とベルトコンベアー式近代工業をミックスして発揮されたものだ。アウシュビッツの正門ゲートには、Arbeit macht Frei (労働は自由への道)という象徴的標語が掲げられていた。

 

 著者フランクルは1905年にウィーンで生まれる。フロイド、アドラーに師事し、ウィーン学派の精神分析医であった。1938年ドイツによるオーストリア併合後、この国のユダヤ人に苦難が始まる。そして1942年に家族とともに強制収容所に送り込まれる。単に一家がユダヤ人だという理由だけで。両親、妻、二人の子供はガス室で、あるいは餓死あるいはチブスで病死した。フランクだけが奇跡的に生き延びたのである。日常が死と隣り合わせの状況で、心理学者の眼で強制収容所を見つめ、生きると言う意味を考え続けた。ここで生き残った人とそうでなかった人の差は、運以外になんであったのか? そのヒントを本文からいくつか引いて紹介する(文章は一部改変)。

• どんなときにも自然を見つめる。

『労働の最中に一人二人の人間が、自分の傍で苦役に服している仲間に、丁度彼の目に談った素晴しい光景に注意させることもあった。たとえばバイエルンの森の中で、高い樹々の幹の間を、まるでデューラーの有名な水彩画のように、丁度沈み行く太陽の光りが射し込んでくる場合の如きである。あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、スープ匙を手に持ったまま土間に横たわっていた時、一人の仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃させまいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。そして、われわれはそれから外で、酉方の暗く撚え上る雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の損立小屋と泥だらけの点呼揚があり、その水溜りはまだ撚える空が映っていた。感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺髭なんだろう」と尋ねる声が聞えた』

 地球の自然にやすらぎを求めるのは、おそらく虫をはじめとする全ての動物の習性であろうと思う。習性への回帰が命を延ばす

 • 希望を失う事が免疫を低下させる

『勇気と落胆、希望と失望というような人間の心情の状態と、他方ではその抵抗力との間にどんなに緊密な連関があるかを知っている人は、失望と落胆へ急激に沈むことがどんなに致命的な効果を持ち得るかということを知っている。私の仲間のFは期待していた解放の時が当らなかったことについての深刻な失望が、すでに潜伏していた発疹チブスに対する身体の抵抗力を急激に低下せしめたことによって死んだ。彼の未来への信仰と意志は弛緩し、彼の肉体は疾患におちいったのである。このI例の観察とそれから出てくる結論とは、かつてわれわれの収容所の医長が私に注意してくれた次の事実と合致する。すなわち1944年のクリスマスと1945年の新年との間に、われわれは収容所では未だかつてなかった程の大量の死亡者が出ているのである。彼の見解によれば、それは過酷な労働条件によって、また悪化した栄養状態によって、また悪天候や新たに現われた伝染炊患によっても説明されえるものではなく、むしろこの大量死亡の原因は、単に囚人の多数が、クリスマには帰れるだろうという素朴な希望に身を委せた事実の中に求められるのである』

 安易な希望的な観測は、予想がはずれるとかえってダメージが大きい。しかし、楽天的であることと精神のタフネスの維持が二律背反とは思えない。

• ユーモアーと遊びを忘れずにいる

『もし収容所にはユーモアがあったと言ったならば、驚くであろう。もちろんそれはユーモアの芽のごときものに過ぎず、また数秒あるいは数分間だけのものであった。ユーモアもまた自己維持のための闘いにおける心の武器である。周知のようにユーモアは通常の人間の生活と同じに、数秒でも距離をとり、環境の上に自らを置くのに役立つのである。私は数週間も工事場で私と一緒に働いていた一人の同僚の友人に、少しずつユーモアを言うようにすすめた。すなわち私は彼に提案して、これからは少くとも一日に一つ愉快な話をみつけることをお互いの義務にしようではないかと言った。彼は外科医で、ある病院の助手であった。私は彼に、たとえば彼が後に家に帰って以前の生活に戻った時、収容所生活の癖がどんなにとれないかを面白く描いて、彼を笑わせようと試みた。このことを語る前に先ず説明しておかなければならないのが、労働場では、労働監督が巡視にやってくる時には、看視兵は労働のテンポをその時早めさせようとして、いつも「動け、動け」と言ってわれわれをせきたてるのが常だった。だから私は友に語った。もし君が手術室に立って、そして長く統く胃の手術をしていたとする。すると突然手術室係りが飛び込んできて「動け、動け」と知らせる、それは「外科部長がやってきた」ということなのさ』

 ユーモアと遊びはどんな時にも必要である。これは人をパニックから救ってくれる。

  • 人生(世界や社会や他人)に何を求めるかではなく、それが私に何を求めているかを問う。

『既述の如く、強制収容所における人間を内的に緊張せしめようとするには、先ず未来のある目的に向って、緊張せしめることを前提とするのである。囚人に対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくニーチエの「何故生きるかを知っている者は、殆んどあらゆる如何に生きるかに耐えるのだ。」という言葉が最も適切であろう。すなわち囚人が現在の生活の恐しろい「如何に」(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには、何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生きる目的を意識せしめねばならないのである』

 et lux in tenebris lucet (光は闇を照らしき)

 闇に光を探すのではなく、自ら闇に灯りをともすべし。「一隅を照らす」と天台の教えにもある。言い換えると、人生にはそれぞれ納得できるストリーの創造が必要であるということである。

 • 精神的愛の確信

『その時私は或ることに気がついた。すなわち私は妻がまだ生きているかどうか知らないのだ!そして私は次のことを知り、学んだのである。すなわち愛は、1人の人間の身体的存在とは関係が薄く、愛する人間の精神的存在と深く関係しているかということである。愛する妻がまだ生きているかどうかということを私は知らなかったし、また知ることができなかった(妻はこの時にはすでに殺されていた)もし私が当時、私の妻がすでに死んでいることを知っていたとしても、私はそれにかまわずに今と全く同様に、この愛する直視に心から身を捧げ得たであろう』

 フランクルはユダヤ人であったが、これはキリストの愛に通ずる考えのようである。ありえない事を信ずる精神の構造者であること。日本人にはこれはむつかし。
 

   付記:今日の京都新聞 (2019/07/23・ 30面)に、たまたま『ナチスの「安楽死」政策』というコラム記事がでていた。ナチスドイツの障害者「安楽死」政策で、約20万人もの人が犠牲になった。この背景には「経済性、効率性、生産性といった社会にとっての価値基準」があるとしている。

 

追記 1:アラン・ルネ監督の『夜と霧』(Nuite et Brouillard) (DVD)には、やせ細った屍体の写真をはじめナチスの悪魔の所業が約30分のドキュメントとしておさめられている。カラーののどかな風景と白黒の地獄の対比が印象的。
 
 
追記 2:社会学者の池田浩士氏も「労働」の国家統制がファシズムの特徴であったとしている。 ナチスの強制収容所も「労働キャンプ」からはじまった (『池田浩士講演録:社会貢献とファシズム』 唯一者 No.12、2012年 大月健発行)
 
追記 3:柳澤佳子さんも「生命の秘密ーグーテンベルグの森で」(岩波書店 2003)においてフランクルを論じている。彼女によるとフランクルの人生哲学には3つの柱があるという。第一は意志の自由で、これは性格や衝動や本能それ自体ではなく、それに対してわれわれが取る態度が我々を人間たらしめるということ。もっともこれはドイツ人は個々は善良だが集団になるとナチズムに迎合した逆の場合もふくんでしまう。第2に意味への意志であるという。個人的な意味の充足が大事である。これは確かにそうで人生で意味のないことはやらない。第三は人生の意味ということ。人間存在は意味に向かって自己を超越しているとする。意味は個人でつくり出されるものではなく発見されるものである。こうなるとやはり「神」かということになるが、どうなんだろう。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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時間についての考察 :時間治療学(クロノセラピー)

2019年07月23日 | 時間学

   人体の生理的な特性は時間軸に沿って変動する。事象の変動は時間の実存を意味するので、体内には時間が存在することは明白である。これも老化のように時間の矢のように流れる現象と、周期性を持って規則的に繰り返す現象がある。一日のうちのほぼ一定の時刻に繰り返しおこる場合は日周性という。これは大抵、概日(約24時間)的な体内時計に支配されている。

人(哺乳動物)では、おおもとの体内時計はSCN(視交叉上核)という脳の中の小さな器官に存在する。これは1ペアーで1個は8000個ほどの細胞群で出来ている。

 

 

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  午前3時  最低血圧
  午前4時  喘息発作が最も激しい
  午前6時  花粉症・寒冷ジンマシンが一番ひどくなる
      関節リュウマチ炎が一番ひどくなる
  午前7時  一日のうちで血圧の上昇が最大
      扁桃痛、心臓発作、脳卒中が最も起きやすい
  午前9時  尿量最大
  午後3時  精神的活動がピークになる
  午後4時  肺機能がピークになる(一分間当たりの呼吸量が最大)
  午後3時一6時 変形性関節炎の症状が最もひどい
      健康体ならスポーツに最適な時間
  午後9時  血圧が降下しはじめる
  午後11時 アレルギー性反応が増えはじめる

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  上の表には、人の様々な疾患がどの時刻に表れるかを示している。例えば心臓発作は朝の7-9時の間におこる確率が一番高い。この時間帯には、血圧の高くなることは避けたほうがよい。

 

 ガンなどの薬の効果についても、どの時間帯に服用するのがよいか、研究されている。薬の分解や吸収あるいはガン細胞の感受性などが、一日の時刻で異なっており、効果のある時間とない時間がはっきりしているケースが知られている。急性白血病の子供の投薬治療を、半数の患者には午前中に、残り半数の患者には夕方か夜早い時間帯に投薬を行った。すると、治療効果は後者の方が3倍も高かった。このように、時間を重視する医学を時間治療学(クロノセラピー)という。薬はいつ飲んでもよいというものではない。

 

参考図書

ジョン・D・パーマ 『生物時計の謎をさぐる』小原孝子訳 大月書店 2003

 

 

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書評:シーナ・アイエンガー著『 選択の科学 (The art of choosing)』

2019年07月22日 | 評論

 シーナ・アイエンガー『 選択の科学』桜井祐子訳 文芸春秋


  我々は無意識に選択を繰り返しながら、人生を送っている。現在の自分は生まれてから行った無数の選択の結果である。しかし「選択」の持つ意味をあまり考えたことはない。この書は人にとっての選択とは何かをテーマにしている。英語原著のタイトルを「選択の技術」と訳すか、訳者の言うように「選択の芸術」かによって読み方が違うが「芸術」はちょっと無理に思える。

作者のシーナ・アイエンガーは1969年にカナダのトロント生まれ。両親はインドのシーク教徒であるが、1972年にアメリカに移住。高校のころ眼の疾患により全盲になる。シーク教徒の戒律にしばられて生活していたシーナはアメリカで「選択の自由」を知り、これにこそこの国の力があると知る。彼女が「選択」を大学で研究しはじめた背景である。コロンビア大学日ビジネススクール教授。本書の重要なあるいは印象深い記述をいくつか選び、解説と庵主の反論(つっこみ)を加える。

 

 • 泳ぎつづけるラットと溺れるラットー希望の信念の有無

  ラットを水槽で泳がしたときに、60時間も泳ぐラットとすぐあきらめて溺れるラットがいることが実験で分かった。そこでラットを何度か捕まえては逃がす訓練と、数分間、水を噴射して放す訓練をした。そして、「溺れるか泳ぐか」の実験をしてみると。全てのラットがあきらめずに60時間も泳ぎ続けた。苦難をのりこえたラットが「頑張れば助かるのだ」という信念を得たのではないか。

庵主反論:困難のかなたに救いがあると考えたからではなく、単に水に慣れて、よく泳げるようになった可能性がある

 

 •動物園の動物の寿命は野外のものより短い

 自然での行動の選択が制限されるストレスで、檻でくらす動物の寿命を短くしてるとしている。

庵主反論:動物園の過食が寿命を縮めている可能もある。ラットを含め多くの動物で過食が寿命を縮め、絶食が寿命を長引かせるという実験結果がある

 

 • 社長は長生きする。

会社の重役や経営者はストレスが多いはずなのに概して長寿である。これは彼らが選択権をタップリ行使できるからである。

庵主反論:もともと人一倍健康な人が会社の経営のトップになる確率が高い。それに給料や報酬が高いので、健康維持のために金をかけれることや、万が一病気になっても高度の治療をうけることができる。決定権を握っているからとは、必ずしも言えない

 

 • 十種類ものチューインガムは棚にいらない

店の棚に同一商品の種類が多いと売り上げはかえって減るという説である。

庵主反論:確かに選ぶ時間はかかるし、迷って買わないかもしれない。しかし、そのとき品物を買わなかったとしても、将来それが絶対に必要になったとき、客は種類の多い方の店を選択するので、長い眼でみると品数の少ない店より売り上げは伸びる

 

 • 東ドイツ住民は昔を恋しがる(この話は面白いので、本文を引用します)

 『1989年1月ベルリンの壁が崩壊した。 一夜にして東西ベルリンは再び一つの都市となり、自由に往き来できるようにたった。その頃は東ドイツの市民は、資本主義と民主主義が導入されれば、すべてがバラ色になると思っていた。しかし、意外にも、新たに見つけた自由に一様に満足していたわけではなかった。ドイツ再統合から20年を経た今も、ベルリンはいろいろな意味で、壁そのものと同じくらい強力な、「考え方」の壁によって隔てられた、二つの都市であるように感じられる。機会や選択の自由が拡大し、市場ではますます多くの選択肢が手に入るようになっていたのに、かれらはありかたく思うどころか、逆にこの新しい生き方に疑いを抱き、不公平感を募らせていた。2007年の調査によれば、旧東ドイツ人の実に九七パーセントが、ドイツの民主主義に失望を感じ、90パーセント以上が、社会主義は理論的には優れた思想で、過去の失敗は、単に実行に移す方法がまずかったせいに過ぎないと考えていた。共産主義時代を懐かしむこのような風潮はとても強く、ドイツ語でそれを表す言葉が作られたほどだ。東を表す「オスト」と、郷愁を表す「ノスタルギー」を組み合わせた、「オスタルギーー」である。一九八九年一一月には新体制を熱狂的に歓迎したベルリン市民が、今やかつてあれほど崩壊を望んでいた体制に戻りたいと思うようになったのは、一体どういうわけなのだろう?』(以上本文引用)

 まず、ソビエト連邦とその衛星国(東ベルリンを含む)が導入した経済体制について考えてみよう。政府は各家庭が必要とする自動車から野菜、テーブル、イスに至るすべての物資の量を予測し、それをもとに国家全体の生産目標を設定した。一人ひとりの市民が、学校で証明した才能や適性に応じて、何らかの職業を割り当てられた。職業の選択肢も、国家の需要予測を基に決められた。家賃と医療費は無料だったため、消費材にしか賃金を使う当てはなかった。国家が生産を管理していたため、家具、住居に謂当たるまでだれもが同じものを同じだけ低入れる事ができた。

(庵主愚考:資本主義=民主主義=競争原理=格差生成 vs 社会主義(共産主義)=一党独裁=計画経済=均等の比較の視点から問い直す必要があると思える。そもそも政治的選択(自由)がなくて、経済的平等を経験した東ドイツの市民は「駄目だ。ともかく西側のような政治的な自由(結社、情報、移動、表現etc)がまず第一だ」とベルリンの壁の向こうで考えた。壁の崩壊後それは手に入ったが、今度は経済的な矛盾に突き当たった。経済も建前は自由でドリームはあるが、雇用に格差や差別があり、とても平等とは言い難い状態だった。西側の罠にハマったか? ともかく、昔の方が良かったと旧東ドイツの人々は言う。このあたりの多次元方程式を解くには価値そのものの意味を問い直す作業がいる。)

 その他、この書は、いろいろ突っ込みを入れながら読むと楽しい。

 

 
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時間についての考察 :時は金なり

2019年07月21日 | 時間学

  

 

 現在、株式市場の取引では、超高速のロボットトレーダーが活躍している。これはマイクロ秒(10-6 sec) 単位で電子取引を判断・実行し、その圧倒的なスピードを武器にして、市場で儲けようとするものだ。これを利用した手法の一つが「先回り」である。

 アメリカでは10以上の証券取引所が存在するために、分割されて送信された注文が届くまでに、わずかな時差が生ずる。高速ロボットトレーダーは、最初に取引所に着いた情報を取得し、時差を利用し別の取引所に先回りして、そこで注文して悪い価格提示に置き換える。これをマイクロ秒の単位で処理するのである。その利益はわずかだが、チリも積もれば山となるで、同様の手法で無数に「先回り」を繰り返すと大きな利益がでる。

  これは、いまのところ違法ではないが、こういった装置には高額な投資が必要で、それができるものと、できないものとの間の不公平さが問題とされている(総合的には損するのは一般投資家)。家のパソコンで、できるような仕事ではないのだ。2010年5月6日アメリカの株式市場でに短時間で株が乱高下する事件(フラッシュ クラッシュ)がおこったが、これの原因は高速ロボットトレーダーだと言われている。

 高速ロボットトレードは単純で機械的な取引であるが、規模の大きいヘッジファウンドでは、これとAIを組み合わせて相場の変動パターンを分析し、アルゴリズムによる取引に応用しているらしい。いずれにせよ、一般投資家は、どこの国でも金持ち(情報所有者)の餌食になる仕組みになっている。

 

参考図書

桜井豊 「人工知能が金融を支配する日」東洋経済新法社 2016

マイケル・ルイスフ 『フラッシュ・ボーイズ-10億分の1秒の男たち』 渡会圭子、東江一紀(訳)文芸春秋、2014

 

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絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録 (III) スティーヴン•キャラハン『大西洋漂流76日』

2019年07月18日 | 絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録

スティーヴン•キャラハン 『大西洋漂流76日』長辻象平訳 早川書房 1988.

   キャラハンは全長21フィートの愛艇「ナポレオン•ソロ」号で、カナリア諸島のイエロ島からカリブ海のアンティグア島に向かった。1982年1月29日のことである。ところが出航して1週間ほど経った日の真夜中にクジラと衝突し、「ソロ」号は転覆してしまう。救命用ゴムボートに乗り移ったキャラハンの信じられないサバイバルゲームが、ここから始まる。結局、キャラハンは76日間の漂流後、カリブ・グアドルプ島の漁船に救助される。この奇跡の生還劇の背景には、キャラバンの知識、技術、幸運の他に、なによりもその意志力をあげることができる。しかし、それは何度も挫折しかけたものであった。

 

『わたしの周りにはソロ号からの回収品がある。装備はしっかり固定され、命に関わるシステムは機能している。日々の仕事の優先順位は決まっていて、異論の余地はない。耐え難い心細さと恐れ、苦痛をなんとか抑えている。わたしは危険な海に浮かぶ、ちっぽけな船の船長なのだ。ソロ号を失った後の動揺を乗り越え、とうとう食糧と飲み水を手に入れた。ほぽ確実と思われた死を免れた。そしていまや私は選ぶことができる。新しい人生を探して進むか、あきらめて死を受け入れるかだ。わたしは可能な限り、死に抵抗する道を選ぶ』(以上本文より引用)

つぎの母との回想場面も感動的である。

 母はにこりともせずに、反論した。
「わたしは苦労をしてあなたを産んだんだから、そんなに簡単にあきらめてはだめよ」
 そのときの母の言葉が耳から離れない。
「できるだけ長くがんばると、約束してね」
 約束はしなかったが、今も変わらぬ響きをともなって、わたしの記憶に残っている。

  絶望ー希望ー絶望ー希望...の繰り返しの中で、精神の錯乱をいかに防ぐかの心理劇が展開する。「安っぽい興奮でもまったくないよりましだ」と思うこともあれば、「まやかしの希望を抱かずに、生還のために知恵をしぼれ」、と思う事もあった。それとこの書は海での遭難時になすべきガイドともなっている(例えば太陽熱蒸留器など)。それとボートについてくる回遊性のシイラの生態が興味ふかい(どこまで科学的かは検証が必要だが)。  サバイバルノンフィクションの一級作品の一つである。

 

 

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悪口の解剖学 :『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』

2019年07月16日 | 悪口学

 町山智浩 『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』文芸春秋 2008

アメリカは自由の国だ。考えられないようなバカな事をする自由も堂々と許されている。これは’00年代における、アメリカで観察されたおバカを町山智浩が特集した一冊である。悪口がたくさん並べられているが、その内のいくつかを要約して紹介する。作者の町山智浩は1962年、早稲田大学法学部卒業、映画評論家、バークレー在住とある。映画評論の他に社会評論も多い。

 ● GMのおバカさん

 GM(ゼネラルモーターズ)は20世紀の終わりに、10億ドルもかけてEV1(電気自動車)の開発•販売を行っていた。カリホルニア州のZEV「ゼロ排ガス自動車計画」に応じたもので、時代を先取りする画期的なプロジェクトであった。EV1は1000台製造され、リースされたが、評判はすこぶるよかった。都市の環境に良い(ただし発電所のある田舎が犠牲になっている)、静かで、速く、乗り心地満点というわけだ。ところが、21世紀に入ってGMは全てのEV1を回収し、スクラップにしてしまった。その理由はバッテリーの安全性に問題があるというものだった。しかし本当の理由は別にあった。それは、当時のブッシュ大統領が石油業界と組んで、ZEVを撤廃させたのである。ガソリンを使わない車なんて、とんでもないというわけだ。GMはかわりに、高価でガソリンを食うばかでかいSUV(スポーツ多目的自動車)の製造販売に力を注いだ。その後、石油の高騰とユーザーの大型車離れで、GMの売れ行きはガタ落ちとなり、2009年6月ついにこの巨大企業は倒産した。時代を見すえて、地道に電気自動車の開発を続けておれば、GMはいまでも世界のトップランナーで居続けていたかもしれない。

 ● ポラロイド倒産と社員の悲劇

 インスタントカメラの代名詞だったポラロイドはデジタルカメラに負け、2001年に約9億4800万ドルの負債を抱えて経営が破綻した。日本では、例えば富士フィルムなどがカメラのデジタル化に備えて、多角経営に路線転換したのに対して、ポラロイドの経営陣は適切な対応をしなかった。97年には60ドルだった株価はタダ同然に暴落した。わりをくったのは、ポラロイドの社員と元社員だ。彼らはESOP(従業員持ち株制度)により給料の8%で自社株を買わされていた。しかも、社員は株を売ることを許されていなかった。一方、破産管財人は、社員の株を社員の承諾を得ずに売却することができた。ポラロイドの社員と元社員6000人の株は、1株9セントでたたき売られた。社員によっては2000万円も失った人がいる。さらにポラロイドは破産法に基づき、年金と健保の支払い義務を放棄した。アメリカには厚生年金はなく、各企業が独自に年金を運営しており、健康保険も民間の高い保険しかないので、企業が保険料を一部補助している。ところが経営負担になるそれらの福利厚生費を、破綻した会社は削減することが破産法で許されているのだ。民間の保険会社は医療費のかかる老人を加入させないので、すでに引退した高齢の元社員は苦境にたたされた。ポラロイドは02年にOEP(ワン・イクイティ・パートナー)社に買い取られた。OEPは、年金や保険の支払いを放棄して身軽になったポラロイドからさらに赤字部門を切り捨てた。2年後、そのライセンスを受けていたミネソタの会社がポラロイドを買収した。金額は4億2600万ドル。OEPが買った値段の2倍だ。株価は12ドル8セント、ポラロイド社員が無理やり売らされた9セントの134倍になっていた。こういった不条理はポラロイドだけでなく、全米に拡大している。ブッシュ政権になってからアメリカを代表する大企業の経営が次々に破綻した。自動車会社のビッグ3、GM、フォード、クライスラーは倒産するか虫の息だ。頼みの綱のPBGC(年金支払保証組合)は、すでに4500億ドルの赤字を抱え、もはやこれ自身が崩壊状態である。ポラロイドの元社員4000人は、年金や保険料の支払い拒否をした会社を訴えた。幸いに彼らは裁判で勝った。そして、30年以上働いてきたポラロイドの元社員たちが、その代償として受け取ったのは、わずか47ドル(約5000円)だった。

 

  ●サブプライムローンと懲りない人々

 ヨーロッパからアメリカに移住してきた人々の「アメリカン・ドリーム」は、まず自分の家を持つことだった。ブッシュ大統領が2004年に提唱した低所得者の住宅購入支援政策も「アメリカン・ドリーム・イニシアティヴ」という。そして01年から05年まで空前の不動産バブルが吹き荒れた。引き金を引いたのはITバブル崩壊である。このとき株式市場が暴落した。政府は景気活性化のために金利を史上最低レベルに引き下げた。ローンの金利も下がったので、そこから住宅購入ブームが始まった。マイホームを求める人だけでなく、株に代わる投資対象を求める投資家も住宅市場に殺到した。2002年ごろから、住宅ローンのハードルが急激に低くなった。年収400万円でも4000万円のローンが組めるようになった。頭金なし、金利の低い変動ローン、利息のみローン、書類審査なしの自己申告ローンなど、いわゆるサブプライム(低信用ローン)で低所得者を誘惑した。もちろんこういうローンはリスクが高い。変動ローンは金利に合わせて利子率が変わる。利息のみローンは5年目以降は元本返済が上乗せされる。自己申告ローンは収入を多めに申告すれば払い切れないローンを抱える。でも、このまま不動産価格が上がれば、その差額で儲かるから返せるはずだ。借り手も貸し手も、みんなそう信じていた。このデタラメな貸付のウラでは、投機筋が動いていた。ITバブル崩壊後、投資銀行は住宅ローンをデリバティブとして証券化したのだ。そして住宅ローン業者に「どんどんローンを発行すればいくらでも買うぞ」とけしかけた。需要があるからローン業者はデタラメに貸しまくった。投資銀行は、リスクの高いローンを細かく分散させて他のローンに混ぜて「薄めて」売った。それが世界中に広がった。資産のない24歳の移民青年に、2億円も貸し付けた例も知られている。しかしバブルがはじけて、サブプライムの崩壊は金融危機にまで拡大し、リーマンショックを引きおこした。ドルは下落し、世界中の株は一斉に暴落した。サブプライムの借り手は、全体の30%以上もいて、多くが返済できずに家を差し押さえられホームレスになった。結局、このバブルで儲かったのは不動産屋と売り抜けた一部の投機筋だけだった。それでも懲りずに、アメリカ人はまた別の夢を膨らましているならしい。一説によると現在のアメリカ経済はリーマンショックの直前と同じ様相を呈しているらしい。


 解説

 カリホルニア在住の著者(町山)が、'00年代のいかれたアメリカをさんざんこき下ろしているが、日本にもそのおバカが伝染した。まさにアホのグローバリゼーションである。おバカが伝染するのは、おバカそのものではなく「金もうけ」の仕組みを真似る輩がいるからである。おバカはその結果なのである。最近の金融庁の年金2000万円問題は、政府自民党のマッチポンプだが、もともとの話は投資で老後の自助努力をせよという、ブッシュ時代の政策を模倣したものにすぎない(騒ぎが大きくなり選挙に不利とみた安倍総理は知らんふりしている)。年金を破産させたブッシュ大統領は当時、「オーナーシップソサエティー」政策を唱え、定年後は投資でもうけて自活せよと言ったそうだ。  投資信託なんてものは、情報のない素人が手をだせば失敗するにきまっている。なけなしの退職金をむしり取る合法的な金融詐欺みたいなものである。かく言う庵主がその犠牲者で、リーマンショックで大損をこいた。某信託銀行の勧誘員は資産状況をお客から聞き出して、その商品が失敗しても、飢え死にしないように、心やさしく投資額を調整してくれた。客が自分の会社の商品で破産して、自殺されると社会問題になり、その会社が弾劾されるからだ。このありがたい日本的心遣いのおかげで、庵主はホームレスにならずなんとか生活している。閑話休題。

 こんなアホで間抜けなアメリカがどうして崩壊もせずに体面を保っているのか不思議な話だが、多様性の力と数%の輝く良心の人々が存在するからである。本書にも、アメリカの良心が数人でてくる。その一人が、ジョン・マケイン元上院議会委員 (1936-2018)である。マケインは共和党であったが、ブッシュ政権が進めた国民の盗聴、捕虜虐待、移民の締め付けなどの政策に敢然と反対した。また自分を捕らえ拷問したベトナムとの国交正常化を成し遂げた。マケインは、自分の葬儀にトランプ大統領をだささないようにと言い残したそうだ。さらに反体制映画監督のマイケル・ムーア、80歳を越えてもホワイトハウス記者として「何も罪もないイラクの人々に爆弾を落とすのは何故ですか」とブッシュに質問したヘレン・トーマス、記者クラブの晩餐会でブッシュを面前にほめ殺しスピーチをした、スティーブン・コルベアなど。こういった良識派は、中間層を背景に存在するのだが、アメリカでは中間層が没落しつつある。今日のアメリカは明日の日本である(昨日のアメリカは今日の日本というべきか)。

 なお標題の「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」は、情報を自由に取得できるアメリカ人が意外と物を知らない事、それが政府の理不尽な政策の背景にもなっている事を皮肉っぽく表現している。この本の続編は「99%対1%ーアメリカ格差ウオーズ」2012年講談社」であるが、少し町田のトーンが落ちていた。

 

付記:チャールズチャールズ・ファーガソン 『強欲の帝国ーウォール街に乗っ取られたアメリカ』藤井清美訳 早川書房 (2014)はリーマンショック以前の腐敗したアメリカ金融業界の様子を仔細に報告した希有なドキュメントである。著者のファーガソンはこれをもとに「インサイド・ジョブ』を制作監督した。

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絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録 II J.シンプソン『死のクレバス』

2019年07月15日 | 絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録

J.シンプソン『死のクレバス』-アンデス氷壁の遭難。中村輝子訳 岩波現代文庫  2000年11月 

    これは有名な山岳遭難ノンフィクションである。映画化もされた(「運命を分けたザイル」2005)。1985年、英国の二人の若きクライマーのジョー•シンプソンとサイモン•イエーツは、ペルーのアンデス山脈のシウラ•グランデ(6600m)に挑んだ。この峰の西側は前人未踏で、ほぼ垂直に立ち上がり、頂上は雲が暗くたれこめていた。登頂は困難を極めるが二人は登りつづけ、3日目についに頂上を極めた。頂上で心の底から湧いてくる笑いを抑えきれない二人は写真を撮る。しかし、下山で悲劇が起こる。ルートを見失い、突然、足場が崩れてジョーは急斜面を数十メートルほど落下し、足を骨折してしまう。負傷したジョーとサイモンは互いの身体をザイルで結び、下降を繰り返すが、ジョーはクレパスに滑落し、垂直な氷壁で宙吊りになってしまう。イエーツにはジョーの姿がみえず、声もきこえない。彼は今やジョーの全体重を支えなければならない。しばらくして、もはや選択の余地がないと考えたイエーツは、友人に死刑を執行していることを意識しながら、ザイルを切断する。しかし、落下したジョーはクレパスの氷棚にひっかかり、一命を取り留める。これからジョーの超人的な生きるための努力がはじまる。おそるべき意志力でジョーは数日をかけて、氷河を10kmもはい進み、まさにイエーツが下山しようとしていたその時に、ベースキャンプにたどりついたのである。

 以下本書より抜粋

  『アプザイレン〔ザイルを伝って岩壁を懸垂降下すること〕をやめたいという欲求は、ほとんど耐え難いほどだった。下に何かあるのかまったくわからなかったが、二つのことだけは確かだったIサイモンは行ってしまい、もう戻ってはこない。つまり、このまま氷橋にとどまっていれば、一巻の終わりだということだ。上に抜けることは不可能だったし、逆側の急斜面は、すべてを早く終わらせよとわたしを招いていた。ついその気になったが、絶望のさなかにあっても、自殺する勇気は持てなかった。氷の橋の上で、寒さと疲労で死ぬまでには、まだまだかかるだろう。しかし、長い時間をかけて、一人ぼっちで死を待ちながら、狂っていくのだ。この考えが、わたしに決断を迫った。脱出法を見つけるまでアプザイレンするか、その過程で死ぬかだ。死が来るのをただ待っているより、自分から死を迎えに行った方がいい。もう後戻りはできない。』

 

  この意思堅固な男にとって、生存は自ら選び取るものだった。そして特にジョー・シンプソンが身をもって示したように、生存は至上命令だった。不運で機会を逸することはあっても、生きている限り至上命令に抗うことはできない。前回のアーネスト・シャクルトンといい、世界を一度制覇しただけあって、英国人(ジョン ブル)のど根性は並ではない。このドキュメントはプロの登山家が書いただけあって、臨場感がある。登山家の鮮烈な行動と心理がリアルに描けている。例えば回想場面だが、二人の日本人クライマーが目の前で滑落死する描写は凄い。「死のクレパス」はボードマン・タスカー賞、NCR賞を受賞している。

 

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細胞の進化に関する一考察

2019年07月14日 | 日記

  原始地球にパンスペルミアが起こり、宇宙から多細胞生物が飛来したとする。さらに多細胞は全て同じ種類の細胞で構成されていたとして、それがばらばらになり全て単細胞になったとする。原始地球は、そういった細胞が分裂し代謝が維持できる環境であったと仮定する。ここで細胞死の有無、分裂の有無、変異の有無の3つの仮定の組み合わせで、そういった細胞群の運命を考えてみる。

 

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細胞死   分裂  変異    予想できる事                                     備考

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 X    X    X     環境変動による絶滅

 X    ◯   ◯      生残                                 バクテリア

 X    ◯   X      過剰増殖と環境変動による絶滅

 X    X    ◯     突然変異よる絶滅

 ◯    ◯   ◯      生残                                    ゾウリムシ

 ◯    ◯   X      環境変動による絶滅 

 ◯    X   X      個体数減少による絶滅    

 ◯    X   ◯      個体数減少による絶滅

--------------------------------------------------------------------------------------------------------

 全ての組み合わせを考えると全部で8とうり。生残(せいざん)できるのはX◯◯、と◯◯◯の2組のみである。細胞が分裂することと変異があることが生残にとって必須であることが分かる。X◯◯はバクテリア型で◯◯◯はゾウリムシ型である。バクテリア型(無核)には寿命がなく、ゾウリムシ型(有核)は寿命があり”性(sex)"がある。寿命があるので性があるのか、性があるので寿命ができるのか? 

 進化のメカニズムは環境の変化に対して適応的変異を選択しこれを増やす事と、一方不適な変異を集団から除去することが必要である。バクテリア型では遺伝子は1組なので、不適な変異が起こると、ただちにその細胞は駄目になるが、性のある細胞は相同遺伝子の故に、一本が駄目になっても、もう一本が正常ならば生き残る。すなわち変異遺伝子が生き残る。これは環境の変動が起こったときに有利ではあるが(進化予備軍として)、変異蓄積が過剰になる可能性がある。これを防止するために、古い細胞(変異蓄積が過剰になっている可能性が高い)を死滅させること、すなわち寿命を持たせる事が生物にとって理にかなっている。

 

 

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絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録 (I) アルフレッド•ランシング『エンデュアランス』

2019年07月13日 | 絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録

アルフレッド•ランシング 『エンデュアランス』(山本光伸訳) パンローリング社刊、2014

 

  アーネスト•ヘンリー•シャクルトン (1873-1922)はアイルランド生まれの探検家である。1914年、シャクルトンは27名の隊員とともに南極大陸横断を目指して木造帆船で出発する。だが航海の途中で氷に阻まれて難破し、舟を捨てて漂流生活が始まる。母国とも連絡は取れず、苦難の生活が続く。シャクルトンは並外れた勇気と剛胆さを持って隊員を導き、17ケ月後に一人の犠牲者も出さずチームは帰還をはたすことができた。寒さと嵐、食料不足、病気、隊員どうしの不和といった極限状況の中でシャクルトンが、どのようにリーダーシップを発揮し、人々がそれに応じたかを迫真の筆致でえがく。

 集団が極限の苦難に直面した場合は民主的な協議よりも、一人の強いリーダーが必要であることをこの書は教えてくれる。たまにリーダーが過ちをおかすにしても、その方が生き残る確率は高いのだ。そして、日常の中で人々が苦痛を精神的に軽減するために、いかに「遊び」が大事かも教えてくれている。彼らは遭難中にも次のようなパーティーを開いて不安や苦痛を消去する努力をした。

  グリーンストリートはこの日の日記に次のように書いている。〈一番笑ったのは、カーが浮浪者の格好で『闘牛士スパゴニ』を歌ったときだ。カーは高すぎる音程で歌いだして、伴奏のハッセーが『もっと低く、低く』と言って、低い音で演奏しているのに構わずそのまま続けて、とうとうまるきり調子がはずれてしまった。闘牛士スパゴニの歌詞も忘れてしまって、闘牛士スチュバスキと言ってみたり、コーラスの部分なんてひどいもので、ただ『死んでしまえ、死んでしまえ、死んでしまえ』と怒鳴っていた。これがとにかくおかしくて、皆、涙をこぼして笑い転げた。マッキルロイはスペインの女の子に扮したが、これもひどいものだった。襟ぐりの深いイブニングドレスにスリットスカートをはいて、靴下の上に生の脚をのぞかせたマッキルロイが……スペイン・ダンスを踊ったのだ〉。マーストンは歌を歌い、ワイルドはロングフェローの詩『ヘスペラス号の難破』を朗唱し、ハドソンは混血の少女に、グリーンストリートは赤鼻の酔っぱらいに、リッキンソンはロンドンの街娼に扮した(以上引用)。

  マーゴ•モレル、著『史上最強のリーダー シャクルトン ― 絶望の淵に立っても決してあきらめない 』(高橋裕子訳)PHP研究所、2001

この書も同じ事件のドキュメントであるが、ランシングの著が冒険小説的なの対して、シャクルトンにスポットを当てた心理ドラマの要素が強い。

 

 

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時間についての考察:Time flies like an arrow.

2019年07月11日 | 時間学

  1960年代、英文の意味をつかむために設計された初期のコンピューター・プログラムの一つに時間の推移をめぐる叙述のなかでも古典の「Time flies like an arrow. (光陰矢のごとし)」を分析させた。そのコンピューターの解釈は以下の5とおりであった(無論原文は英語打ち出し)

 1. 時間は矢のように進む。

 2. 矢の速さを計るのと同じやりかたで、ハエの速さを計るべきだ。

 3. 矢がハエの速さを計るのと同じやりかたで、人はハエの速さを計るべきだ。 

  4. 矢に似たハエの速さを計りなさい。

  5. 時間にたかるハエは矢が好きだ。

  中学生英語では正解は1で、『光陰矢のごとし』と憶えさせている。しかし、4-5もそれぞれ間違いではない。5番の解釈は哲学的でなかなかセンスがある。果物にたかるショウジョウバエをfruit flyというのでtime flyはおかしな表現ではない。最初この英文に出くわしたときは、人はどのような思考回路で正解の1に至るのであろうか?インターネットでアクセスされる翻訳ソフトにTime flies like an arrow.を日本語訳させてみた。結果は以下のごとし。

Google和訳 『時間は矢のように飛びます』

Webelio和訳 『光陰矢のごとし』

Excite和訳 『時間は矢のように飛ぶように過ぎる』

Bing Microsoft和訳 『時は矢のように飛ぶ』

Infoseek和訳『光陰矢のごとし』

 

逆に『光陰矢のごとし』を英訳させてみる。

Google英訳 It's like a light arrow

Webelio英訳 Time flies like an arrow.

Excite英訳 jo of time arrow.

Bing Microsoft英訳 Like a light arrow

Infoseek英訳  Time flies like an arrow.

  WeblioとInfossekは光陰矢のごとし=Time flies like an arrow.がセットでデーターベースにあるようだ。ここも『光陰矢のごとし』で入力すると、全然だめな英訳になる。それにしてもExciteの英訳は何だろう?意味不明である。

   時間が矢のように流れさるというのは、心理的な時間の様態を暗喩している。心理的な時間を引き延ばしす方法は、催眠術や幻覚剤、禅の修行などが知られている。1分が1〜2時間にも感じられるようになり、その間に多くの思念がわいて出るそうだ。究極まで修行した武道家は瞬間的に心理的な時間の動きをコントロールできる。相手の動きがスローモーションのように見えるので攻撃をはずし、その急所をやすやすと打つのだそうだ。

 

 

 参考図書

ロバート・レビイーン『あなたはどれだけ待てますか』ーせっかち文化とのんびり文化の徹底比較 草思社 2002

 

 

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悪口の解剖学:評論ー批判ー悪口ー誹謗ー罵詈ー唸声

2019年07月10日 | 悪口学

 他人に対する否定を程度の強さで分類すると次のようになる。{評論ー批判ー悪口ー誹謗ー罵詈ー唸声}

  評論は客観的に物事や人の価値・善悪・優劣などを論じることである。これは人の事績を中心にしており、その人格や行為の価値判断にはほとんどふれることはない。批判も評論に似ているが、人の評価がかなり入ってくる。学会の発表後の質問で「もう少し観測値を増やすことが望ましい」などと言われることがある。これには、少ないデーターで結論を出す発表者の性急さや未熟さが、やんわりと非難されている。

 悪口になると、対象とする人そのものの批判や否定がかなり大きな要素をしめてくる。ただ、その理由をある程度述べているので、表現の仕方によっては、センスやウイットがあるものにもなるし、後味の悪いものにもなる。話者の知性と表現力が試されるものだ。悪口は面とむかって相手に言うことよりも、共通の知り合いにいうことが多い。

 そして、誹謗となるともう99%が相手の人格否定を目的にするもので、多くは虚偽を交えた文言の羅列に終止する。目的は、人や集団に対する中傷で、聞いているほうも引いてしまう。これをおおやけの媒体でやると名誉毀損で訴えられる可能性がある。次の罵詈は口汚いののしり。罵詈雑言と四字熟語で言う。

 最後の唸声(ねんせい)とは、耳慣れない言葉だが要するに唸り声である。動物がストレスにさらされると、相手を威嚇するために唸り声をあげる。排外主義的なヘイトスピーチやインターネットの書き込みは、悪口といえば悪口であるが、知性やウイットのかけらもない。欲求不満のはけ口にすぎない。中国の若者は共産党の「愛国教育」により反日の唸り声をあげ、日本の若者はブラック労働のストレスで反中•反韓の唸り声をあげている。若者が唸る国はおおむね衰退する。

 悪口を言う理由はいろいろあるが、多くは怨恨である。人にバカにされたり、侮辱されたりすると、人はだいたい忘れずに復讐してやろうと思う。あんなバカは相手にせず無視すればいいと、理性が心の中でつぶやくが、凡俗はなかなかそうはできない。第三者に悪口を言って代償することになる。悪口を昇華して批判に転化せよとのたまう人もいるが、たいていはエスカレートして誹謗にいたる。人はなかなか君子にはなれないものなのだ。

 

 

参考図書

 和田秀樹氏『悪口を言う人は、なぜ、悪口を言うのか』 (2015) ワック株式会社 

追記 (2020/08/13)

村松友視『悪口のすすめ』 日本経済新聞出版社 2012によると「悪口」には「愛」がふくまれていなければならないそうだ。

  『妻昼寝トドに毛布をかけてやる』

   なるほど。

島田市には御陣屋稲荷神社(悪口稲荷神社)がある、ここでは「愛するあなたへの悪口コンテスト」が毎年行われる。

 

 

 

 

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三年清知府 十万雪花銀:中国官僚の蓄財術

2019年07月08日 | 評論

 

 

 高島俊男の『司馬さんの見た中国』(「お言葉ですが 別巻6」連合出版 2014)を読むと、中国では古代から官僚は金持ちだったそうだ。中国の官は公務員試験である科挙によって選抜されたエリートである。気力があり、記憶力と頭がよければ誰でもなれた。それは大きく言って首都の中央官庁に勤める官、皇帝の代理として地方を治める官がいた。中央から地方、地方から中央へといった移動のたびに昇進したが、金銭の実入りは地方の方が圧倒的に多かった。そこでは官にべらぼうな収入があり、数百人くらいの一族を優雅に養っていけたそうだ。朝廷からでる給料が、そんなに高いわけがなく、職務によって得た金品の蓄財による。ただし、職務といっても、税金の横領とか賄賂による不正蓄財である。

 司馬遼太郎はこれを「腐敗」と呼んだが、高島によると「役得」というべきものだそうだ。儒教の最高の徳目は「孝」ということで、「年老いた両親に孝行するためにお金がいりますので」といえば、誰も文句いわなかったという。ほんまかいなというような話だが賄賂・贈賄は上から下まで行っていたようで、社会習慣となっていたようだ。タイトルの『三年清知府 十万雪花銀』は、三年ほど県知事や府知事を勤めたら十万両もの銀貨が貯まるということわざである。

 現在の中国は中国共産党が支配しており、皇帝もいないが(そのうち習近平がなると言う説もある)、統治の基本構造は秦の始皇帝以来の群県制である。ここでは共党員の幹部クラスが県知事に任命され、着任してから伝統にしたがい私腹を肥やして中央に帰る。中国では鄧小平の改革開放路線以来、国中で大きな資本が動き、地方の有力な政治家や官僚にも金が流れた。そしてほとんど例外なく、収賄や横領などの犯罪(高島のいう役得)を犯しているので、叩けばかならずホコリ(悪事)が出て来る。習近平は、それを利用して徹底的に政敵の追い落としをやってきた。

 現代中国社会の様々な問題点は共産党の一党独裁という全体主義から出て来たものではなく、どうも昔からひきづって来た「文化的」なもののようである。彼らのいう「共産主義」も「資本主義」も多分に中国的脚色の上に成り立っているのではないか?  それは遺伝子的なものか環境か文化伝統によるのか? これに関する研究が必要であるかと思う。

 

追記(2021/05/24)

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(草思社文庫:倉骨彰訳)によると、15世紀初頭では中国は技術面で世界をリードしていたそうである。鋳鉄、磁石、火薬、製紙、印刷といった技術である。また鄭和の艦隊は世界を圧倒し地球を半周した。しかし、そのリードを守りきることができなかった。それは中国のその後の絶対的な政治体制が進歩的なものではなく、抑制的なものであったためとされる。ヨーロッパは様々な地域に分裂し競合と協同があり、むしろ発展があった。幕藩体制が多様な文化を生んだ日本の江戸時代のようなものである。ともかく西洋が中国を逆転した。現代中国は外国の技術のパクリ屋のように言われているが、潜在的にはポテンシャルを持っている。これは歴史的に証明されている。それを中国共産党による現在の体制が引き出せるかどうか?

 

追記

勝又壽良、篠原勳著『インドの飛翔vs中国の屈折』(同友館2010年)によると、中国社会の特色は「自分中心的」「短期極大利潤主義」「散砂的(ばらばらで組織信用せず)」「模倣主義」だそうである。一方、インドは「自己抑制的』「長期適正利潤」「集団主義」「独創的」となっていて、なんだかえらく依怙贔屓な評価がされている。

 

 

 

 

 

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カワラタケ(瓦茸)

2019年07月06日 | ミニ里山記録



瓦茸新茶の筒と枕べに   石川桂郎


カワラタケTrametes versicolor)。ナメコのコマを打ち込んだのにサクラ材からでたカワラタケ。

固くて調理しても食べられないそうだ。

 

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悪口の解剖学 V 高島俊男の最強の悪口

2019年07月05日 | 悪口学

 

 中国文学者の高島俊男氏は博覧強記の人で、豊かな学識と文才を背景に多数の評論やエッセイーを著している。『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫 1998)はそれまでの評論や随筆を収集したものだ。ここに収められた作品の一つ「ネアカ李白とネクラ杜甫」(1995年第11回講談社エッセイ賞受賞)は何度読み返しても面白い。この本を最初から読むと、それほど悪口は書かれていない。国語辞典の不備(「ボウゼンたるおはなし」)、NHK囲碁番組のおかしい言葉づかい(「握りまして先番」)、漢字の不適使用(「わが私淑の師」)などは正当な批判が縷々展開されているが悪口ではない。本のタイトル「本が好き」はよいとしても、「悪口言うのはもっと好き」はおかしいのではないかと思いつつ、さらに読み進めると、最後のほうの随筆「つかまったら何より証拠」で超弩級の悪口にぶちあたった。いか紹介する。

 話の舞台は国鉄時代の渋谷駅である。高島氏は切符の販売窓口で職員の態度に腹を立て、仕切りのプラスチックの窓をたたいてヒビを入れてしまう。彼はその場で鉄道公安官に取り押さえられて、駅構内の一室で取り調べられるはめになる。そして落語の「ぜんざい公社」に出てくるような尋問を何時間も受けて、調書をとられる。とられた調書の記載は「私は駅員の態度に腹を立て、日本国有鉄道の財産たる窓ロプラスチック板を拳で強打して損壊したのであります」とたったこれだけだったそうだ。

さらに話は続く。以下は本文からの抜粋。

  『いや、自動販売機の横にこう書いてあり、向いの売店では……」と縷々説明しても、「だからつまりこういうことじゃないか」とそれ以上は書いてくれない。そのあと声を出して読み聞かせながら手を入れてゆく。これがまた一々欄外に何宇抹消とか何字追加とか書きこむので手間がかかる。そのころにはこちらは疲れ果てて、もう何でもいいや、とにかく早くこの挟い部屋から出してもらいたい、と完全に屈服してしまった。それが終ると彼はごく気軽な調子で「じゃあ渋谷警察に四五日泊ってもらおうか」とったので、飛びあがるほどびっくりした。「国有財産損壊は重いからな。学校はもちろんクビだ。前科がついたらつぎの勤め先をさがすのも容易じゃないだろう」そんなひどいことになるのかとしょげかえっていると、「どうだ、示談にしてやろうか」と言う。「どうするんですか」「金で解決するんだよ」「そうしてください。お願いします」と一も二もなく頭を下げた。「よし待ってろ」と茶色セーターの男は出て行った。しばらくしてもどって来て、「これだけでいいと言っている」と小さな紙片を見せた。誰がいいと言っているのかわからないが、それより金額に驚いた。私も遠くから数日の予定で出てきているからには多少の金は持っているが、とても足りない。そんなに持てないと言うと、誰かに借りられるだろうと言う。手帳を調べたらK君が一番近そうだ。電話を借りてかけたらK君は不在でお母さんが出た。茶色セーターの指示通り、「詳しいことはあとで話す、これだけの金を持って渋谷駅のどこそこへ来てほしい」と頼んだ。またもとの事務室にもどされて一人で待った。よほど経って茶色セーターがあらわれて、示談が成立したから帰ってよい、と言った。』

 そんな馬鹿なと思える話である。高島氏が過失であれ故意であれ、駅でプラスチックの窓を破損すれば、取り調べを受けるのは当然であろうが、その場で示談などと言って、職員が現金を受け取るなどはあり得ない。そのような事をすれば、恐喝を含んだ国鉄職員の犯罪である。どうして国鉄あるいはその後身であるJR東海が、この文章の作者を名誉毀損で訴えなかったのか不思議だ。「あとがき」によると、これの初出は大修館書店の発行の「しいか」という雑誌で、1991年4月〜1994年3月にかけて掲載された『湖辺漫筆』の一部だそうだ。さらに書き出しには「もう二十年も前のことだが」とある。国鉄が民営化されたのは1987年のことで、初出の4-7年も前の事である。名誉毀損の告訴の時効(3年)をこえていたのかも知れない。あるいは、あまりにバカバカしい話なので無視したのか。

もっとも高島氏はよっぽど口惜しかったのか、最後で次のように述べている。

「国鉄が解体されて民営会社になった時は快哉を叫んだものだ。もっともあの悪辣な駅員や公安官どもは、新しいJRのどこかで、本性変らず同じように陰険な弱いものいじめをやっているのかもしれないが」

高島氏のさまざまな評論を読むと、その分野では最高の知性を備えた人物のようである。様々なテーマで、学者を含めたあまたの有象無象の無知蒙昧をバッタバッタと切り倒している。たとえば、外国語の翻訳書でまちがいを徹底的にこきおろした評論を読むと、翻訳者でなくても身がすくむ。ただ、たまに散見する高島氏の生活のエピソードを読むと、まるで未熟な幼児のようなところがあり、不思議な違和感をおぼえる。彼は、この事件の直後、所属する大学の法学部教授のところに相談にいき、さんざん馬鹿にされたそうだ。

 

参考図書

 高島俊男 『漢字検定のアホらしさ』(お言葉ですが...別巻3 ) 連合出版 2010

   高島俊男 『母から聞いたこと』(お言葉ですが...別巻5)  連合出版 2012

高島俊男 『兵站 入営』-これでいいのか本づくり(お言葉ですが...別巻6 ) 連合出版 2014

 

 

 

 

 

 

 

 

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