研究論文もPC上に発表するようになったためか、表記も横書きされるようになりました。そのために数字の表記も水田一〇〇町歩、封戸一五〇戸と一見日本語を装った怪しいものとなっています。100町歩、150戸と書かないだけまだましかもしれませんが日本語の論文としては失格です。
百町歩、百五十戸と一〇〇町歩、一五〇戸の違いはお判りでしょうか。そう、百町歩、百五十戸は概数、一〇〇町歩、一五〇戸は丁度100、150という意味なのです。千人の敵は1,000人倒してもまだ残っているかもしれませんが1,000人の敵は1,000人倒せば残りはゼロです。また零の概念のない時代の数を一〇〇町歩、一五〇戸とあらわすことはできないのです。(異論はあると思いますがそういうことにしておきましょう。)
日本古代史を専門に学んだ方であれば戸数というのは常識的に理解できる単位なのでしょうが、一般向けの鳥海山の歴史などを見ると、大物忌神に「神封二戸」などと書いてあっても注釈は全くありませんから大方の人は建売住宅二戸程度を想像してしまうのではないでしょうか。私は日本史は専門ではありませんので律令制の戸数の大きさが想像つきません。しかし、文書に残るほどの出来事ですから二戸というのはかなりの大きさだろうと想像されます。また同様に石高についても「天喜三年鳥海弥三郎宗任殿より御寄付三石有之」とあっても三石というのがどれほどありがたいのかも想像がつきません。まあこれからそのあたりを勉強をしても追いつかないでしょうが時代を通じての石高のありがたさというのは貨幣経済にどっぷりとつかっている身では想像がつかないです。話は飛びますが、江戸時代の武士が二百俵取というの現代の年収何百万にあたるは、家格を維持するにはどれほどの人を抱えなければいけなかったかなどと興味は尽きません。間違っても200俵取とか加賀100万石なんて書いてはいけません。
上は有名な大物忌神社にある北畠顕信寄進状ですがいったい寄進された由利郡小石郷乙友村とは地図でいえばどのくらいの広さでどれほどの実入りがありありがたいものなのかも想像がつきません。
鳥海山についていろいろ見ているうちに興味と想像はあちこちへ飛んでいきます。
わらわにも何ぞ寄進してたもれ、といったかどうか。
次回は百名山について考えてみましょう。