下の図の本は鳥海山の史跡について各所から調べ上げた労作なのですが特に拝所の記述に関して間違いが結構見受けられます。
別の所でその一つとして七五三掛連嶺の読みについて書いたところ連絡いただきました。
七五三掛より続く七五三掛連嶺
この本では七五三掛連嶺を七五三連嶺を(しちごさんながね)としてあります。
読みにくいと思いますが
W28拝所【鳥の海御浜の神】坂の絶頂には鳥海湖を遥拝できる拝所があったという。ここから登山道は、「七五三連嶺(しちごさんながね)」とも云われる外輪をたどる。
と書いてあります。七五三連嶺は(しちごさんながね)などとは呼びません。山岳信仰において七五三は「しめ」と呼びます。ここから先は聖域なので、注連を新しいものに代えて、古い注連は木に掛けることから七五三掛(しめかけ)と呼びます。ここの呼称は七五三掛連嶺(しめかけながね)です。
なぜ上記の本ではこう書いたかといえば、それは橋本賢助の「鳥海登山案内」を丸写しにしたからです。
【鳥の海御浜の神】坂の絶頂には鳥海湖を遥拝できる拝所があったという。この記述も同じです。史跡鳥海山保存管理計画書(平成23年3月、販売していません)にも「坂の絶頂には鳥海湖を遥拝できる拝所があったというが不明」としてあると連絡がありました。
これは橋本賢助が太田宣賢の「鳥海山登山案内記」を読み違えた結果です。下の画像は太田宣賢「鳥海山登山案内記」の該当の箇所。
山頂に行く前に御浜へ降りるというのは考えにくいでしょうがあくまでも文章の上。この本はあくまでも蕨岡道の紹介、御浜は吹浦道の拝所ですが重要な拝所として外すわけにはいかなかったのでしょう。この文章を読み違え外輪の上に鳥の海遥拝所があると考えてしまったのでしょう。鳥の海遥拝所は御浜のことです。
「鳥海山麓遊佐の民族(上) 遊佐のお参り文化 中山和久」は太田著を参照している箇所もあるようですが鳥の海遥拝所に関しては橋本賢助の記述をもとにしているとおもわれ「場所は不明」としています。
ページ冒頭に御田ヶ原が登場しますがこれは昭和の幕営で裸地とされ姿を消してしまったところで現在探してもありません。また大雪路、小雪路も文字はこのように書かれていた証左でもあります。
この「鳥海山登山案内記」までたどらないと蕨岡登拝道の詳細までうかがうことはできません。
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