鉄という金属には、その本質、というか、そのものの性質がある。
熱くすると柔らかくなるとか、水分で錆びるとか。
そういう知識ほとんど無いんだけど、
まぁ、そんな感じだとして・・・
鉄という自然物が人の手によって鉄製品になった。
それが錆びたことで、使い物にならなくなった・・・
錆びたという(現状)と、酸化すると錆びるという(本質)
・・こう表現してみると、
「本質」が「現状」という形に現れる。
本質に無いものは現状に現れない。
錆びずに製品として使われている時、
その物は自然と人為が調和していた状態、と言えるかも。
錆びて使い物にならなくなった状態は、
自然と人為が調和していない状態、と言えるかも。
鉄は酸化して錆びるという元々の性質を持っているので、
錆びないように何かの手を打つのが人為。
~すると錆びる、~すると錆びない、ということを人が知って、
錆びないように何かすると、
その鉄製品は人の為の製品として長く使うことが出来る。
これを人間というものについて当てはめて考えてみると・・・
人間の本質がある。
その一つとして、例えば、自主性があること。
(仮定として考える)
それがどんな形になって現れるか。
自主性があることを認めると・・・
自主性があることを認めないと・・・
例えばだけど、子供に何かを作る機会を与え、
大人はただ、温かく見守る。待つ。
材料になるものを用意して、
子供がそれを見て、何を思い、
どうしようかと考え、どうするかは子供に任せると・・
何が出来るかは別として、
子供は生き生きとその作業をするようになるんじゃないかな。
そうなるのも、自主性がある、という本質があるから。
「本質」に無いものは「現状」に現れない。
反対に、大人が決めたやり方を教え、
そうしないとケチをつけ、
違うやり方をした子供には間違っていると教え、
ずっと見張っていると・・
子供はおっかなびっくりとそれをし、
つまらなさそうな顔になり、やる気を失い、
途中で放棄したり、なんでこんなことしなくちゃなんないの!?
・・って、なるんじゃないかな。
出来上がった物が立派なものであっても。
その後に同じような機会を与えられても、
参加する気は失せるようになる・・かな。
そうなるのも、自主性がある、という本質があるから。
「本質」に無いものは「現状」に現れない。
自主性というものがある、という人間の「本質」が、
どういう「現状」になるかは、
その自主性という自然と人間がどう調和していこうとするかに、
かかっているのかなと思う。
鉄の本質、性質を知ることが、
鉄製品を創るために欠かせないことのように、
人間の本質を知ることが、
人間が生き生きと生きることに欠かせないのかな。
熱くすると柔らかくなるとか、水分で錆びるとか。
そういう知識ほとんど無いんだけど、
まぁ、そんな感じだとして・・・
鉄という自然物が人の手によって鉄製品になった。
それが錆びたことで、使い物にならなくなった・・・
錆びたという(現状)と、酸化すると錆びるという(本質)
・・こう表現してみると、
「本質」が「現状」という形に現れる。
本質に無いものは現状に現れない。
錆びずに製品として使われている時、
その物は自然と人為が調和していた状態、と言えるかも。
錆びて使い物にならなくなった状態は、
自然と人為が調和していない状態、と言えるかも。
鉄は酸化して錆びるという元々の性質を持っているので、
錆びないように何かの手を打つのが人為。
~すると錆びる、~すると錆びない、ということを人が知って、
錆びないように何かすると、
その鉄製品は人の為の製品として長く使うことが出来る。
これを人間というものについて当てはめて考えてみると・・・
人間の本質がある。
その一つとして、例えば、自主性があること。
(仮定として考える)
それがどんな形になって現れるか。
自主性があることを認めると・・・
自主性があることを認めないと・・・
例えばだけど、子供に何かを作る機会を与え、
大人はただ、温かく見守る。待つ。
材料になるものを用意して、
子供がそれを見て、何を思い、
どうしようかと考え、どうするかは子供に任せると・・
何が出来るかは別として、
子供は生き生きとその作業をするようになるんじゃないかな。
そうなるのも、自主性がある、という本質があるから。
「本質」に無いものは「現状」に現れない。
反対に、大人が決めたやり方を教え、
そうしないとケチをつけ、
違うやり方をした子供には間違っていると教え、
ずっと見張っていると・・
子供はおっかなびっくりとそれをし、
つまらなさそうな顔になり、やる気を失い、
途中で放棄したり、なんでこんなことしなくちゃなんないの!?
・・って、なるんじゃないかな。
出来上がった物が立派なものであっても。
その後に同じような機会を与えられても、
参加する気は失せるようになる・・かな。
そうなるのも、自主性がある、という本質があるから。
「本質」に無いものは「現状」に現れない。
自主性というものがある、という人間の「本質」が、
どういう「現状」になるかは、
その自主性という自然と人間がどう調和していこうとするかに、
かかっているのかなと思う。
鉄の本質、性質を知ることが、
鉄製品を創るために欠かせないことのように、
人間の本質を知ることが、
人間が生き生きと生きることに欠かせないのかな。