京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

アリやハチに「測穏の情」はあるか : 昆虫の救助 (rescure)行動

2020年03月31日 | ミニ里山記録

  路傍で人が倒れていたら、大抵の人は心配して助けにいく。通りがかりの池で子供が溺れかけていたら、なんとか救助してやろうとする。これが測穏の情というもので、学校で教えられなくても自然に発揮される人の生得的な行動である。こういったレスキュー行動 (RB)が人間だけのものか他の動物にも備わっているのかは、ずっと動物の行動学や心理学のテーマになっていた。

 脊椎動物においてはイルカのRBが有名である。傷ついて弱り泳げなくなった仲間の空気呼吸を助けるために、他のイルカ達が下から押し上げてやりながら遊泳する。

動物が家族を助けるケースで感激的な映像は、プールに落ちて溺れそうになった子象を親がたすける映像である。(https://www.youtube.com/watch?v=4Fd1dbRKfHE)

動物が他種の動物を助ける例もたまにある。(https://www.youtube.com/watch?v=Q7wi2zDKh00)これは子供を捕食者から救助する行為や危機からすくう本能が転化したものであろう。人が発揮するそういんの情も、そのようなものかも知れない。

 

無脊椎動物の昆虫では社会性の種において手助け(helping)行動をするのはよく知られているが、はっきりしたRBは知られていなかった。しかし、フランスのNowbahariらのグールプはウマアリ属の一種があきらかなRBを示すことを示した(論文1)。

具体的には以下のような実験を行った。一定条件で飼育したCataglyphis cursorコロニーからターゲットになるアリ(victim)を取り出し、これにナイロン糸で腹柄をしばり、糸の両端を1cm角のロ紙に通して固定する。巣口から10cm以内に、この捕われのアリを置く。一回の実験に5匹のアリを用いて、ナイロン糸で動きのとれないで困っているアリに対する反応を観察した。

その結果、試験アリが同巣のアリの場合は、砂を掘る、砂を運ぶ、捕われアリの足を引っ張るなどの行動を示すだけでなく、ナイロン糸に噛み付くといった特異な行動を行った。これは、アリがRBを示したことを示唆するものである。一方、他巣の同種アリや他種のアリに対しては上記のいかなる反応も見せず、反対に噛み付いたり蟻酸を撒くなどの攻撃行動を示した。

 このアリはコロニー内での労働分化の状態によって、RBの程度が違う事もNowbahariらは報告している(論文2)。

採餌グループ (forager)、内勤グループ(nurse)、不労働グループ(inactive)の中でforagerがRBを最もよく示し、また捕われアリとして最もよくレスキューされることがわかった。反対にinactiveはPBも示さず、レスキューもされなかった。foragerがRBをしめすのは、巣の外でのリスクに対応するために適応的に発達させたものであろう。

このアリが砂を除けてナイロン糸を噛む(食いちぎるために)行動は反射行動とは思えないので、これこそアリに「意識」の存在を予想させる実験結果である。ただし、コロニー内の分化労働グループによってはRBを示したり、そうでなかったりするので測穏の情といったもので無い事もわかる。昆虫では発育ホルモン (JH)の分泌量によって労働分化は決まる。人の測穏の情は、そのような個人の生理的な状態で決まるものではない。もっと文化的で社会的なものを基盤にしている。

 

 アリではないが、庵主はニホンミツバチを実験巣箱で飼育しているときに不思議な光景を目撃した。一匹のワーカーがプラスティクの隙間にはさまって抜け出せなくなった。それを周りのハチが引っ張りだそうとこころみたのである。このはさまったハチは動くので生きていた。すなわち遺骸処理のための行動とは思えない。これもハチのRBではないかと思っている。

以下のYUTUBEチャンネルに、この時の動画を登録してあるので興味のある方はご覧いただきたい。

https://youtu.be/oKwLqJke5GA

 

参考文献

1) Elise Nowbahari, Alexandra Scohier, Jean-Luc Durand, Karen L. Hollis. (2009)『Ants, Cataglyphis cursor, Use Precisely Directed Rescue Behavior to Free Entrapped Relatives』PLOS ONE , Vo 4, e6573

2) Elise Nowbahari, Karen L. Hollis, Jean-Luc Durand (2012) 『Division of Labor Regulates Precision Rescue Behavior in Sand-Dwelling Cataglyphis cursor Ants: To Give Is to Receive』 PLOS ONE, Vol 7, e48516

3) 中島定彦 『動物心理学』2019 昭和堂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Has man a future?: 人類に未来はあるか。

2020年03月24日 | 評論

バートランド・ラッセル 『人類に未来はあるか』日高一輝訳 理想社刊 1962年

 20世紀において人類が総体として危機におちいった大事件が二つある。一つは1918年のスパニッシュインフルエンザ(スペイン風邪)によるパンデミックである。当時、世界人口は約20億弱であったが、5000万から1億人もの人がこれのために亡くなったとされる。推計値に大きな差があるは、アフリカや中国での正確な統計がとられていないためである。いづれにせよ第一次世界大戦 (1914-18)の全犠牲者が戦闘員と民間人あわせて約3700万人といわれているので、これをはるかにこえる数の犠牲者であった。

当時の日本では、人口5500万人に対して約39万人が死亡した。都市部だけでなく農村部でも大きな被害を生じた。北国新聞 (1918年11月21日)は「感冒の為一村全滅」というタイトルで、福井県大野郡穴馬村の約1000人中970人が罹患し死亡者70人と報じている。京都では第三校等学校校長であった折田彦市先生がこれに罹って亡くなっている。

スパニッシュインフルエンザの発生(正確な場所は不明)は自然生態的なものであったが、感染の蔓延には世界大戦という背景があった。感染したアメリカ軍の兵士が船で運ばれ、一緒にウィルスを世界に広げた。1年間でドイツ兵によって殺されたアメリカ兵の何倍もの人数をたった2ヶ月で失った。これはドイツ軍も同様であった。

季節性インフルエンザは老齢者や幼い子供をターゲットにするのに、このときのパンデミックでは、青年の方が罹りやすくまた重症化しやすかった。その頃の生命保険会社のデーターによると、犠牲者の平均年齢は33歳であった。

青年に取り付きやすいウィルスがたまたま発生したのではなく、そうなる必然性があった。大戦中で多数の若者が徴兵されて兵舎や塹壕に詰め込まれていた。すなわち、非衛生的でストレスが多い環境にいた兵士をウィルスは襲った。変異したウィルスで青年に「適応」したものが、そこで爆発的に感染を広げたのである。

 この100年前の惨劇は歴史の教科書にはあまり取り上げられていない。アルフレッド・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房)には「忘れられたパッデミック」という副題がついている。この作者は「人の記憶というもの-その奇妙さについて」という1章題をもうけて、これについて議論しているがすっきりした理由は出てこない。

医療の進歩により、このような事態は再びおこるまいとする慢心があったのだろう。しかし今回の新型インフルエンザ(COVID-19)のパンデミックで、そんな楽観論も打ち砕かれてしまった。

 

20世紀2度目の全人類的なクライシスは1962年のキューバ危機である。これは前のと違って純粋に政治的な事件であった。

1962年ソ連のフルシチョフがキューバに核ミサイル基地を建設した。それを察知したアメリカ合衆国ケネディ大統領はカリブ海でキューバの海上封鎖を実施し、核戦争の瀬戸際になった。極限の緊張が高まった時に、ソ連の輸送船団は引っ返して世界の破局は間逃れた。庵主はその頃高校生であったが、この日学校で級友と「一体どうなるのだろうか?」と不安げに話しあった記憶がある。

ウィキペディア(Wikipedia)の「キューバ危機」の項目を参考にしてもらうと、この危機の間に両陣営で何度も核兵器の発射ボタンが押されそうになったことがわかる。しかし、この事件の詳細は一般に知られず、また比較的短期間に収束したので、いまでは単なる歴史的なエピソードとして忘れかけらえている。

 

この事件を予見するようにして出版されたのがラッセルの掲書『人類に未来はあるか?』だ。

バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(1872-1970)はイギリスの哲学者、論理学者、数学者、平和運動家である。1950年にノーベル文学賞を受賞している。1955年に核廃絶をうったえる「ラッセル-アインシュタイン宣言」を発表した。以下この著からの抜粋。

『人類は、飢餓、洪水、火山の噴火といったような、たたかうべき危険をもっていた。(中略)そして人類は、こういった危難から抜け出す際、本能的なそして感情的な性格を一緒に新世界に持ち込んだ。それによって人類は前代を生きのびたのである。彼らは生き延びるために、非常な強靭さと情熱的な決心を必要としたものである。彼らはぬけめのない用心、油断のない気づかい、そして危機に際してはそれに立ち向かう勇気とを必要とした。そしてその過去の危難を克服してしまったあとで、彼らはその身につけた習慣と情熱をどのように処理しようとしたか?彼らは解決策を見いだしたが、それは不運にも幸福なものではなかった。彼らは、従来、ライオンや虎に向けていた敵意と嫌疑をその人類の仲間に向けたのである』

 

 ようするに、人類は自然の脅威に対する闘いの本能を他の人類にも向けてきたというのである。このラッセルの語りと現在進行中のCOVID-19によるパンデミックと関連づけてみよう。

各国政府の必死の努力にかかわらず、これに罹る人が罹り、死ぬ人が死んでいつかパンデミックは終焉するであろう。そして全世界で何万何十万(考えたくないが)という犠牲者が出て、残された遺族の怨嗟の声と責任を問う声にあふれるであろう。経済も社会もズタズタにされた多くの国では凶暴なナショナリズムを生むであろう。

これの予兆はすでにある。欧米諸国における、東洋人に対する感情的な差別や迫害が報じられている。コロナウィルスの起源と出所に関して、米国と中国の高官政治家レベルで非難合戦がはじまっている。それぞれの理性が勝利し、これが軍事的なクライシスに発展しないことを庵主は祈る。もし万が一、”米中コロナ戦争”が突発したら、一番に破滅的な戦場になるのは、台湾、韓国、日本であることは地政学的に明らかである。

 

追記1)(2020/04/02)

 ラッセルはアルフレッド・ホワイトヘッドと『プリンピキア・マティマティカ』(1910-1913)を著したことで知られている。この書は1 + 1=2であることを証明するのに379頁を使用している。

ブライアン・クレッグ(「世界を変えた150の科学の本」:石黒千秋訳、 2020、創元社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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静かな祇園の風景

2020年03月16日 | 文化

 

 

 祇園の花見小路を久しぶりに歩いてみた。ほんとうに一昔前の京都にかえったような、すがすがしい気持ちになった。春節が終わる頃までは、外国の観光客であふれかえっていたのが嘘のようだ。

新型コロナウィルス騒動で、中国や韓国をはじめとする外人訪問客が激減したためである。インバウンド(嫌な言葉だ)を頼りにしていた商売はあがったりで、この状態が長引くと倒産する店がたくさんでると言われている。

これに関連して養老孟司さんが『京都の壁』(PHP研究所 2017)という講演録で、いいことをおっしゃっているので紹介する。

 

 『旅の宿の人を当てにしていては商いは長続きしない。たとえば今、私が商売を始めるとします。中国人の観光客が大勢来ているから、中国人をあてにして店を始めるとしましょう。でも、北京政府がへそを曲げたら、あっという間に減りますからね。そんな危ない商売はできないと私は思います。

 2016年の7月に台湾の台東に行ってきたのですが、台東のビジネスホテルの人が言っていました。台湾の総統が独立派にかわった。そうすると、中国本土からの客が三割も減ったそうです。北京政府が意地悪するのです。

 東京あたりでは中国人観光客の瀑買いを当て込んで、商売をしているところがたくさんあります。そんなものを当てにしていてはいけません。一時はいいので、そのときに稼ぐのはいいけれど、それをつい人間は当てにしてしまいます。たぶん、長続きはしないでしょう。中国人スタッフを雇ったとして、瀑買いが止まったらどうするのか?そういう下手な商売を京都の老舗はしません。やったかもしれませんが、そういうところはつぶれたのだと思います。結果、そうしなかった店だけが何百年と続いて老舗として残ってきたのです(以上引用)。』

 

 なんでも儲かったらいいというのは、京都人の心ではないのだ。調べたわけではないが、京都で外人相手の商売をする経営者は、「よそ者」なんだろうと思う。この騒動を契機に、京都の姿がこのまま保たれることを祈る。

 

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PCRの苦労話と新型コロナウィルス

2020年03月08日 | 環境と健康

 新型コロナウィルス (SARS-CoV-2)の騒動が始まって、「PCR」という用語が新聞やテレビにさかんに登場するようになった。最近では、うかつに人前で咳なんかすると「PCR検査でも受けたらどう?」といやみを言われる。

   PCR (polymerase chain reaction)はDNAを増幅する方法で、キャリー・マリス博士(1944-2019)が発明した技術である。これにより博士は1993年にノーベル化学賞を受賞した。(拙ブログ2019/08/29付「悪口の解剖学 : Nature誌なんかぶっ壊せ!」)。PCRは原理的にはDNA鎖一本でもこれを無限に増幅できる技術である。

庵主が大学の生物学系の研究室に勤めていた頃、PCR実験に明け暮れていた時期があった。材料の調整、遺伝子DNA抽出、精製、エタノール沈殿、濃縮、溶解、増殖、電気泳動、切り出し、シーケエンス確認(これは場合による)などといった細かい約30項目もの作業を連続でこなさなければならない。RNA(mRNA)の場合だと、RNAからDNAを逆転写酵素という酵素を利用して合成し、これをテンプレート(鋳型)にして増幅を行う。今回問題になっているSARS-CoV-2もRNAウイルスであるので、同様の逆転写処理が必要となる。

 数多い操作ステップの一つでも手抜きしたりすると、出るべき結果が出ない。学生の中には個体差があり、要領よくサッサとできる学生と何度やっても失敗する学生がいた。PCRに限らず分子生物学研究の試薬やキットは高価なものが多い。そんな不器用な学生の失敗が続くと、指導する先生の顔がだんだん青くなっていく。そして最後は怒って赤くなる。

 国立感染症研究所 (NIID)の作ったコロナウィルス検出マニュアル (https://integbio.jp/dbcatalog/record/nbdc01308)をみると、詳しい実験プロトコールが書かれている。ともかくこのマニュアルをみると、PCRによるウィルスの遺伝子検査がとても大変な事がわかるはずである。ここには2-StepRT-PCR法とTaqManプローブを用いたリアルタイムRT-PCR法の二つが記載されている。2-StepRT-PCR法ではnestedPCRを行うので、PCR操作が2回も必要である。しかも電気泳動で該当バンドの確認をしなければならないので時間がかかる。一方リアルタイムRT-PCR法の方はPCRは一回ですむし、電気泳動が必要ないので比較的早い。陽性コントロールだと、増幅曲線の立ち上がりが40サイクル以内に観られるように調節してあるそうだ。ただ、この機械は普通のPCRの機械に比べるとかなり高価である。

 インターネットの関連記事を読んでみると、ウィルス検査で偽陽性とか偽陰性という表現がみられる。これは何の事であろうか?PCR検査での偽陽性とは抗体検査のそれとは違って、採集現場あるいは実験室でのキャリーオーバー(コンタミ)である。すなわち事故的な余分な試料の混入ということだ。サンプル処理室とPCR機器室を別々に分離するなどして、これを防止しようとするが、それでも起こる。それほどPCRというのは感度の鋭敏な技術なのである。コンタミで一番の悲劇ケースは、プライマーなどの試薬チューブにDNAが混入した時である。これでは後、どんなに注意して操作しても検体の100%が陽性にでてしまう(追記を参照)。純水のブランクを必ずコントロールとしてPCRにかけるのは、こういった事をチェックするためだ。

一方、偽陰性というのはウィルスに感染しているのに、PCRにひっかからないケースの事らしい。この原因はウィルス量が少なすぎて検出されない場合と、分析におけるなんらかの操作不備でそうなるケースが考えらえる。新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の科学的な判定は、今のところSARS-CoV-2のPCR検査しかないので、偽陰性かどうかを決める手だてはない。再度、提供者からサンプルを採りなおして分析を繰り返すといった事は、症状がある場合はやるかもしれないが、全てやりなおすのは実際的に無理である。

 PCR検査が保険適応されて担当医師から直接民間委託されるようだが、民間会社でいますぐどれほど取り扱えるのかは疑問である。SARS-CoV-2の分析は、バイオセイフティーレベルBSL2の施設で行う必要がある。さらに、上で述べたような特殊な装置と器具および技術が要求される。分析要員には、こういった病原微生物取り扱いの教育、訓練も必要である。そのあたりの民間の事業所で急にできるわけではない。

こんなパンデミックは想定外の事として油断してたのが、そもそも間違いであった。天災は忘れた頃にやって来る。

 

 

(リアルタイムPCRの機械の一例)

 

追記(04/13)

実際そのような例があるのが報道された(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200412/k10012383491000.html?utm_int=all_side_ranking-access_005)。

<愛知県は県の衛生研究所で実施した新型コロナウイルスのPCR検査の結果として、28人の感染が確認されたと11日に発表した。しかし、県によると、県内の保健所の1つから「検査を依頼した検体がすべて陽性になったのはおかしいのではないか」と指摘があり、12日に改めて検査した結果、実際には感染していたのは4人だけで、残る24人は感染していなかったことが分かった>。

 

追記(05/12)

ウィルス専門家の西村秀一さんもPCRの問題点で同じ指摘をしておられる。東洋経済Online(5月12日号)

「PCR検査せよ」と叫ぶ人に知って欲しい問題: ウイルス専門の西村秀一医師が現場から発信

 

追記 (06/25)

中小の民間診療所が陰性確認のためにPCR検査を自由診療で受け付け始めた。保険適用ではなく2-4万円費用がかかる。保険適応となるPCRの検査業務は国立感染症研究所などの公的機関や民間検査受託会社が請け負っている。検査数は一日8000-9000人とされている。また保健所を介さずにPCR検査できる拠点が近畿に7ヶ所設置されている。これは秋までに29ヶ所まで拡大される予定(日経新聞 06/16.

18).

 

 

 

 

 

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時間についての考察: 相対論的な同時性の問題

2020年03月06日 | 時間学

 

 

 時間学の本によく出てくる「同時の相対性」について考えてみよう。これは光の動きを対象にすると、ある慣性系で観察された「同時」現象が、別の慣性系から観ると同時でなくなるという不思議な思考実験の結果について述べたものである。具体的には以下のような内容である。

図(森田邦久著『時間という謎』より転載)

 

 静止地面に対して速度vで走る列車の真ん中から、列車の前方と後方へ向かって光(光子)を発射する(図参照)。このとき、光の速度をCとおく。列車の真ん中にいる観測者Aからは、これらの光か車両の先端と後端に同時に到着するのを観測するはずである。ところが、光を発射したときに、ちょうど列車の真ん中の位置にいた地上の観測者Bが観測すると、列車が動いている分、光は前端より後端に早く到着したように観測されるはずである。つまり、列車内の観測者からは同時であった出来事が、地上の観測者から観ると同時でない。なぜ日常的な常識と違うのか?これは「同時の相対性」と称する難問である。

 

 まずニュートン力学(日常空間)で考えてみる。この場合は光のかわりに速度Vで撃ちだされた弾丸を考える。窓のない車内のAにとって弾丸は左右に飛ぶ。中点から車両の端までの距離をLとすると、進行方向の壁に弾丸が到達するまでの時間ΔtはAの計算によると。

Δt = L/V

一方反対の壁に弾丸が到達するまでの時間Δt'

Δt' = L/V 

これから Δt = Δt'

Aにとって弾丸が前と後ろの壁に到達する時間は同じ。すなわち同時性が成り立つ。

 

一方、車外からこれを観察するBは次のような計算をする。

Δt = L/{(v + V) ー v} = L/V

Δt' = L/{(V-v)+v} = L/V = L/V

弾丸は動く列車内で慣性を持っており、発射される前から列車と同じ速度vで動いている。計算結果は観察者Aの得た時間とまったく同じである。

もしAが窓のある列車に乗っていたら、Aは最初からBのような計算をしていたかもしれないが、いずれにせよ結果は変わらない。ニュートン力学では慣性系が変わっても時間は変化しないのである。

 

しかし、弾丸のかわりに光が真ん中の光源から発射されるとすると、話は途端に複雑になる。

前と同様の計算を窓のない列車内のAが計算すると

Δt = L/C, Δt' = L/C よって Δt = Δt'

すなわち光は同時に前端と後端の壁に到着するとなる。これは弾丸での実験結果と同じである。Aの観察場では空間は前も後も等質で、光も同じ条件でそれぞれの方向に投射されているので単純にこの計算ですませることができる。

一方、列車外の静止系にいるBの計算結果は違う。光は電磁波で質量がなく慣性を持たないこと、および光速不変の原理を前提にしている(そうしないと弾丸の実験と同じ事になってしまう)。

Δt = L/(Cーv)

Δt' = L/(C +v ) 

v>0だから、 Δt > Δt'

 静止系の観察者のBからすると、光は後端より前端に遅れて到達する事になる。すなわちAが観察した同時性が観られない事になる。ニュートン力学の常識世界の思考法では、この矛盾は解決しない。直感的には、静止系と慣性系では時間の動きや空間の構造が違っているという仮説(すなわちアインシュタインの相対性理論)を導入しないかぎり解決しないように思えるのである。

 そこで次のような思考実験を行うことにしてみよう。上の実験はAが観察した同時性だったが、Bにも公平に同時性を観察させて、それに要する時間の比較をしてみることにする。

具体的には以下のような実験を行う。列車の前端と後端にそれぞれ鏡を置く。そして列車の中点から投射された光が鏡に反射して、もとの中点にもどるまでの時間を、AとBがそれぞれ計測する。前後の空間はまったく等質であるので、観測者A,Bのいづれも光が同時に中点にもどることを確認するはずである。

列車内のAの計測では、中点に帰ってくるまでの時間は前後の反射光とも

 ΔTi = 2L/C

一方、列車外のBにとっては前後の反射光とも

ΔTo = L/(Cーv) + L/ (C +v)  = 2LC/(C^2ーv^2)

ただ相対性理論では静止系から運動系を観察したときにローレンツ収縮というのが起こる。もし列車が高速で動いていると、動いていないときに比べて進行方向に車体が縮んでいるように見えるはずである。

ここでγ =1/√{1ー(v/C)^2}とすると(これは有名なローレンツ因子である)

ΔTo = L(1/γ)/(Cーv) + L(1/γ)/ (C +v)  = 2L(1/γ)C/(C^2ーv^2)=2L/C(1/γ) x γ^2 =ΔTiγ

まとめると

ΔTo (Bからみた時間) = ΔTi(Aからみた時間) x (γ )(ローレンツ因子)

この式から、列車のスピードvが光速Cに比較して小さいときは、ΔTiとΔToはほとんど変わらない。しかしvが大きくなりC に近づくと、ΔTo/ΔTiが大きくなり、Bからみると列車の時計(時間)が自分のものよりゆっくり動いているように見える。これは天井に光をあてピタグラスの定理で計算した結果と同じで理屈は一緒だ。

この実験系では光が中央で出会うのはA、Bにとって同じ時刻である。別々の時刻にAのために一回、Bのために一回などと言う事はありえない。ただしBにとってAの時計が遅れて見え、かつ車体が縮んで見えるといった状況となっている。反対にAにとってはBが後方に移動している列車に乗っているとも言えるので、同じ論法でBの時計が遅れていると主張できるのである。

 

 この”同時性”問題は車内のAの観察する同時性だけにこだわって考えていたらなかなか解けない。AとBが公平に観察できる同時性を設定してやり、その時間の相対的な比較によって理解することができたのである。

 

参考文献

森田邦久著『時間という謎』春秋社 2019

 

 

 

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マスクの効用についてーWHOは頭が悪いのかそれとも何か裏があるのか?

2020年03月04日 | 環境と健康

 

(写真は福井新聞on-lineより)

 マスクは依然品薄で店頭にみかけない。毎日使い捨てにするからそうなるのである。庵主は一度使用したマスクは水洗いして、洗剤を溶かした温水に一晩浸けた後、さらによく水洗いし干して再利用している。洗剤は強力な界面活性剤なので細菌、カビ、ウィルスなどは、ほぼ100%死滅する。それでも気になる人はアルコールを表面にスプレーした後、乾かして使用すればよい。化繊でできた不織布のマスクは、破れないかぎり何度でも使用できる。マスクを使い捨てにせよというのは、そもそも地球にやさしくない。

  WHOは2月27日マスク使用に関する指針を発表し、またまた「マスクの利用は推奨しない」と主張した。マスクは新型コロナウィルス (SARS-CoV-2)を含めた感染症に対する予防効果があるという証拠はなく、むしろ手洗いを勧めている。

WHOは前からこのバカバカしいコメントを繰りかえしている。それに対する庵主の反論(?)は前のブログ記事(2月6日付「マスクより手洗い」とは: WHOのわけの分からないコメント)でも述べた。何回もこんな事を主張するのは、WHOは相当に頭が悪いのか、それとも裏に何かあるのだろうか?

 マスクは効果がないといっているが、インフルエンザの感染率が約1/10(データーは統計的に有意)になったという報告がある(滝澤, 2010参照)。ただ交絡要因(手洗いなど他の衛生行動)の問題もあって、マスク着用だけでそのような効果があったと判定はできていない。いずれにせよ、感染予防のためにはマスクも手洗いも励行すればよろしかろうということになる。コストや時間はほとんどかからない。

さらに、マスク着用がSARSウィルスの感染の軽減に効果あることがメタアナリス研究で示されている(同上)。SARSはSARS-CoV-2と類縁関係のあるウィルスである。これはCOVID-19感染予防のための重要な知見である。

 今冬の季節性インフルエンザの罹患率については、昨12月中は例年よりも多くて記録的な蔓延が予想されていた。ところが1月に入ってから例年の感染ピークはみられず、この十年で最低の感染者数であったといわれる。これは暖冬のせいだとか、今年の予防ワクチンは例年になくよく効くせいだとか言うアホな人がいるが、COVID-19に備えて市民がマスクを着用するなどの衛生活動を一斉にとったためである。近所の町医者もこの季節の例年に比べると患者の数はかなり少ない。幸か不幸か町医者もCOVID-19のために経済的な打撃をうけているようだ。

 マスク不要とするWHOの理由の一つに、医療従事者におけるマスク不足をあげている。ここで、まさにWHOの頭の悪さ(非論理性)が露呈されている。マスクが感染防止に役立たないとするのなら、医者がマスクをしても何の役にも立たないじゃないか?まったく矛盾した話である。

 中国では政府が市民にマスクの着用を義務づけているようである。車内にマスクをつけていない客がいると、マスクをつけた他の乗客が取り囲んで非難するような光景が放映されていた。これは不顕感染者が、ウイルスを周りにまき散らすのを恐れているためである。中国では以前のSARSの騒動でこりて、これの防止研究を行ってきたはずである。マスクに効果ありというのも、そういった経験にもとずく知恵であろうと思う。

 約10年ほど前、新型インフルエンザが世界的に流行したころ、たまたまヨーロッパを旅行した。日本では今ほどではなかったが、町で多くの人がマスクをして歩いていた。ところが、かなりの患者が発生しているのに向こうの国では、マスクをして歩いている人はほとんど皆無であった。旅行会社の現地添乗員の話では、ヨーロッパではマスクは重病の人がするものという考えがあり、予防のためにする人はいないそうだ。これが顔を隠すのが平気な文化とそうでない文化の違いのせいなのかどうか分からないが、それぞれで「実験」を行っているような状況である。おそらくヨーロッパ諸国や米国ではWHOの「マスク不要」の「フェイク情報」に従ってマスク着用をしないであろう。COVID-19感染に関する今後の比較疫学調査に興味がもたれる。

 

 

参考文献

滝澤毅「マスク着用にインフルエンザ予防のエビデンスはあるか?ーEMBによる検討」千葉科学大学紀要,3,149-160,2010

 

追記1(2020/05/14)

WHOを巡る中国と米国の政治的駆け引きはCOVID-19パンデミックの対応に暗い影を落としている。すくなくとも人の健康と命に関しては、差別や区別があってはならないはずだ。台湾はWHOに加入さすべきである。

村中璃子 『WHOはなぜ中国の味方なのか』文芸春秋 6月号 2020

 

追記2(2020/06/08)

WHOはついに、一般市民が布製を含むマスクの着用を推薦するように、各国政府に求めた。感染拡大を効果的に進めるための改定としている。人が密集した環境という条件付きながら、感染や症状の有無を問わず対象を拡大した(2020/06/07京都新聞朝刊7面)。やはり相当、頭が悪く判断力が無い集団である。

 

 

     

  

 

 

 

 

 

 

 

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