「昭和の消えた仕事図鑑」という本があります。自分の周囲にも消えた昭和の仕事が結構あったもので何件か思い出しながら拾ってみました。
イラストもあって楽しい本です。
便利屋、酒田の駅で仕事を待ちます。昭和五十年代にはまだありました。
知り合いの店主は象潟方面から注文があると偶然居合わせた私に店番を頼み、ちょっと駅まで行って便利屋さんに荷物頼んでくるから、お客さん来たらレジ開けてと言って車を駅まで走らせます。便利屋さんはおばさんで荷物を受け取ると羽越本線普通列車で象潟まで荷物を運びます。一個いくらだったのでしょうか。
渡し船、最上川には昭和四十年代まではまだ渡し船がありました。以前は有料だったのですが途中から市営になって無料になりました。自転車も一緒に運びます。最上川もかつては河口も全面凍結し歩いて渡ることもできたそうです。
(酒田・新庄・最上の昭和より)
チンドン屋、これは東京、阿佐ヶ谷で初めて見ました。パチンコ屋の新装開店の宣伝でした。昭和四十年代のことです。メロディはクラリネットが担当します。渡辺貞夫が初めて楽器を持って仕事があるよといわれていったらチンドン屋だったという話があります。
バスガール、エレベーターガール、同じガールでもバスの方がちょっと先か。首から鞄を下げて切符を切ります。バスガールとは言わずに車掌と言っていたかもしれません。エレベーターガールは新装オープンしたデパートに昭和五十年代に頃までいたのではないでしょうか。デパートのエレベーターガールさんは知り合いもいますけれどやはり綺麗な方でした。日本橋の三越デパートでアルバイトした時もエレベーターガールはまだいました。
バスガールとエレベーターガール
赤帽、今は赤帽といえば軽トラックの運送便ですが昔は駅の荷物運搬、PORTERでした。上野駅で実際仕事しているところを見たことがあります。赤帽のイラストは「昭和の消えた仕事図鑑」の一番最初にあります。はじめに載せた本のカバーに書いてあるイラストの左上、仕事図鑑の文字の右に書いてあるのが赤帽です。
ポン菓子、この辺ではバクダンと呼んでいました。その頃の子供からしたら爺さんが自転車にリヤカーでバクダン菓子をつくる機械を運んできて子供を集めます。子供は自宅から米を持っていっていくばくかのお金を払いバクダン菓子をつくってもらいます。出来上がりのボンという音に子供は両手で耳を塞いだものです。
米といえば、中学校の修学旅行は東京。泊まりは上野の旅館。
米を持参するように学校から通知があります。それで宿泊費を安くしてもらっていたのでしょう。東北の学校だけだったのでしょうか、旅館に米を持って行ったのは。旅館に着くとみんなで大きな袋に持参の手拭いを縫って作った袋の米をザーッと流し入れます。いつ頃まで続いていたかは調べていませんがそんな経験のある方はいらっしゃいませんか?
晩御飯が出てくると、「この飯うまグネ、俺がだモテきた米、別の客さ出すなだ」と子供ながらに言いながらご飯を食べたものでした。もちろん夜は枕投げ。女の先生が見廻りに来てコラーッと長い箒を振り上げて宿の電球を割ってしまい、みんなして「悪~りんだ~、悪~りんだ~」と囃し立てると女の先生は泣きながら退散、すると男の先生が鬼の形相で「コラーッ、おめがだーっ!!」
貸本屋、小学校の頃は近所にありました。叔母のいた旧遊郭街の近くにもありました。どちらも借りたか借りなかったか記憶がありません。
紙芝居、ダミ声のおじさんが自転車でやってきます。ダミ声のただ見はいけないよ、ただ見はいけないよ、という声と紙芝居を見る前に何というのでしょうか、お菓子の型抜きをするのが記憶にあります。水飴もあったかな。お小遣いはめったにもらえないのでほとんど遠くからうらやましそうに見ていました。
その紙芝居の近所にどういう親戚かわかりませんがよく連れて行かれたのが膠の製本屋。強烈な膠の匂いは今も覚えています。綴じた本の背中に黒い紙を刷毛で膠を塗って貼っていきます。
電話交換手、今は想像もつかないでしょう、映画「ストックホルムでワルツを」(原題Monica Z)で冒頭にその様子が出てきます。
これは現物は私も見たことはありません。なぜここに書いたかというと、母親のたった一度だけついた職業が電話交換手。その頃は花形の職業だったようです。
修了証書が電話局じゃなくて郵便局なんですね。