京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

セント=ジェルジの名言集

2024年12月02日 | 評論

 

 

 セント=ジェルジ・アルベルト(Nagyrápolti Szent-Györgyi Albert、1893-1986)は、ハンガリー出身でアメリカに移住した生理生化学者。ビタミンCの発見や筋肉収縮の機構解明などにより、1937年ノーベル生理学賞を受賞。その著「狂ったサル」(1971年The Crazy Ape and What next:日本語訳1972サイマル出版)は当時、科学者の良心的で正当な文明批判として注目をあびた。本棚の奥から、これを出してきて読むと、庵主の「思想」の基盤は、このよう当時の良識インテリの影響と薫陶を受けてきたことが、まことによく分かった。

「今の自分の成熟した考えかた」はほとんど、セント=ジェルジが言い尽くしていたのだ。この書から、いくつかの感銘的な名言を抜き出して示すことにした。

はじめに

「いまや人類が、誕生以来もっとも重大かつ深刻な時期に遭遇していることは、なんの疑いもありません。あまりに遠くない将来に、人類の絶滅すら考えられるほど、重大な危機です」

第一章

「人間の実体は、自己破壊的という点では、いまも昔も変わらない、ただいままでは、自己破壊を可能にするだけの技術的手段を欠いていたのだ、という考えかたです。事実、歴史を通じて、人間はたくさんの無意味な殺戮や破壊を事としてきました。自己破壊にまで至らなかったかったのは、殺人用の道具が粗放かつ非能率だったおかげです。暴力が吹き荒れたとき、多くの人が生き残ることができたのも、これが理由でした。ところが現代科学は状況を一変しました、今日、われわれは一連托生なのです」

第2章

「長い間、人間の主たる関心は死後の生でした。ところが、死の以前にはたして生がありうるのかどうかについて問われなけれならぬ時代を、われわれはいまはじめて迎えたのです。

第5章

年老いた裁判官は、ニたュルンベルク裁判で、ほかならぬアメリカ自身がうちてたてた原則(個人の良心が組織の決定よりも優先される)にもとづいてベトナム戦争に反対して徴兵カードを焼き、良心に従おうとしている若者に、重刑を科すことによって、自分たちがどれほど愛国であるかを見せようとしているにすぎない。

第6章

軍隊のおもだった生物的特徴の一つは、ガン細胞の場合と同様に、それが無限に肥大していくという点です。必要のあるなしにかかわらず、水も漏らさぬ組織と紀行とをもった軍隊は、個人と同様に、富と力を求めて行動します。肥大が避けられない理由は、軍隊は必ず相手方軍隊をつくりあげ、それよりも優位にたとうとすることです。それと手ぶらではおれないという別の理由があります。そこで事件をつくりあげては、軍隊を戦争やいかがわしい冒険に駆り立てるのです。

第8章

政府が、なぜ彼らを選出した市民を代表しないのか、という問題は厄介な問題です。理由はいろいろあるが、彼らが政治の駆け引きに通じたただの「政治屋」である必要があるからです。秀た指導者であるためには、よい政治家(statesman)であることです。

第9章

ベトコンを相手ににしてもどうもならない。彼らは最後まで戦う。ベトナム人は自決の覚悟でいる。どうしてアメリカが勝利をおさめることができるでしょうか?要するに人間というのは、見たいものを見、聞きたいものだけを聞くものだ、ということです。軍隊や政府の手先としてやっきに情報を集めている秘密情報員は、上司の耳にひびくものだけを見ているのではないかという疑念がわいてきます。

第10章

私自身が、アスコルビン酸(ビタミンC)を発見したとき、科学の進歩に貢献できたことをたいへん誇りに思ったものです。そのとき、私は自分の研究成果が、決して殺人のために使われることがないと信じていました。ところが、その私の誇りと確信とは、つかの間のものでした。ある日、私は、とある工場を視察しました。そこには大きなつぼがたくさんあり、その中にはアスコルビン酸がわんさと貯蔵されていました。それはドイツ潜水艦に配給され、長い航海をする乗組員にとって、壊血病を防ぐ格好の道具となったんです。アスコルビン酸は、かくして殺人使節団の道具と化したのです。

第16章

ニュートンの友人たちは、ケンブリッジのトリニティー学園の公園ベンチで、一日中、動かないですわっている彼の姿をみて、かれの精神状態を心配したそうです。納税者たちは、このような何もしない怠け者を援助すること自体がばかげていると、憤慨したにちがいない。いまでも政治家は役に立たなそうな基礎研究の科学研究費の削減を主張し、納税者の機嫌をとる。

第18章

すべての人間は10%ほどの愚かしさをもっている。この愚かしさは、この世に存在することの付加物である。そこで政府は、われわれの卑しい本能に訴えるわけです。最小公分母に訴えることにより、過半数の賛成票を皮算用することができるからです。

 

 

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志賀直哉の「暗夜行路」-この一節こそ

2024年12月01日 | 評論

 

   

 志賀直哉の「暗夜行路」は読んでも、つまらない私小説である。生活力のない時任謙作のとりとめのない日常と、どうでもよい出来事が、ダラダラと続く。人の関係テーマが男女間の「性」だけに絞られており、当時の高等遊民的な文人たちに受けても、我々庶民にはまったく感激のないお話である。

 ただ、最後のほうで、謙作が大山登山の最中に倒れ、気をうしないそうになって、カタルシス状態になるシーンだけが、この小説の中で印象的な白眉といえる。この小説はここだけと云ってよい。以下抜粋。

 

 「謙作は疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のようで、眼に感じられないものであるが、その中に溶けてゆく、それに還元される感じが言葉に表現できない程の心地よさであった。なんの不安もなく、睡い時、睡に落ちて行く感じにも多少似ていた。大きな自然に溶け込む感じは必ずしも初めての経験ではなかった。一方、実際半分睡ったような状態でもあった。大きな自然の溶込む感じは、必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。

 静かな夜で、夜鳥の声も聴こえなかった。そして下には薄い靄がかかり、村々の灯も全くみえず、見えるものといえば星、その下に何か大きな動物の背のような感じのする北山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏み出したというような事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。然し、若し死ぬなら此儘死んでも少しも怨むところはないと思った。

 彼は膝に肘を着いたまま、どれだけの間か眠ったらしく、不図、眼を開いた時に何時か、あたりは青味勝ちの夜明けになっていた。星はまだ姿を隠さず、数だけが少なくなっていた。柔らかい空の青味を、彼は慈愛を含んだ色だと云う風に感じた。山裾の靄は晴れ、麓の村々の電燈が、まだらに眺められた。米子の灯も見えた。遠く夜見が浜の突先にある境港の灯も見えた。明方の風物の変化は非常に早かった。しばらくして、彼がふりかってみたときには、山頂のかなたから湧き上がるように橙色の曙光がのぼってきた。それが見る見る濃くなり、やがて又あせ始めると、あたりは急に明るくなってきた

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シモーヌ・ヴェイユの思想

2024年11月28日 | 評論

 

 むかし、シモーヌ・ヴェイユとその名を舌頭に転がすだけで血圧が上がった人は、いま何歳ぐらいになっているのだろか?作家の須賀敦子(1929-1998)は「本に読まれて」(中公新書)のなかで、その熱病的没頭の時代を「ヴェイユは、50年代の初頭に大学院で勉強していた私たち女子学生の仲間にとって灯台のような存在だった」と書いている。

 ヴェイユは1909年パリに生まれ、人類史でも稀な激動の時代を火の玉のように生き、1943年イギリスで客死した女性哲学者である。1966年発行の京都大学新聞 (13638号)に哲学者の長谷正当(当時京大研修員)が、彼女の著「労働と人生についての省察」についての書評を出している。その書き出しは「ヴェイユの著書が最近紹介されはじめている」で始まるので、この頃からかなり読まれるようになり、さらに少し時代がすすむと、全共闘の論客も関心を持つようになった(彼女はレーニンやトロッキーもおおいに批判した)。

 ヴェイユは体験(「事実との接触」)を媒介にして「真理に対する飢餓、実存に対する渇き」をもって太く短い人生を歩んだ。彼女は工場に入り実際、労働することによりそれが奴隷労働であることを実感した。奴隷状態を生み出す原因は「速さ」と「命令」という二つの事であった(この本質は現在も変わっていない)。もう一つの体験はスペイン動乱であった。それぞれ「不幸の経験」と「集団の経験」としてその思想に刻みこまれた。

 ヴェイユ家は「ヴェイユ」姓が示すようにユダヤ系であったが、両親はユダヤ教に服さず、二人の子供もユダヤ教に接触させないように教育していた。そしてシモーヌ自身は思想的にユダヤ教を厳しく批判する立場をとった。

 「残虐、支配への意思、敗れた敵に対する非人間的な軽蔑、そして力への敬服などを表明するユダヤ経典が、キリスト教に持ち込まれたことは不幸なことだ」と述べている。シモーヌ・ヴェイユの論法によると、ヒトラーの反ユダヤ主義は、この残虐なユダヤ経典の教えをそのまま反転模倣したことになる。最近のイスラエルのパレスチナ人民への暴虐は、まさに、これを証明しているとしてしか思えないのである。

 

 参考書

大木健 「シモーヌ・ヴェイユの生涯」勁草書房

フランシーヌ・デュ・ブレシックス・グレイ 「シモーヌ・ヴェイユ」岩波書店 2009

 

追記(2024/11/06)

青年ヘーゲル学派のブルーノ・バウワーは1843年に「ユダヤ人問題」で、ユダヤ人が空想上の民族性にしがみついている限りユダヤ人の解放はありえないと述べた。マルクスはやはり1843年に「ユダヤ人問題によせて」でバウワーの論を批判しながら、国家と宗教とのかかわりについて展開している。ただしこの頃はイスラエルはまだ建国されていなかった。

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読解「人新世の資本論」(斎藤幸平著)

2024年10月24日 | 評論

 

 

GDPはなぜ毎年増加しなければならないとされていたのか?

 いままでは、GDPは増え続けなければならないと考えらえていた。この成長神話の背景には、1) 地球のフロンティアは限りなくひろがっているという幻想、2)それと連動して人口も制約なしに増加するという幻想があった。こういった幻想を現実が、木っ端みじんに打ち毀しつつあることを本書はまず指摘する。西部開拓史のように未来が希望にあふれたフロンティアは消滅し、残された宇宙スペースは人類が快適にすめる空間ではない。文明諸国では政府の少子化対策にかかわらず人口は減りつづけている。資源のフロンティアが喪失しただけでなく収奪するべき安価な労働力のフロンティアがなくなりつつある。一時期、中国の膨大な安価な労働力を求めて日本を含めた資本はここに工場を建設したが、そこでの賃金の高騰をうけて、他の東南アジア諸国(ベトナム、タイなど)に移転しつつある。フロンティアが限界に到達したというだけでなく、人類の活動によって地球環境は破綻し、気候変動やパンデミックによって、とんでもない厄災が人々に降り注ごうとしている。それにも関わらず、資本主義と文明社会が、さらなる「発展」をもとめて、いかに悪あがきしているのかを、マルクス主義の立場から本書は批判・告発しようとする。

 SDGs運動に象徴される「持続可能的な発展」や「緑の経済成長」は矛盾の外部転嫁にすぎない。外部転嫁には空間的なものと時間的なものがある。EV(電気自動車)や水素燃料自動車は都市部や文明国の局所的環境(都市)を保護し、周辺部の地方や他の国の環境を破壊している。おまけに地方の火力発電所が発生する炭酸ガスや廃棄ガスは回りまわって都市部にも到達した上、地球全体の温度環境を上昇させる。子供でもわかるこんな理屈を無視して成長路線で経済活動をつづける資本主義には、グレタ・テューンベリさんでなくても怒りがわいてくるというものだ。「中核部の廉価で便利な生活の背景には周辺部からの労働力の搾取だけでなく、資源の収奪とそれに伴う環境負荷の押し付けがある」と著者はいう(p33)。それゆえに地方や未開発国の収奪や環境破壊は、ここに棲む若者の離脱・過疎化を促進する。一方、都市はますます過密化し、その自然環境は劣化する。

 

洪水よ我が亡き後に来たれ!

 矛盾の空間的転換だけでなく、時間的転嫁を資本主義は行なおうとしている。「炭酸ガスの排出量を制限して地球温暖化を防ごう」というスローガンはもっともらしが、これがまさに時間的転換である。「10年後に起こるクライシスを20年後までに引き伸ばそう、その間に、賢明なるホモ・サピエンスは科学の力で解決法を考えつく」と説諭するのである。余命宣告1年の末期がん患者に抗がん剤を投与して、生存期間を2~3カ月延ばすようなものだ。その間に魔法の抗がん剤が発明されるよ...。たとえ炭酸ガス問題をクリヤーする方法を発明しても、別の新たな矛盾が出てきて、世界は必ず暗礁にのりあげる。たとえば、低温核融合が完成したとする。これの燃料は水素(重水素H2、トリチュウムH3)なので、エネルギーは無尽蔵に供給される。CO2も出ないし、原子力発電のように危険な核燃料廃棄物も出ない。すなわち無限にクリアーなエネルギーを得ることができる。しかし、エネルギーが、たとえ無尽蔵でも、他の資源は有限なので、文明の律速物質が人類の経済を制約する(このクリティカルな「物」が何かは研究が必要である。おそらくレアーメタルのようなものではないかと著者はいう)。自然のフロンティアは有限かもしれないが、人の英知のフロンティア(イノベション)は無限であるという考えもある。しかし、どんなに工夫しても無から有は生じないし、どの分野にも収穫逓減の法則がある。世界における資源の総消費量は約1000億トンである。2050年には1800億トンがみこまれる。一方、リサイクルされているのはわずか8.6%。これでは持続可能性なんかありえない。ともかく、今が良ければ、未来社会の迷惑などでうでも良いというのが現代文明であり資本主義なのである。マルクスの資本主義分析は資本家でも参考にしているように、著者のグローバル資本主義分析は正鵠を得ている。

 

弁証法の魂は否定である。

 マルクス哲学(思考法の基本)は唯物弁証法である。物と物の発展的な関係が、運動の法則の基盤をなすと考える。発展的な関係のベースには否定があると考える。ある時点でAの状態がBになるのは、Aを否定する力がはたらいてBになるからだ。資本主義では労働者の労働(価値)を否定(搾取)して、その価値を新たな資本に転換する。新たな資本は、そこでまた労働者を搾取する否定の循環が生じる。この資本による「労働の否定」を否定するのがマルクス主義である。否定こそが弁証法の魂であり、否定によってこそ世界は変転し進化する。マルクスはそのように考えた。社会における発展原理は、それぞれの時代で否定の主体である階級(あるクレードの人の集団)が存在したので明確である。

 それでは資本主義による自然(地球)の否定(破壊・収奪)についてはどうなるのだろうか。著者(斎藤氏)によると、マルクスは社会と同様に資本主義が地球を収奪していると主張したとしている。はたしてどうか?マルクス自身もそのような事例を散発的に文献引用しているだけで、体系づけてこのテーマを展開していないように思う。そもそも、人類が自然を破壊してきたのは、石器時代、古代メソポタミア、アテネギリシャ時代からのこととされている。近代の産業革命以降になって規模が拡大した。ひょっとすると、原始人類が火を発明したあたりから自然破壊は始まったかも知れない。自然対資本主義ではなく、自然対人類とすれば、考え方は根本的に違ってくる。自然と人社会の矛盾を、一羽ひとからげに資本主義のせいにできないとすると、話が全然ちがってしまう。

 

エコロジストとしてのマルクス

 斎藤氏によると対自然(地球)に対するマルクスの思想は生産力至上主義(1840-1850)、エコ社会主義(18860年代)、脱成長コミュニズム(1870-1880)と変遷(発展?)したとしている。最後の脱成長コミュニズムについては著者による新説である(多分)。ゴータ綱領批判の一節を引用するなどして、論じているが牽強付会の感をまのがれない。

この説と労働者の解放との関係についても何も述べていない。資本主義からの労働者と地球の解放はカプリングしたものであるはずだ。社会における資本による人の収奪にたいしてのマルクスの姿勢は明確である。教科書的には「共産党宣言」を読めばよい。労働者は団結して資本家を打倒することになる。それでは資本主義を廃止すればおのずと、地球に対する収奪はなくなるのだろうか? 著者によると、マルクスの書き物やノートで本としてまとめらえている部分はごく一部だそうだ。膨大な未収集の資料を編集して、欠落した思想を完成させる必要があるとすると大変な努力がいる。きっとマルクスAとマルクスBとか、いろいろなマルクス思想が出てくるだろう。なんとも気の滅入る話である。

 著者はマルクスを引用して「否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはkせず、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有をつくりだすのである」としている。著者は、さすがにこれではまずいと考えたのか、この後で、「コミュニズムはアソシエーション(相互扶助)に支えらえたコモン主義である」という論を展開している。環境学に出てくる「コモンズの悲劇」は、誰でも利用できる共有資源の適切な管理がされず、過剰摂取によって資源が枯渇してしまい、回復できないダメージを受けてしまうことを指摘した経済学における法則のことである。著者は分別のあったゲルマン民族のマルク協同体やロシアのミールを規範としているが、中世やロシア封建制の頃の生産システムや意識が、近代や現代にどのように適応できるのだろうか? 

 <労働と資本>の矛盾、<生産と自然>との矛盾の相互関係およびそれの超克の方法が、この書では明示されていない。これらは一元化されて解決できるのか、2元的に扱われのかといった問題が取りあつかえわれるべきテーマといえる。これは残念ながらどこにも見当たらない。

 

階級はどこにいったのか?

著者は矛盾の超克の具体的な方法として、ワーカーズ・コープ(労働者協同組織)というものを提唱する。これは労働の自治、自律に向けたもので、組合員が出資し経営し労働を営むものである。しかし資本主義と並行して、このようなシステムがあったとしても、競争に勝てるわけがない。これは資本の徹底廃棄の上で可能なものである。しかし資本家が、やすやすとそれを許すはずがなく必然的に厳しい階級闘争が起こる。「否定の否定」には断固とした意思としての階級が登場する必要がある。しかし、本書はマルクスを論じた著書にもかかわらず、階級という用語はほとんど出てこない(ケア階級という意味不明な言葉は出てくる)。階級闘争という言葉は、もうしわけ程度に一度出てくる (p214)。ここではバスターニの民主社会主義的コミュニズム批判がなされ階級闘争の視点が抜けていると批判しているが、著者の文脈にも総体として、それが抜けているのだ。その意味でも不思議な「資本論本」である。

 

感染症についての考察

 コロナ禍を人新生の産物としている。しかし、中世のペストをはじめ古代からエピデミックやパンデミックの歴史は数しれない。近代資本主義のパンデミックは、スペイン風邪からと思えるが、それ以前のものとの質的・構造的な違いを明らかにしてほしかった。規模と速度の問題以外に、むしろ、その影響の質的な違いがあるはずである。さらに、余計な注文をつけると、ウイルス感染から「思想の実効再生産数R」についても考察してほしかった。起源ウイルスはたとえ一匹でRが2でも、短期間にパンデミックになる。一人の革命思想家ー共鳴グループー階級意思へと「思想感染」がおこる道筋(おそらくローマ時代のキリスト教の拡大に似た)のダイナミックスを疫学が提示してくれている。

分業による疎外の問題

資本主義労働による人間疎外は分業の徹底によっておこっている。生産手段や土地を共有するだけでは解決しない問題である。著者は個人の趣味(全体作業)によってそれが補完されるというが(p267)、それではあまりに寂しい。マルクスは「経済学・哲学草稿」において、労働によって人々が没落し貧困化するのは、労働と生産の間の直接的な関係における「労働の本質における疎外」にあるとしている。これはフォイエルバッハの人間主義的で自然主義的を基準にしたものである。資本主義的労働のもつ矛盾を自ら工場に入って経験したシモーヌ・ヴェイユは、それはまさに奴隷労働であるとのべた。ITの完備したモダンな事務所での労働もその本質は変わらない。彼女は人間は何によって偉大なのかを希求した。

 

総合評価

 総合していうと、この本の著者は博覧強記の若手社会学者で様々な視点で問題提議してくれているが、マルクス思想の「筋」(疎外された労働、階級の問題)から外れているように思える。

 

参考文献

鈴木直 「マルクス思想の核心」NHKBOOKS 1237 NHK出版 2016

座小田豊 「マルクスー経済学・哲学草稿」(哲学の古典101) 親書館 1998

鎌田慧「自動車絶望工場」(講談社文庫2005)

片岡美里「シモーヌ・ヴェイユ ー真理への献身」(講談社1972)

追記:「マルクスは人間が自然に働きかける外に生きる道のないのをさとった。自然に働きかけるのが労働である。自然のもっている物質をとってこれを生産手段とした瞬間に人間は動物から分かれて人となった」と向坂逸郎は書いている(「マルクス伝」(新潮社1962)。そうならば道具の発明から人と自然の対立関係が発生していたのかもしれない。

 

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蛋白質と囲碁の構造的類似性

2024年10月22日 | 評論

              蛋白質の3次構造

 

 タンパク質は1次~4次構造まで規定されている。1次構造は構成アミノ酸の配列順序、2次構造はペプチドにおけるα-螺旋、β-シートなどををいう。3次構造は全体の立体的構造(上記図)である。さらに複数のペプチドが相互作用してコンプレックスを作りたものを4次構造という。このような空間構造が蛋白の酵素作用やホルモン、細胞維持などの機能を発揮する。

 

 

            囲碁の棋譜

 

 囲碁の黒石、白石をそれぞれアミノ酸と考え、二つのタンパク質の絡み合いによるゲームと考えることができる。1次構造は石の連結の様式、2次構造はその連結でシチョウ、ゲタ、ウッテガエシ、アツミなどの機能をもった部分、3次構造はまとまった空間を囲む集団といえる。黒白の二つの集団の相互作用は、具体的には「地」の計算のことで、これで勝負が決まる。

 囲碁試合における要諦の基本は、序盤では石の連結(1次構造)、手筋(2次構造)が大事で、中盤と終盤はどこで、3次構造としての集団を作るかで勝負が決まる。

 

 

 

 

 

 

 

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正岡子規の碁俳句

2024年10月18日 | 評論

病床の子規。明治33年4月5日

 2017年10月頃の日本棋院のHPをみると、正岡子規が第14回囲碁殿堂入りしたという。子規は日本の野球殿堂にも入っている。なんでも最初に始めた人はハッピーである。晩年、結核性の脊髄カリエスという死の病に冒されていたが、子規庵で精力的に文芸活動を続けいていた。また無類の碁好きで、病床に碁盤を持ち込んでいたそうだ。その子規は、たくさん碁の俳句をつくった。それらを可能なかぎり集めてみた (ただしインターネット収集なので「全集」での確認が必要である)。

 涼しさや雲に碁を打つ人二人

 短夜は碁盤の足に白みけり

 碁丁々荒壁落つる五月雨

 蚊のむれて碁打二人を喰ひけり

 修竹千竿灯漏れて碁の音涼し

 共に楸枰(しゅうへい)に対し静かに石を下す    *(楸枰は碁盤のこと)

 碁の音や芙蓉の花に灯のうつり

 勝ちそうになりて栗剥く暇かな

 月さすや碁を打つ人の後ろまで

 碁にまけて厠に行けば月夜かな

 焼栗のはねかけて行く先手かな

 蓮の実の飛ばずに死にし石もあり

 昼人なし碁盤に桐の影動く

 蚊のむれて碁打ち二人を喰ひにけり

 碁に負けて偲ぶ恋路や春の雨

 真中に碁盤据えたる毛布かな

 月さすや碁をうつ人のうしろ迄

 

       明治31年新年ある日の子規庵(下村為山画昭和10年)河東碧梧桐の思い出が書かれている。

追記2024/10/03

子規が野球で遊んだ上野公園の野球場は子規の名前がついている。「打者」「走者」「飛球」などの訳語を考えたのも子規である。

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東繁彦著「全訳:家蜂蓄養記ー古典に学ぶ二ホンミツバチ養蜂」

2024年09月29日 | 評論

(農文協:2023)

 久世松菴の「家蜂蓄養記」についての解説を中心に和蜂に関する著者の蘊蓄を披露したものである。

 著者の東繁彦氏は1974年生。一橋大学商学部卒。ミツバチ関係の著書だけでなく、「柑橘譜」「鯨譜」「麻疹備考」などの博物学的著作がある。投資家にして養蜂家と自己紹介する不思議な人物である。この書は久世松菴(くぜしょうあん)の「家蜂蓄養記」を解説したもので、最近の文献から古典といえる書籍まで広く渉猟して、様々な考察を加えている。よくぞ、これだけ調べあげたものだと感心する。巻末には丁寧なことに索引までつけられている。

 久世松菴は江戸期元文3年(1738)生まれで、紀伊藩の医師であった。当時、多くの医師がそうであったように本草学に造詣が深かく、二ホンミツバチの飼育も行っていた。当時、蜂蜜は薬として使用されていたようである。紀伊は昔から和蜂の飼育で伝統がある地方であった。松菴は「耳之を聞けども目未だ之を見ず」という実証見聞の立場をとっていたそうだ。ただ何か画期的な発見をしたかというと、そうゆう事もない。たとえば「ミツバチには王がいる」という記述があるが、これは宋代の古典「小畜集」に記載されており、これを李時珍が「本草綱目」(明代)に引用していたので広く知られていた事実だ。歴史的にはギリシャのアリストテレスがすでにそれについて述べている。

 ただ李時珍が王蜂の色を「青蒼」としたのに、松菴は「温色」とした点が違ったりする。女王バチはどうみても青っぽくはない。巣箱のキャパを分蜂の原因としたのも、まあまあの松菴のオリジナルかもしれない。またオオスズメバチの侵入防止のために、巣穴の大きさを約6mmにせよという指示は、実際的で現場をよく知っている感じがする。彼もきっと痛い目にあったのだろう。

 

 松菴の説話は、当時はどうだったか知らないが、いまではほとんど常識で目新しものはない。むしろ東氏の注解の方に「おや?」と思える箇所がある。たとえば「喧嘩」という項目で、分蜂群が出てきた巣の群れと相互識別する過程や(p99。これの文献が抜けている)、日本の養蜂が秀吉の文禄の役のころから始まったという説である。それまでは、日本列島にはミツバチはいなかったいう大胆な主張である。そんな馬鹿なとおもうのだが、存在した確かな証拠を出せといわれると困ってしまう。それほど日本の昔の自然学記載は希薄だった。

 

 

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頭が良いと短命になるという生物学的証明

2024年08月19日 | 評論

<頭が良いと短命になるという生物学的証明>

 

 スイスのフリプール大学のタデウシュ・カベッキーはショウジョウバエを用いて学習行動が強化される選択実験を行ない、それがどの様な特性(形質)をもたらすか調べた。ハエにオレンジとパイナップルのゼリーを選択させるが、一方のゼリーにキニーネを加えておく。数時間でハエは苦いキニーネを避けて、もう一方のゼリーを好む様になる。この学習を3時間行なったのち、選んだゼリーに生んだ卵を取って育てる。このような操作を15代続けると、短い時間で学習できるハエが選抜でき、普通は3時間かかる学習が1時間でできる「かしこい」ハエの系統ができる。

 しかし、このハエはその代わりに短命という代価(トレードオフ)を支払っていることが分かった。美人(ハエ)薄命というが賢人(ハエ)薄命となっていたのである。人間でも勉強ばかりしていると、青成ひょうたんのようになって、健康を害することはあるが、単に遺伝的に「かしこく」なっただけのハエの寿命が短縮する理由はよくわかっていない。なにか生理的に潜在ストレスがかっているのか、ニューロンの結線構造におかしな事がおこっているのだろうか?

 一方、栄養価の低い餌でハエを育て、集団の中で比較的発育の速い個体を何代にもわたり選抜する。これを先ほどのような学習実験で学習能をみてみると、選抜する前のものより格段に低下していた。この実験段階では餌は普通のものを与えているので餌の影響ではない。この系統は多産になっており、「貧乏人の子沢山」のような家系になっていた。人の場合、そのような家の子の頭は、いいのか悪いのかという統計は無論ない。

 

参考文献

カール・ジンマー「進化:生命のたどった道」(2012 岩波新書 長谷川真理子訳)

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「蕪村評論」の評論

2024年08月13日 | 評論
(呉春筆 蕪村像)
 
 蕪村の俳句を評論した文集は多い。江戸期後半には、俳人として、ほぼ無視されていた蕪村俳句を掘り起こしたのは、明治になって正岡子規である。以来、多数の俳人あるいは評論家が蕪村の俳句を独自の視点で解釈・評論している。それぞれの特徴を取り出し、その評価と批判を行なった。
 
1) 中村稔「与謝蕪村考」(青土社)2023 
 著者は弁護士さんのようである。弁護士の俳句評論とは、かかるものかと納得した。著者は、まず他の評者の意見を紹介し、裁判における相手側の陳述書に対するように、これに反論していく。たとえば蕪村「春風馬堤曲」の章では尾形功の解釈を紹介し、たまに同意することもあるが、ほとんどケチをつけている。その立場は、有体に言って弁護士リアリストとしてのもので、揚げ足取りで面白くない。たとえば、俳詩「春風馬堤曲」に登城する主人公を軽佻浮薄な女の子の道行ととらえている。中村は、「尾形は学者のくせに想像力が過剰すぎる」と批判してるが、尾形の解釈の方が、ずっと豊かで楽しい。ようするに面白くないのだ。かといって弁護士的リアリズムに徹しているかというと、そうでもない。たとえば、蕪村の「離別(さら)れたる身を踏込んで田植えかな」の解釈を、離縁された女性が田植え時期に員数合わせで婚家に呼び寄せられ手伝う情景としている。これは、珍しく尾形の「蕪村全集」での校註に従ったようだが、常識的にはありえない話だ。藤田真一は、出戻ってきた娘が実家の田植えの作業に参加するときの複雑な心境としている。これが普通の解釈であろう。また、蕪村「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の句でも、中村は「くれて」と「過行く」の措辞が矛盾していると述べている。しかし「過行く」は家に入らないでという意味に決まっているではないか。それに、この句の主人公は友人でも家の主人でもなく「鮎」であることを忘れている。釣り上げて足の速い鮎を配る友人の心遣いが、よみとれないようでは駄目だ。ただ、本書は、蕪村の生活句を「境涯詠」などに分類するなど、いままでにみられない新たな分類を行った点で評価できる。子規や朔太郎は生活者としての蕪村の句をまとめなかった。100点満点で65点。
 
2)藤田真一 「蕪村」(岩波文庫705)2000
 これは蕪村俳句の評論集ではなく、俳人蕪村を多角的に分析した評伝のような構成になっている。藤田は当時、京都府大の教授であった。春風馬堤曲の鑑賞においては、藪入り少女のちょっとはしゃいだ気持ちと故郷への想いが錯綜した道行きとして無理なく解説されている。「融通無碍な発想があって、そのくせ人間らしい心が、ふわっと伝わる蕪村の俳諧世界を紹介したい」と著者はいっている。学者の評論であるが、蕪村のほのぼのとした人柄を伝える佳作である。藤田には他に「蕪村の名句を読む」(河出書房)や「風呂で読む蕪村」(世界思想社)がある。いずれも蕪村自身の独白でもって、代表句を紹介するユニークな著書である。この中の蕪村「滝口に燈を呼声やはるの雨」は、貴人と武士が経験する時間の対比論で鑑賞した名解釈である。90点。

 

3)正岡子規 「俳人蕪村」(講談社文芸文庫)1999
 明治30年4月13日から11月15日まで、子規が「日本」及び「日本付録通報」に連載したものである(底本は明治32年「ほととぎす発行)。子規によると生存中、蕪村は画人としてより俳人として有名だったそうだ。それが死後、画人蕪村として知られ、その俳句はほとんど評価されなかったそうだ。しかし子規派の再評価により、その俳名が再び画名を上回ってきたと自画自賛している。ここでは、蕪村の俳句を「積極的美」「客観的美」「人事的美」「複雑的美」「理想的美」などに分類し、用語の自由性、句法の革新性、句調の斬新性、味のある特殊な文法(間違った文法なのに句に趣をあたえている)、材料の特殊性を挙げている。そして、それぞれの項目で該当する例句を挙げている(材料の特殊性では「公達に狐ばけたり宵の春」など)。すべての句をくまなく読み込んで整理したのであろうが、おそるべき気力と分析力である。春風馬堤曲に関しては、あまり詳しい解説はないが、「蕪村を知るこよなきもので、俳句以外に蕪村の文学としてはこれ以外にはない」としているが、一方で新体詩の先駆けを開けなかったことを惜しいんでいる。
 
 この著の圧巻は蕪村の「創造的文法誤謬」論である。蕪村は結構、文法を無視した作品を作った。「をさな子の寺なつかしむ銀杏かな」の「なつかしむ」について子規は次のように語る。
 「これは蕪村の創造した動詞であろう。果たしてそうとすると蕪村は傍若無人の振る舞いをした者といえる。しかしながら、百年後の今に至ってこの”なつかしむ”を引き続き用いている者は多数いる。蕪村の造語はいつか辞書にも載るようになるだろう。英雄の事業というものはこのようなものである」(筆者口語訳)
 
 ともかく、この評論や他著「蕪村と几董」などによって、埋もれていた蕪村俳句は、近代によみがえった。只一点ケチをつけると、子規は最後の方で「蕪村の悪句は埋没して佳句のみのこりたるか。俳句における技量は俳句界を横絶せり、ついに芭蕉其角の及ぶ所に非ず」としているが、蕪村俳句全集をみるに必ずしもそうでない。駄句、凡句も結構ある。99点。
 
4)萩原朔太郎 「郷愁の詩人・与謝蕪村」岩波文庫 1988
詩想(ポエジイ)にあふれたセンチメンタリストとしての蕪村を定着させた朔太郎の有名な書である。個人誌「生理」に昭和8-10年連載された。ここでは、まず子規派が、蕪村俳句を写生主義として規定してしまったことを批判している。しかしこれは明らかに誤解である。前の「俳人蕪村」を読んでも、たしかに「直ちにもって絵画となしうべき」ような作品を「客観的美」として分類しているが、それは蕪村俳句のジャンヌの一つにすぎない。ほかに人事句など、あまりロマンにみちたものではないのも子規は紹介している。朔太郎も「我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす」を紹介しているが、これなんかロマンどころか生活がにじみ出た俳句だ。むしろ、リリシズムの極致である「花茨故郷の路に似たるかな」の引用を抜かしている。これを抜かしてはいかん。蕪村はクリスタルグラスのような多面体である。時代のせいかも知れないが、朔太郎の読みは浅いのではないか。ただ蕪村の飄逸な書体を評して、彼を「炬燵の詩人」としたのは慧眼である。90点、
 
5) 竹西寛子「竹西寛子の松尾芭蕉集 与謝蕪村集」集英社 1996
 竹西寛子は原爆体験をもった小説家であり文学評論家である。ここで竹西寛子は蕪村の俳句を一句づつ解釈していくが、その内容は極めて良識的で納得できるものである。壮大な「菜の花や月は東に日は西に」から生活句「菜の花や笋見ゆる小風呂敷」まで蕪村世界を無難にこなしている。「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の夜半は夜中ではなく、夜半亭の事だとする宮地伝三郎(京大教授で動物学者)の説も紹介している。それなりに勉強したということであろう。ただ驚くほど新鮮な解釈を披露しているわけでない。80点

6) 小西甚一 「俳句の世界(第七章 蕪村)」 講談社学術文庫 1995
 俳諧の起源から説きはじめた俳句の歴史書における蕪村論である。「樟の根をしずかにぬなすしぐれかな」の「しずかに」の用法が当句を名品に仕上げたという解説には感じいった。断章での解説であるせいか、評論対象の選句が自由で斬新な雰囲気ではあるが、短いのでものたりない。75点。
 
7) 森本哲郎 「詩人与謝蕪村の世界」講談社学術文庫 1996
 森本哲郎(1925-2014)は)新聞記者を経て評論家となり東京女子大教授。「世界の旅」など多数の著書がある。俳人でも文学者でもない政治畑のジャーナリストの蕪村論である。雑誌「国文学」に掲載されたものをまとめたらしいが、理由はあとがきを読んでもよくわからない。ただ「私は蕪村が好きだ。蕪村の世界をこのうえなく美しいと思う」と述べている。好きでなかったら書けない。テーマ別に18章で構成されている。どれも蕪村俳句を様々な角度から解説するが、著者の博覧強記にはおどろくほかない。「島原の草履にちかきこてふかな」の句について、プラトンのイデア論を挽きつつ、「世界は仮の相であり、夢であり、幻であり、影であるというあの荘子の哲学は、蕪村の芸樹の中では独特の美学となり十七文字に結晶している」と述べている。子規、朔太郎の評論に次ぐ記念すべき書である。95点。
 
8)高橋治 「蕪村春秋」朝日文庫 2001
高橋治(1929-2015)直木賞作家、映画監督。「蕪村に狂う人、蕪村を知らずに終わる人。世の中には二種類の人間しかいない」と強烈なフレーズで始まる映像作家の蕪村論。「鮎くれてよらで過行く夜半の門」は夜釣り、火振り漁としているが、鮎を渡す手元から家の門を遠景にしたズームアウトの手法が凄いと言っている。また「花野」の項で日本人は本当は自然を大事にしないのに、その美を「仮託」する悪いくせがあり、近代においてはさんざん環境破壊を繰り返してきたと述べている。同感である。85点
 
9)稲垣克己 「蕪村のまなざし」 風媒社 2009
作者は1929生まれの銀行勤務経験者。「守ろうシデコブシ」(中日新聞)などの著書がある。前半は句評で後半は蕪村の事績の紀行集になっている。蕪村は京都で四条烏丸東イル、室町綾小路下ル、仏光寺釘隠町に転々と寓居を変えたそうである。
 
 蜻蛉や村なつかしき壁の色
 いな妻や波もてゆえる秋津島
 屋根ひくき宿うれしさよ冬ごもり
 咲くべくもおもわであるを石路花
 
これらの句は他の評者は取り上げていない。これをみても庶民派蕪村を現代の蕪村が誠実に紹介している。80点。
 
10)佐々木丞平、佐々木正子、小林恭二、野中昭夫 「蕪村:放浪する文人」新潮社
蕪村句の評論集というより蕪村作品(絵画を含む)の写真集といった本である。蕪村句そのものの評論は中村氏による1章「俳人蕪村の実力」という短い一章がある。蕪村句はほとんど駄句であるが、中にはホームラン級のがあると言っている。駄句や凡句もあるが、言い過ぎだろう。あまり元気のでる話ではない。70点。
 
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コノプカの法則ー不思議なビギナーズラックと連続の法則

2024年08月11日 | 評論

  人生いろいろ経験を積むと、ビギナーズラックといった事を経験したりする。麻雀を初めてやった人が役満を上がり、それですっかり病みつきになったりする。あるいは、不運や幸運が連続して起こる事もよく見聞きする。宝くじなど普通は(庵主の場合は特に)、当たったためしがないのに、連続して高額賞金の当たる人がいて、まったくうらやましい。初心者(ビギナー)には大きな幸運が起こりやすく、不運や幸運はそれぞれ連続することが多い。

  1960年代末のことである。カリフォルニア工科大学で行動遺伝子学の研究を目指していたシーモア・ベンザー(Seymour Benzer:1921-2007)の研究室にロナルド・コノプカ (Ronald Konopuk :1947-2015)という大学院生がいた。この研究室は、ショウジョウバエにおける行動遺伝学の分野でめざましい成果をあげていた。コノプカはショウジョウバエを突然変異剤のEMSで処理し、羽化リズムの異常な時計ミュータントを作成しようと試みた。当時は、体内時計の突然変異体などは絶対に作れないと考えられていたので、研究室の先輩達はコノプカに「それこそ時間の無駄だからやめた方がいいよ」と忠告したそうだ。ところがコノプカは、わずか200本目の培養瓶で、羽化リズムの異常なハエを見つけ、最終的には3種類(短周期、長周期、無周期)の体内時計ミュータントをつぎつぎ作成する事に成功した。通常は何千本もの培養瓶のハエをスクリーニングしても取れるかどうかわからケースが多い。それにはものすごい退屈な時間と経費がかかるものだ。

   これらのミュータントの遺伝子座位はいずれもX染色体のwhite (白眼) 遺伝子のすぐ近くに位置し(これも遺伝子座を解析したりするのに幸運な位置)、period遺伝子と命名された。この結果はベンザーとの共著で、権威ある米国科学アカデミー紀要(PNAS誌 1971)に掲載された。これは、動物における時計遺伝子の最初の発見であり、分子レベルでの体内時計研究のビッグバンとなったものである。

  日本人の堀田凱樹博士(後に東大教授)はその頃、ベンザー研究室に留学していた。彼はコノプカのために、ショウジョウバエの歩行活動リズムを測定する装置を開発した。しかし、この論文(PNAS)の共同研究者とはならなかった。同一の遺伝子部位に3箇所も変異を起こしたミュータントがほぼ同時に取れる確率を計算し、「これはやばい話ではないか」と感じ、辞退されたそうである。それほど、低い確率のことが同時に起こっていたと言えよう。研究における「ビギナーズラック」と「連続の法則」の典型的な例であり、科学史家はこれをまとめて『コノプカの法則』とよんでいる。これはジョナサン・ワイナーの著『時間・愛・記憶の遺伝子を求めて―生物学者シーモア・ベンザーの軌跡』にも出てくる有名な話である。

 

 

   コノプカの発見したピリオド遺伝子 (period)は、その後の時計生物学におけるイコンとなり、分子レベルの研究はこれを原点に発展したと言える。period遺伝子は数グループの間のデッドヒートの末に1984年に完全配列があきらかになった。一昨年 (2017)、ジェフリー・ホール、マイケル・ロスバシュ、マイク・ヤングの3人が「概日リズムを制御する分子メカニズムの解明」によりノーベル賞を受賞したのは記憶に新しい。

   ただ、その後のコノプカ博士の研究者としての人生はそれほど幸せなものでなかったようだ。時間生物学者のピッテンドリク教授の博士研究員を経たのち、母校のカリフォルニア工科大でassistan professor(助教授)になったが、完璧主義であったことや分子生物学の潮流に乗り遅れたこともあり、あまり論文が出ずに失職した。米国の研究大学では6年毎に教員への厳しい査定があり業績が少ないと辞めさせられる。別の大学に移ったが、そこでもうまく行かず、結局、研究の継続を断念した。人生の後半では「不運の連続の法則」がつきまとった人と言える。彼は素晴らしいチョウのコレクターであったという。

   『コノプカの法則』については、似たようなことを古生物学者の瀬戸口烈司さん(京都大学名誉教授)も述べている(1999年9月3日京都新聞朝刊「現代の言葉」)。瀬戸口さんのグループは、南米でサル類の化石の発掘調査を行った。調査機関は約3か月である。化石は見つかる時は別々の場所で同時に複数個見つかることが多いそうだ(良い事の連続の法則)。一方で、調査隊員から腎臓結石と急性肝炎といった確率の低い病人が同時に出る事もある(悪い事の連続の法則)。そして化石調査に初めて参加した学生が、まぐれで立派な化石を発見する事がある(ビギナーラックの法則)。この学生は大喜びして、ますます化石研究にはまりこみ、活動量が増えてどんどん成果が上がる。すなわち正のフィードバック効果が起こる。こういった化石の発見には運がつきもので、特定の人について回る性質があり運の良い人は次々貴重な化石を見つけるが、悪い人はなかなか見つからないそうである。これも連続の法則の一種である。

 ロブ・ダン著『家は生態系』(今西康子訳)白揚社 2021にも同様のビギナーズ・ラックの例が書かれている。高校生のキャサリン・ドリコスがダンの研究室にボランティアでやって来た。彼女はタイガー(トラ)に興味をもっていたので、ダンは「タイガーアント(トラ蟻)」を調べたらとアドバイスした。そうすると彼女はたちまち、ラボの裏で「タイガーアント」(ディスコシレア・テスタシモ)の巣を発見してしまった。それまでは、誰もこの種の巣や女王を見た事がなかったのに。

 

参考図書

 ジョナサン・ワイナー (2001) 時間・愛・記憶の遺伝子を求めて―生物学者シーモア・ベンザーの軌跡、 早川書房

松本 顕 (2018) 時をあやつる遺伝子、 岩波書店

Michael Rosebush (2017)「Ronard Konopka 1947-2015) Cell 161, April 9, 187.

 

追記(2024/08/11)

コノプカのperiodの発見とよく似た話を、ショウジョウバエで「睡眠」を研究している粂和彦氏が「時間の分子生物学」(講談社現代新書)で述べている(p121)。不眠症のハエを偶然発見したのであるが、ビギナーズラックであったとそうだ。ついている人は幸せなりきである。

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サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』を読もう。

2024年06月26日 | 評論

サイモン・シン Saimon Signh (1964-)著『フェルマーの最終定理』( Fermat's last theorem)(青木薫訳) 新潮文庫 (2000)

ともかく面白い。ただ「知的に面白い本」なので、これがためになるかどうかは読者によるのである。

サイモン・シンはインド系のイギリス人。ケンブリッジ大学で素粒子物理学の博士号を取得。ジュネーブの研究センターに勤務後、BBCテレビ局に転職。TVドキュメント「フェルマーの最終定理」で各種の賞を受賞。その後、同名の書を書き下ろす。他に「暗号解読」、「宇宙創成」、「代替医療」、『数学者たちの楽園―ザ・シンプソンズを作った天才たち」などの著書がある。

その粗筋は以下のごとし。

{ xn+yn=zn n>2のとき、この方程式には整数解が存在しない }

 十七世紀「数論の父」と呼ばれるピエール・ド・フェルマー(1607-1665)は、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著した『算術』(Arithmetica) の注釈本をの余白に「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」と書き残す。この予想は後に「フェルマーの最終定理」と呼ばれ、多くの数学者たちが,長年にわたって挑戦したが成功しなかった。しかし、二十世紀末(1995)にイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが完全証明に成功し、フェルマーの最終定理は解かれた。

 このドキュメントは数学(数論)史であり、また関係する数学者の人間ドラマの歴史でもある。 ここで 登場する数学者達はピタゴラス、エラクレカテス、ディオファントス、インド・アラビアの数学者達、フェルマー、オイラー、ジェルマン、ラメ、コーシー、ガロア、谷村・志村、岩澤、フライ、リベット、コーシー、メーサー、テイラー、アンドリュー・ワイルズなどである。最終的には1995年、イギリスの数学者であるアンドリュー・ジョン・ワイルズ(Sir Andrew John Wiles,)によって解決される。

 この物語でのポイントは谷山―志村予想である。谷山–志村予想(Taniyama–Shimura conjecture)とは「楕円方程式(曲線)はすべてモジュラーであるう」という予想である。1955年に谷山豊によって提起され、数学者の志村五郎によって定式化された。結局、ワイルズは谷山–志村予想を解決することでフェルマーの最終定理をとくことになる。この物語は数学におけるピラミッド建設の物語でもある。

 エピソードがつぎつぎ連続していくドラマ仕立てだが、話に途中飽かさない。ともかくアマゾンで本を買って読んでほしい。

 

 

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民主主義とファシズム:池内紀の「ヒトラーの時代」より

2024年04月26日 | 評論

 

 池内紀著の「ヒトラーの時代: ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」は形式的民主主義が、油断していると、たちまちファシズムに転化してしまうことを述べている。

 ナチスはその政権の独裁制を世界から非難されるたびに、その決定は民主的な手続きのもとに生まれたことを力説した。いかなる武力(クーデター)で権力を強奪したわけでなく、憲法で規定された民主的な選挙で選ばれたこと、つねに国民の審判を仰いだことを強調した(ただ悪賢いナチスはワイマール憲法の”バグ”=非常事態法を利用した)。確かに政権についた1933年1月より政局の展開のたびに国民投票が実施された。国際連盟脱退、ヴェルサイユ条約軍備制破棄、再軍備、ラインランド進駐など、国運を左右する決定のたびに国民投票で、それの可否を問うた。さすれば、有権者の多数の意思(意見)を集約する形式だけでは、なんの意味はなく、ファシズムの培養器ですらある。民主主義のかめのは、形式だけでなくプラスαとして何が必要なのか? 

 

 

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どうして人はだまされるのか?

2023年12月15日 | 評論

どうして人はだまされるのか?

ブライアン・インズ、クリス・マクナ(著)

定木大介・竹花秀春・梅田智世(訳)

日経ナショナルジオグラフィー(2023)

 

この書は、だます方の大全であるが、だまされる方にも多様なパターンが存在することがわかる。「だまされる人」を類別すると、おおよそ次のようになる。

 

1)頭が悪すぎる。

2)頭が良すぎる。

3)強欲すぎる。

4)”権威”を信じすぎる。

5)「疑い遺伝子」が少なすぎる。

 

1)は理解しやすい。街角の詐欺師に、エッフェル塔や自由の女神を”破格の安値”で売りつけられた観光客はこの類である。客の中には日本人もいたそうである。

2)の場合は、自分は頭が良いのだと思い込む過信による。たとえば、大学教授が簡単に詐欺に会うのはこのケースである。大学教授は頭がいいと思っているので「自分が騙されるはずがない」と思い込んでいるが、詐欺師はそれよりずっと頭が良い。「コティングリーの妖精」を信じ込んだコナン・ドイルの場合も、この例に当たるかもしれない。もっともドイルは、晩年、相次ぐ身内の死去により、心霊主義への傾斜を強めていた。理屈の問題ではなくて、「心の病」の問題であったともいえる。写真にトリックがあるのではという仮説なんか、頭から吹っ飛んでいたのである。

3)詐欺の被害者は、大抵そのカラクリを見抜いていることが多い(本ブログ「バーナード・マドフ事件」参照)。それでも、結局、被害にあうのは「まだまだ行ける」と思って欲を張るからである。

4)これもよくあるケースであるが、”権威者”が善意でやっている事が、結果として「だまし」になるケースがある。”名医”と言われる医師の臨床データー(何人殺したか何人生かしたのか)は調べておきたい。

5)疑い(臆病)は、人類の本性であり適応的形質である。交雑のはずみで、これに関する遺伝子が少なすぎる人は何度でも、性懲りもなく騙される。そして淘汰される。

 

 

 

 

 

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 医師シーボルトの功績

2023年11月03日 | 評論

 医師シーボルトの功績

 江戸時代に長崎・出島のオランダ商館にやってきた外国人の医師としてはシーボルトが最も有名である。フィリップ・フランツ・フォン・バルタザル・シーボルトは1796年、神聖ローマ帝国・バイエル州のヴュルツブルクに生まれた。シーボルト家は代々、医者の名門で父親はヴュルツブルク大学医学部教授であったが、シーボルトが2歳の頃に若死にしてしまった。そのため叔父のもとで母親に育てられた。人は幼児期に父と死別すると、後になって困難な状況での強い意志力と決断力、自分自身や家族のための成功への強い欲求心をしばしば引き起こす。シーボルトも、その人生の軌跡をみるとこの例外ではなかった。

 ヴュルツブルクの高校卒業後、1815年にヴュルツブルク大学医学部に入学している。ナポレオン戦争後のことで、ドイツの医学は急速に進展期に入っており、各地に多くの医学校が設立され、医学教育が充実し、医学生は解剖学や生理学などの基礎的な科目を学びながら臨床的な経験を積んでいた。さらに細菌や感染症の研究が進み、パストゥールやコッホらによる細菌理論の確立はまだ少し先のことだが、感染症の伝播や予防に関する研究も盛んであった。ヴュルツブルク大学医学部のレベルは高く、臨床関係の多くの研究所を備えていた。シーボルトが履修した科目の記録は存在しないが、外科、内科、眼科を中心に勃興しつつあるドイツ近代医学を習得したものと思える。   

 

                           

 このような時代の雰囲気を背景にシーボルトは青年期を過ごしたが、彼は医学の他にも植物・動物・地理・人類学をひろく履修したと言われる。シーボルトは亡父の友人で解剖学のイグナーツ・デルリンゲル教授の家に下宿していたが、そこで様々な分野の学者や研究者者と交流し自然博物学の関心を高めた。もっともこの頃は、かなりの荒くれ学生であったようで郷土のメナーニア学生団に属して何度も決闘し、顔に消えない傷跡を残した。                              

 1820年大学卒業後、国家医師免許を取得しハイディングスフェルトでしばらく開業していた。この頃は内科医とか外科医といった区別はなく、医者は「なんでも屋」の時代であった。そして1822年オランダ政府に就職し、東インド陸軍病院の軍医少佐となってバタヴィア(現在のジャカルタ)に派遣された。前から熱望していた東洋の自然研究を行なう絶好の機会と考えたのである。しばらく、そこに滞在していたが、1823年(文政六)ファン・デル・カペレン総督により日本に派遣される事になる。帆船「三人姉妹号」に乗り込んだシーボルトは8月12日に長崎・出島に到着した。このとき役人による人別改めにおいて、シーボルトのオランダ語発音が疑われたが、日本人通詞が「彼は高地オランダ人である」と機転を利かせてくれたので虎口を逃れることができた。そして来日した翌月には、早々と長崎・丸山の遊女であった楠本滝(基扇)と結婚している(遊女ではなかったという説もある)。後にシーボルトとツッカリーが『ファウナヤポニカ(日本植物誌)』でアジサイの種小名をotaksaとしたのは、この「お滝さん」の名を採ったことは有名な逸話だ。しばらくして、お滝さんとの間に娘(いね)をもうけた。

 第1回の訪日時(1823年8月1日~1829年12月30日)シーボルトは、出島でオランダ商館の館員の病気や怪我を診る医官としての役割を果たすとともに、日本の動物・植物などの自然物を収集し、そのコレクションをオランダ政府に送った。シーボルトは出島に来て1年3ケ月ほど経ってバタビアのオランダ政庁総督に宛てた報告書のなかで、「博物学やその他諸学の研究と医療活動を自分が並行して行なうのは困難なので、別に医師1名を日本に派遣して、自分が自然調査に専念できるようにしてほしい」と要求している。この頃は、医師としての任務よりも博物学研究を一義的に考えるようになっていた事を示している(あるいは最初からそのように考えていたかもしれない)。

 1826年には館長のスチュルレルに随伴して約5カ月かけ江戸参府旅行に出かけた。このとき江戸滞在中に幕府天文方書物奉行高橋景保と接触し、伊能忠敬が作成した『大日本沿海輿地全図』(日本全土の実測地図)の写しを手に入れた。景保はかわりにクルーゼンシュテインの著『世界周航記』をシーボルトから受け取ったとされる。後に、これが幕府に発覚しシーボルト事件を引き起こすことになる。シーボルトは1829年(文政12年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受け、12月に多数の収集品とともにオランダに向け出航した。オランダに帰着してからはライデンに居を構え、コレクションの整理と『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』の著作・編纂に努めた。48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女をもうけている。                

1859年、63歳になったシーボルトは13歳の息子アレキサンダーを伴って、オランダ貿易会社顧問として再来日した。その5年前に日本は開国し、さらに前年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除されていたのである。彼は鳴滝に居を定め、オランダ政府の為に外交にかんする献策をしながら日本研究を続けた。午前は日本人訪問客の応接に務め、午後は植物研究のために遠出した。白髭をたくわえたシーボルトが町や村に現れると、名主や町医者に歓待されて病人を診断した。そこでは患者には欧州の薬を処方するように乞われる事が多かったそうである。1861年には貿易会社との、契約が切れたため、幕府の外交顧問・学術教授となり江戸に向かった。江戸・横浜に滞在し、今度は幕府のために助言を行い、赤羽根の接待所で日本人に様々な教科を講義した。並行して博物収集や自然観察なども続け、風俗習慣や政治など日本関連の記述を残している。1862年に幕府により職を解かれ、5月長崎から帰国した。故郷のヴュルツブルクで「日本博物館」を開設するなどの活動をしていたが、1866年12月21日に70歳で没した。           

シーボルトの日本における活動は、多面的なもので、自然博物学者、医師、情報収集官、外交官(2回目の訪日時)に分類できる。その中で自然博物学者としての活躍がもっとも顕著で有名であるが、医師としての実績や評価についてはどのようなものであったろうか。シーボルト関係の書にあるように本当に名医だったのであろうか?

 それまでの商館医ケンペルやツュンベリーなども日本人の患者を診たが、出島に出入りする者や長崎の要人に限られていた。一方、シーボルトは身分の上下に関係なく広範な日本人患者の治療にあたった。一切、金銭を受け取らなかったので、患者達は感謝の意をこめて諸国の物産、美術品、工芸品、薬草、珍しい自然物などを置いていくようになった。シーボルトが、こういった物品をコレクションしているのを知っていたからである。診療活動の範囲は、最初は出島と長崎市内に限られていたが、郊外の鳴滝塾で患者を診るようになる。商館医へのこのような優遇は、それまで考えられなかった事であった。江戸参府中の日記には、シーボルトの噂を聞いて、道中いたるところで蘭方医や患者が宿屋に押しかけてきた様子が記録されている。                                   

 シーボルトが来日していた頃、日本では天然痘が流行していた。種痘は1796年に英国人エドワード・ジェンナーによって発明されたものであるが、西洋ではようやく汎用されるようになっていた。記録によると、牛痘ワクチンをオランダから持参したシーボルトは出島に着いた直後に、男の子3人に種痘を施している。さらに江戸滞在中にも子供5人にこれをおこない、そのやり方を幕府の医師に教えている。ただ、ワクチンが失活していたために、うまくいかなかった。種痘が本邦に根を下ろしたのは、約20年後の緒方洪庵が除痘館を設立した頃の事である。シーボルトは叔父宛てに「私が初めて日本に牛痘種を導入しました」と報告しているが、彼の前任者の商館医テュリングがすでにそれを行なっており、長崎の蘭方医吉雄幸載がこれに立ち会っている。                               

 シーボルトは江戸滞在中、眼科の侍医の訪問を受け、豚の眼の解剖実習を行ない、ベラドンナで人の瞳孔を開く実験を見せている。この時の様子をシーボルトは『江戸参府紀行』の中で「私は眼科についての書物と眼科関係の器具をいっしょに見せた。さらに瞳孔をベラドンナによって拡げる実験を行なう。その著しい効能に人々は驚き喝采した」と記している。ベラドンナとは、ナス科植物で外国産のAtropa bella-donnaの根から調整した薬剤であった。このとき見学していた侍医の中に土生玄碩(はぶげんせき)がいた。彼はシーボルトからベラドンナを分譲してもらうかわりに、将軍から拝領した葵の紋服を贈った。後に、これが露見して処罰されることになるが、この奇跡のような薬をどうしても手に入れたかったのである。玄碩は、シーボルトから、日本にもベラドンナが自生していると聞き、その植物を取り寄せ、白内障治療の虹彩切開手術に成功している。ただ、この植物はベラドンナでなくハシリドコロ(Scopolia japonica)であった。これらは属の違うよく似たナス科の毒草で、水谷助六(豊文)の描いた写生図に出てくるハシリドコロをシーボルトがベラドンナと見間違っていたのである。

 この頃の西洋の内科治療は、漢方と同じく薬草に頼る薬物療法であった。シーボルトが植物学に蘊蓄が深かったのは、自然博物学的な興味があっただけでなく、このような実用的な関心があったからである。シーボルトは欧州で使われている薬草を持参して治療に利用した。また長崎郊外に出かけて薬草探しも行なっている(実際は薬草収集を名目にした植物採集といったほうが当たっている)。また出島の植物園でも多くの薬草を育てた。当時の日本人医師の中には、漢方とさほど変わらないオランダ内科に批判をくわえる者もいた。たとえば建部清庵は「オランダ人医者は年々、出島にやって来るが、まともな内科というものがない。オランダ流といっても膏薬と油薬を使うだけだ」と杉田玄白への手紙で悪口をいっている。     

 シーボルトの最大の功績は治療活動そのものよりも、日本人医師(蘭方医)に対する医学教育であったといえる。それまでのオランダ商館医は出島の通訳や周りの限られた日本人に西洋医術を個別的に伝授していたが、シーボルトは長崎郊外に「鳴滝塾」を開設し、全国から若い優秀な医師を集め、授業と臨床講義を行なった。美馬順三、岡研介、伊藤玄朴、石井宗謙、伊藤圭介、二宮敬作、高良齋、湊長安、小関三英、鈴木周一、本間玄調、高野長英などの蘭方医が集まった。多くは後に日本の近代医学の発展に貢献した。先ほど述べた種痘にしても、シーボルトに方法を伝授された多くの弟子がそれを広めた。                     

 シーボルトの書いた医学的論文としては、大著『日本』の付録に載せた「日本の鍼術知見補遺(烙針法)」と「艾(もぐさ)の効用」がある。いずれも短いものだが、門人が提出したオランダ語論文をシーボルトが細かく添削してドイツ語に翻訳したものである。鍼についてはシーボルトが自ら試し「まったく痛みを起さず炎症もない」と感想を述べている。また美馬順三が加川流の産科教科書(『産論』」)をオランダ語にまとめて提出したレポートを、これも添削後、自分の名前でドイツの産科雑誌で発表した。シーボルト自身が医学的関心や興味でまとめた論文は見当たらない。                        

 シーボルトは1829年に帰蘭後、コレクションの整理と日本研究に集中し、医師としての活動はほとんど行なっていない。息子のアレキサンダーはそれを見て、「父は医学の才能を先祖から受けついでいたのに、自然科学を偏愛して医学の分野をなおざりにしたことは、まことに残念な事である」と述べている。もっとも再来日時には、30年間診断から遠ざかっていたにもかかわらず、日本人患者を診ており医師とも交流している。たとえば長崎町年寄の後藤惣佐衛門の陰嚢潰瘍手術の記録と処方箋が残されている(注1)。1861年7月6日、浪人が横浜のイギリス公使館を襲撃した東禅寺事件に際しては、シーボルトは現場に駆けつけて負傷者を手当した。シーボルトの再来日した頃、松本良順の奔走により長崎医学伝習所が幕府により開設されており、ヨハネス・ポンぺが招聘され教授をしていた。シーボルトとポンぺが直接、接触した形跡はないが、シーボルトが斬首された囚人の遺体を検分し、それをポンぺが解剖実習に用いたという記録が残っている。良順とは1986年9月1日に長崎で会って情報交換している。                           

 高野長英は医師シーボルトを高く評価し、父にあてた手紙で「この度の医者は格別秀いでている」とベタ褒めしている。一方、弟子の一人、本間玄調は「とかく評判は高いが、これといって特段の技術を持っているわけではなく、外国人というだけで初学者のようである」と手厳く批評をした手紙を知人に送った。玄調は全身麻酔を行った華岡青洲の弟子でもあった。弟子の間でも、このように評価は分かれていた。

 後に呉秀三はその圧巻の著「シーボルト先生ー其生涯及功業」においてつぎのように述べている。

  「シーボルト先生が出島を出でて、鳴滝塾に臨むはたいてい一週間に一回を例とし、その合間に楢林・吉雄氏は険悪なる症状にして診断治療に困難なるものを集め置き、シーボルト先生の来らるるを待ちて居り、先生はその病人を診て、いちいち症状を説明し、診断の仕方・治療の方法をうけるときは、鳴滝校舎にておこなえり。腹水穿刺を最初の手術として、腫瘍切除・その他外科・眼科・婦人科の諸手術並びに内科的処置は容易ならぬ難病を平癒せしめ、幾多の人命をいと危うき瀬戸際に救ひたり」

 呉秀三は、もともとシーボルト教の教祖のような人だったので、この評価はだいぶ割り引いて聞く必要があるが、他にもシーボルトは名医であったという説を唱える人は多い。しかし、シーボルトがどれほど有能だったとしても、開業医経験がわずか2年で「名医」といわれるレベルに達していたとは思えない。ただ、彼が学んだ西洋医学のレベルと当時の日本のそれとの落差や、持ち前の積極性、実行力、人間的魅力が人々を惹きつけたことは確かである。それまでの商館医には見られなかった活躍を行なったことは間違いない。 

(注釈)長崎のシーボルト記念館に残されている記録文書では、その処方箋は次のようになっている。「タンポポの根(4オンス)、忍冬(2オンス)、山帰来(2オンス)、キナ皮(1オンス)、大黄(2ドラム)1.5フラスコの水を1フラスコになるまで煮る。毎日、朝晩にそれぞれ小さい湯呑茶碗一杯分宛」ドイツ語でシーボルトが記したメモを蘭方医になった娘のいねが日本語に訳したものである。

 

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狐目の宮崎学と犬

2023年07月07日 | 評論

(「実話web」より転載)

宮崎学氏(1945-2022)については、その死後も様々な評価・評論がなされている。思索者、体制批判者として彼がどれだけ世界や社会を透徹して見ていたのかは問題があるが、一つだけ感心して彼の文章を読んだ記憶がある。その著「突破者外伝」(祥伝社2014年)において次のようなことを述べている(p216)。

最近、農村や一部の都市でもクマが出没して問題になってるが、この原因の一つは村や町内で結界を作っていた放し飼いのイヌがいなくなったためである。昔は犬は放し飼いが基本で、これらが習性から自然に集団化して縄張りをもち、集落の周辺に現れる野生動物を追いかけた。クマよりずっと小さくて弱いイヌも集団になると強い。日本のようにイヌの放し飼いを禁止している国家もめずらしい。イヌが人を噛む、吠えてうるさい、糞で道路が汚れるなどの小市民的な理由から、農村部でも都市でもイヌの放し飼いをやめるようになった。その結果、シカ、クマ、イノシシなどの野外動物がそこに進出してきた」

 筆者も比叡山延暦寺のお坊さんに同じようなことを聞いたことがある。昔は、叡山にはかなりの野犬がいて、彼らのお陰でシカやイノシシが畑に入り込まなかったそうである。さらに個人的な思い出を述べると、昭和20年代には都市でも犬は放し飼いで、幼稚園に通う道すがら町の辻々にボス犬がいて、これと闘いながらの通園だった。また、1970年代ごろでも京都市内の某大学の植物園内に夜な夜な野犬が集まってきて、夜中に園内で作業をする人を取り囲んだりしていた。日本では大昔から人と犬は密着して暮らしてきたし、そのような記録がある。そもそもホモ・サピエンスが栄えてネアンデルタール人が滅びた原因の一つがイヌとの共生の有無だったという説もある。

 暴力団対策法で新宿のヤクザ(町内の犬)が取り締まれて、いなったくなったので、”本物の犯罪者”である中国マフィア(熊)が縄張りに入り込んで来たという。社会でも身体でも無菌状態にすると、かえって脆弱になるという理屈に、どれだけの根拠があるかわからないが、宮崎氏の主張はなんとなくエコロジカルで合理的なものと思えた。

 ところで、須田慎一郎氏がYutubeで語る宮崎氏の「追悼番組」(追悼 宮崎学さんから学んだこと - YouTube)にはかなりやばい話がでてくる。ホテルのロビーで宮崎氏が須田氏を恐喝し、いう事を聞かないので、ちゃぶ台返しをしたというのだ。これはチンピラヤクザの常とう手段で、ここでは町の野良犬を演じていた。”権力と戦うアウトロー”のはずが、チンピラヤクザの裏の顔を持っていたのである。それが魅力といえば魅力だったかもしれないが、こんな事で論客宮崎が”しのぎ”をしていたとは情けない。

(注1:「宮崎学」をインターネット検索していると写真家の宮崎学(みやざきがく)氏とかぶる。この人は長野県出身で、社会的視点にたって自然と人間をテーマに活動しているまじめな報道写真家である)こっちの宮崎氏の著「イマドキの野生生物」(農文協2012)には、ツキノワグマの生態の話がでてくる。森林構造の変化により、その活動分布が変化してきたという。

(注2:「ヒトとイヌの共生」から「人と犬の共生」への進化的考察が今後のテーマである。犬が街にいない社会がどのようになるのか? また人が減少すると犬はどのようになるのか文化動物学的考察の展開が期待できる。各民族におけるその形態と変遷を比較生態的に考究する必要がある。林良博の「日本から犬がいなくなる日 時事通信社 2023)も参考になるが、文化史的考察は希薄である。

 

追記(2023/07/17)

人と犬の「共生」を破壊したのは、明治政府であることをアーロン・スキャブランドが「犬の帝国-幕末日本から現代まで」(岩波書店、2009)で書いている。鑑札のない犬に懸賞金をつけて始末させた。

 

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