ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

義父の辛抱

2013-11-07 13:40:02 | 日々の暮らし・思い出
義父が「歯医者に行く用はないのか」と夫に。

夫はすぐに「あるよ」と。

夫には歯科の予約はないのだけど、そう答えた。

義父のその言い回しは歯科に行きたい、歯が痛む、ということなのだ。

自分だけのために人を動かすことはしたくない・・

多分こんなニュアンスなんだろうなぁと思う。

義父のこの言葉を聞いた瞬間、

あっ、3ヶ月に一度位の歯科に行ってもらうのを忘れてた、と気が付いたんだった。

痛みを我慢してしまう義父だから、

痛みが来る前に歯科に定期的に行こう、と決めてたのに、

それをすっかり忘れた私たちなんだ。

義父は夫と歯科に行き、自分の診察が終えたとき、

待合室に居た夫に「診察はもう済んだのか」と聞き、

夫は「もう終えたよ」と答えたそう。

夫はただ待っていただけなのだ。

以前、夫が正直に自分は一緒に来ただけで、

診察なんかしないよ、と言ったら、ひどく怒ったという。

さっき、歯科から帰ってきた義父は、

ずっと辛抱しとった(痛みを)・・と言った。

こうして過去のことはちょっと言う。

痛い、その時は言わない。

どのくらいの期間痛かったのかと聞くと、ずっとだと。

私たちが義父の歯科行きを忘れると、こういうことになる。

歯科の先生に手間をかけたら悪い、というようなことを言う。

その手間がその人たちの仕事で、

仕事はある方がいいと思うんだけど、彼のその考えは強い。

それで辛抱する。とことん辛抱する。

そしてどうしても我慢の限界が来ると、

歯科に行く用はないか、と言う。


ちょっとでも痛くなったらすぐに言ってくださいね、と

今まで言ってきたけど、

私のその発言は何の効果もないことがよくわかった。

今日は「お父さん、又痛くなっても辛抱するんでしょ(笑)」と言ったら、

「んはっ」というような返事で笑っていた。

今までの、すぐに言ってくださいね、の発言のときは笑わなかった。

私がこういう言葉かけをしたのは初めてだ。


今まで、辛抱しまくりの義父の姿を100%受け容れてなかったなぁと気が付いた。

義父のそういう様子は頭では十分わかっているつもりだったけど、

何故、それまで我慢するんだろ・・我慢してもいいこと何も無いのに・・

という自分の気持ちがどうしても出てきてしまっていた。

97才というような年代は「辛抱は美徳」であり、

そうしなかったら怒られたり脅されたりして来たのかなと思う。

そんなふうでそうなって来たんだと、100%心底合点したような気がする。

そのせいでだろう、笑いながら辛抱するんでしょって言えたのは。


今まで、極端な表現でいえば、

痛いときは我慢せずに歯科に行けば、すぐに調整してもらえるのに、

それをしないで我慢ばかりするなんて、“よくない”・・・

そういう判断を持ちながら義父と接していたと思う。

だから、言ってくださいね の発言になる。

そうしない義父をやれやれ・・なんて感じで観ていたと思う。

周りがそういう見方をしている限り、

義父はそのままで在り続けるのかと思った。

私の行為が一回だけ前と変わったからといって、

すぐに義父の様子が変わるとは思えないけど、

辛抱してしまう義父を、そのままでいい と、やっと思えたから、

私も笑って、彼も笑ったのかと思った。


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立ち位置 と 感情 ②

2013-11-07 10:04:08 | ひとの幸福
愛する人が亡くなったら、悲しくて、寂しくて、

このことだけは、人生は快適で当たり前・人生は快適一色だなんて思えない・・・

さっきのブログを読んだ友達から電話があった。

その通りだと思った。

寂しい悲しいということは快適でないのか???

もし、あいつが死んでしめしめ・・とか、

死んでせいせいした・・とか、

そういう思いの方が

美しくじゃないんじゃないか、と思った。

愛する人が死んで悲しみの底に落とされるのは、

死なないで居たときが幸福だったからだ。

ひとは相対的世界に生きている。


形有るものは変化する。

可愛がっていた猫が死んでしまったり、

大事なものが壊れたり、大事にしていたものを盗まれたり、

ひとから軽蔑されたり、傷つけられたりしたら、

悲しい寂しいと思うことも一緒だと思う。

その悲しみの深さはいろいろだと思うけれど。

けれど、それらは(一人という事実は無い=事実は一体)という絶対的事実から

外れているということなのか???

さっき書いたことと反対のことが出て来たぞ。

愛する人が亡くなる・大事なものを盗まれる・軽蔑される・・

そういうことは相対的なことで、

相対的なことは必ず(在り)と(無し)がある。

ひとは生まれたら死ぬものだ。

大事なものも形あるものは壊れる、変化する。


絶対的事実は(在り無し)が無い。

絶対的事実は(在る)だけ。(無い)は無い。

一人という事実は無い、ということはそういうことだ。

ひとは時間的にも空間的にも繋がっている。

繋がってない、ということが無い。

ひとだけじゃない。すべての現象も一緒。


ひとが死ぬということは形が変化するということで、

無くなることはない・・物質的にそれは変化するだけ・・

土に返る、という表現もこの世にある。

全てのものは変化しながら循環している。

事実はそうなっている。

地球が生まれたその時から、そこに在ったものが

相互作用やらなんやらで変化したものが今ここに在る。


そういう意味でひとは無くならない、いや、無くなれない、

極端な表現でいえば、「死なない」のかもしれない。

すべてのものは在り続ける。

死んだ人はその人の心の中で生きている、という言葉がある。

まるで生きているかのように話しかけたりすることもある。

何故か、ひとはそうする。

形ではないその人は死んでないからかもしれない・・・

そういう究極的意味で、人が死ぬことで悲しむのは

絶対的事実から外れているのかもしれない。


けれどけれどけれどけれど、人間は相対的存在でしか在り得ない。

高さ低さがわからない人は居ない。

大きさ小ささがわからない人は居ない。

美しさ汚さがわからない人は居ない。


人生は快適一色、幸福で当たり前・・という山岸さんの言葉の、

幸福、快適とはどういうことか・・・

悲しむのは不幸か???不愉快なものか???

悲しみ・寂しさという心・感情自体、不幸なものか???

人は相対的存在ということからすると、

「死んで生命保険ばっちりだぜぃ あんな奴死んで当たり前だよ、」

・・というような心より、

悲しみ、寂しさの心は美しいのではないかと思う。

『人の心は美しいのが本当』こういう表現も在る。



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