ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

長所と短所

2011-11-26 13:41:54 | ひとの幸福
短所には長所が隠れてる、ともいえるのかも。

うるさい→活発

消極的→謙虚・控えめ

早とちり→すぐにやる

ぐずぐず→おっとり

せかせか→てきぱき

・・・まぁ、こんなふうに物事をどう捉えるかというのが、

長所や短所といえるのかもしれない。

アバタもエクボ というのもそうなのかな。

そう観えるということ。


現れているもの

2011-11-26 12:55:05 | ひとの幸福
木の枠の写真立てが机の上にある。

この写真立てが何という木から出来ているのか、知らないけど、

昔はどこかの山に生えていた木なんだろ。

木は自然のもの。写真立ては人工の物。

自然と人間とが協力して創った物、ともいえるかもしれない。

物というもの全てがそういうものなのかな。

今、この机の上に在るもの、パソコン、携帯、ノート、ボールペン、

本、懐中電灯、電子辞書、ティッシュ、カップ・・・

みんな全部、自然そのもの(人間が造れないもの)と、

人の頭との合作。


そして、精子も卵子も人は創れない。

人間は社会的動物。自然と社会とで創られてる。

人体という生きてる物質にセットで付いてる心・意識。

心という目に見えないものを創ったのは人間じゃない。

心というものの模様は自分以外の人と自分とで創ったもの。

人間も品物も自然と人との合作。

そう言えるんじゃないかな。

人間という自然は心・意識というものを持つ。

その意識が人工物を創る。

たくさんのその意識がひとを創る。

自然と人間が自然に美しく調和している人を人格者というのかもしれない。




跳び箱

2011-11-26 09:52:52 | 日々の暮らし・思い出
小学生のとき、体育の跳び箱が跳べなかった。

跳び箱じゃなくて、人が台になって跳ぶ馬跳びは出来たのに、

木で出来てる箱が恐くて跳べなかった。

馬跳びが出来るなら出来るはずと言われたけど、

出来なかった。

硬そうな箱に身体が当たったら痛いだろうな、

痛いのはイヤだ、当たるかもしれない、その恐さがあって、

どうしても思いきれなかった。

よく憶えてる。

跳ぶぞと決めて、助走始めても、

箱の前に来ると足がすくんだ。

運動能力的にいえば、私の身体は跳べるように出来てた。

恐さ、不安、が勝っていた。

なんでその恐さ、不安の壁を越えられなかったかといえば、

「跳びたい」がなかったからだ。

跳べるようになりたい、がなかったからだ。

「跳べなくったっていいや」

「そんなこと出来なくったって、構わない」

・・そんな私だった。

あきらめた、という意識が浮かんだこともなかったと思う。

自然にあきらめてた。

いま「あきらめない」という言葉をよく聞くけど、

あきらめないようにしよう、なんて無意味。

やりたい気持ちがどれほどのものか、だけ。

周りの人が直接それをどうこう出来るもんじゃない。

どんなことでも、やるのが良い、というわけでもないし、

勿論、あきらめないのが良い、というわけでもないし。

あきらめるのが良いわけでもないし。





計器

2011-11-26 09:47:48 | ひとの幸福
私が不愉快と感じた自分の中を点検するとき、

動かないものを使う。

どんなものでも点検する時は較べる正常なものが要る。

正しい位置にそのものがあるかどうかと点検する時は

正しい位置がわからなければならない。

正しい位置を示すものがなければ点検できない。

正しい位置を示す計器が、

時と場合で違う所を指すなんてことがあったら、

点検など出来ない。

点検の為の計器はいつでもどこでも、

誰が使っても、

変わらないモノでなければならない。

変わらないものは自然の法則。真理。普遍性。