さっき書いた井の頭公園の男の人は、
20才の私から咎められもせず、好奇心も示されず、
ただ、何なんだろう?とじっと見られて、
その人はどうなったかといえば、
書いたとおり、割とすぐにズボンを上げて、
私の前から黙って去っていった。
自分のしていることに何の価値も見出せなくなった、というか
ただ、じっと観察されただけで、
期待していたキャー!という反応がなくて、
それを続ける意欲を失ったのか、
そんな感じだったんじゃないかと思う。
さっきは「今そういうことに遭遇したら、嫌だなぁと思うだろう」
というようなことを書いた。
けれど・・・
嫌だなぁと思って、キャー!とかの反応をしたり、
やめなさい、とか注意したら、
そういう態度をし続けるんじゃないかな。
嫌だなぁと思って、そういう態度をとることが、
そういうその人を再創造する。
キャー!と反応することが余計にその行為を継続させる。
注意されると、反発し、もっとやりたくなる。
人は元来自発的に生きたいものなので、そういうことになる。
反対に、ただ、じーっと見つめるだけでそれは自然消滅する。
そういう展開に確かになった。
ビデオを見ていたら井の頭公園が映っていた。
20才の頃、この公園のすぐ近くに住んでいた。
それである出来事を思い出した。
春の日曜日の昼間、私は一人で散歩していた。
周りにはたくさん人がいた。
近くにいた男の人がいきなりその人のズボンとパンツを下げて、
自分の性器を私に見せるような仕草をした。
その人がしていることが何なのか全くわからなくて、
私は「この人 いったい どうしたんだろう?」
という反応だけだった。
なので、ただじっと見ていた。
その人は何も言わずに、割りとすぐにズボンを上げ、
私の前から去って行った。
その時の私は 嫌だなぁ というのもなかった。
どうしてそういうことをしているのか、意味がわかれば、
嫌がることも出来るけど、
なんだかわからないことには嫌とか良いとか思いようが無い。
今、そういう出来事に遭遇したら、
嫌だなぁと思うかもしれない。
「男のひとがそんなことをしたから、嫌だと思った」
・・という表現・感想は世の中にあるけど、
相手の行為はこういうことだ というのが自分になければ、反応のしようがない。
自分の中に「そういうのは嫌な事、である」がなかった。
もちろん、素敵なこと というのがあった、ということじゃないよ。
わからなかった。そのことになんの解釈もなかった。
嘘ぉ!と思う人もあるかもしれないけど、本当にそうだった。
小さな子供もそういう感じかなと思う。
どんなことも、その時に自分に在る解釈しか、わからないのだなぁ、と
この事を思い出して、また確認したよ。