ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

超簡単!

2013-11-01 10:50:14 | ひとの幸福
あの超簡単なペーパーホルダーとかもそうだ。

・・と書いた、あれ。トイレットペーパーホルダーの、

空っぽになった芯を上にひっぱり、又、下から新しいペーパーを押してはめる奴。

こんなに超簡単な方法をどうして今まで気づかなかったんだろう!

と思うひとは多いと思う。私もそうだ。

こんなふうに誰かが気づいて作ってみると、

その仕組みは簡単なことだとわかる。

出来上がった姿は誰にとっても、とても簡単。とても快適。

誰にでも出来る。

出来上がったものをみれば、誰でも納得する。

新しい世界もそういうことなんだろうと思う。







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コップの水が満杯で・・②

2013-11-01 10:42:11 | ひとの幸福
他の言動の前で、何故自分の都合や論理が瞬時に出てきてしまうのか・・・・

そうする他をいっぱい見て来たからだろうと思う。

そればっかり見ていたら、そうするのは当然で、そうなるのも当然だから。

トイレで用を足した後、水瓶の水でそこを洗うというインドで、

どこでも用足しの後はそうする、しかなければそうなるのは当たり前だ。

よいわるいは関係ない。それがわるいわけじゃないし。

どんなことであっても当たり前にしていたら、

見る側はそうするのが当たり前になる。

そんななかで、いや、こうする方がもっといいんじゃないか、

あーする方がもっと快適になるんじゃないかとか、

こうする方が簡単じゃないかとか、

そういう気持ちが出てきてしまうのが人間だ。

日本のトイレ事情に外国の観光客はびっくりするという。

シャワレットとか、あの超簡単なペーパーホルダーとかもそうだ。

そういういろんな物質的なものに関して、

日本人は世界の先端を行っていると思う。

それは手先が器用だとかはあるだろうけど、

その元は(快適でありたい)欲求がどの国より強いせいじゃないかと思う。

わかりやすい物質的進歩から、心理的進歩を進める時代が

この世紀なのかと思う。

(快適でありたい)という欲求が強い日本人がその先頭に立って行くのかと思う。

聞くときは、聞くことに徹する ということが当たり前になるには、

そうする人がたくさんになることだろうと思う。

聴いてもらって快感を覚えるのは万人共通だ。

万人の喜びだ。

喜びは喜びを生む。

それにはどんなことも聴くことの出来る一人から始まる。

世界中にそんな一人が生まれている。
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コップの水が満杯で・・・

2013-11-01 10:04:39 | ひとの幸福
聴けない(聴くことが出来ない状態)とは、

どういうことか・・・

それはどんな状況をつくるか・・・

(聴けない)という表現は一般的なもんなんだろうか?

ひとの言動に接したときに、ふ~ん とか、 あぁ、そうか とか、へぇ とか、

そうだね とか、 そういうものかね~ とか、うんうん とか、

・・が最初に来ない心理状態がそれなんだけど。

例えば、「1+1は3だよ」に対して、すぐさま「え?違うよ」とか、

「今の首相は菅さんだ」に対して、すぐさま「何言ってんだっ」とか、

日常的にそういうこといっぱいある・・

上に書いたようなことはあまりないけど。

すべてのことは人それぞれ。

相手には相手の都合や考えや論理や思いがあるから、

それを発しているということだと思うんだけど、

その言動に接した途端、自分の論理・都合が出てくるので、

そういう言動がすっと自分に入ってこない。

よくある比喩的表現だけど、

既にコップには満タンに水が入っているから、それ以上入らない・・

という奴。

小さなトラブルから大きな戦争まで、全てのトラブルはそこから。

テロだってなんだって、

他には他の都合や論理、そうなったプロセスがあるんだけど、

自分の都合、論理が優先してしまう。

観る、聴く、というのはその対象である他をわかろうとする心理作用だと思うけど、

それをするつもりでいても、観てない、聴いてないことに“なる”のは・・

自分の都合、論理がすぐさまぱっと出てきてしまうから。

(いや、テロに対してなんかは最初っから観る・聴くなんて、無いようだね。

どんなことも相手を知ることが最初なんだろうけど。)


自分には自分の都合や論理があるのは当たり前で、

それがなかったらロボット状態なんで、それでなくちゃいけないんだけど、

聴く場合は聴くそのことに専心する必要がある。

仏教でいう(無我の境地)とは観る・聴くときには、

自分の考え、都合、論理なんかをちょっと頭の脇に置いておく、ということなんだろう。

それが「我当然 執抹殺」というコトバの云っていることなんだろうと思う。

何故自分の都合や論理が瞬時に出てきてしまうのか・・・・




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