上の手紙を序文とする、クレメンス(ペテロに任命された司教)の一人称で綴られるペテロとの冒険譚。この文書における敵役・魔術師シモンは、パウロに重ねられている。
「私(ペテロ)は彼(シモン)の後から来て、彼を凌駕した。ちょうど光が闇を、知識が無知を、癒しが病を凌駕するように」(2章17節)
「あなたは言った、…イエスの言葉を幻影から聞いたのだから、イエスの説く教義を私より理解していると… だが、幻影や幻視や夢を信じる者は地に足がついていない。… 信頼している相手が、言葉巧みに正体を誤魔化す邪悪な悪霊か、人をたぶらかす霊かもしれないからだ」
「誰が幻影によって教えるに相応しい者だと認められるというのか?
もしあなたが「できるとも」と言うなら、私は「なぜ私達の教師は、目覚めている者達に、一年もの時間を費やして、忍耐強く教えを説いたというのか?」と問い返すだろう。… キリストの教えに背く考えを抱くあなたに、キリストはどうして姿をお現しになられたというのか?」(17章)
一瞬の幻視に立脚した教義が、一年間もイエスに師事し礎(ペテロ=岩)の任命を受けた自分のそれに勝るはずがない…それが本書におけるペテロの主張である。 |
さすが宗教というのは浮世離れしていて面白いよね、と言える心の余裕があるかどうかが問題なのでしょう。
そもそも「聖」なる書というネーミングがマズいです。もともとは「本」という意味だけの言葉が、漢字文化圏に伝わり、そこに「聖」が付けられました。しかし、英語などでも"Holy"が付けられますから、古今東西同じ発想です。
聖書は、人間の罪の姿を、これでもか、と刻み込んだ書です。初めから、最後の寸前まで、人間の愚かな様子が書き続けられています。
その意味でも、聖書は「むなしい」人間を書いている、とも言うことができます。
コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。(コヘレト1:2)
かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。(コヘレト1:9)
余裕が普通の宗教にはありますね。その意味ではもっと正典に相応しい書があるだろうと『ペテロ』を読んで地団太踏む思いです。
一字一句正しい。脅迫文が真理だなどと、怖い顔をさせる本は心豊かに、幸せに生きるために役に立っているとは思えません。
祈れば - 報われる。不幸は - 不信心への罰。神に従っている - 神から離れている ??
反自然的法則を作りだし、神に帰依させると見せかけて人間に服従させる嘘・ペテンで成り立っているものはどこまで突き詰めても虚しい。
悔い改めねば神に許されない? それがどうしたと言える日本人は幸い。ネコや植物を撫でて、お日様を拝んでりゃいいんです。
水の上を歩いたとか マリアが聖霊によって身ごもったとか それなら独身ばかりの修道院も子供が生まれて大変なことになてるでしょう。
おかしなことばかりを正当化すのが教会なんです。
しかし私が「キリスト教の問題点を考える」サイトから教えてもらえたのは、"聖書は真理だと信じたフリ"をしている教会上層部が意外に多いのではないかということ。内心冷めたエリート達が無知な一般信者の熱狂を煽っている(↓)としたら少々ぞっとしませんか。
http://ateoyagnostico.com/wp-content/uploads/2010/10/Jesuscamp_thumb.jpg
http://ateoyagnostico.com/wp-content/uploads/2010/10/20060922jesusbig1_thumb.jpg
殺害された人については、ミサの時に祈りも何もしてないでしょう。
こんな冷たい宗教なんです。
論理的反論に窮して「金切り声を上げていた」女性教役者の話を巨大虎猫氏に聞きましたが、これこそ象徴的。
座禅も断食もない集団はその程度。ユダヤ小説に踊らされ霊の墓場へ導かれていくのみです。