<序論>
前回投稿分に続き、我が「愛読の一冊」:櫻井よしこ女史の半生を綴った『何があっても大丈夫』の中から、女史の学歴並びに就職にいたる「くだり」につき、以下(想い付くまま勝手気儘に)、著書本文の丸写し以外の方法で「抜粋」してみた。
この抜粋には目的がある。英語学習の根本的な取組み方法と、義務教育に於ける英語教育について、一石を投じてみたい。と、いう目的である。
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* 前回関連記事[続・読書感想文)『何があっても大丈夫』に寄せて、(ジャーナリストの語学力?)]は、こちらから入れます・・
先の「前編」の締め括りに記している如く、櫻井女史のハイティーン時代から成人に、更には「就職」、社会人に至り、フリーのジャーナリストとして、女史の独立されるまで。
以下、「何があっても大丈夫」より、抜粋、、、。
1)『モーボサンセン』=孟母三遷<P-55>なる「よしこさんの母上の決断」により、
2)<P-58> 櫻井女史13歳の時、大分県中津市から急遽引越。母上の実家新潟県に転居される。千谷駅よりさらに山間の村真人町万年へ。真人中学に2学期より編入。その後、さらに母上の決断により、櫻井女史14歳の時、<P81>長岡市上田町に引越し。長岡市立東中学に編入。さらに旧帝国海軍の英雄・山本五十六元帥を生んだ名門長岡高校へ進学。当時、男子校の伝統を受け継ぎ、一学年あたりの女子生徒の比率は1割以下であった。
3)高校卒業時点で、すでに東京の私立大学受験合格。しかし、突然の経済的な問題の発生と、父上の要請により、単身ハワイへ渡米する。ホノルル空港到着の「その当日」から、父上の経営されていたレストランの手伝いを始める。(大学進学を思考される心のゆとりなるもの、当時は皆無なのであったろうか?)
4)約1年後、ハワイ大学入学。専攻は東洋史。と、紹介してある。
5)<P-234> ハワイ大学卒業の後、帰国(1971年早春)。帰国を目前にして、ハワイ大学教授の推薦紹介により、帰国後の就職先は決まる。そして帰国後、米国誌「クリスチャン・サイエンス・モニター東京支局」に勤務。支局長エリザベス・ボンド氏の秘書として、(ジャーナリスト実務を全うするという意味での日本語を、全く解せなかったボンド女史?の)初めて日本で活動されるボンド女史の、目と耳の役目をこなされる。
6)<P-226> 上述、米国系情報誌東京支局の閉鎖により、ボンド女史は本国へ引き上げる。同時に櫻井女史はフリージャーナリストの道を歩み始める(1973年)・・・・・
(以上、抜粋終了・・)
尚、本日本論に入る前にあらかじめ、読者に「おことわり」しておきたい事あり。(下記事項2個所より、いずれかお選びいただき、ランキング確認の為のクリック願います!)
一つ、
櫻井女史の敬意呼称は省略、以後(ただし本日投稿、以下の文面のみにて)「櫻井さん」と称すこと、!(問題あり!?我がブログの人気度に多大に影響するか!?こちらを開いて「ご確認」下さい・・)
二つ、
恥ずかしながら、不肖エセ男爵の歴史的背景なる素性を弱冠なりとも「明かす」こと、
(引き続き不肖・エセ男爵ブログの応援、宜しくお願いします!)
<第一章>
実は我輩、櫻井さんと同年代。数ヶ月先輩であるから、櫻井さんの辿ってこられた学生時代の時代背景は目の当たりに浮かんでくるし、よく心得ている。
さらに、櫻井さんが東京の大学進学を断念されハワイにて父上のレストラン経営現場に勤務。しかも、ただのウエイトレスとしてレストランのホールを走り回っておられた頃、我輩はのうのうと学生食堂でランチを食していた。加えて、高校時代から午後の授業をサボりつつ、当時洋画専門の映画館に入り浸り、(時代劇は別格として)故石原裕次郎小林明に代表される現代劇邦画には全く興味なし。ハリウッド映画とアメリカンサウンドにどっぷりと浸りこんでいた時代、高校生時代から大学時代なのである。当時、叔母から誕生日祝いで買ってもらった超小型の超高性能(当時)のソニートランジスターラジオをFEN(山口県岩国米軍基地からのラジオ放送)放送にチューニングし、英語で喋る米軍基地アナウンサーの英語の音に集中。そのうち、ヒットパレードの時間帯をキャッチ。夕方4時5時から始まる一時間番組「全米ヒットパレードの時間」、来る日も来る日もアメリカンポップスを聴きまくり、娯楽に必要であった英語に慣れ親しんでいた時期があった。ビートルズ時代の始まる以前、エルビスプレスリーから始まるアメリカンポップスに傾倒し、60年代のアメリカンポップスを愛し、そのうちモダンジャズに没頭し、崇め奉り、45回転ドーナツ版、さらには38回転LPレコードなるものを買いあさって、四六時中「英語の歌と音楽」を聴いた。
英語世界に憧れる切っ掛け、慣れ親しむ日々は、かして始まった。
大学受験の折、記憶を辿れば確か、英語の成績のみで大学受験合格した記憶あり。大学生活過程に於いて、講義の無い時にはジャズ喫茶店に入り浸り、タバコの煙パープルへイズ漂う中、コカコーラ一杯のみ注文し、喫茶店に長逗留する。モダンジャスの鑑賞にて数時間、時に半日も、喫茶店で過ごす。加えて映画館通いの連続。
映画ばかり観ていてもしかたなく(ある切っ掛けと動機あって)、他の活動を加える。クラブ活動はESS(英会話クラブ)に入部。恥ずかしながら、卒業するまで英語らしき英語は喋れなかった。
かくして、大学進学浪人なく就職浪人なく、エスカレーターに乗った如く卒業後の就職先は(好むと好まざるを考慮するまもなく)「旅行会社」であった。しかも配属先は、海外旅行部門。「こやつは弱冠、英語ができる!」と、会社の周囲及び先輩は大いなる誤解をしてしまい、未熟なる我輩を無作為に「海外旅行の添乗員」として入社一年目から起用(当時、稀な出来事であった)。こちら、さほど自信なく有難迷惑にて、渡航先にてサヴァイヴァル英語を駆使しつつ、何とか海外添乗員の業務をこなす日々。
かの地、櫻井よしこ様の居住先「ハワイ」にも、何度か旅する。現在とは大違い、当時のハワイはのどかそのもの。一年中現地の気候風土は良好にして、お金持ちしか逗留しないホテルの群がるワイキキビーチは安全にして平和そのもの、すべからく我輩にして平々凡々としたハワイ旅行の案内役、、、。そんな当時、間違いなく櫻井さんは汗水垂らし流し、家業の手伝いと学業に専念されていたはず。若し、縁あったならば現地ハワイのいずこかで、櫻井さんとの出会いは、あったかもしれない・・・
そんな年月を過ごしつつ、我が人生の転機あり(今にして想えば若気の至り・・・)
20年近くも安穏とした旅行屋の経験のみ。旅行業しか知っていない「遊びの案内」を本業とするヤクザな男、大企業的企業内温室育ちにして社会的発育未熟なる「モヤシ人間」、超若輩者の我輩。時は昭和の60云年、齢(よわい)40才にして、何を血迷ったか、順風満帆なる大手旅行会社を途中退社し、僅かな自己資金にて会社設立という暴挙をしでかす。自己満足的「粋な気分」にして且つ、早とちり。国際文化交流イヴェント業務を主たる業務として開業に至る。がしかし、当時さすがに国際感覚的発想貧弱なる典型の地方都市。そんな仕事は溢れていない!約3年にして(当時の金額にして1千2百万円也)不渡り手形をつかまされ、見事!倒産、、、。
縁あって、飲食業界に参入。しかし僅か2年間にて、飲食業界の3K的反復作業的物足りなさに閉口し、他人に任す。が、任した他人は、勝手気侭なやり放題にて経営は悪化。かくして飲食業界から撤退する。しかし他人に仕事を任せた当初、(43歳の時)あらためて英語の再学習に挑戦する。そして1年間、1300時間なる英語学習目標を設定するものの、最終的には1275時間にて投了。25時間の目標不達成時間を持ち且つ余し(無念かな)除夜の鐘を聞く。しかし、いずれ目標不達成と雖も、一年間1275時間に亘る英語特訓(聞く、話す、読むk、書くの繰り返し)を功を奏した。かくして我が目から「ウロコが数十枚」落ちる。確実に「我が英語の実力」は向上する。ここに至ってようやく「英語を道具」として、使いこなせる自信がつく。
そんなとき、縁あって東欧ハンガリーに赴く。現地にて気ままに仕事をこなしつつ生活し、適当に適当に、やっていくつもりが、またもや英語のお世話になる。英語圏でないハンガリーにて「英語の力」は、「生活のためのお金」を運んできた。さらにインドネシアとの縁ができる。全て観光産業関連のコンサルタント&コーディネーター業務として、、、。今尚、某インドネシア国立大学の客員教授として「不定期」にて経営学マスターコースのクラスを担当。その他現地企業関連のコンサルのため、はたまたセミナー開催に招聘されつつ、今尚、インドネシアに出没する。国内では、某レストランホテル関連産業の実務指導にもかかわりを持ちつつ現在に至る。
且つ、モノカキの真似事もスタートする。
「・・・?」
そして今、
我が若かりし頃の「失敗」に気がつき始めた。
あまりにも日本文学から遠すぎる位置に居ること、教養としての日本語をあまりにも無視してきたこと、取り返しのつかぬ事態に遭遇している。。。
つまり、
「振り返れば、まともに日本語を勉強していない!我おもうに、なんと、恥ずべき日本人であるか!」・・・・
本来、中学高校時代に読み漁っておかねばならなかった「日本文学」に飢えているから、今、恥ずかしきかな(すでに古典となりつつある)「有名小説家」の作品を読み漁り、あらためて日本語の「本来的な味」を味わおうと、時間の許す限り懐古風不良中年的文学青年に立ち返りたく、意識して、読書に費やす時間確保に努力している。以って「この3年間」。逆に今現在、「あまりにも英語から遠ざかり過ぎた」こと、反省する。たぶん6ヶ月間、英語から離れれば「ただの人」。英語の単語は刻一刻、我が脳の皺から蒸発し、単語記憶数量は激減していること、間違いなし。。。
かくして、
語学学習に関する「我が結論」あり、、、。
英語を学んだ後の、英語を使う「目的と目標」を持たなければ、英語は身に付かないと考える。
英語学習との目的は、まずは受験勉強の一科目としてではなく、「英語の語学力を身に付ける」こと自体が最終目的ではない。
もって語学学習の目標なるものは、英語の読解力とコミュニケーションの道具を以ってして、他の学問をより深める究めることにあるとする。
はたまた、英語を道具として使用し、エキスパートト的仕事あるいは生活の糧を得るための「道具=(one of Tools)」と位置付ける。ならば、いつ何時、必要に応じて試みる外国語学習の積み上げは、年齢に関係なく成立する。と、結論したい。
そして、
この英語学習と運用の話、もう少し、続けたい。。。
櫻井よしこさんのハワイに於ける実体験的語学習得の「流れ」をさかのぼり、航跡を読み取ってみたい。
<・続く・・(5月28日日曜日投稿予定;投稿済みにて、こちらから入れます)・・>
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<表題イメージ画像>:ショーンコネリー卿「ホームページ」より(こちらから入れます・・)
画家:コネリー夫人の描くヨットハーバー風景。たぶん地中海の然る港を切り取ったもの、何故か今夜、ハワイのヨットハーヴァーと「かぶるもの」あり、、、
(そろそろダンディズムシリーズの投稿、復活したくなった・・・)
前回投稿分に続き、我が「愛読の一冊」:櫻井よしこ女史の半生を綴った『何があっても大丈夫』の中から、女史の学歴並びに就職にいたる「くだり」につき、以下(想い付くまま勝手気儘に)、著書本文の丸写し以外の方法で「抜粋」してみた。
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以下、「何があっても大丈夫」より、抜粋、、、。
1)『モーボサンセン』=孟母三遷<P-55>なる「よしこさんの母上の決断」により、
2)<P-58> 櫻井女史13歳の時、大分県中津市から急遽引越。母上の実家新潟県に転居される。千谷駅よりさらに山間の村真人町万年へ。真人中学に2学期より編入。その後、さらに母上の決断により、櫻井女史14歳の時、<P81>長岡市上田町に引越し。長岡市立東中学に編入。さらに旧帝国海軍の英雄・山本五十六元帥を生んだ名門長岡高校へ進学。当時、男子校の伝統を受け継ぎ、一学年あたりの女子生徒の比率は1割以下であった。
3)高校卒業時点で、すでに東京の私立大学受験合格。しかし、突然の経済的な問題の発生と、父上の要請により、単身ハワイへ渡米する。ホノルル空港到着の「その当日」から、父上の経営されていたレストランの手伝いを始める。(大学進学を思考される心のゆとりなるもの、当時は皆無なのであったろうか?)
4)約1年後、ハワイ大学入学。専攻は東洋史。と、紹介してある。
5)<P-234> ハワイ大学卒業の後、帰国(1971年早春)。帰国を目前にして、ハワイ大学教授の推薦紹介により、帰国後の就職先は決まる。そして帰国後、米国誌「クリスチャン・サイエンス・モニター東京支局」に勤務。支局長エリザベス・ボンド氏の秘書として、(ジャーナリスト実務を全うするという意味での日本語を、全く解せなかったボンド女史?の)初めて日本で活動されるボンド女史の、目と耳の役目をこなされる。
6)<P-226> 上述、米国系情報誌東京支局の閉鎖により、ボンド女史は本国へ引き上げる。同時に櫻井女史はフリージャーナリストの道を歩み始める(1973年)・・・・・
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実は我輩、櫻井さんと同年代。数ヶ月先輩であるから、櫻井さんの辿ってこられた学生時代の時代背景は目の当たりに浮かんでくるし、よく心得ている。
さらに、櫻井さんが東京の大学進学を断念されハワイにて父上のレストラン経営現場に勤務。しかも、ただのウエイトレスとしてレストランのホールを走り回っておられた頃、我輩はのうのうと学生食堂でランチを食していた。加えて、高校時代から午後の授業をサボりつつ、当時洋画専門の映画館に入り浸り、(時代劇は別格として)故石原裕次郎小林明に代表される現代劇邦画には全く興味なし。ハリウッド映画とアメリカンサウンドにどっぷりと浸りこんでいた時代、高校生時代から大学時代なのである。当時、叔母から誕生日祝いで買ってもらった超小型の超高性能(当時)のソニートランジスターラジオをFEN(山口県岩国米軍基地からのラジオ放送)放送にチューニングし、英語で喋る米軍基地アナウンサーの英語の音に集中。そのうち、ヒットパレードの時間帯をキャッチ。夕方4時5時から始まる一時間番組「全米ヒットパレードの時間」、来る日も来る日もアメリカンポップスを聴きまくり、娯楽に必要であった英語に慣れ親しんでいた時期があった。ビートルズ時代の始まる以前、エルビスプレスリーから始まるアメリカンポップスに傾倒し、60年代のアメリカンポップスを愛し、そのうちモダンジャズに没頭し、崇め奉り、45回転ドーナツ版、さらには38回転LPレコードなるものを買いあさって、四六時中「英語の歌と音楽」を聴いた。
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大学受験の折、記憶を辿れば確か、英語の成績のみで大学受験合格した記憶あり。大学生活過程に於いて、講義の無い時にはジャズ喫茶店に入り浸り、タバコの煙パープルへイズ漂う中、コカコーラ一杯のみ注文し、喫茶店に長逗留する。モダンジャスの鑑賞にて数時間、時に半日も、喫茶店で過ごす。加えて映画館通いの連続。
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かくして、大学進学浪人なく就職浪人なく、エスカレーターに乗った如く卒業後の就職先は(好むと好まざるを考慮するまもなく)「旅行会社」であった。しかも配属先は、海外旅行部門。「こやつは弱冠、英語ができる!」と、会社の周囲及び先輩は大いなる誤解をしてしまい、未熟なる我輩を無作為に「海外旅行の添乗員」として入社一年目から起用(当時、稀な出来事であった)。こちら、さほど自信なく有難迷惑にて、渡航先にてサヴァイヴァル英語を駆使しつつ、何とか海外添乗員の業務をこなす日々。
かの地、櫻井よしこ様の居住先「ハワイ」にも、何度か旅する。現在とは大違い、当時のハワイはのどかそのもの。一年中現地の気候風土は良好にして、お金持ちしか逗留しないホテルの群がるワイキキビーチは安全にして平和そのもの、すべからく我輩にして平々凡々としたハワイ旅行の案内役、、、。そんな当時、間違いなく櫻井さんは汗水垂らし流し、家業の手伝いと学業に専念されていたはず。若し、縁あったならば現地ハワイのいずこかで、櫻井さんとの出会いは、あったかもしれない・・・
そんな年月を過ごしつつ、我が人生の転機あり(今にして想えば若気の至り・・・)
20年近くも安穏とした旅行屋の経験のみ。旅行業しか知っていない「遊びの案内」を本業とするヤクザな男、大企業的企業内温室育ちにして社会的発育未熟なる「モヤシ人間」、超若輩者の我輩。時は昭和の60云年、齢(よわい)40才にして、何を血迷ったか、順風満帆なる大手旅行会社を途中退社し、僅かな自己資金にて会社設立という暴挙をしでかす。自己満足的「粋な気分」にして且つ、早とちり。国際文化交流イヴェント業務を主たる業務として開業に至る。がしかし、当時さすがに国際感覚的発想貧弱なる典型の地方都市。そんな仕事は溢れていない!約3年にして(当時の金額にして1千2百万円也)不渡り手形をつかまされ、見事!倒産、、、。
縁あって、飲食業界に参入。しかし僅か2年間にて、飲食業界の3K的反復作業的物足りなさに閉口し、他人に任す。が、任した他人は、勝手気侭なやり放題にて経営は悪化。かくして飲食業界から撤退する。しかし他人に仕事を任せた当初、(43歳の時)あらためて英語の再学習に挑戦する。そして1年間、1300時間なる英語学習目標を設定するものの、最終的には1275時間にて投了。25時間の目標不達成時間を持ち且つ余し(無念かな)除夜の鐘を聞く。しかし、いずれ目標不達成と雖も、一年間1275時間に亘る英語特訓(聞く、話す、読むk、書くの繰り返し)を功を奏した。かくして我が目から「ウロコが数十枚」落ちる。確実に「我が英語の実力」は向上する。ここに至ってようやく「英語を道具」として、使いこなせる自信がつく。
そんなとき、縁あって東欧ハンガリーに赴く。現地にて気ままに仕事をこなしつつ生活し、適当に適当に、やっていくつもりが、またもや英語のお世話になる。英語圏でないハンガリーにて「英語の力」は、「生活のためのお金」を運んできた。さらにインドネシアとの縁ができる。全て観光産業関連のコンサルタント&コーディネーター業務として、、、。今尚、某インドネシア国立大学の客員教授として「不定期」にて経営学マスターコースのクラスを担当。その他現地企業関連のコンサルのため、はたまたセミナー開催に招聘されつつ、今尚、インドネシアに出没する。国内では、某レストランホテル関連産業の実務指導にもかかわりを持ちつつ現在に至る。
且つ、モノカキの真似事もスタートする。
「・・・?」
そして今、
我が若かりし頃の「失敗」に気がつき始めた。
あまりにも日本文学から遠すぎる位置に居ること、教養としての日本語をあまりにも無視してきたこと、取り返しのつかぬ事態に遭遇している。。。
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かくして、
語学学習に関する「我が結論」あり、、、。
英語を学んだ後の、英語を使う「目的と目標」を持たなければ、英語は身に付かないと考える。
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もって語学学習の目標なるものは、英語の読解力とコミュニケーションの道具を以ってして、他の学問をより深める究めることにあるとする。
はたまた、英語を道具として使用し、エキスパートト的仕事あるいは生活の糧を得るための「道具=(one of Tools)」と位置付ける。ならば、いつ何時、必要に応じて試みる外国語学習の積み上げは、年齢に関係なく成立する。と、結論したい。
そして、
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