ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「そんなつもりなかった」 「知らなかった」

2013-11-15 14:32:00 | ひとの幸福
幾つもの保育園を歩き回って、ここならと思って、

我が子をその保育園に入れた。

と、さっき書いた・・・・

保育園から帰ってきた子供の元気がなかったりしたら、

保育園で何かあったのか?とか、

友達とうまくやっていけないのか?とか、

誰かに苛められたのか?とか、親なら思う。

そしてどんなふうな保育園ライフを送っているのか知ろうとする。

けど、いいと思って入れた後、

入れたら入れっぱなしで、

子供がどんなにその保育園に行きたがらなくても、

この保育園はいい保育園なんだからと、

追い立てるように行かせて、

後々、その保育園には大きな問題があったと知れた時に、

その保育園でそんなことがあったとは“知らなかった”ということを言う。

確かに“知らなかった”人もあるかと思う。

こんな例は一例で、国会のナンタラ喚問とか、

刑事事件や民事事件でも、

「知らなかった」というような言葉を聞くことがある。

知ろうとして本当にいろいろ調べたけど、

それ以上知ることが出来なかったということもあるし、

最初から知ろうとしなかった、ということもある。


その保育園はいい保育園なんだと信じ込んでいると、

どんなに子供が訴えても泣いても抗議しても、その声が届かないことがある。

いい保育園だという自分の思いを絶対だとして、

聴く耳を失ってしまった、ということだと思う。


よくよく調べると、いい保育園だった時代もあったけど、

その後当事者が変わったり、いろんなわけで変わった、というようなこともある。

変化することがあるということを知らないで、

言葉という動かない情報を信じ込み、

その保育園を共に造って行こうとする気概もなく、

ただただ、いいから行け、と・・・・


そんなつもりはなかった、知らなかった、なんて言える親は

愛がなかったと思われて当然のことかと思った。

そういう親であった自分のこと。






一喜一憂 と 不安定の安定

2013-11-15 13:56:38 | ひとの幸福
『一喜一憂』という言葉がある。

広辞苑に聞くと・・・

(状況が変わるたびに喜んだり心配したりして落ち着かないこと)


以前はどんな状況でも振り回されないのがいい・・・

こんな一喜一憂というのは今ひとつだなぁ、あまりいい状態じゃないなぁ・・

と思っていた時期があった。


昨日はあれが出来て喜び、今日はそれが出来ないとしょげる・・

急な坂道や山を登っているときは苦しくて嫌になって、

下り坂になると楽で嬉しくなる・・・

子供がよい点を貰うと嬉しくなり、

悪い点をとると心配する・・・

ひとからよく言われると喜び、

悪く言われて喜ばない・・・

会いたい人と会えて一緒に過ごせて楽しく、

その人が去って寂しくなる。

けど、こういうことって当たり前なのかと思う。

逆上がりが出来なくて悲しくなり、

出来るようになって飛び上がるほど嬉しくなる・・これ、経験ある。

人間は相対的存在だから、そういう感覚があるのは当たり前だし、

それがなかったら、人間じゃないといってもいいくらいかと思う。


(状況が変わるたびに喜んだり心配したりして落ち着かないこと)と、

広辞苑にあるけど、それを利用すると、

(喜んだり心配したり)という箇所ではなく、

(・・して落ち着かないこと)がポイントなのかと思う。

一喜一憂しても落ち着かないとは言い切れないし。


喜んだり心配したりする自分(動いている自分)というものを、

一体の境地に居て、そこから動かない自分が観ている(自覚している)状態を、

青い本の彼は「不安定の安定」と云ったのかもしれないと思った。

心がそのことに振り回されることにはならない状態かと思う。

いや、広辞苑がどう云ってるのか、広辞苑の文章だけではわからないけども。


棄てられた・・・

2013-11-15 10:52:52 | 本を読んで
親から棄てられた“と思っている”子供とその親の話を読んだ。

子供はそれを親に抗議する、非難する、恨む。

・・・ということは、そのことで苦しんでいる。

だから、親に言わずにはおれない。

ところが親の方はそんなふうに思ってない。

棄てたなんて微塵も思ってない、という話だ。


私は、子供を産休明けから保育園に預けて仕事を続けていた。

そのことがどんなに寂しかったかと、

お母さんはそんなふうに私をしたと、

子供にたくさん抗議されたことがあった。

子供のことをまるで考えないで保育園に預けたわけでもなく、

可愛い我が子を狭い部屋で私一人で子育てするより、

多くの仲間や大人の中で育てたいという思いがあって、

私としては積極的に保育園でみてもらうことを選んだし、

保育園を選ぶときもたくさん歩き回って、

ここならと納得したところを選んだ、という自負もあったので、

そう言われることはとても心外で、

当時子供のその抗議を聞き容れられなかった。


こんな風に思って、そうすることを選択したのだと

一生懸命言ったこともある。

その抗議をただ、聞くという形をしただけで終わったこともある。

子供のその思いを受け切れなかったのだった。

下の子供も保育園育ちだけれど、そういうことは一回も言ったことがなかったので、

余計聴けなかったのだと思う。

子供を愛していること、愛していたことに自信があるからこそ、

子供のその抗議が不当だと、聴けずにいたのだった。


一番最初に書いた親子の話も、

(子供はそう思ったのかもしれないけど、事実は子供を棄てたわけではない。

ゆえに、子供が間違っている)

・・親のこういう思考が子供を苦しめたのかと思う。


子供は親を思うあまり、その思いを聴いてもらいたい、となるし、

それを聴いてもらえない、わかってもらえないで子は苦しみ、

子供を思うあまり、子供の声を聴けない親も苦しむ。


相手を聴くときは自分の論理、都合を

ちょっと棚に上げないと聴けないってこの前、書いたけど、


子供を誰よりも愛している、その愛、自信すら、放さねば、

子供の思いを聴けないのかと思った。