ナガサキアゲハの雄(2023年8月京都市内で撮影)
庭の山椒の枝に大型の黒蝶が悠然と止まっているのを見つけた(上写真)。ナガサキアゲハ(Papilio memnon)の雄である。このチョウはアゲハチョウ属に分類され成虫の前翅長は60-80mmに及ぶ。関西地方で観られる黒色系のアゲハ蝶はこのチョウの他に、クロアゲハ、カラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、モンキアゲハ、ジャコウアゲハ、オナガアゲハがいる。ナガサキアゲハの雄はクロアゲハに、雌はモンキアゲハに似ているが、このチョウは後翅に尾状突起が無いことが特徴である(後述するがメスには尾を持つものがたまにいる)。雌雄とも前後翅の裏面基部に顕著な赤い斑点がある。このチョウは東南アジアとインドネシアの島嶼から、中国、台湾を経て日本まで広く分布しており、いくつかの亜種に分かれている。
ナガサキアゲハは、そもそも南方系のチョウで、1980年頃までは九州全県および四国南部の平地から低い山地帯にかけてふつうに見られたが、本州では山口、広島でまれに観られる程度であった。しかし1980年代半ば頃から、近畿地方でも目撃と捕獲の記録が出始め、1990年に岐阜県、1992年に愛知県で、さらに2000年ごろには横浜や東京都内でも見られるようになった。白水隆の蝶図鑑には2006年に、三浦半島で定着し普通に見られるようになっていると記載されている。このチョウの北進は東京で止まることはなく、2007年に茨木、2009年に福島、宮城でも確認されるようになった。2012年には仙台市で、ナガサキアゲハの5齢幼虫がカラタチに定着していたというインタネット情報もある。ナガサキアゲハ以外にもモンキアゲハ、クロコノマチョウ、イシガケチョウ、ヤマトシジミなどのチョウ類も同様に分布を北に広げている。その原因は、地球温暖化により平均気温がどこも昔より高くなっているためである。急速に分布を広げるナガサキアゲハは地球温暖化の「環境指標生物」とされている。今後、青森さらには北海道でも目撃される日が来るかもしれない。
江戸時代、長崎出島に常駐していたオランダ人は、将軍を表敬訪問するため江戸参府を行うのを習わしとしていた。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも1826年2月15日、商館長のシュツルレルに随伴して長崎を出発し江戸に向かい、4月10日に到着している。こういった歴史的事実をなぞって、このチョウの東京までの北進を「ナガサキアゲハの江戸参府」とマスコミは報じた。
日本に棲息するナガサキアゲハP. memnon thunbergii の亜種名 "thunbergii"は、シーボルトが命名したもので、18世紀に来日した長崎のオランダ商館医で植物学者のカール・ツンベルクに敬意を表したものである。シーボルトは1823年8月12日出島に上陸し、わずか二か月後に小論文[DieDe historiae naturalis in Japonia statu(日本における自然史の現状)]をラテン語で書き上げている。これは翌年、バタビアで出版されたが、そこで紹介されたのは哺乳類5種、鳥類2種、爬虫類1種、魚類1種、甲殻類14種、昆虫2種の25種類の動物である(植物は含まれていない)。この2種の昆虫の一つがナガサキアゲハであった。もう一種はタテハチョウ科のルリタテハ(Kaniska canace)で、この蝶は北海道を含めて日本列島に広く分布している。記載された標本のいくつかは、それまで商館長であったブロムホフが集めていたものをシーボルトに託したものである。
ナガサキアゲハが緯度の高い比較的寒冷な地域に分布を広げていくメカニズムが研究されている。それは、どうやら1年中の最寒月の最低気温が地球温暖化で次第に高くなり、冬眠している蛹の凍死率を下げたためのようである。化性(発生回数)や光周性(季節情報の受容能)を遺伝的に変化させるまでには至っていない。すなわち、集団として昆虫の生理生態的な形質が変化しているのではなく、温暖化にともなって冬季の生残率が高まったことで、寒冷な地方に分布が拡大していると考えらる。 チョウ類の分布拡大は、蝶の愛好家には好ましい事態かもしれないが、熱帯の感染症を媒介する昆虫も拡大・繁殖することで公衆衛生的な問題が生ずる可能性がある。例えば、重症性のマラリアを媒介するコガタハマダラカである。これは日本では、沖縄の宮古・八重山諸島にのみ分布しており、今のところ沖縄本島では見つかっていない。しかし、温暖化が進めば、沖縄から、九州南部、四国の太平洋地域まで拡がると言われている。植物は昆虫に比べて移動・分散が遅いので、このような急速な水平分布の変動は知られていないが、高山植物の生息域が温暖化で狭めらえている例がある。桜などの開花日が平均移動統計によると次第に早くなっているのも、その影響と考えられる。
産業革命以来、地球の平均気温は1.5℃ほど上昇している。京都では1881年以来の統計データーで約2.2℃上昇している。これは、どんなに頑迷な温暖化陰謀論者でも認めざるを得ない事実であろう。この6月中旬には、イスラム教徒がサウジアラビアの聖地メッカを訪れる大巡礼で、巡礼者1300人以上が熱中症で死亡したと報じられている。メッカでは6月17日に気温52度を記録し、おそるべき酷暑が続いていた。国連のグテーレス事務総長が、いまや「地球温暖化」ではなく「地球沸騰化」であると述べる事態になっている。その原因については諸説があるが、工業活動に伴う温暖化ガスの増加や原子炉の廃熱が、その主要原因であるとする考えが主流である。
京都は盆地で冬は寒く、夏はことさら暑い。伝統的な町屋は夏の暑さ対策のために工夫がなされていたが、最近はどのビルや家屋にもクーラーを取り付けているので、それが出す廃熱のために街はますます暑く住みにくくなっている。温暖化に加えて、こういった都市熱の影響もあって、京都では気温が35℃以上の猛暑日が年々、増加している。ナガサキアゲハの北進で最低温度が生物の生存率を支配する例をみたが、京都の夏場における酷暑日の増加は、老人や病弱者の熱中症を増やすだけでなく、全体の平均余命の縮小を引き起こしているかもしれない。気温の平均値よりも暑さの突出日に注意しないといけない。
このように、ナガサキアゲハは環境指標生物として有名なチョウになったが、分子生物学の分野でもスーパージーン(超遺伝子)を持つチョウとして注目を浴びている。最後にこの「超遺伝子」について簡単に述べておく。熱帯にはオオベニモンアゲハという色鮮やかな毒蝶がいる。そして、これにそっくりベーツ型擬態したナガサキアゲハがおなじ場所にすんでいる。これは全てメスで、色彩だけでなく、有尾で形態もよく似ている。しかも、ゆっくり飛ぶといった行動までまねる。非擬態型のメスもいて、これは無尾で、オスの擬態型はまったく観られない。これを発見したのはダーウインとともに進化論を提唱したアルフレッド・ウオーレスである。最初は、複数の擬態遺伝子がまとまって、性染色体に存在するのかと考えられていたが、常染色体上に逆位や組み換えの起こりにくい構造で存在することが分かった。こういった遺伝子セットを「超遺伝子」というらしい。その遺伝子構造にトランスポゾンを含むことから、ひょっとすると相手の毒蝶の遺伝子から。なんらかの仕組みで飛んできたのかもしれない。日本列島を北上するナガサキアゲハには擬態型のものは観られない。温度感受性の違いが議論されているが、出たとしても真っ先に鳥に食われてしまうからであろう。
参考文献
P.F Siebold(1824) De historiae naturalis in Japonia statu, nec non de augmento emolumentisque in decursu perscrutationum exspectandis dissertatio : cui accedunt spicilegia faunae Japonicae.
(日本における自然史の現状ー調査の進行に伴う増加と利益についての論文:日本動物相に関する摘録を付す)Batavia
北原正彦, 入來正躬, 清水 剛 (2001) 「日本におけるナガサキアゲハ(Papilio memnon Linnaeus) の分布の拡大と気候温暖化の関係」蝶と蛾 52 巻 4 号 p253-264
古屋政信、石井実 (2010) 「気候温暖化とナガサキアゲハの分布拡大」{地球温暖化と昆虫: 桐谷圭治、湯川淳一編}p54-105, 全国農村教育協会
藤原晴彦 (2020) 「超遺伝子」光文社新書