ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

心理的解決について考えようとしたら・・こんなことになった。

2013-11-17 13:28:16 | ひとの幸福
形ある物は壊れる。変化する。

じゃあ、形の無いものは壊れないのか?という?が浮かんで来る。

「形あるものは壊れる」という言葉がわざわざ存在するということで考えると・・・


(形の無いもの)は私たちからはそのものが見えないものと言っていいと思う。

空気とか風とか酸素とか匂いとか雰囲気とか気風とか・・・

ひとの意識も。

或る意識が在ることによってそれが形となって現れる、ということはあるけど、

意識自体は形が無い。

かといって、壊れない・変化しないわけじゃない。

壊れるし、変化する意識はたくさんある。

心ころころで、空腹だと美味しく感じ、

満腹だと美味しく感じないなど、

そういった感想のような意識は壊れるし?変化する。

可愛い我が子でも可愛いと思うこともあれば、

憎たらしいと思うこともある。

そういうのは形の無いものでも変化するといえる。


(形あるものは壊れる・変化する)という“思い・認識・意識”は壊れない。

(形あるものは壊れる・変化する)このことが例外なくそうである、

のが事実だから、

事実に則した認識は壊れない、といえるんじゃないか。

書いてて今、ここで思った。

変化するということ自体が変化しない、

ということが不安定の安定ということなのか??

この前書いたのと同じことか???そうかもしれない。

・・脱線です。

それ以外にどんな意識が、壊れないか・・・?

「ひとは元来、幸福という存在である」という認識が、

これがそうなのではないか・・・???

だからこそ、相対性の世界の中で、そうなっていないと感じると

それを求めるものなのだろうと思う。

人間はそう云う者で在る。そういうものとして存在している。

そのことは、その事実は、変化しないものではないか。

ひとや場合によっては、そんなふうに思えないことがあるかもしれないけど、

例えば実際は男なのに女にしか見えないということがあるように。

ひとというものがそういう元々幸福な“存在である”

・・・コレは変化しないんじゃないか。

さっきのと同じで、事実に則しているところの認識は壊れない。

・・・そうではないか。

そういう軸さえ持っていれば、そういう動かぬ認識があれば、

そこから考えられるし、

人間のいろいろな不幸を呼ぶ言動が起こることも納得できる。


青い本の彼が、

「人生は快適で当たり前」という私共の人生観から言っているもので・・

・・とかなんとか云ってる文章も、そのことを云っているのだろう。

その人生観は変化しない本物。事実に則してるから。











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「おとなの背中」の書評から・・・

2013-11-17 10:14:35 | 新聞を読んで
今日の毎日新聞の書評欄に鷲田清一さんのこの本が載っていた。

その人の本は一冊読んだことがある。

ちょっと関心を持って読み始めんだけど、

私には難し過ぎた本だったなぁ。

本のタイトルも憶えてない。

難しい本を読むと、もっと頭がよかったらなぁと思わずに居られない。

内容を知りたいのに読めないということがよくある。

まぁ、これは余談であります。

以下この書評からの抜粋です・・・

「・・・かつては場数を踏み、痛い目に遭う経験を通して

生きていくのに不可欠な『見極め』がつく大人になった。

今は失敗する可能性があらかじめ排除され・・・。

思い通りにならない現実への耐性が必要・・・」


本当にそうだなぁと思う。

痛い目に遭う前に、それを物理的に解決してしまうこともそういうことかと。

子供に親がすぐ手を出すとか口を出すとかもそうだ。

便利な世の中と云うのも、

便利は不便よりいい、というだけで、突っ走って来たのかなと思う。

そうすることで、ひとはどうなるか、という深い推察をしよう、

という頭がない人が多かったということだろうと思う。

だからこうなってきたのだろうから、

それはなるべくしてなったという当たり前の現象なので、

済んだことは仕方がない。

これからどうするかだけが大事かと思う。

不便とか、大変とか、嫌だとかの出来事を通してしか、

人間は成長することが出来ない。

そう言い切ったら無謀だろうか・・・

大変な思いをすることを通して、ひとは成長する。

痛い目に遭うことでしか人は成長しない。

地球人類全員が物理的にも心理的にも何の悩みも苦しみも無く、

希望に満ちて生きられるようになるまでは、

大変だ、嫌だ、イライラする、と思うことを物理的だけでなく、

心理的にも解決する術を体得しなければならないと思う。

大変な目、痛い目に遭うことが必要不可欠。

どんなことも分かり合える家族の中だけで過ごしてハッピーでも、

外に出たら7人の敵がいて、その場ではその幸福感が消えてしまうようなら、

7人の敵はあり難い存在ということで。

(いつでも何処でも誰とでも仲良し)という絵空事みたいと思われる、

超難しいことを実現したいと思うエネルギーがどれだけ在るか・・・

それを自分に問われるのかなぁと思うよ。

(いつでも何処でも誰とでも仲良し)が

可能だと思ってなければ出来ないことだけれども。

そんなの無理と思っていたらそれは無理なことになる。

大層なこと書いてるみたいだけど、

洗濯ハンガーの洗濯バサミがこんがらがってイライラする、

たったそんなことでも、その材料になる。

自分が経験できることしか材料は無いからね。

けど、その小さなイライラが心理的に解決されることは、

他のイライラも解決することに繋がる。

イライラする仕組みやそれが解決する仕組みは一緒だからね。


物理的解決ばかりを急ぐと、そのせいで心理面の解決が遅れる、

という状況が今の状況なのかと思う。

痛い目に遭わずに事柄が滞りなく済んでしまう、というのは

心理的解決を経験出来るチャンスを失うことだもんね。

物理的解決を一生懸命やる人が居て勿論いいけど、

物理的に解決していても、今回のフィリピンの台風とか、

東北の大地震とかのなかでは、質的に高い物理的状況など吹っ飛んでしまう。

そういうことも人にとっては心理面の解決に思いが行って、

いいこともあるのかもしれない。






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