Amazon Prime Videoで「峠 最後のサムライ」を見始めたらいきなりあり得ないセリフが。徳川慶喜が家臣の前で「神君 家康公の」などというセリフを言う。
絶対にあり得ません。江戸時代の人が「家康」なんて言いませんし、武士は絶対に、たとえ当時の将軍であっても言いません。その人の子孫であればなおさら「家康」という名前を口に出すことはあり得ません。口に出すとすれば「大権現様」でしょう。又「この慶喜が」といったとすればこの時代の人が自分の名をみずから称するのは主君にたいして恭しくものをいう場合のみですのでそれは孝明天皇に対してでしかありえません。又自ら「幕府の」なんて言いません。「徳川」とか「幕府」とかは言いません。「公儀」というのです。
この辺は一度三田村鳶魚の「時代小説評判記」を読んでみましょう。
昔は名前というものは軽々しく口に出すものではなかったのです。今でも親を名前で呼ぶ人はちょっと特殊、たまにいますけどね。一般の日本人は親を名前で呼ぶことはありません。
(宣伝パンフレットより)
雄略天皇が野であった娘に、「家きかな、名告らさね」、というのは雄略天皇がムラムラッと来て娘を抱きたい、と思ったんですね。名は軽々しく口に出すものではなかったのです。娘が答えれば「はい」を意味します。
レンタルで見始めたのだけど、司馬遼太郎の原作ではどうなっていたかなあ。でも司馬遼太郎は読み返す気もしません。
娯楽映画だからいいんだよ、という声もありますけど時代劇は正確に描きましょう。藤沢周平も時代考証は???だらけです。そういえばみなもと太郎の「挑戦者たち」という漫画の中に若いころ映画村で働いていて時代の事に疑問を持ってきいたとき返ってきた答えは、「時代劇に平安時代も何もない、あるのは時代劇時代だけだ」と。そんなもんなんでしょうかね。
でも近い時代でも妹尾河童の「少年H」なんかも後出しじゃんけんばかりやっていますからね。興味ある人は山中, 典子, 山中作の「間違いだらけの少年H」を読んでみてください。歴史認識についてよくわかる本です。
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