ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

祈る

2013-11-27 14:39:06 | テレビを見て
さっきNHKの新日本紀行を見た。

どこだっけなぁ、離島だった。長崎だったか・・・

流されてその島にたどり着いた仏像を大事に祭ってあるとか、

部屋に置いて在るとかの話があった。

毎日そこへ参りに来るおばあさんがいる。

個人的な願いを神社で祈ったことはないけれど、

(小学生の時はある)

私も神社に行けば手を合わせる。

寺に行っても手を合わせる。

教会に行っても手を合わせる。

仏像という木で出来たものに神や仏を観る人は、

その物をそういうものとして扱っている、捉えている、ということかと思う。

人間が作った木で出来てる仏像側としては、

多くの人にそのように観測されることで、

そのようになる、ということはあるかと思う。

それに、その人にとってそういうものなら、

その人にとってはそういうものなのだ。

人がとやかく言うことじゃない。

それにそう思えるというのは素敵なことだと思う。

人生が深くなる。

若い頃の私みたいに、そんなもん、ただの木だ、

なんて偉そうに思っているよりずっと。


神社で人の思うことを神さまがいちいち聞いていて、

叶えてくれるなんてことがあるはずが無い・・

私はずっとそういうふうに思ってきた。

まぁ、今でも神さまが私の願いを聞いてそれを叶えてくれるとは、思ってない。

でも、神というものをどういうものと捉えているのかは

人によって違うだろうけど、

神と言ってもいいようなものが在る、とは思っている。

人智を超えているようなもの・・

そして、神性といってもいいようなものが、人間にはある。

神性という言葉があるということは、

その元の神もあるということになる。

神なんかいない、と言い切る人がいる。

私もどんな根拠があってか昔はそう思っていた。

けれど、そういう人の中にも「神」のようなものはある。

神というなんらかのものがその人の中にはある。

神という言葉を何故か人間は持っている。

ひとは何かが心配な時、思わず祈ってしまう。

どうか無事でいますように・・とか。

祈らずには居られない、という心境になってしまう。

神社や寺という場所でもないのに、

何故そう“なって”しまうのか・・

ひとの心の中に祈る対象があるからなんじゃないかな・・・