goo blog サービス終了のお知らせ 

Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

研究・ダンディーの世界(1) :「車寅次郎先生」下町的粋の世界

2006-01-05 10:57:11 | 研究:「ダンディズム」

 新年早々、いろいろ苦慮した。
そのあげく、世界のダンディーの筆頭を飾る人物は、やはり「車寅次郎先生」にした。

*人気ブログランキング参加中!下記バナーの応援クリック願います。
人気blogランキングへ

 この映画、若き頃観た最初の印象、最近になってNHKBS2のシリーズで観る印象と感動。自分自身の中で変化してくる。とにかく車寅次郎に対する観方がかわってきた。どういう風に変わったか?昔はささやかな和みと爽やかな笑いを得た。最近は、一旦笑い、和み、そして感動の涙が出るのである。加えて、極めつけは、そこはかとない「男の粋」を感じるようになった。

 名優・渥美清の人生の後半をかけた全48作に渡る「男はつらいよ」シリーズは、昭和映画史に残るシリーズ映画の名作として位置付けたい。
山田洋次監督のセンスのなせる業か?はたまた渥美清の類稀なる天才的能力によるか?全作品を通して、そこはかとなく「男の粋」の表現がちりばめられている。

ダンディズムと、日本風な感性に起因する「粋」には、語彙的に大きな違いのある「言葉」であると認識する。しかし、大いに通じるものはある。渥美清の生い立ちは謎に包まれ(下記Wikipedia引用参照)ておる。そこで我輩としては最初のお約束どおり、芸能人渥美清の個人的な歴史及び生活基盤の詮索を云々するつもりは全くなく、ただただ彼の演じる「車寅次郎」をもって表現する生粋の「江戸っ子」ぶり、ならびに昭和後期の庶民を演じる「さくら」こと賠償千恵子さんを筆頭とする脇役の重要性も総合的に評価し、以って日本人的「粋の表現」の最高峰と評価したい。
また、
マドンナと称して、車寅次郎の「惚れこむ」女優陣が各作品に出演、必ず配置される。不肖・エセ男爵の個人的好みを排除してでも(実は、浅丘ルリ子さん、我輩の好みではないけれど)、下記作品のマドンナはナンバーワンのマドンナである。ま、マドンナ論評は省略するとしても、マドンナも車寅次郎を引き立てる脇役と考えるならば、考慮しなくてはならない存在である。

「男はつらいよ」の一連の作品は、日本人でしか理解できない「感性」が盛り込まれている。渥美清演じる「寅次郎」の台詞(セリフ)を外国語に翻訳するとなると、不可能に近いものがあろう。そして、日本人以外の人たちには、いくらこの映画を見ても理解できないものがあるであろう。そんな日本人庶民の持つ、いや理解可能な「ダンディズム」があるとすれば、それは世界に誇れる「文化」であろう。

なお、
数ある解釈の中、「粋」とは、庶民下町の男女が惚れ合う「様・様子」を云う。という定義もある。
〆て、
車寅次郎先生は、
(1)マドンナにほれる。
(2)自分が好かれていると勘違いする。
(3)概して、マドンナのために自分の莫迦さ加減を棚に上げ、精神的二枚目に昇天し、
(4)いよいよ最期にマドンナに振られた事実に気がつき、
(5)深追いをせず、
(6)股旅ものに身を転じ、後悔と反省の「癒し(使いたくな単語であるが)」を求めて、全国津々浦々ヤクザな渡世を繰り返す。
もって、自己満足の世界を繰り返す。人生は、如何に自己満足できるかどうか?それにかかっていると思う。より大きな自己満足を得るために、人は、時に努力し、時に学ぶ、感性を磨く、その繰り返しであろう。人生のターゲットは、より大きな自己満足を求め続ける事なり!・・・かな?

 日本全国の老若男女、誰がみても「寅次郎」をもって立派な人物だとは思わなく、彼の「軌跡」を追従しようとは思わないであろう。しかし、この一連の作品の背景に込められた日本的な「男の美学」には奥深いものがある。その奥深きものを、我輩は探求して行きたいのである。

男はつらいよ 寅次郎忘れな草〈第11作〉(1973年公開)

松竹

このアイテムの詳細を見る


*人気ブログランキング参加中!下記バナーの応援クリック願います。
人気blogランキングへ

 --------------------------------------------------------

<参考資料>「紹介・渥美清先生」(ウイキペディアより引用)

芸名:渥美清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「生い立ち」
1928年3月10日に上野の車坂に生まれる。父は新聞記者、母は教員であった。小さいころから落語などに興味を覚え、戦争の色濃くなる1940年に巣鴨中学校に入学。工員として働きながら、一時期テキ屋の手伝いもしていた。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。その後、中央大学経済学部へ進学したが、船乗りになるため退学する。ところが両親に猛反対されたため、喜劇俳優の道を歩むことになった。なお、芸名の「渥美清」は、無名時代だった頃に、座長が読み違えたものをそのまま芸名にしたといわれている。

また、渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の「おかしな男 渥美清」の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。

「コメディアンから映画スターへ」
1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。1954年肺結核で右肺を摘出手術し2年間の闘病生活後に復帰。1956年にテレビに、1962年に堀内真直監督のおったまげ人魚物語でヤクザ(フーテン)役として映画にデビュー。この時のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画切腹(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で、愛すべき、無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する。また、1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。他に映画『喜劇列車シリーズ』(1967-68年)なども有名である。

「国民的キャラクター“寅さん”」
1968年にフジテレビで、テレビドラマとして放映され、翌1969年松竹で製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズの車寅次郎(寅さん)役で、27年間48作を主演し続ける。
1996年8月4日、肺癌により東京都文京区の順天堂医院にて死去。遺言により家族だけで密葬が行われた。死後国民栄誉賞が贈られた。