一人という事実は無い=事実は一体になっている、
・・なんて言葉にアレルギーがあるのは特にインテリの人に多いかと思うけど、
で、表現というのは難しいものではありますが・・・
生まれてから今まで世界中に自分以外誰も居ない、
他に何も無いところでは生きられない、
自分が着ている洋服も住まいも食べ物も知っている知識も情報も、
みな自分以外から与えられているし、
他の誰かやら、太陽やら大気やら植物や石油や他の人の知恵やらが合わさって生み出されたものだ。
そういうことなんで、全くもって当たり前の事実のことなんだ。
そしてそういう事実しか在り得ないんで。
自分がここでこうして生きているのも父や母が居たからだし、
自分の今の思考も他の誰か(本や新聞やテレビも含めて)と共に造られて来たものだし、
一人で存在しているという事実は無いのが絶対的事実で、
たまには一人で存在してることもある、
なんてことが無いのが絶対的事実と言えるわけだ。
そういう事実と、一人ぼっちで寂しいと思ってしまう、という事実もある。
そのような心の状態で在る、ということは在る。
それは相対的事実といってもいいのかな。
そういう相対的事実をそのまま受け容れられる心の状態というものが在る。
それは(絶対的事実)に、心の状態が則している、
ということなんじゃないかと、
ここのところ書いててその思いを深くしたよ。
寂しかった と聴いて、
そうか、なるほどそれはそうだねと聴ける心境、共に涙してしまう心境は
人は一人じゃないという立ち位置に立っているからこそ。
そこで、そんなことで泣いてるようじゃダメだとか、
女々しいとか、そういった反や抗が瞬時に出てきてしまう心の状態は、
あなたはあなた、わたしはわたし・・というような境地かと思う。
この表現だけを聞くと、
あなたはりんごが好きで、私はりんごがすきじゃない、
そんなこと当たり前でちっとも悪いことじゃないぞ~
って言われるかもしれないけど、そういうのは勿論当たり前で、
そのことをどうこう言ってるわけじゃないんよ。
自分の経験では、ひとの寂しいとか、悔しいとか、
頭にきたとかの気持ちを、
(これはりんごが好きだとか嫌いだとかを言ってるのと同じことだね~ )
聞いた瞬間はなるほどと聴けても、
一瞬後に、考えが出てくることがある。
場合によっては最初から聴く耳をもてなかったこともある。
そのことは如何なものか・・とか。
自分の正しさがのさばりだす。
(りんごが好きなのが正しいなんてことないのにね~)
理屈が出てくるとうまいこと行かないことが多い。
(理屈というのは理性的考えをこれが正しいという錦の御旗みたいに
振り回すことをいうのかもしれない。)
理性は考えるときには必要不可欠なものだけど、
人の気持ちを聴く時(事柄を聞くのではなく)は、邪魔になる。
棚にあげられないのは、その正しさに執着してるからだろう。
今までそんな失敗を何度も何度も経験して来た。
その経験に自覚の無い頃も含めて、何万回もしてるだろう。
やっとそういうことをしている自分に自覚が生まれたから、
やっと反省できるようになったよ。
かといって、これからは無いということはないと思う。
無意識的にしてしまうと思う。
なってしまうことは、くよくよしない。
だって私一人でなったわけじゃないからね。
ただそうなった後にそれをみつけられれば、反省はできる。
・・・なんだか、お喋りしました、という感じだな、これは。
・・なんて言葉にアレルギーがあるのは特にインテリの人に多いかと思うけど、
で、表現というのは難しいものではありますが・・・
生まれてから今まで世界中に自分以外誰も居ない、
他に何も無いところでは生きられない、
自分が着ている洋服も住まいも食べ物も知っている知識も情報も、
みな自分以外から与えられているし、
他の誰かやら、太陽やら大気やら植物や石油や他の人の知恵やらが合わさって生み出されたものだ。
そういうことなんで、全くもって当たり前の事実のことなんだ。
そしてそういう事実しか在り得ないんで。
自分がここでこうして生きているのも父や母が居たからだし、
自分の今の思考も他の誰か(本や新聞やテレビも含めて)と共に造られて来たものだし、
一人で存在しているという事実は無いのが絶対的事実で、
たまには一人で存在してることもある、
なんてことが無いのが絶対的事実と言えるわけだ。
そういう事実と、一人ぼっちで寂しいと思ってしまう、という事実もある。
そのような心の状態で在る、ということは在る。
それは相対的事実といってもいいのかな。
そういう相対的事実をそのまま受け容れられる心の状態というものが在る。
それは(絶対的事実)に、心の状態が則している、
ということなんじゃないかと、
ここのところ書いててその思いを深くしたよ。
寂しかった と聴いて、
そうか、なるほどそれはそうだねと聴ける心境、共に涙してしまう心境は
人は一人じゃないという立ち位置に立っているからこそ。
そこで、そんなことで泣いてるようじゃダメだとか、
女々しいとか、そういった反や抗が瞬時に出てきてしまう心の状態は、
あなたはあなた、わたしはわたし・・というような境地かと思う。
この表現だけを聞くと、
あなたはりんごが好きで、私はりんごがすきじゃない、
そんなこと当たり前でちっとも悪いことじゃないぞ~
って言われるかもしれないけど、そういうのは勿論当たり前で、
そのことをどうこう言ってるわけじゃないんよ。
自分の経験では、ひとの寂しいとか、悔しいとか、
頭にきたとかの気持ちを、
(これはりんごが好きだとか嫌いだとかを言ってるのと同じことだね~ )
聞いた瞬間はなるほどと聴けても、
一瞬後に、考えが出てくることがある。
場合によっては最初から聴く耳をもてなかったこともある。
そのことは如何なものか・・とか。
自分の正しさがのさばりだす。
(りんごが好きなのが正しいなんてことないのにね~)
理屈が出てくるとうまいこと行かないことが多い。
(理屈というのは理性的考えをこれが正しいという錦の御旗みたいに
振り回すことをいうのかもしれない。)
理性は考えるときには必要不可欠なものだけど、
人の気持ちを聴く時(事柄を聞くのではなく)は、邪魔になる。
棚にあげられないのは、その正しさに執着してるからだろう。
今までそんな失敗を何度も何度も経験して来た。
その経験に自覚の無い頃も含めて、何万回もしてるだろう。
やっとそういうことをしている自分に自覚が生まれたから、
やっと反省できるようになったよ。
かといって、これからは無いということはないと思う。
無意識的にしてしまうと思う。
なってしまうことは、くよくよしない。
だって私一人でなったわけじゃないからね。
ただそうなった後にそれをみつけられれば、反省はできる。
・・・なんだか、お喋りしました、という感じだな、これは。