実はこの本、借りるのは今回で確か4回目。
別の本を探していて、ふとめに止まり借りてはみたものの読みきれずに返却。
でも、また気になって借りて・・・という繰り返し。
まえがきにこうある。
「・・・若いころ私などは、幸福になんかなるもんかと思っていたものだ。通俗の幸福などに何の魅力も感じなかったからだ。不幸な悲しみに耐えている人間、涙をこらえて天空の一点を凝視しているような人間に親しみを感じ、尊敬の念を抱いていたからである。…」
私は仏法を信じている人間である。
よって、まじめに実行しているかどうかは別として、とりあえず幸福を追い求めている人間、ということになる。
宗教は人を「幸福」にするためにあるのだから。
その私にとって「幸福になんかなるものか」と思っている人がいるということは驚愕であった。
このまえがきにいきなり惹きつけられてしまったのである。
しかし、そのあとには
「・・・しかし私は、比較というものは本来モノとモノのあいだでおこなうべきものであって、ヒトと人とのあいだではおこなうべきではないと思ってきた。…ところがひとたび、自分というヒトと他者というヒトを比較しはじめると、そのとたんに嫉妬が芽生え、不幸への転落が始まる。…」
「…一時間でも二時間でも歩きに歩いた。そのうちに胸中の鬱屈が晴れていく。ぶつけようのない怒りがおさまり、はてしない悲しみの海からはい上がることができた。涙が流れ、そして乾いていく。一種の爽快感を味わうことができた。・・・
悲しみの時間を一人歩く時の至福の瞬間であるといっていいのである。」
この人は、通俗の“幸福”など追い求めてはいない。
しかし、悲しみの淵に沈み、涙を流しながらも自分なりの”幸福”を求めそれを感じているのだ・・・と私には読めた。
前書きが長くなってしまった。
なぜまたこの本を読もうと思ったのか、なぜカテゴリが「冬のソナタ」なのか。
それは、今読んでいるpoppoさんのブログが「冬のソナタで泣きたい!」だからだ。
なぜ私達は「泣きたい」のだろうと思った。
その答えがこの本にあるかどうかは分からないけれど、そう思ったら、この本を思い出したのである。
泣ける韓国ドラマは他にもたくさんある。
「秋の童話」なんかもそうだ。
だけど、私は二度とあのドラマは見たいと思わない。
なぜなら、救いがないから。
ウンソもジュンソも死んでしまって、後に残された人はどうなるの!
だから嫌い。
話を元に戻しましょう。
私は実際は「冬のソナタ」を見ながらはそれほど泣いていない。
特に涙の場面では。
(泣いたといえば「サンドゥ学校へ行こう」のほうがよほど泣いた。)
私が一番泣いた記憶があるのは18話の最後の海でユジンとジュンサンが楽しそうに浜辺を走っている場面。
そこにモーメントの日本語歌詞の字幕がかぶさる。
何も知らず笑っているユジンと、苦しいジュンサンの胸の内を現したような歌詞の落差がどうしようもなく哀しく、涙で画面が見えなくなるほどだった。
それから「初めから今まで」
私は2年ぐらいずーっと車の中でのBGMは「冬ソナ」だった。よく飽きないねといわれるくらい。
「初めから今まで」が流れると、11話のユジンを送り出した後、風に吹かれながら一人歩くジュンサンの姿が頭に浮かんで何度も泣きそうになった。
もうひとつは、これは「冬のソナタ」ではなく「愛の群像」でヒロインのシニョンの台詞。ジェホと別れて辛そうなシニョンに先輩が早く忘れたほうがいいというと「つらいままでいいの。彼を好きなままでいたいの。」
これはユジンの心ではないかと思った。(「あの日から」の中でユジンの台詞に使わせていただきました。)
そう思ったら泣けて、泣けて、布団の中で泣いたことがある。
何が書きたいのか、話があっぺとっぺになってしまった。
読み始めたらなにやらむずかしい哲学の本らしいし、また挫折するかもしれない。
ちゃんと読破できたらまた改めて「本」のカテゴリで感想を書くことにしたいと思っているが、どうも出来そうもないのでちょっと余計な記事を書いてみた。(だけなのかもしれない。)