このタイトルの①と②を書いた後、また違う展開の考えがやって来たみたいで、
今、じっくり書きながら考えることにする。
大事な人が亡くなって悲しい、寂しい・・
それはその大事な人が居ることより悲しいこと。それは確か。
大事な人を失って悲しむという現象になるのは、
その人を大事に思っていた、愛していた、慈しんでいた、
というような心の状態から発するものといえる。
この感覚って、自分の半分がなくなってしまったような感覚なんじゃないかと思った。
これも(一人という事実は無い=自他一体)という境地、立ち位置から
湧き起こって来るものなんじゃないか・・・
誰かが亡くなって小躍りするように喜ぶという現象もこの世にはある。
それまでの人生でその人から多大な迷惑を蒙ったり、
散々苛め抜かれたりしたら、そうなることはある。
歩道に出っ張っている木の枝があって、そこを通るとき、
いつも邪魔に感じていたところ、その枝が払われて、
せいせいしたというようなことと一緒だ。
人間という人間すべて、全人類がその本来性に立ち戻ったときには、
それが五十年後か百年後か二百年後か、三百年後か、
もっと長くかかるのか、
それとももっと早い時期なのか、わからないけれど、
そうなった時には、
誰かが亡くなってせいせいした、というような感覚は
起こり得なくなっているのじゃないかと思う。
神ではない人間は何処まで行っても相対的存在だと思う。
大きさ小ささ高さ低さというように相対的に物事を見るということは変わらないけど、
それに価値判断が付かなくなるんじゃないかと思う。
“嫌な”こと、“嫌いな”人、などなくなることは在りうると思う。
人類はそこまでいけると思う。
平和が当たり前な地球になると思う。
今、じっくり書きながら考えることにする。
大事な人が亡くなって悲しい、寂しい・・
それはその大事な人が居ることより悲しいこと。それは確か。
大事な人を失って悲しむという現象になるのは、
その人を大事に思っていた、愛していた、慈しんでいた、
というような心の状態から発するものといえる。
この感覚って、自分の半分がなくなってしまったような感覚なんじゃないかと思った。
これも(一人という事実は無い=自他一体)という境地、立ち位置から
湧き起こって来るものなんじゃないか・・・
誰かが亡くなって小躍りするように喜ぶという現象もこの世にはある。
それまでの人生でその人から多大な迷惑を蒙ったり、
散々苛め抜かれたりしたら、そうなることはある。
歩道に出っ張っている木の枝があって、そこを通るとき、
いつも邪魔に感じていたところ、その枝が払われて、
せいせいしたというようなことと一緒だ。
人間という人間すべて、全人類がその本来性に立ち戻ったときには、
それが五十年後か百年後か二百年後か、三百年後か、
もっと長くかかるのか、
それとももっと早い時期なのか、わからないけれど、
そうなった時には、
誰かが亡くなってせいせいした、というような感覚は
起こり得なくなっているのじゃないかと思う。
神ではない人間は何処まで行っても相対的存在だと思う。
大きさ小ささ高さ低さというように相対的に物事を見るということは変わらないけど、
それに価値判断が付かなくなるんじゃないかと思う。
“嫌な”こと、“嫌いな”人、などなくなることは在りうると思う。
人類はそこまでいけると思う。
平和が当たり前な地球になると思う。